夏のその先

お白湯

夏のその先


 夏の向こうには何も無いと躓く僕は、靴紐が解けた事に、悲鳴を上げたのではない。靴紐をまた結び直し、歩き始めた所でその先にあるのは、欠けた心の現実だけだったからだ。その事実は、中学二年生である僕の人生を、虚無で汚すには十分過ぎたのだ。


 友達の母親が行方不明となった。友達から連絡が入ったのは、日盛りだったのを覚えている。僕を呼ぶメッセを写し出した画面に、困惑と不安が、溶け混ざった汗となって滴る。消えたという事実を理解するまで、呆然とせざるを得なかった。雫となって弾けた時、読みかけの漫画も投げ出し、僕は外へと飛び出したのだった。

 炎天下の中で自転車を転がし、商店街や大型スーパーの前、国道沿いをひた走る。吹き出す汗が物語るのは、張り詰めた心から漏れ出す焦りだ。合流した友達から事情を聞いても、心音は高鳴るばかりで、白く霞掛かった頭では、言葉など耳を掠めていく。患っていた病気の状態の話や最近の奇行も含めて、最悪の末路が脳裏を過ぎる。聞いた事を再度、確かめるように僕は聞き返し、ようやく頷く事が出来たのだった。

 僕らは手分けをして、街中を探し回った。汗がTシャツを侵食していき、焦燥感が心を爛れさせていく。纏わり着くのは服ばかりではなく、後ろ向きな疑念もだった。さらに纏わり着くそれは、大きな路地から小さな路地まで、隈無く探し回る度、徐々に身動きのとれなくなるような緊張感でもあり、不穏に拘束されていくのを感じていた。


 疑念が疑いという形ではなくなった時、僕は空っぽになったのだ。小さく蠢くように、息づいていた病巣が、弾けるように心を奪う。無くなったんだと感じた。代わりに、幸せな生活はいつか潰えると言う、当たり前が目の前に置かれ、そして、僕の世界の安定の柱は崩れ去った。


 橋の下である。動かない人影が横たわり、川の揺らぎにその髪はそよいでいた。

 夏の断片が酷暑を主張しても、僕という存在は、何処か届かない場所に行ってしまったようで、照らす太陽に焦がされたところで、周りの世界での何一つも、僕の感情が沸き立つ事などありはしなかった。視界に入る一部分のこの世の哀しみが、今の僕の世界の全てあり、希望への対立主張を思い知らせる。

 車の走行音や汗の臭い、スマホの着信音が、僕を現実に引き戻した時、焼けたアスファルトに膝から崩れ落ちていた。


 両親が僕を迎えに来た時、僕の胸中を支配していたのは、この世の終わりのような絶望心だった。この世の終わりと言うよりも、今までの僕の内側の世界が終わったと言うのが、正しいと思う。僕を取り巻く世界の隅っこは崩落し始め、次々に全てを飲み込んでは、空白の世界を作っていく。古い映画のような友達の家での思い出が、幾ばくか残った世界の片隅に轟雷を響かせ、姿を思い出そうと思うと、その映像は川で横たわるあの姿へと変わるのである。新しいはずなのに、頭が除外しようとする残滓のような記憶に、心の急斜面を落ちていく。転げながら皮膚を、地面でズタズタにされても、僕は痛みを感じる事が出来なかった。

 少なからず僕の中に残っていた事は、なぜ僕は生きているのだろうと言う疑問と、空白という僕の中で、整理のつかない虚像による圧迫感である。生きてるとはなんだろうかと、その虚像の発する悲鳴が、歪な旋律として死ぬ事と生きる事を断裁する。2つを分ける音色が、不気味だという訳では無い。予めそこに有ったものが、さも新しく産まれてきたかのように、主張してくるだけなのだ。

 耳を澄まし、夏がもたらす不協和音を聞いていた。帰り道の両親の暖かな手と冷酷な記憶。そこに割って入るようなひぐらしの鳴き声と心象残響は、僕と言う存在を脅かしていた。


 朝になったが、心の感覚が元に戻らない。外を眺めると昨日の出来事が、映画の予告編みたいに、断片的に思い起こされてくる。昨日は帰ってきて、何をやっていたかも思い出せないが、きっと両親は僕に慰めの言葉を掛けていただろう。それらも僕には届かなかった事ぐらいしか、覚えていない。出来れば、誰とも会いたくなかった。

 朝ごはんにと両親が起こしに来たが、布団の上で食べる事を選んだ。咀嚼をするが、嚥下まで至らない口の中の食べ物は、食べられる事を拒否しているかのように残ったまま、味のないガムみたいなる。悄然と、ただただ秒針が回るのを眺めていた。

 昼ぐらいだろうか。仕事を休んだ母が、家事を終えたのか、僕の部屋へ来たのは。二言三言話し終わる。そこに僕の言葉はなかった。母は畳に座ると、そんな僕を静かに包むのだ。


「…僕は生きていていいのだろうか。」


 自然と漏れ出す言葉は、部屋に沈み込むように霧散していく。体を占める温もりが、上手く吐き出せない僕に、存在証明を語りかける。暖かさの中で、流血しているような胸の内側は、痛みを覚えるのだった。じわじわと静脈から流れるように、心の琴線に黒い血が滴り、線を止める駒までも這ってきて汚す。這ったその軌跡は全て黒く、今にも切れそうに淀ませた。母は僕を見ると、更に強く抱きしめ頭を撫でるのだった。


 一頻りそうして、母が居なくなると僕は冷房の部屋を後にし、外へと足を伸ばした。

 空が見たくなったのだ。空に何があるという訳では無い。ただ何もないところに、身を委ねたかった。痛みと黒い琴線が鳴らす不可解な残響を消したかった。

 痛みが無くならない僕に、空からの光は無情だ。こんなにも明るい場所にいたら、赤裸々に自分を露わにされてしまう。僕は訴えかけるような日光から逃げるように、軒下の日陰へと迷い込む。陰の世界の砂地で僕が目にしたのは、小さな命がひしめき合っている様子だった。それらを眺める僕も一つの命であり、友達の母親も一つの命である。僕の眼中に収まっていたのは、生き物としての在り方ではなく、命と言う単位での在り方なのだ。命が列を成している眼前の世界は、僕に一つの命の終わりが示す生き物の中での原理を教えた。こんなにも命を大切に思うから、不可解な残響は鳴り止まないのだと。


 その時、僕は壊れたのかもしれない。その不可解な残響への応えは、命を慈しむ事を善としている僕を辞めさせた。受動的になった訳ではない。それは自らの意思なのだと思うのだ。軒下の蟻の行列を見ながら、その隣にいる蟻地獄の巣を眺めていた。無数の命を地獄へ落としていけば、きっとこの痛みは消える。それが僕には必要なのだと思わずには居られなかった。

 摘んでは落とし、落としては見殺す。足場の覚束無い蟻達を次々と、蟻地獄の餌食にし、そうして生き物を粗末にしていく。消える命を数えていた。この痛みが消えるまで、この虚無が満たされるまで。

 命を冒涜する僕で在りたかった。


 そこにふわりと、何か腰に当たるのを感じる。囚われの命が指から逃げ出し、僕は後ろを振り返った。その時、僕は命という括りだけでは、見れない生き物の存在に、無性に泣けてきてしまったのだ。悲しみを呼び起こさずには、居られなかった。そのふわふわした愛情の塊を僕は抱きしめると、我を思い出すと共に押し殺すような涙が、目から地面に落ちる。救えなかった後悔と一緒に落ちる悲しみの粒は、立て続けに流れ出し僕を困らせた。抱えると感じる優しい鳴き声に愛おしさを覚え、震える心があった事に、僕は間違いを知った。

 虚無などではなかった。空の下には夏という通り道があり、その上には、悲しみと安堵が転がっているのだから。きっと命の在り処は、夏の向こうにあるのだろう。

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