ついてくる
乃々沢亮
父の昔語り
これは父が子供の頃に体験した話だ。
その父は先月、他界した。
昭和の初期に生まれ、少年期に戦争を体験し戦後の苦労もしてきた父。
しかし青年期以降は大病も深刻な事件にも遭遇することはなく、概ね幸せな人生を終えたのだと思う。老衰であった。
ただ昏迷状態になり僕らの問いかけにも反応ができなくなったとき、「影が…」とやけにはっきりと呟いたのが強く印象に残っている。
それが小学生のときに父から聞かされたこの話を、僕に思い出させた。
父が11歳の頃。
父の田舎は空襲を免れほぼ無傷だった。温暖な気候の土地だったため金持ちたちの保養地のような町だったという。ただし一部の人を除き土地の人は貧しい農家で、父の家もそうだったらしい。
父はいわゆるガキ大将で、学校でも農作業の手伝いでも遊びでも先頭を切って活発に動き回っていたそうだ(名誉のため申し添えておくが勉強も出来たらしい)。
そんな頃、子供たちの間に変な噂が流れていた。
お化け屋敷があるらしい。
戦後間もないまだ混乱の時期だ。こんなある意味のどかな噂が流れたのも、この町が直截的に戦争の被害を被らなかったからなのかもしれない。
噂は徐々に具体的になっていった。
昼でもいつも雨戸が閉まっているらしい。
ときどき老婆が出てきて庭を睨んでいるらしい。
ときどき家の中からお経が聞こえてくるらしい。
誰が言ったかわからない。場所はわかるが誰も行ったことはない。
子供たちの間で恐怖という好奇心が膨れ上がっていった。
それがやがて、確かめに行ってみよう、という気運に盛り上がっていくのは必然のことであった。
そして必然といえば、父がその先頭に立っていくことも必然であった。
父は乗り気ではなかったと言う。
お化けの存在を半ば信じていた父は怖かったのだ。そんなことすればバチが当たると思っていたが、子供とは言えガキ大将というその立場上、怖気づくわけにはいかなかった。
父は先頭に立った。ただし『探検』は昼に行うことにした。肝試し気分の仲間を、これは確認であって肝試しではないのだと説き伏せた。確認であれば夜に行うのはまったくの不都合であろうと。
その屋敷は鎮守の森にほど近い緩やかな山の中腹にあった。
裾野に点在する家を過ぎ、林間の坂道をさらに十分ほど登っていく。夜であったのなら足元さえ見えない真っ暗闇の道であったろう。
木立の向こうに平屋の屋敷が見えてきた。
なるほど昼というのに雨戸が閉まっている。
父は引き返したい気持ちを抑えつつ、中腰になって身をかがめて進むよう仲間たちに指示を出した。
門も塀もない。切り開いた土地に家だけがぽつりと露出していた。雨戸が閉まっていて中の様子は伺えない。こそこそと遠巻きに屋敷のぐるりを見て回ったが、やはり窓はどこも雨戸がしまっていた。物音も聞こえない。
――人の住んでいない家か?
廃家という感じはしない。都会の人の別荘なのではないのか。そんな屋敷ならこの町にはいくらでもあった。
父は安堵した。噂はただの噂だった。これはただの今は使っていないというだけの誰かの別荘だ。
コツン
誰かが投げた小石が雨戸に当たった。
「やめろって」
コツン
また誰かが石を投げる。
屋敷からはなんの反応もない。
コツン、コツン、コツン
音がだんだん大きくなった。
投げる石が大きくなっていったのだ。
「もう、やめろ」
父はそう言ったが仲間はお化け屋敷ではなかったことへの落胆か、無人の家であることへの安堵か、石を投げるのを止めなかった。
ガシャン!
ガラスの割れる音が響いた。破けていた雨戸の隙間へ石が入ったらしい。
ひやりとして雨戸を見たその瞬間、雨戸がざらりと勢いよく開いた。
父たちは後ろも振り返らず、脱兎のごとく一目散に来た道を駆け下りた。
翌日、父と数名の仲間が先生に呼び出された。
あの屋敷はもちろんお化け屋敷ではなかったが、無人の別荘でもなかった。
東京から来た老夫婦が、療養のため二人で暮らしているとのことであった。結核を患っていたお爺さんは、日光に当たると皮膚に炎症を起こす病にも罹っていて昼でも雨戸を閉めていたらしい。読経がときどき聞こえるのは、お爺さんの治癒を願ったお婆さんの日課であった。
父らは先生に引率され老夫婦の屋敷へ謝りに行った。父はあまりの申し訳なさに泣きじゃくったらしい。お爺さんが結核のため玄関の中には入れず、お爺さんには直接謝れなかった。そのことがさらに申し訳なく思われ父はずっとしゃくりあげていたが、お婆さんは怒ることもなく父の頭をなでてくれたらしい。
その後、父はこの老夫婦の屋敷に行くようになった。
家で採れた野菜やぬか漬けやお味噌、川や海で獲った魚をことあるごとに届けに行ったのだ。
玄関の中には入れない。玄関先でお婆さんに渡すのだが、そのうち奥の方からお爺さんが、弱々しいが明るい調子で声を掛けてくれるようになったそうだ。
「ありがとうなぁ、ぼうず」
「おじいさぁん、今日は魚を獲ってきたよ。早く良くなってね」
そしておよそ一年後。お爺さんは帰らぬ人となった。
お爺さんの生前の希望で、お爺さんは町のお寺さんで眠ることになった。
父は葬儀に参列できなかったが、学校の帰り道でお爺さんの野辺送りの葬列に手を合わせることができた。
短く寂しい葬列を、父は見えなくなるまで手を合わせ見送ったそうだ。
合掌を解き家に帰ろうと振り返ったとき、そこに
実君は土地の人ではない。東京から町の別荘に疎開してきて、戦後もそのまま家族とここに住んでいる。
ちょっと不思議な子だったらしい。疎開で来た東京の子は、田舎になかなかなじめなかったらしいが、実君はなじもうともしなかったそうだ。父たちが声を掛けても遊びに誘っても曖昧に笑って一人で居ることを好んだ。
その実君がこの時は父に声を掛けてきた。
「昼間はどこまでもついてくるのに、夜になるといなくなるものって、なぁんだ?」
「えっ!?」
唐突に、しかし確かに実君はそう言ったのだそうだ。
「なに?」
あまりに突然のことだったので、父は実君の気がおかしくなってしまったのかと思って少し怖くなった。
「なぞなぞだよ。わからない?」
父は恐る恐る頷いた。
「答えは影法師」
「…影法師?」
「そう。影はどこまでもついてくるでしょ。でも夜はなくなる」
そんなの当たり前だ。つまらないことを言う。目の前の地面にできた自分の影を見ながら、父はそう思った。
「じゃあ、昼間でも夜でもどこまでもついてくるものって、なぁに?」
実君はそう言うとなぜかはにかんだように笑ったという。
実君と実君のなぞなぞに戸惑った父はますます怖くなり、実君をおいて逃げようと走り出そうとしたそのとき、実君が父の背後の地面を指さした。
「ほら、それだよ」
父は反射的に後ろを振り返った。
そこには父の両足から伸びた影法師が確かにあった。
――え?
太陽は後ろ。
だから影は前にあった。
じゃぁこの影は…。
父は実君を見ずに走り出した。自分の影を追うように。後ろにあった影は付いてきているのだろうか。そう考えると怖かったので後ろは振り返らずただ走った。
早く日影に、早く家に。
家に着くと一目散に納屋に飛び込み、藁の山に潜り込んだのだそうだ。
父の話はここで終わりだ。
父はこの話を小学生の私に笑いながら話した。その後は実君とも話してないし、しばらくは後ろを見るのが怖かったので、その影がついてきていたのかどうかもわからないと笑った。
父は天寿を全うした。いわゆる霊的な障りはなかったようだ。
その影というのは何だったのだろうと僕は考える。
実君の不思議な雰囲気に惑わされ、気のせいで見えてしまったのか。
それともあのお爺さんと関係があるのだろうか。あるとすればお爺さんは父を見守ってくれたということだろうか。
まぁ、僕が考えてみたところでわからない。
でもきっと、父はいまごろお爺さんと天国で邂逅を果たし、そのなぞなぞの答えを聞いて笑っているのではなかろうか。そんな気がする。
(おわり)
ついてくる 乃々沢亮 @ettsugu361
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