クルヴィ


 アタシの上司は、昔の歌をよく歌う。

 美空ひばり、

 三波春夫、

 坂本九から童謡まで——


 日中のレクは、上司である部長がやってくれている。

「か~ごめ、かーごめ。 か~ごの中の鳥は……」

 レクの中心にいる部長は、いつも上機嫌だ。

「部長、本当にレク好きだよね」

「なんで必ず、あの歌、歌うんですかね」

「知らなーい。 でも気持ち悪くない? 笑う時に唇に付いてる、あの粘ついてるやつ」 

「あー、確かにー!」

 周りの職員に聴こえるように、上司である部長にも、平気で下品に嘲笑い、揶揄する。

 まるで自分の方が、上だと言うように。 

「あっ、こっち見てる!」

視線を送る職員と目が合い、笑顔を返す部長。

「ほらー、あれ見て! 気持ち悪―い!」

 距離があって聴こえないせいか、言いたい放題。

他の職員も、何も言うことも出来ず、苦笑いでそれを見ているしかない。


「じゃぁ、後やっといてね」

「あー、喉乾いた」

「早く座って記録しようよ」 

「はい……」

 どこの世界にも、どこの職場にも、必ずいる。


 ——その名はお局。


長く働いていると、独自の正義感と忠誠心で、自分の部署を作ってしまう。

 その部署の名も同じ、お局

その取り巻きには、寄生虫。

虎(お局)の威を借り、空気を読む能力に突出している保身集団。

 お局と寄生虫は、他の優しかった職員にも、ブレやすい上層部にも、すぐに寄生し、ジワジワと生息区域を拡大し、フロアー全体に影響を及ぼしていた。

 三つのフロアーがある、この施設の中で誰もが言う言葉。

『あの人たちのいる、フロアーでは働けない』

 あの人たち。 そのトップにいるのが、お局。

 小津京子。

部長を始めとした、施設長や他の上層部の耳にも、情報は入ってはいるだろうけど、とにかくお局や寄生虫と言った、こう言う連中は、隠れたり、身をかわしたりするのが、とにかく何よりも上手い。

寄生虫はお局に寄生し、お局は寄生虫を飼いならし、相互に良好な関係を保ち、幅を利かせる。

 だから、どんなに周りの職員や新人が被害を受け、辞めようとも、あの手この手で非難の声を封じ込めることが出来ている。

 醜い生き物。 それがお局——


「張山さん、私も手伝います」

 声を掛けてくれたのは、アタシと同時期に入った、川内夕夏ちゃん。

 まだ若いのに、よく気が付く優しい子。

 せめて、この子は変わらずにいてほしい。

そして、お局と寄生虫軍団の被害を受けないで、育ってほしい。

心の底から、そう思っている。

「大丈夫だよ。 アタシといると目を付けられちゃうよ」

「パット補充ぐらいで、怒りませんよ」

 彼女はまだ、お局たちの怖さを知らない——。

 

 小太りで食べ方も汚く、表面的なビジュアルもさることながら、とにかく性格が本当に酷い。

性格がブサイクだから、恋人もいない(アタシ調べ・偏見含む)

 そのクセ、『女』であることを前面に出し、ウエーブの掛かった長い髪に、体形隠しの為の、常時のワンピース着用。 全然隠せてないけど(アタシ調べ・嫌悪感込み)

 お局の口癖は、

「見て見てー! これ、可愛いでしょ?」

 キャラクター物が好きで、新しいのを買って来ては、男女問わず、上下関係なく、自ら話し掛けていく。

 ぐいぐい来られると、誰もが流石に、会話や接近を断れない。

 愛想笑いなんて気にしない。 

とにかく自分が一番。それがお局。

『キャラクターは可愛いけど、お前は可愛くない』

『マジであの人のせいで、好きなキャラ、嫌いになりそう』

 辞めていった人や、寄生虫軍団の被害を受けた職員は、必ず言う。

 

お局って、いつからお局になってしまうんだろう——


「えっ? そりゃぁ、気付いた時じゃない?」

「いや部長、あの人って言うか、あの人たち、絶対に気付いてないですよ。自分がどんな風に人に言われているか」

「えー? 気付いているでしょ。 何回も面談したんだよ」

 声の主は、部長の嶋さん。

介護分野の統括部長で、お局と同期。

施設開設の数年後に入職した、超ベテラン。

誰にでも平等で、話もよく聴いてくれる。

アタシたち、平の職員にも新人にも、お局たちにも平等に。

そう、誰にでも—— 

「それなら、面談内容、開示して下さいよ。それじゃないと、みんな納得しないですよ」

「さすがにそれは無理だよ。個人情報に近いでしょ」

「だけど……!」

「あの人は、自分がどう言われているかよりも、人にどう言うかを常に考えているから、あの感じなんだよ。一通なんだよ。どの道も」

「はぁ」

分かってない。お局の底意地の悪さと——上手さを。

「木の年輪みたいに、ジワジワそうなったのか、何かのきっかけで、セーフティ・ロックが壊れちゃったのかも知れないし」

「セーフティ・ロック?」

「銃でもあるでしょ? 間違って撃たないようにする、安全弁みたいなやつ」

「ああ……」

「それが、彼女は壊れてるんだよ」

 なんでそんな危ない人間が、人を観る仕事をしてるんだか。

「それならどこかに入れて蓋して、二度と出られないようにしないと」

「臭いものにはフタ? 無理無理。底の方から乱射して、フタぶっ壊して出てくるよ。どこに行っても、どこに入れても、必ず出て来るよ。必ずね」

 そこまで分かってるなら、断言する前に何とかしてよ。

「じゃ、じゃぁ! 出られないカゴにでも入れて、動いたら止めるとか?」

「穏やかじゃないねぇ」

「穏やかでいられる訳ないじゃないですか!毎日毎日、本当に息苦しい」

 あんな醜い生き物と寄生虫なんか、虫カゴにでも閉じ込めて、一生出られないようにすれば良いのに——

「まぁ、虫カゴって言うより、鳥カゴかな」

「えっ?」

 アタシ、声に出してた——? 

「まぁ、とにかく何かあったら、いつでも言って来て良いよ。すぐに対処するから」

「ありがとうございます。すいません、いつも話聞いてもらって」

「良いんだよ。それが僕の仕事。 トップの役割だからね」

 部長は、この施設の中で誰よりも平等だ——



               ✿



 アタシが目を付けられたのは、初めて夜勤が一緒になってから、一ヶ月ほど経った、五回目の夜勤の時のこと。

 お局は多職種と多く関われる、看取りの委員会に所属しており、

当時、介護保険が改定され、看取りを行う施設には、多くの算定報酬が入る仕組みに切替わり、施設内でのターミナルマニュアルも、大幅に変更する必要性が生まれていた。

時間があれば、いや、なくてもお局は他の人に、自分の仕事を押し付け、そのことに掛かりっきりだった。

 その時の夜勤も、自分の忙しさを公言し、アピールのしつこさから、アタシは気を使い、自分の仕事は全て後回しにし、お局の指示の全てをこなしていた。


「ごめん、締め切り近くて。オムツ交換、先始めててくれる?」

「はい! アタシ一人でも、この人数だったら何とかなるんで!」


「ちょっとだけ、時間くれる? 巡回お願いしても良い?」

「はい! 全然良いですよ! やることあったら、アタシやるんで言って下さい」


「あたし、仮眠取ってないから、ちょっと休むね」

「えっ、離床行かないんですか?」

「少し休んだら、あたしも行くから」

「あ……はい」

 

結局、ほとんどの人をアタシ一人で離床に回り、お局はアタシが連れて来た人を、

「あたし、ここら辺やっておくから」

そう言って、お茶を出したり、本人持ちのコーヒーを出したりして、ほとんど動かなかった。

案の定、早番が来る頃には、いつもの人数の半分ほどしか起きておらず、その日の業務の全てがタイトになった。

 帰り際、日勤で来た部長が、フロアー内を見渡し、

「どうしたの、何かあったの? 誰か急変した?」

「あの……」

 言い掛けたアタシ。

間髪入れずにお局が、

「今日はごめんね、あたしがちょっと体調悪くて、足引っ張っちゃって。 離床の時間に横にならせてもらったの」

「そうなの? 大丈夫、小津さん?」

「もう大丈夫です。横山さんが頑張ってくれたんで」

「そっか、二人共お疲れ様。 早く帰って休んでね」

「あたしはまだ、ちょっと残ってやることが。 張山さんは、疲れたろうから先に帰ってね。今日はありがとう」 

疲れ果てたアタシを、何故かお局は労い、先に帰るよう促した。

しかしお局は、昼を過ぎても残り続け、おしゃべりを延々と続けながら、ターミナルマニュアルを作り続けていたらしい。

「ある程度、出来たんで」

 そう言って部長に、マニュアルの原案を渡し、空いている部屋で夜勤が来るまで、横になったお局。

 アタシが先に帰ってから、出勤してくる職員全員に、アタシの至らない点、こうしてほしかった、こうしなきゃいけないのに、やらなかった—— それを延々と言い続けていたらしい。

夜勤者が少し早く出社し、申し送りのノートを確認しようにも出来ない程の勢いで、話し続けていたと、後から聞いた。


 そこから、まだ大人しかった寄生虫軍団も、アタシを見る目を変えた。


 気が利かない子——

 指示がないと動けない——

 利用者受けだけは良い、なんだか鼻につく人——

 何より、

 

 お局に目を付けられた、厄介な存在——


 最初は距離が近かった人たちも、日を追うごとに、会話の量が減り、利用者のケアに関わる内容と、挨拶以外の話はしなくなっていった。


「じゃぁ私、ゴミ捨てて来ます」

 今日もアタシは、オムツ交換が終わった直ぐ後に、尻ぬぐいのようにパット補充をしていた。

 そして夕夏ちゃんも、変わらずにアタシに気を使い、ゴミ捨てに行こうとしてくれる。

「あ……」

『雨だから良いよ』

そう言い掛けた時には、夕夏ちゃんは足早に、ゴミ捨てに向かっていた。

 パットの補充を終えたアタシに、美味しそうにジュースで水分補給をしながら、お局が尋ねてくる。

「あれ、ゴミ捨ては?」

「あ……川内さんが代わりに……」

「えっー⁉ 外、雨降ってるのに? 可哀想」

「あ……すいません、じゃぁ変わって……」

「もう良いよ! それより、用賀さん、トイレ連れてって!」

 用賀さん。 認知症で全介助の男性。トイレ希望が頻回な上に、全く立てない人。

 お局は、この人の介助には行かない。 様々な理由を付けて。

「はい……行って来ます」

 アタシだって、水分補給したいのに——。

 介助に向かったアタシの背に、お局がが周りに同意を促す声が聴こえた。


「本当、横山さんって、気が利かないよねー」

 聴こえてる。

「じゃぁ、小休憩に入っちゃうねー。 なんか食べようっと。お腹、空いちゃった」

 自分ばっかり楽してる。

「あっ、あの人戻ってきたら、事務にコピー用紙取って来いって言っといて」

 あの人? 取って来い——?

 アタシ……

「すいません……トイレ」

 利用者さんの……この人たちの為に頑張ろうと思ってるのに——

「ごめんなさい、用賀さん。お待たせしちゃって」

 アタシ……一体、何してるんだろう?



            ✿



 いつもと変わらない日常は、時に何でもないことで、壊れ始める——


「あっ」

 換気の為、お局が窓を開けようと外に出ると、壁と通気口の間に、ツバメが巣を作っていた。

「可愛い! 見てー!」

 ヒヨヒヨと重なる声に、数羽の子ツバメがいることが確認できた。

「写真撮りたーい!」

 えっ?

「ちょっと、あたしスマホ取って来る」

 業務中——

 鳴り続けるスマホのシャッター音が、お局と寄生虫軍団の周りだけで響き、他の職員は、何か言えば、自分がターゲットになることを知っているせいか、何も言わない。

横目で見て、早く終われば良いと思うのが精一杯。

「すごーい! 可愛い過ぎるー!」

彼女は笑っている。

誰のことも気にせず、ただ自分の為だけに、この世の中があると思って。


「なに、どうしたの?」

「あっ、部長! 見て下さいよー! ツバメが巣を作ってて」

「おお、本当だ!」

「可愛くないですか?」

 ツバメはね。

「可愛いなぁ。けど俺は、もっと大きい鳥の方が好きなんだよなぁ」

「大きい? フクロウとかですか」

「いや、もっと大きいの」

 話し始めると、もっと長くなるから!

「それじゃぁ、ペンギンとか、ハシビロコウ?」

「いや、ハゲタカかもよ」

 寄生虫軍団まで、話に入ってきた!

「おいおい、俺は禿げてないぞ」

「やだ、部長。面白くなーい」

 いや、アンタはもっと面白くない。

「でも、ちょっと糞が多いね。何とかしないと、衛生的に問題ありだな」

「じゃぁ、下にブルーシート敷いとこうよ! ウンチがたまったら衛生的に良くないもんね」

 いま部長がそれ言ったじゃん。

「そうだな、じゃぁ取ってこようか」

「あっ、大丈夫です。 ねぇ、張山さん!」

 えっ? 

「はい……」

 ひょっとして——

「はい、じゃなくて! ほら、部長に行かせないで、取りに行ってよ!」

「アタシ……ですか?」

 やっぱり——!

「アタシですかじゃなくて! 急いで‼」

「あっ、は、はい!」

 大きな声で言われると、否応もなく返事をしてしまう。

 そんな自分が嫌だ——


 地下の物置に、ブルーシートを取りに向かうと、夕夏ちゃんが追いかけてきた。

「張山さん、 あたしも手伝います」

「夕夏ちゃん……ひょっとして、アイツに言われたの?」

「いえ、自分の意志で来ました」

「そんなことしたら……」

 本当に目を付けられちゃう——

「良いよ、アタシ一人で。 早くフロアー戻った方が良いよ」

「大丈夫ですよ、早く持って行きましょう。彼女、待ってるから。仁王立ちで」

「どこで⁉」

「ウンチの前で」

「ウンチ! ツバメの?」

「はい!」

「はぁ……自分がウンチのクセに」

「本当ですね」

「はは、夕夏ちゃんも思ってた」

「本人には直接、言えないですけど」

「だよねー」

「ですよね」

 そう言って、アタシたちは笑い合った。

 ——この子だけは、夕夏ちゃんだけは守らなきゃ。


 そんな矢先、フロアー内である事件が起きた。

 夕夏ちゃんの担当の間崎静子さんが、高熱を出し、緊急入院となった。

 原因は、腎盂腎炎——

 入院時に、医師から御家族が聞いた内容は、

「雑菌が、通常の二十倍になってます」と言うこと。

 九十八才と言う高齢。

 両手を動かせるため、入れていた点滴を何度も外してしまい、なかなか回復せず、ようやく熱が引いた頃には、間崎さんのADLは格段に低下していた。

 案の定、間崎さんの家族は、こうなってしまった責任の所在をはっきりさせたいと、施設に詳しい話を聞きに訪れ、部長がフロアー内の人間に、間崎さんのケアに関して、聴き取りを行った。

 フロアー内での検討と調査の結果は、

 

——間崎さんの手指衛生の徹底不足による、菌感染——


 オムツ弄りの酷かった間崎さん。 

 気が付けば陰部に手を入れ、顔を掻いたり、髪の毛を触っていたり。 

布団を捲ると、必ずオムツの中に手が入っている。

皆で協力して、衛生面には努めていたが、拘束が出来ない現状、清潔保持にも限界はあった。

 鬼の首を取ったように、お局は間崎さんの担当である、夕夏ちゃんへの攻撃を始めた——


「ねぇ、川内さん」

「は、はい!」

「あなた、ちゃんと間崎さんの手指衛生、ちゃんとやってた?」

「はい、一応……」

「一応⁉」

「あっ、いえ……ちゃんと、検討会議にも挙げて……」

「そうなの? あたし、知らないんだけど」

「えっ? 申し送りのノートにも、そう書いて……」

 不満そうに、休憩室にある申し送りノートを捲るお局。

「それ、いつ?」

「二ヶ月ぐらい前です……」

「二ヶ月ぅ⁉ ダメじゃん! もっと頻繁に更新しないと!」

「えっ……あ……、すいません」

「あたしだって、同じような利用者受け持ってるけど、ちゃんとオムツ交換の前に、皆に声掛けしてるし、ベッドサイドとかにも、注意事項書いて貼ってるでしょ?」

「はい……知ってます」

「知ってます? じゃぁ、分かってて、なんでやんないの⁉」

「あ……いや、忙しくて……」

「忙しいのは、みんな一緒! ちゃんとやんないと、皆に迷惑掛かるけど、一番は間崎さん可哀想でしょ」

「はい……すいません」 

「謝るなら、間崎さんに謝んなよ」

「すいません……」 

吐き捨てるように怒られる夕夏ちゃん。

——そんなこと、夕夏ちゃん本人が一番、思ってる。

利用者のことを言われたら、誰も何も言えない。

 利用者を盾に、気晴らしと言うこん棒で、ターゲットを叩き続けるお局。

それによって自信を失くした人、

そこまで言われたくないと言う人、

ストレス解消の道具に使われたくないと言う人、

皆、辞めていった——

だけど、アタシは知っていた。

オムツ交換が終わった後、夕夏ちゃんが一人でまた、間崎さんの所に行って、

『ごめんなさい、もう一回、手を洗っても良いですか?』

 申し訳なさそうに、顔や髪の毛、爪の中の汚れが見えなくなるまで、綺麗にして、何度も謝っていた彼女の努力を。

 そしてアタシは知っていた。

 自分の担当利用者には、他の人の倍以上を掛けてケアを行い、他の人に自分の仕事をさせ、注意事項を書いたり、

『どこに貼ったら、一番見えるかなぁ』と、取り巻きである寄生虫軍団を連れて、時間を掛けて、色々とやっていたことを。

『もう戻らないと、マズイんじゃない?』

 そんな寄生虫軍団の声にも、

『えー! 良いんじゃない? あたしたち、いつも頑張ってるんだから、ちょっと休んでも良いでしょ、別に』

 別に——

 きっとお局はその後に、この言葉を付ける。

『別に、あたし間違ってないし』


 まだ続きそうなお局の攻撃に、通り掛かった部長が間に入って、この件は下火になった。

 ただ下火になっただけで、お局たちの目は厳しくなる一方で、フロアー内の雰囲気は殺伐さを増していた。

笑っているのは、お局とその仲間の寄生虫たちだけ。

 それがこの施設の、このフロアーの日常——。



               ✿



「小津さんって、相変わらず?」

「変わらずですよ! 誰彼構わず、重箱の隅どころか、針ネズミみたいに所かまわず、攻撃してますよ、あの人!」

「張山さんが言うと、真実味があるね。『はり』だけに」

「面白くないです!」

「怒ってるねぇ」

「そりゃぁ、怒りますよ! あの人の為に仕事してるような感じじゃないですか! 全く……何のために介護の仕事してるんだか、本当に分からなくなっちゃうんですよ……」

 怒りは燃え上がったり、鎮火したりを繰り返しながら、炭と灰に分かれて、アタシの心を燻ぶらせる。

 時折、いい加減にお局に言ってやろう!と燃え上がっても、アタシの中の消防隊は優秀過ぎて、秒で鎮火させてしまう。

「はぁ……」

 溜息をつくアタシに部長は、

「……最初はね、彼女も優しかったんだよ」

「小津さんが⁉ いつの話ですか、それ」

 そんなこと、ある訳ない。

「ん? 二十年前」

「二十年って! もう影も形も、面影の欠片もないじゃないですか!」

 絶対、嘘だ——!

「そんなことないよ。 僕が怒られていると、必ず彼女が慰めてくれてね」

「慰めて? 本当ですか」

「本当だよ」

「怒られるって、誰に怒られていたんですか?」

「お祖父ちゃんに」

「お祖父ちゃん?」

「僕のお祖父ちゃん、ギリシャ人の血が混ざった、ハーフでね」

「ハーフ……じゃぁ、部長って、クォーターですか?」

「うん。でもそれこそ僕も、影も形も面影の欠片もないけどね」

「さすがにクォーターだと、名残り無いですよね」

「はは、そうだね。お祖父ちゃん、日本に来たのが八十才過ぎてからだったから、日本の風土に馴染めなくてね」

「二十年前ですもんね。難しいですよね」

「まぁね。ストレスからか、こっち来て一年ぐらいで、すぐ認知症になっちゃって」

「えっ、そうなんですか?」

「暴言も暴力も酷くてね。 毎日、親身になって介護する両親にも、遠慮なく拳が飛んできて、本当に困っちゃって」

 昔は家で観るのが、当たり前の時代。

 その頃の介護の知識なんて、今と比べれば、たかが知れてる——

「お祖父ちゃん、体が大きかったから、両親もケガが絶えなくてね。困り果ててた時、当時の施設長が近所にいて、『大きな事故が起きる前に、うちの施設入らないか?』って言ってくれたんだ」

「えっ? お祖父ちゃん、ここに入所してたんですか」

「うん、そうだよ」

 知らなかった——

「でも入所当時から、所かまわず暴れまくってね。職員もみんな困っちゃって。両親が行くと余計に暴れるから、僕が毎日、学校帰りに面会に行ってたんだ」

「毎日……大変でしたね」

「ああ、でもお祖父ちゃん、僕には一切、手をあげなかったから。暴言もね」

「そうなんですか?」

「初孫だからかな。 子供の頃から、よく可愛がってくれてね」

「ちょっと、寂しく感じちゃいますね」

「うーん。まぁね。でも僕はお祖父ちゃんの側にいられて、嬉しかったけどね」

「優しいんですね、部長」

「はは、ありがと。 毎日、通ってる内に、その時の施設長から、『ここで働いてみないか?』って言われて」

「それで、そのまま……」

「今に至るって所だね」

「そうだったんですか……」

 部長は高校卒業後、すぐに入職した。 

その時には、お局はすでに働いていたらしく、詳しく聴くと、彼女は部長の二年先輩。

 今の施設長は五代目だから、部長や彼女、長く働いている職員は、当然のように施設長や上層部の人間より、遥かにここでの職歴が長い。

それが余計に、人間関係をこじらせ、誰も逆らえない状況を生んだ原因の一つ——

上の人間が変わる度、必ず言う台詞。


——あたしの方が、この施設のこと、絶対知ってるから——


 そのいらないプライドは、容赦なく周りを傷つける。

「でも部長。 今の話に小津さん、出て来てないですよ」

「ああ、ごめん、ごめん。 お祖父ちゃん、僕がいると大人しかったんだけど、逆にどんどん活気が無くなってってね。今で言うと、セルフネグレクトみたいな感じで」

「それって、つらいですよね」

「んー、しょうがないんだけどね。でね、ある時、お祖父ちゃんが言ったんだ」

「何をですか?」

「こんな牢屋みたいな所で、人生終わるのか……って、ボソっとね」

「牢屋……」

 ——昔は、よく言われていたと、聞いたことがある。

 老人のいる施設のことは、世間からも本人からも、良い言葉は出ないと。

 姥捨て山

 高齢刑務所

 監獄

牢屋——


 施設でも病院でも、暴れたり抵抗したり、拒否する人は抑制される。

 今はサイドレールと呼ばれるようになった、手すり。

 その当時は、『柵』と呼び、ベッドから落ちないように、四方を囲むことを、四点柵と呼んでいたと、お局が自慢していた。

それでも、落ち着かない人は薬漬けにして、抑制帯と言う物で拘束される。

着物の帯のような、嚙み切れないように分厚い布。

締め付けが少ないよう、特殊なやり方で行われる、抑制の方法。

まずは手。

 そして足。

 更には胴の部分にも——

両手、両足、胴。 その全てに抑制帯を付けることを、『五点抑制』と言い、まるで人体実験の直前の状態のようにされる。

戦争を経験し、生き抜いた人たちが言う。

『これから何をされるんだろうと、恐怖しかなかった、あの頃を思い出す』——と。

 幸い、部長のお祖父ちゃんは、そこまではいかなかったが、家族がいる時は、解放されていても、夜は分からない。

「僕、それ聞いて凄い落ち込んじゃってね。 ごはん、食べられないくらい」

「確かに……身内から言われると、結構ショックですよね」

「うん、でもその時に、彼女が慰めてくれてね」

「小津さんが?」

「そうなんだ。毎日、電話くれたり、ご飯連れていってくれたり、休憩中とかも、わざとバカ話して気を紛らわせてくれてね」

「それ、本当ですか?」

「本当だよ。 あの頃の彼女は面倒見も良くて、優しかったんだけどね」

「そんな時代があったんですね。それでお祖父ちゃんも部長も、元気になれたんですか?」

「いやぁ、そんな簡単には。でもね、彼女が言ってくれた言葉があってね。それでもう良いやって」

「小津さん、何言ったんですか?」

「『ここは牢屋じゃないし、刑務所じゃないよ』って。『利用者に愛情あるんだから、良いとこ鳥カゴ程度でしょっ』て」

愛情……本当に?

「鳥カゴって」

「それ聞いて僕、思いっきり笑っちゃってね。ああ、確かにそうだって。こっちが以上持って接してるんだから、ここはそう言う場所じゃないってね。その時、ふっきれたんだ」

「そうだったんですか……」

 意外なお局の一面。 でも、それとこれとは——

「まぁでも、これは僕の心情だからね。 現実に困っている皆の中に、この気持ちを入れてくれなくて良いから」

「そうですけど……そんなの聞いたら、見る目変わっちゃいますよ」

「変えなくて良いよ。 二十年以上前の話だから。今の彼女は僕から見ても、行き過ぎてるし、看過できないよ。他の部署の人にも、くどくど行ってくるらしいし」

「他の部署の人にも?」

「うん。他の部署の新人にも、あーだこーだ言ってるって、ちょっと言われちゃってね。川内さんなんか、呼び出されて怒られてるのを見て、『あれはない!』って言いにくる人もいて」

「だからか……」

だから日増しに、夕夏ちゃんが下を向く機会が増えていたんだ——



「——大丈夫? また怒られたの?」

夕夏ちゃんは、体調不良を口にすることが、多くなっていた。

「怒られたって言うか……ずっと色々言われて。昔はどうだったとか、あたしが若い頃はもっとハードだったとか……だからあなたも、ちゃんとマネしてやってほしいって」

「はぁ……時代も変わってるのにね」

「機嫌が良いと話し掛けてきて……期限が悪いと怒られて。……なんだか毎日、接待しているみたいで、ちょっとツラくて……」

「そうだよね……、分かる。あたしも毎日、そうだから」

 死ぬほど分かる——

「……部長にも、色々と話しは聴いてもらってるんですけど」

「そうなんだ。なんか言ってた?」

「つらかったら、部署移動できるからって」

「えっ、移動? アイツじゃなくて⁉」

「……彼女は移動させられないって」

「なんで⁉」

「どこも受けてくれないって」

「そんな……」

「打診はしてるけど、どの部署もイエスって言ってくれないって、困ってました」 

「でも、それでも……!」

それじゃ、このフロアーの人だけが、ツライ思いを延々するはめに——

「それで大丈夫なの? 夕夏ちゃん」

「まぁ……でも部長も、出来る限り守るからって、そう言ってくれたんで……」

「アタシも! アタシも出来る限り、盾になるから! 何かあったら言ってね」

「……優しいんですね、張山さん」

「優しくないよ、アタシなんて」

 目に涙を溜めて、必死に闘っている彼女。 もう限界だ——



              ✿



「はぁ……今日もいるのか、アイツ」

 電車の中でシフト表を開き、アタシは溜息を付いていた。

 降りる駅までの十五分間、自分の気持ちを仕事へ向かわせ、シュミレーションをして奮い立たせる。

 それが、アタシの日課——

 それをするから、どうにかお局たちの攻撃から耐えられている。

 逆にそれをしなきゃ、耐えられ……

「あれ……」

 突然、目の前のシフト表が、左右に揺れ出した。

 なに? 何が起こったの?

 急に起こる目の前の出来事に、アタシの脳が処理しきれない。

 どうしたの?何が——

「ぁかっ……!」

 動揺している内に、急に息が吸えなくなった。

 嘘⁉ 嘘、嘘、嘘——!

「……ヒィッ! あ……ヒ……」

 いっ、息が! 息が出来な……誰か! 誰か助け……

 息苦しさが更に増し、全身が急激に熱くなる。

 吹き出す汗が、口の中に入っても、飲み込むことも、吐き出すことも出来ない。

 混乱が増していく。

 どうしよう……どうしたら……⁉

「は……ぁ……」

 目の前の景色が大きく楕円形を描くと同時に、座席から崩れ落ちるアタシ。

視界が、一瞬で真っ黒になった——。


 ——目を開けると、蛍光灯が真っ先に目に入る。

「眩し……」

 ここ、どこ——?

 見渡すとすぐに、ここが何処なのかが分かった。

「病院……」

 どうやらアタシは、失神したらしい。

「あっ、起きられました?」

 あたしが体を起こそうとしたのが見えたのか、看護師さんが駆け寄ってきた。

「すいません、あたし、なんで……」

「電車の中で倒れて、乗客の人が助けてくれたんですよ」

 倒れた? アタシが——?

「そうなんですか」

「どうですか、気分は?」

「あ……まだちょっと気持ち悪いですけど、大丈夫です」

「良かった。 後で先生から説明があると思うので、まだ安静にしていて下さいね」

「……ありがとうございます」

 医師からは、一泊入院の話をされたが、そこまではと思い、アタシは断り、

 代わりに診断書には、『一週間の安静を要する』の一文を入れてもらった。

 帰り際、部長に直接、電話を掛けた。

「そっか。 過労か……。無理させてごめんね。一週間、きっちり休んで良いからね。こっちのことは気にしなくて良いから」

「本当にすいません……ちゃんと治しますから」

「もしもうちょっと休みが必要なら、遠慮なく言ってね」

「はい、ありがとうございます」

一週間の休養。

「少し休める……良かった」

 本当はアタシも限界だったみたいだ。 

 そして一週間後、休養明けで出勤をすると、事態は激変していた——。


「おはようございます……。 すいません、長々と休んじゃって」

「おはよー! 良かったぁ。顔色戻ってる!」

「張山さん、ため込み過ぎてたんだね」

「無理しないで下さいね、病み上がりなんですから」

「はは、気を付けます。でも、もう大丈……あっ」

 お局がオムツ交換から戻って来るのが、視界の隅に見え、何か言われる前に、先に挨拶しようと近付いた。

「小津さん、お休みすいませんでした。また頑張りますから」

「……そう。無理しないでね」

 えっ……?

「あっ、はい……」

 いつもと違う。 いつもなら、『自己管理、ちゃんとしないと!』って、言われるのに。

なんか……雰囲気変わった?

「あっ、オムツ交換終わったみたいなんで、パット補充してきます」

「良いよ、他の人にやってもらえば」

 今日のリーダーが、お局を横目に声を掛けてくれる。

「ああ、大丈夫ですよ。アタシ、パット補充好きなんで」

 嘘だけど。言われる前にやる。 

自分の身は自分で守る。これも、自己防衛の一つ。

 ……にしても小津さん、何かあったのかな?

随分、大人しくなった印象だけど——

「おっ、お疲れ! 体、大丈夫?」

「部長!」

「出勤したって聞いたから。まぁ顔色はそれなりだね。でも無理しちゃダメだよ。あんまり動かなくて良いから。俺も現場に入ることになったからさ」

「えっ……部長がですか」

「そう。 何人か辞めるからね。今の内に体を慣らしておこうと思って」

 何人か辞める? アタシが休んでる間に、何があったの?

「どうかしたんですか? まさか、身売り……」

「いやいや、そんなことないよ。 みんな別の理由。家族の介護とか、旦那さんの転勤とか、もう他の所で働くことにしたんでって、人もいたかな」

「そうなんですか?」

 そんなことが——

「それより、何やってるの? 来た早々、パット補充?」

「はい……他の人、やらないから」

「やらない? どうして」

「誰がやるか決まってないんで……気付いた人がやる方が、気付きの力になるからって、小津さんに言われているんで……」

「何それ?」

「でもそれで皆、誰かがやるだろうと思っちゃって……」

「ふーん」

「だからあたしがやれば、その分、他の人が利用者さんのケアに行けると思って」

「それで、そうなった?」

「……休む時間が増えただけです」 ——あの人たちの。

「だよねぇ。 君がやること自体が、他の人が甘える原因になるから、ストップしよう」

「えっ……ストップって……」

 そんなことしたら、余計に目を付けられる——もうこれ以上は……

「とりあえず、午前の分はオムツ交換終了後に、遅番が休憩入る前に補充。 午後は早番が退勤前に補充して帰る。夜勤は一切、補充しない」

「そんなの決めて、大丈夫なんですか? また小津さんたちが、怒るんじゃ……」

「怒られてもね。まぁ大丈夫でしょ。僕も現場に入るから。何かあっても目を光らせられるし、文句が聴こえたら、どうしたのって聞けるし」

「はぁ……」

「鉄は熱い内に打つタイプだから、僕。 それに小津さん、僕といると大人しいからね。小津さんが落ち着いてたら、フロアー全体も落ち着くでしょ。安心して良いよ」

「はは、分かってたんですね」

「分かるよ、彼女の性格も行動も。付き合い長いからね」

「「皆、本当に困ってるみたいで……」

「だろうね。 面談しても変わらないから、彼女は。自分がここにいないと、皆が困ると思っているからね。だから過剰に物事に反応する。 まぁ、あれでも可愛い所、あるんだけどねぇ」

「本当ですか?」

 あたしには全く理解できない——

「まぁ、新人さんとか気に喰わない人には、当たりがきついから、全くそうは見えないだろうね」

「どこをどう見ても、全く見えないですよ」

「はは。でも実はもう、来月からのシフト、俺とかぶるように組んであるんだ」

「えっ、本当ですか?」

「本当。 もう上からもOKもらってる」

「あ、ありがとうございます、心強いです」

 これで少し、お局の攻撃が緩まれば——

「人員体制としては、退職者が増える分、ちょっときつくなるけど、俺も頑張るから。よろしく」

「はい! よろしくお願いします!」

 部長が、業務に合流する。

 それはお局と寄生虫軍団に取って、ストレスの溜まる状況になるかと思った。

 しかし事態は、そんな単純なものではなかった——



             ✿



「また、辞めるの⁉」

 お局の声が響く。

「これで何人目よ?」

「九人目」

 寄生虫軍団の一人が答える。

「……もうっ、何なのよ! みんな、本当に根性がない!」

 キレても、辞めていく人を責めても、現状は変わらない。

噂では、辞める人間のほぼ全員が、お局と寄生虫軍団の名前を上げ、

——『もう限界です』——

 そう言って、辞めていくらしい。

 部長も危機感を感じたのか、お局と寄生虫軍団の全員に対して、面談をしたらしいのだが、

「いまさら優しくされても」

「どうせ、ほとぼりが冷めたら、またヤラれるし」

——辞めることを決めた人間が、気持ちを変えることはなかった。 

更に噂では、退職希望を伝えに行くと、部長はとても喜んで、

『いつ辞める?』と、笑顔で聞き返してきたらしい。

日が経つに連れ、一人、また一人と辞めていくフロアー。

現状は散々たるものだったが、部長が業務に入り、都度、的確な指示や対応をすることにより、何とかフロアーが回り、皆の表情も変わっていった。

 まとまり始めたフロアー。

空気を読むのに長けた寄生虫軍団も、比重を部長に置くことにより、少しづつ穏やかさと笑顔が増え始め、度重なる勤務調整により、取り巻きと関わる物理的な時間が減ったせいか、お局自身も、今までの勢いと意地悪さが、鳴りを潜め始めた。

それでも、辞める人は後を絶たなかった——


「ごめんなさい、張山さん。 私も来月、辞めるんです」

「えっ……」

 夕夏ちゃんも⁉

「どうしたの? なんかあったの? まさか、陰でアイツらに……」

「違うんです。部長が業務に入るようになって、あの人たちも丸くなったみたいで、あたしにも優しくしてくれるんです」

「そうなの……」

 じゃぁ、何で——?

「体がツラくて……」

「体……」

確かに最近はとてもハードだ。

何連勤もした後に、とどめの夜勤が来る。

 しかも、辞めていった人の分の、利用者や委員会の引継ぎ、会議の代理出席からの議事録作成まで、アタシも含めた全員が全員、毎日遅くまで残業していた——

 正直、よく誰も倒れずに、ここまで来れたと思うほど。

「体が着いてこないと、精神的にも、結構きちゃって……」

 確かにそうだ。アタシも、休みの日は整体に通って、ほぼ一日を寝て過ごしている。

 他の皆もそうだと言っていた。

「そうなんだ、それだと……確かにツラいよね」

 悪循環。 それが一番、心身を壊していく。

「でも一番は、小津さんたちがいると、息苦しさを感じるようになっちゃって……」

「そうなんだ……」

 アタシと同じだ——

「小津さんたちが大人しい分、あたしが気を緩めちゃったのが、良くなかったのかなって」

「そんなことないよ。 夕夏ちゃんは一生懸命やってたし、小津さんたちにも気を使って、とっても頑張ってたよ」

 あたしも未だにそうだから——

「……みんな頑張ってるから、申し訳ないですけど」

「良いんだよ、夕夏ちゃん。自分の体が一番大事。後ろめたく感じることないよ」

「ありがとうございます。 部長もそう言ってくれてて」

「そうなんだ。夕夏ちゃん、今日、ちょっと時間ある?」

「はい、大丈夫ですけど……」

「ケアの進め方、部長に相談しに行こう」

「えっ……」

「せめて、残りの勤務ぐらい、体が楽にできるよう、相談しに行こうよ」

「でも……」

 辞めてしまうのは寂しいけど、ずっとアタシに優しくしてくれた夕夏ちゃんに、何かしてあげたい。

 体の負担が少なくなるよう、部長に進言する。これぐらいなら、アタシにも出来る。

「じゃぁ……」

「よしっ! 今日は部長、一人で事務残業だって言ってたから」

 善は急げとばかりに、アタシたちは事務所で残業をしている、部長の所に向かった。


「あれ? 部長、確か一人だって……」

 事務所の前まで来ると、開いているドアの隙間から、女性の声が聴こえた。

「誰かと話してますね」

「本当だ」

この声……この聞き覚えのある、気持ち悪い声——

「この声、小津さん?」

「で、ですよね……」

 顔を見合わせるアタシたち。

「どうしよう……少し待ってみる?」

「どうしま……張山さん、あれ……‼」

 隙間から、中を覗いた夕夏ちゃんが、驚きの声をあげる。

「……どうしたの?」

 あまりの驚愕ぶりに、アタシも思わず、中を覗いた。



 嘘。



 部長が——抱き合っている⁉

嘘、嘘でしょ?

「張山さん……これ」

部長とお局が抱き合っている——‼

 嘘……嘘……噓、噓、噓、嘘ぉ⁉

「嘘でしょ? 二人って付き合って……」

「そんな訳……」

「でも、それじゃなきゃ、二人っきりで誰もいない所で、抱き合う理由が——」

「で、でも、なんか様子がおかしいですよ」

「え、本当に?」

「はい、部長は困った顔してるし、小津さん、震えてますよ」

 夕夏ちゃんの言葉に、アタシはもう一度、ちゃんと二人の姿を確認する。


本当だ——!

 

ショックと混乱で分からなかったけど、よく見ると、そういう……特別な間柄じゃなさそうに見える。

 肩を震わせているお局。 何か喋っている——

「ごめんなさい……あたしのせいで……本当に。……ごめんなさい」

 たどたどしく、か細い声。 

「なんか……泣いてませんか?」

 鼻をすする音に、夕夏ちゃんが気付く。

「まさかぁ……」

何度も部長に謝罪の言葉を発している姿は、いつもの強気な彼女とは、まるで別人——のように見えた。

「……違う。 あの人、わざとだよ」

「えっ?」

 今度はあたしの言葉に、夕夏ちゃんが驚く。

「ほら、口元見て。 口角上がってる」

「え…………あ、本当だ」

 また顔を見合わせる、アタシたち。——嘘泣き!

「ぶ、部長に言った方が良いですかね……」

「いや、流石にいま出ていくのはマズイよ」

「じゃぁ、どうしま……」

 戸惑うアタシたちのいる場所と、部長とあの女がいる場所の、温度差ときたら——

 どうしようか迷っている内に、

「部長、ごめんなさい!」

そう言って、彼女が飛び出して来た。

「えっ、嘘っ⁉」

「こっち来……!」

まずい!鉢合わせる——

「あっ」

「あ……」

出てきたお局と、アタシたち二人は予想通り、鉢合わせた。

「あれ? どうしたの二人とも」

「えっ……いや」

 さっきまで泣いていたと思えないほどの、満面の笑み。

 目元も頬も、濡れてない——嘘泣き確定だ。

「部長に愚痴聞いてもらってたの」

「はぁ……」

「毎日忙しいからね。二人も部長に?」

「あっ、はい……」

「そうなんだ。 二人も仕事終わってるんだったら、早く帰って休んでね」

「はぁ……」

 こんな優しい言葉、初めてお局の口から聴いた。

 逆に気持ち悪い——

「じゃぁ、お疲れ様。二人も気を付けて帰ってね」

 まるでスキップするように、お局はフロアーへと戻って行った。

 お局がいなくなるのを見届けると、アタシたちは部長の様子を伺おうと、事務所の中をそっと覗いた。

「……部長」

部長は机に手を置き、空いた手で顔を覆い、震えていた——。

「どうします……?」

 夕夏ちゃんが尋ねてくる。

「今日は……止めておこうか」

「……ですよね」

 部長もやっぱり、ツラかったんだ。

 毎日のように深夜まで残業し、早番で来て遅番までこなし、夜勤も皆と同じように行う日々に、ようやく改心したように見えたであろう、お局。

今までの苦労が報われた。そう考えてもおかしくない。 

耐えていたものが、溢れ出すのも無理はない——アタシはそう思った。



            ✿



 あれから、お局のアタシたちへの攻撃は、陰湿さを増していった。

 遠巻きにアタシたちを観察し、他の誰かを使って、体重のある人や、認知症が酷く、暴言や暴力、弄便でリネン類の交換が多い人、自分が嫌っている利用者を押し付けては、事を終えて戻ると、どうしてそんなに時間が掛かったのかを、皆の前でネチネチと聞いて来る毎日。

 

 ——「もう、誰を信じて良いか、分からないんです……」

 何度も涙を拭き、夕夏ちゃんは自分の気持ちを吐き出した。

心身の不調が酷くなり、退職期日前にも関わらず、施設へ来る事すら出来ないほど、夕夏ちゃんは追い込まれ、そのままフェードアウトするように、退職時のやりとりを、部長とだけ行い、退職していった。

入って一年も経たない新人が辞めたことは、施設内だけでなく、法人全体で大きな話題となり、施設内に風紀を求める声が増え出し、それはお局たちにも影響が及ぶほど。

矢継ぎ早に入職者があっても、職種に関係なく、彼女たちを理由に、次から次へと辞めていく負の連鎖が続いていた。

 それでも頑張る職員は、利用者さんの為にと我慢を続け、お局たちと、どうにか折り合いをつけながら、働いていた——


「あっ、張山さん。今日、ちょっと空いてる?」

「部長、どうしたんですか」

「自宅に帰る、京町さん家の調査に行くんだけど、一緒に行く?」

「京町さん……どうしようかな」

「残業代、ちゃんと出すよ」

「本当ですか?」

「本当、本当」

 部長となら安心かな。 

「じゃぁ、行きます」

「助かるよ。コーヒーおごるから」

「缶じゃないやつが良いです」

「なら、もうちょっと高いのにするよ」

「冗談ですよ、冗談。 部長にはお世話になってるから、何もいりません。お手伝いできることなら、ぜひ」

「ありがとう、助かるよ」

 アタシ自身も、部長に軽口を叩けるぐらいに、心身が回復していた。  

「京町さんって、夕夏ちゃんが担当してたんですよね」

「そうだね。彼女の努力のお陰で、京町さんは帰れるようなもんだからね」

京町さん。 夕夏ちゃんが最後まで気に掛けていた、女性の利用者さん。

御家族が自宅のリフォームを行い、その期間だけの入所だったが、ゴールが見えているだけに、そこに辿り着くまでの緊張感がとにかく高かった。

転倒だけはしないように、

体調を崩さないように、

認知症状が、なるべく進行しないように——。


——退所の時には、見送りしようと思って——

 そう言っていた夕夏ちゃん。

 辞める前に交換していたLINEで、部長と一緒に、京町さんの自宅に向かっている事を伝えた。

 しばらくして返信があり、

『ありがとうございます! 京町さん、やっと家に帰れるんですね!本当に良かったです』

 涙マークの絵文字に、夕夏ちゃんの喜ぶ顔が浮かぶ。


「じゃぁ、退所日には、施設の車で自宅までお送りしますので」

 家屋調査と、退所の日時調整までを済ませた部長とアタシ。

「これでOKだね。じゃぁ約束通り、缶じゃないコーヒーおごるよ」

「えっ、良いんですか? 戻らなくて」

「あっ、大丈夫。この後の認定審査会の時間まで、結構余裕あるから。 その為に今日は、人員多く割いてるからね」

「そうなんですか? じゃぁ……ちょっとだけなら」

嬉しい。 最近は家と職場の往復だけだったから、息抜きだ。

しかもその相手が、部長って言うのがまた面白い。


「——ファミレスで悪いね」

「いえいえ。これぐらいがちょうど良いですよ」

「はは、でも本当に助かったよ。どう? これからケアマネとか相談員とか」

「やってみたいですけど、いま抜けると、フロアー大変じゃないですか」

「まぁねぇ。でもいずれ、ブロック分けで、フロアーを分け直そうと思ってるから」

「ブロック分け? ユニットじゃなくてですか」

「うん。 実際は何も変らないけど、四、五人ぐらいの小グループにして、フロアーを回してみようって、運営会議で決まってね」

「え……それだとメンバー構成、すごく大事ですよね」

「そうだね。 心配?」

「ちょっと……」

 死んでも、お局たちとは組まされたくない。

「だよねぇ。でも大丈夫。小津さんたちは、同じグループにすることは、もう決まっているから」

「本当ですか⁉ 良かった……」

 部長の言葉に安堵していると、夕夏ちゃんからLINEが入る。

「あっ、夕夏ちゃん」

「へぇ、連絡取り合ってるんだ」

「辞める前に、アドレス教えてもらって」

「そうなんだ。 良い人は皆、辞めちゃうね」

「困りますよねぇ、本当」

「そう? 僕にとっては都合が良かったよ」

「えっ?」

「いや、何でもない。でも彼女、辞められて良かったね、本当に」

「ですね。もう、体が限界だって言ってたから」

 本当に良かった——

「すいません、夕夏ちゃんに返信しても良いですか?」

「ああ、良いよ。その分、ゆっくり出来るから」

「ありがとうございます。部長って、本当に優しいですよね」

「そう? そんなことないと思うけど」

「そんなこと、ありますよ。 あの人たちも少しは部長を見習ってくれたら、本当にありがたいですけどね」

「そうだねぇ。 あっ、そうそう。川内さんには、僕の知り合いの施設、紹介しといたんだ」

「チラッと聞きました。良いなぁ、アタシにも紹介して下さいよ」

「はは、考えとくよ」

「でもお局軍団にも、本当に困ったもんですね」

「本当だよ。でも彼女たちにも、ちゃんと罰は与えてるから」

「罰? どんなですか」

もし罰を受けていたとしても、全く効いてない気がする——

「内緒。 でも彼女たちは、何人も自分が気に入らない人間のこと、退職に追い込んでいるからね。 それ相応の罰は、きっちり受けて貰わないと」

「そうですけど……彼女たちそう言うの鋭いから、気付いているんじゃないですか?」

「気付いてないと思うよ。間違いなく」

 随分、自信満々に言うけど、きっと部長の方が騙されてる。

 あの時、お局に抱き着かれて、泣き落としに引っ掛かってから、彼女たちの陰湿さが増していったんだから——

 

『そう言えば、部長のこと、新しい職場の人から聞きました』

 夕夏ちゃんから、またLINEが入った。

『部長は最近、よく鳥の話をするそうです』

 鳥——?

『常々、大きな鳥を飼って、僕がいないと生きていけないようにしたいって、言っていたそうです』

 大きな鳥? そう言えば前にも、そんなこと言っていたような——

「ん? どうしたの?」

「あっ、いえ。 何でもないです」

「そうそう。僕ね、最近、鳥を飼い始めたんだ」

「鳥ですか? 可愛いですよね」

 ああ、これか。

「そうなんだよ、可愛いんだよ。僕がいないとね、死んじゃうんだよ?」

「そうですよね、飼い主がいないと大変ですもんね」

「そうなんだ。 

僕が餌をあげないと死んじゃうし、

僕が水をあげないと干からびちゃうし、

僕が綺麗にしないと汚いままだし……」

「ですよね、何の種類の鳥ですか——」

 LINEが、また鳴る。

『昔から飼ってたつもりだったけど、今までは放し飼いだったから、なかなか言うことを聞かなかったけど、最近ようやく、なついて来てくれたのが、たまらなく嬉しいって』

 外飼い? 野鳥? でもそれって、犯罪になっちゃうんじゃ——

「どうしたの?」

「あっ、すいません、鳥の話ですよね」

「たまに歌ってあげるんだ」

「えっ、じゃぁオウムですか?」

「違うよぉ、でもね、歌ってあげると喜ぶんだ」

「そうなんですか……」

 また着信音。

『部長は、どうしようもなく感情が高ぶると、手で顔を押さえて、声を出さずに笑うそうです』

 声も出さずに——?

「何歌うと思う?」

「あっ、何を歌ってあげるんですか」

「聴きたい? 歌ってあげるよ」

「えっ?」

 まさかここで⁉

「いえ、大丈……」

「か~ごめ、かーごめ」

 嘘。 嘘でしょ? いきなり⁉

「か~ごの中の鳥は……」

よくレクで歌ってるやつ——

「いぃーつ、いぃーつぅ、でぇ~やぁるぅ……」

 段々と声が大きくなる部長。

「ちょっ……! 部長!」

「夜ぉ明けの晩に……」

「部長!ここ、ファミレス!」

 声が大きくなるに連れ、周りの人たちも何事かと思い、視線をこちらに向けだしてくる。

「ツ~ルと亀がすぅべったぁ」

 笑ってる……何? 何なの⁉

「部長! 人が見てますってば!」 

「後ろの正面……」

 怖——

「ねぇ、張山さん」

「は、は、はい!」

「彼女の後ろの正面は、誰だったと思う?」

「えっ?」

 誰——?

「……僕はね。ずぅ~っと、鳥を飼ってたんだ」

えっ、また鳥の話?

「その鳥ね、大きいんだよ、とっても」

「ま、前も大きい鳥、飼いたいって言、言ってましたもんね……」

は、話、合わせなきゃ——

「最初はね、普通の体形だったんだけど、いつからかね、ブクブクブクブク、太っちゃってね」

 夕夏ちゃんから、またLINEが。 しかも長文の。

『部長、言っていたそうです』


「その鳥ね、自分の居場所を作るのに必死なんだ。だから他の鳥も、いじめちゃう」

『彼女はね、自分の居場所を作るのに必死なんだ。だから他の人を、いじめちゃう」


「えっ……」

「だから僕、その鳥だけ……一匹だけをね、ずっと飼い続けようと思って」

 一匹? 

「だけど、これがなかなか、言うこと聞いてくれなくてね」

 言うこと聞いてくれない?

「ちょっと考え方、変えたんだ」


『飼いならせなかったら、飼い殺そうと思ってる』

「飼いならせなかったら、飼い殺せば良いんだってね」


飼い殺すって、どう言うこと——?

「おかしいよね、ちゃんと施設って言う鳥かごに入れて、ちゃんと飼ってあげてるのに」

「部長、それ何の話……」

『もし僕の所からいなくなるようなら、今まで彼女を理由にして辞めていった人たちの、言ってたこと全部まとめて、全国の介護関連の所に、情報提供として送る』

 怖……

『社会的に抹殺して、僕の所が良かったって、戻って来てもらうんだぁ』

 この人——

「この仕事って、頑張ればいつまでも出来るからね。定年退職が無いって言うのが、やっぱり良いよねぇ」

『倒れて介護が必要になったら、うちの施設で飼い続けるから』

「だからね、倒れるまで働いてもらおうと思って」

「それ……鳥の話ですよね?」

戸惑い、確認するアタシに、部長は嬉しそうに、ゆっくりと口を開いて、こう言った。

「違うよぉ」

 その笑顔に ——寒気がした。

『だってね、大好きだって言ったんだよ。この仕事のことも、僕のことも』

「だってね、大好きだって言ってたんだよ。この仕事のことも、施設にいる人のことも。 だから死ぬまで……死ぬまで飼ってあげるんだ。 いや、死んでも居たいのかもな。 それなら特別に安置する場所、作ってあげても良いなぁ」



——『死んだら、僕の側にずっと置いとくんだぁ』——



「あっ、でもそれなら、辞めさせた人間の数だけ、飾りもつけよう。そしたら、もっと豪華になるぞぉ」

『あたしたち、辞めていった人間は全員、彼女を側に置いておく為の餌だと言っていたそうです』

「ねっ、横川さんも、そう思わないかい?」

「いえ、あ、あたし! ちょっとトイレに‼」

「あ、そう? ゆっくり入ってきなよ」

 逃げるように、アタシはトイレに駆け込み、

「ハァ ハァ ……何なの、あの人? 怖過ぎる……」

 ひょっとして、部長の言う鳥って—— 

気持ちを落ち着けるように、数分だけトイレに籠り、トイレの前から部長の様子を伺うアタシ。

「嘘……」

部長は手を広げ、顔を隠すように、下を向いて肩を震わせていた。

それは他の人から見たら、泣いているようにも見える、

 あの時と同じ姿——

 目を離せずにいると、夕夏ちゃんからまたLINEが。

『彼女と抱き合っていた日の翌日——』

その文言に、思わず部長の方に視線を向けてしまった。 

『やっと彼女が僕のものになったよ。嘘泣きまでして、僕に取り入ろうとするなんてねぇ。決めたよ。僕は彼女を、一生飼うことに決めたよ』

「……あ」

 目が合った部長は、唇に付いた粘ついた何かを、ゆっくりと伸ばしながら、口角を上げた。

 ようやく気付いた。 アタシは間違っていた——


本当に怖いのは、お局なんかじゃなかった。

本当に恐ろしいのは——



『僕って、優しいでしょ』



                        ——この人だ。          


 

         


             〔 終 〕

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