祉福 ーしふくー

神傘 ツバメ

 RECOGNIZE IN HABIT

  

 問・一

 

 大切な人が寝たきりになると分かり、ショックを受けている人に掛ける言葉として、適切なものを選べ。


 一、「仕方ないよ」

 二、「誰も悪くないよ」

 三、「生きてただけ良かった」

 四、「 —————— 」



「……奇跡でも起きなきゃ、無理ですよね」

「そりゃそうだろ。寝たきりになって、もう一年だぞ」

「ですよね……」

「煮詰まってるな。入れ込み過ぎだぞ」

「分かってるんですけどね」

「別にお前のせいじゃねーだろ。それより、カンファレンス始まるぞ」

「はい……行って来ます」

 主任の慰めの言葉を受け、俺は会議室へと向かった。

 階段を駆け上がると、何やら入り口で看護師の水田さんと、リハビリ担当の梅野さんが話し込んでいる姿が目に入った。

表情から察するに、すこし困っている様子が見受けられる。

「どうしました?」

「あっ、鹿村くん」

「中に入らないんですか」

「そうね、中で話そっか」


 席に着いた早々、水田さんが溜息と一緒に、話を切り出した——。

「実は、龍口さんの御家族から、強い希望があって」

「強い希望? クレームですか」

「違うの。息子を窓際のベッド位置に替えてくれって」

「窓際? 希望は分かりますけど、最初の話だと、早期の異変発見の為に、居室の入り口にしてくれって言う、ご家族の希望があったんじゃ。その為に、わざわざステーションに一番近い部屋にしたんですよね」

「そうなんだけどね……」

 季節を問わず、人気のベッド位置。

 光がふんだんに入り、カーテンをしても、その明るさを眩しく感じるほど。

 生活リズムの構築、昼夜逆転、骨粗鬆症の予防——

 朝日と夕焼けが見られるだけで、自分が生きていることを、世界から取り残されていないことを実感すると、ある患者さんが言っていた。

 ——何よりも、生きている実感を感じられる場所。

「龍口さん、若いからね」

 梅野さんが呟く。


 今回のカンファレンスの患者。

 龍口翔太 二十二才。

 ボディボード中に、水上バイクと衝突。

 水上バイクの運転者は足の骨折で済み、龍口さんは衝突時に意識を失い、海中に沈み、発見まで時間を要した。

 現在は、民事と刑事で訴訟中。

 救急搬送され、すぐに処置を行うも、回復の遅延が目立ち、寝たきりとなる。 

 事故から、もうすぐ一年が経過する——


 海中から引き揚げられた、龍口さんと一緒に来ていた、交際中の彼女は寝たきりになった姿を受け、

「何で⁉ 何でこんなことになったのよ! ねぇ!誰か、誰か教えてよ‼」

 そう言って泣き崩れた彼女は、俺の同僚だった——。

 

 当時、彼氏と海に行くと言う話を聞き、龍口さんの彼女と、仲が良かった介護士の俺、同僚の看護師二人、そして龍口さんの五人で、海に遊びに来ていた。

 初対面の龍口さんは、誰が見ても好青年で、話している内に、俺の高校の後輩だと言うことが分かった。

 知っている先生の話や学校にある、謎の伝統の話で盛り上がり、あっという間に仲良くなった。

「いつか、プロのボディボーダーになろうと思うんです——」

「凄いな、龍口くんは。もう将のこと、来決めているんだ」

「翔太で良いっスよ、先輩。 本当は遅いぐらいなんです。 世界では十代がピークって言われてて」

「えっ、マジで⁉ やばいじゃん」

「そーなんスよ。でもまぁ、海に来て日差しを浴びて、潮の香り嗅いでるだけでも、幸せなんスけどね」

そう言って、眩しそうに太陽を見上げ、翔太は笑った——。


 ——「なんで誰も答えてくれないの⁉ ねぇ、何で!」

 周りにいた、俺を含めた同僚の誰もが、彼女の問いに答えられなかった。


「あの距離じゃ、助けられないよ」

「水上バイクの禁止エリアじゃなかったし」

「生きてただけでも、良かったと思うしかないよ」

「そうだね、仕方ないよね」

 彼女と翔太のいない、帰りの車内で言い合う言葉の数々。 

 誰も……本当に誰も、彼女にも翔太にも、掛ける言葉が見つからなかった。



 俺はあの時、なんて言えば良かったのだろう——



「家族の窓側希望って言っても、そんな急には……他の患者さんと、その家族にも説明しないと」

「そうですよね。この件は、ちょっと一旦保留するしか……」

「じゃぁ、リハビリは現状のを継続して、時期的に暑くなってきたから、清潔保持に努めて、スキンケアを重点的に——」

 粛々と進んだカンファレンスは、すぐに終わった。

 御家族からの、希望の解決と言う課題を残して。


 ——カンファレンスを終えた俺は、何気なく足が龍口さんの病室に向いていた。

「窓際か……」

 龍口さんはいつも、テレビの方に顔を向けている。

 最初は屈曲も伸展もしていた両手足が、時間を追うごとに、自然と形を決め、いつの間にか、首と肘、両手首から手指までが固縮していた。

 虚ろとも思える目でテレビを見つめ、人が視界に入ると、時々、眼球を動かす。

 きっと意識はある。 けれどそれは、認識はと違う反射——。

「翔太……お前はどうしたい?」

 ズレていた枕を直し、俺は尋ねる。

 もちろん、返事はないことは分かっているけれど、尋ねずにはいられなかった。 

「当たり前か……」



               ✿



「一応、御家族に断っといたよ。ベッドが空いたら移動するって話しにして」

「そうですよね。無理ですよね……」

 水田さんから事の経緯を聞いた主任が、代わりに御家族に説明をしてくれた。

「お前……まだ気にしてんのか?」

「えっ……いや、まぁ」

「別にお前のせいじゃないだろ、龍口さんの彼女が他の人と結婚すること。 二年もあれば、人の心なんて移ろうだろ」

「ええ……分かってるんですけどね」

 

 ——翔太の彼女は、入院当初は毎日のように、面会に来ていた。

 笑って声を掛け、手を握りながら、日常に起きたことを話し、体を拭いたり、マッサージをしたり。

 感心すると同時に、俺は何も言えなかった。

 ただ天気の話をし、カーテン開けますね、テレビ付けますね、リハビリいきましょうね、習慣になった毎日の声掛けをし、たまに黙って顔を見つめることぐらい。

 翔太の家族とも仲が良かった彼女は、入院後の医師からの説明も、一緒に聞きに行った。


「——奇跡でも起きない限り、意識が戻ることは難しいでしょう」


 その言葉を聞いた時も彼女は、ショックを受けた翔太の家族を慰め、その奇跡に掛けるように、更に熱心に翔太のために努力を重ねた。

 結果、翔太は意識を回復した——。

「やったよ! 奇跡、あったよ! 起きたじゃん!」

 驚いて涙を流す家族の横で、喜びを爆発させた彼女。

「お、おう! やったな!」

「これから、もっと良い方に向かうよ、絶対! ねっ?」

 奇跡だと喜びに溢れた数日間——。

 だが現実は、そう簡単に奇跡の連鎖を起こさなかった。

 開眼はしたけれど、発語もない、動きもない、表情もない、何より……家族のことも、彼女のことも、自分の状況や家族、彼女の存在を認識しているかどうか、全く分からないまま、時間だけが過ぎていった。

 更に皮肉なことに、翔太の昼夜逆転が極端に酷くなった。

 夜は日が暮れてから、陽が昇るまで天井を見つめ、時々、視線を動かして周りを観ている。

 逆に昼間は、陽の光を浴びて、穏やかに眠り続け、オムツ交換や入浴の時に、その時間だけ開眼する程度。

 俺も他の職員も、家族や彼女の希望があっても、この穏やかな寝顔を見ると、無理矢理起こすなんて、出来なかった。

 カンファレンスの際にも、昼夜逆転の話がよく出るようになり、課題として上がるが、良い手立てがなく、堂々巡りだった——。


「お前だって、眠れない時あるだろ」

「そりゃぁ、ありますけど……」

「俺もある。 新人担当、誰にしようかなとか」

「いや、それぐらいで……」

「そう言うけど、大事なんだよ。俺にとっては。それ一つ、考え出すだけでも、途端に眠れなくなるんだよ。 鹿村はそう言う時、何考える?」

「何って……」

 何だろう——

「最初は、しょうがねーと思って、目を閉じるだろ? その内、頭で色々考えて、余計に眠れなくなって、ネガティヴな事、考え出さねーか」

「……たまにあります」

 そんなこと、しょっちゅうだ——

「龍口さん、今それなんじゃねーか?」

「えっ……」 

「本人じゃねーから、分からねーけど。 俺の場合は……俺ってどうなっちゃうんだろうとか、これからどうしていけば良いんだろうとか、どんどん訳分からなくなるんだよ」

「主任……」

「龍口さん、海に沈んでったんだろ? 怖かったと思うよ。俺も泳げないから、溺れる怖さ、よく分かるよ」

「主任、泳げないんですか」

「子供の頃、一度死にかけてからな。溺れて」

「死に掛けて……」

「情報提供書には、意識を失ってってあるけど、本当は途中で意識だけが戻ってたりしてな」

 意識だけが戻って? そんなことがあったら……。

「それって……意識があるまま、沈んでいったってことですか?」

「それも分からねーけど、もしそうだったら、本当に怖いよ。俺も未だに思いだすんだよ。 意識はハッキリしているのに、体は動かなくて、どんどん、どんどん陽の光から遠ざかって、周りが暗くなってって……」

 俺が経験したことない恐怖。

「そんな時、思ったんだよ。 『あぁ、夜に似てるな』って」

「夜……?」

「あくまで俺の感覚だけどな。だけど、怖いんだよ。明けない夜はな。 でもそれって、怖くねーか?」

「明けない夜……」

「目をつむったら、もう二度と、起きれなくなるんじゃないかって本能的に感じて、龍口さん、眠れないのかもな」

「……恐怖心から、眠れないってことですか?」

「昼間の太陽が出てる時なら、生きてる感じがして、安心して眠れているのかもな」

「安心して……確かにそうかも知れないですね」

「龍口さん、ひょっとしたらまだ、海の底にいるのかもな」

 

 海の底——

 

 翔太はあの時、沈んでいく自分の体が動かない中で、太陽が遠ざかるのを見ながら、恐怖に囚われたまま——意識を失っていったのかも知れない。

 情報提供書とは逆の内容。

 本人に真相が聴けない今、どれもが推測であり、どれもが翔太の回復のヒントになる可能性がある。

 一度起きた奇跡が、連続して一人の身に起きることなど有りはしない。

 でもそれに、家族も彼女も掛けていると思った。けれど——

 いつからか、翔太の家族と一緒に来ていた彼女は、時間をずらすように訪れ、一緒にテレビを観る時間が増えていった。 溜息を交えて。

 その姿が、大きく膨らんだ風船が、時間と共にしぼんでいくように見え、足繁く通っていた病室への訪問も、週一回になり、二週に一回……月に数えるほどになり、彼女が病室に行く回数は極端に減っていった。

 デイルームで窓の外を眺め、そのまま帰ることも増えた彼女に、忙しさにかまけた俺も、声を掛けることを怠るようなり……、いや、正確には掛ける言葉が見つからなかった。 あの時のように。

 いつの間にか、彼女は来なくなった——。

「どうしちゃったんだろうね、彼女」

「家族が何か言っちゃったのかなぁ」

「仕事、忙しいのかね」

 病棟内でもそのことが話に上がり、その話題が出なくなった頃、俺の所にある物が届いた。

 結婚式の招待状 ——翔太の彼女からだった。


——『ごめんね』——


 添えられた一言が、俺になのか、翔太の家族になのか、翔太本人になのか、それとも……自分に向けたものなのか、分からなかった。

 式の日程が一週間後なことだけが、彼女の葛藤を垣間見せた気がした。


「……龍口さんの彼女が、どんな選択をしても、俺たちにはそれを止めることも、良かったね、とも言えない」

「ですよね……」

「誰も悪くない、それしか言えねーだろ」

「主任なら、式に行きますか」

「んー、どうだろうな。行っても何を言って良いか、分からないだろうな。複雑な気持ちなのは変わらねーし。強いて言うなら、『おめでとう』ぐらいかな」

「おめでとう……」

「まぁ行くか行かないかは、自分次第だな。 笑っておめでとうが言えそうなら、行けば良いしな。 休みが必要なら言え。何とかしてやるから」

「ありがとうございます。 少し……考えます」

 主任の言葉を聞いても、踏ん切りはなかなか付かなかった。 

 それは——少し、彼女を羨ましく感じていたから。


 ——『何で誰も答えてくれないの』——

 そう叫んだ彼女に、答えを出せなかった俺と、目を覚ましたけど、何も変わらない翔太は、あの時から、時間が止まっている気がしていた。

 向き合う必要性のないものにも向き合い、自問自答をただただ、重ねたけれど、答えの出ない毎日。

 それなのに彼女は、自分なりに前に進もうとしていた。 いや、前に進み始めた。

 それが俺には少しだけ、羨ましかった——。



                ✿



 数日後——

 式の日程が近づくごとに、下を向く俺の横に、寄り添うように主任はいてくれた。

「どっちが良いと思いますか、主任」

「どっちが良いって、どっちの話だよ。 結婚式と転院の話と」

「どっちって……」

 ——翔太には、転院の話が来ていた。

「じゃぁ、龍口さんの方で」

「じゃぁって……。 今の現状だったら、療養型か自宅しかないだろ。 リハビリ特化型には、今の龍口さんの状態じゃ、推すことも出来ないよ」

「両親が共働きだと、家じゃ難しいですよね」

「家でも見られないことはないけど、公的支援を受けても、足が出て実費負担の方が大きいからな」

「龍口さんが家に戻ったら、こじれそうですかね」

「どうだろうな。最初は良いだろうけど、時間が経つと、拘りも思い入れも、それぞれ増えていくからな」

「家族仲も悪くないですもんね」

「龍口さんの若さからしたら、家族の方が心身ともに、先にバテるだろうな。将来の不安も出てきて、喧嘩も増えるだろうし」

 家族介護は一筋縄じゃいかない。 

 特にそれが、自分の子供の場合は——

「必然的に療養型ですかね……」

 

 ——翔太、お前はどうしたい?


「まぁ、今の段階はな。なにかこっちで新しいことを始めて、その検証期間が必要とかでもない限り、長くここに居させるのはな……」

 主任の言いたいことは分かる。

 翔太だけ、特別と言う訳にはいかない。

 そうなる為には、何かしらの打開策が必要なことは明白だ——


「そういえば今日、海開きだってな」

「海開き? 今日でしたっけ」

「ほら、テレビでもガンガン流してるよ」

 そう言って、休憩室のテレビに視線を向ける主任。

 テレビのリポーターが、海に来た人たちにインタビューをしている映像が流れる。

 皆がみんな、笑顔で嬉しそうに答えていた。

「……楽しそうですね」 

 もし……もしあの時、何も起こらなかったら、いまテレビでインタビューを笑顔で受けているのは、俺や翔太や、彼女だったのかも知れない——。

 照りつける日差しを、眩しそうに見上げる青年。

 太陽が青年の笑う口元以外を隠す。  その姿が、あの日の翔太が重なる——

「あ……」

「どした? 鹿村」

「主任、翔……じゃなかった。龍口さんのリハビリ、外で出来ませんか」

「外で?」

 驚く主任。

「はい! アイツ……日光浴、好きだったんですよ」

「日光浴……でも外出までは、流石に——」

「お願いします! 外がダメなら、せめて屋上で! 梅野さんには俺が頼みますから」

「いやお前、一人だけ外って訳にはいかないよ」

「お願いします! 一週間、一週間だけで良いんで!」

 懇願する俺に、主任が頭を掻く。

「一週間……ったく。しょーがねーな。 まず家族の許可、取ってからだぞ」

「はい!」


 翌日——。

天候を確認し、血圧と検温の測定後、屋上に行く許可が出た。

「すいません、水田さん。無理言って」

「ううん。家族も喜んでいたし、これで昼夜逆転が少しでも改善されれば、リハビリも進むかも知れないし」

「はい! ありがとうございます」

「じゃぁ、何かあったら、すぐにPHSで連絡して」

「了解です、行ってきます。 よし、じゃぁ行こう! 龍口さん」

 リクライニング車椅子に移乗してもらった翔太と、淡い期待を乗せ、エレベーターで屋上へと向かった。

窓際は無理でも、屋上なら——

「遅いよ、鹿村くん」

「すいません、梅野さん」

 外へと続く段差を慎重に越え、車椅子を太陽の方に向ける。

「眩し……」

 日差しを少しでも長く感じてほしい。

 俺は……俺と翔太は、ゆっくりと、庇のある場所まで進み出した。

「龍口さん、今日は外でリハビリですよ」

 梅野さんの方に向け、車椅子を押していると、

「鹿村くん、直射日光に当て過ぎ……」

「あっ、ですよね。すいません」

 熱でも出たらマズイと思い、ひさしの下に入ろうとスピードを上げる。

「ごめん、浮かれてた。暑かったね」

 手で翔太の顔に日陰を作る俺。

「鹿村君、手をどけて!」

「えっ……?」

「手、どけてあげて! 龍口さん、喜んでる!」

 喜んでいる——?

 なんでそんなこと分かるんだ? そう想い、俺は視線を翔太の方に向けた。

「マ……ジか……」

 視線が一点を見つめているのは、変わらなかったが、明らかに口角が上がっていた。

 介護や医療の素人でも分かる、表情の変化。

「梅野さん、これ……」

 笑顔——!

「龍口さん、笑ってる……ねぇ、笑ってるよ、鹿村くん!」

「ほ、本当だ……! み、皆に報告しなきゃ……!」

 翔太は確かに笑っていた。

 固縮した肩や肘、指までが緩み、緊張がほどけているのが、いつもの可動域からの距離で分かった。

「……水田さん! 龍口さんがっ!」

 連絡をした俺の興奮ぶりに、水田さんと主任が、慌てて飛んで来た。

「初日から急変かよ!」

「急いでベッドに!」

 駆け付けた二人が、俺と梅野さんの表情に驚く。

「早くドクター呼ばないと!」

「鹿村! お前、何笑って……⁉」

「いや、笑ってるの、龍口さんですよ」

「えっ……?」

 慌てて龍口さんの顔を確認する、水田さんと主任。

「笑っ……てる?」

「本当だ……」

 

 窓からではない、確かな日差し。

 翔太はきっとそれを感じて、自分のいる場所が、感覚的に海の底ではないことが、分かったのかも知れない。

 太陽を直接、感じる——もう沈まなくて良い。

 そのことを分かってくれれば、快方に向かうかも知れない。

 笑顔の翔太に、関わる全員の期待が膨らんでいた——。



               ✿



 しかし、あれから三ヶ月が経過しても、翔太に目立つ変化はなかった。

 見られたのは、若干の固縮の緩和と、夜間の入眠状況が改善気味だと言うこと、後は……何となく表情のバリエーションが増えた気がする程度。

 最初は喜んでいた家族も、期待を落ち着きに替え、協力は続けてくれていた。

 泡のように沸き起こっては弾けていく期待に、疲労感が見え始めていた——


 ——「翔太、今日もリハビリ頑張ろうな」

 いつからか俺は、周りに人がいない時だけは、翔太を下の名前で呼ぶようになった。

 せめて少しでも、回復のための刺激になればと想い——。

「梅野さん、龍口さんお連れしました」

「ありがとう、じゃぁ終わったら連絡するね」

「了解です」

 病棟に戻ると、何故か直ぐにPHSに連絡が入る。

「どうしたんですか?何かあったんですか」

「違うの。気温が高いから、今日は少し涼しい場所でやろうと思って。迎えに来てくれる?」

「えっ?はぁ……」

 時間を延長してでも、ガッツリとリハビリしてほしいのに……そう想い、迎えに行くと、

「早く、早く!」

 手招きで俺を呼ぶ梅野さん。

 やっぱり何かあったんじゃ——でもそれにしては笑顔だ。

「どうかしたん……」

「ほら、龍口さん! この人のこと、知ってる?」

 翔太に向かって、声を掛ける梅野さん。

 なに言ってるんだ? 答えられる訳……

「……ぃ」

 えっ——?

「もう一回、言って! 龍口さん」

「……ぁ……ぃ」

「翔……」

 声が……出てる⁉

「梅野さん、これ……」

「うん、昨日から」

「昨日?」

 信じられないと言う表情の俺に、梅野さんが教えてくれた。

「昨日、少し様子が変だなと思って、胸郭を少し動かしたり、マッサージじゃなくて、リハの時間中、ずっと会話してみたの。そしたら今日——」

「ほ、本当に……?」

 驚く俺。

「ぇ……あ……ぃ」

 翔太が何か言っている——けれど、声量の少なさから、ほとんど聞き取れない。

「何?翔太! 何が言いたいんだよ! もっと……もう一回、言って!」

 

 奇跡は簡単には起こらない。——そんな簡単には。


「翔太! 翔太‼ お願いだから、もう一回——!」

「この人、誰か分かる? 龍口さん」

 必死な俺と、冷静な梅野さん。 端から見れば、おかしな状況だ。

「翔太! 俺だよ、ほら、同じ高校の!」

「……え……あぃ……」

「えあい?」

「……ぇ…………ぃ……」

「何? えあい?」

「龍口さん、もう一回、もう一回、言ってみて」

「……ん……ぁぃ……」

「んあい? えんあい⁉」

「違うよ、鹿村君! 龍口さん、鹿村君のこと、ちゃんと認識して喋っているんだよ」

 認識して? ダメだ、聞き取れない。

「ぇ……んぁ……ぃ」

「えっ……」

 えんあい? れんあい? 違うな。……翔太、お前、俺に何を言い——



 ——『翔太で良いっスよ、先輩』——



「翔太……お前、俺のこと……分かるの?」

「ぇ……んぁ……ぃ」

 まさか――

「そう、正解! この人は龍口さんの先輩」

 梅野さんがそう言うと、翔太は嬉しそうに、本当に嬉しそうに——笑った。

「まだ、舌の動きが悪いから、ちゃんと単語にならないけど、肺活量が増えれば、母音だけじゃなくなると思うから」

「翔太……」

 俺は感動を言葉にして、翔太に伝えようと、必死に掛ける言葉を考えた。

 おめでとう……じゃない、

 良かった……じゃない、

 頑張ったな、翔——


 問・

 問・……

 問・四千七百八十一万六十五


 長い寝たきりから、意識の回復した後輩に、掛ける言葉として正しいものを選べ。


 一、「遅いよ、いつまで待たせるんだよ」

 二、「良かった。……本当に良かった」 

 三、「               」

 四、「ごめんな。あの時、助けられなくて」

 

 ……三、



   お帰り



  ……お帰り、翔太 」


 たどたどしい俺の言葉に、翔太は確かにもう一度、笑った。

『 ただいま 』 ——そう言うように。



             ✿



 翔太の意識がハッキリとし出してから、三ヶ月。

 翔太は、リハビリ専門の病院へと転院していった。

 江ノ島にある、海に近い病院。

 『日差しを浴びて、潮の香り嗅いでるだけでも、幸せなんスけどね』

 そう言っていた、翔太の希望が叶った形だ――

「時間見つけて、面会行くからな」

 見送る俺に、まだ固縮の残る指を動かして、

 『待ってる』

 そう答えてくれた。


「龍口さん、良かったな。 本人の希望だって?」

「はい、随分前向きみたいで。 本当に安心しましたよ」

「そうか。それなら、彼女も救われるかもな」

「……ですね」

 結局、翔太の元彼女の結婚式には、行かなかった。

 代わりに御祝儀と一緒に、招待状を送り返し、欠席の理由と二言、三言の言葉を書いた。


 『結婚、おめでとう!

 当日は、弟の結婚式があって、そちらには残念ながら参加できません。

 なので少ないですが、御祝儀も一緒に同封しておきます。

 これで旦那様と、美味しいものでも食べて下さい。

 あとはこっちに任せて、幸せになれ!』


 ―― 幸せになれ ――


 きっと彼女の旦那さんも読むだろうと、重く感じることのない内容にしたが、それでも精一杯の気持ちを込めて書いた。

 どんな形でも、進もうと決めた彼女に向けて——。


「手紙、喜んでくれると良いな」

「どうですかね、きっと来てほしかっただろうけど、龍口さんが元気になってきたの、俺が黙ってられないと思うんで。 そうすると、また悩ますかなーって」

「そっか。まぁ、答えを出すこと自体、難しいこともあるからな」

 主任はそう言って、俺の選択に異を唱えなかった。

 翔太は自分から、リハビリ病院へ行くことを希望し、

 彼女は自分から、幸せを掴もうと踏み切った。

 俺は……俺はどうだろう——


 生きていれば幾つもの選択を、瞬間瞬間、選ばなければならない。

 生きれば生きる程、何百、何千、何億と。

 全ての問いに、無回答でも

 曖昧なままでも、

 間違った答えだったとしても、

 生きていくことはできる……かも知れない。

 足を止めてしまったあの時に、出せなかった答えは、言葉を変え、場所を変え、形を変え、正しい答えが、分からないまま――選択肢だけを増やしていった。

 けれど無数にある選択肢の中から、選ぶように気付いた答えを言えた時、何となくだけど、これで良いんだと思えた。

 もちろん、未だに後悔も反省もある上に、フラッシュバックはするし、たらればを考えてしまうことの方が多い。

 特にこの仕事に就いていると、その瞬間は何度でも訪れる。

 それでも、少しづつ歩き始めた赤子のように、転ぶ時や、泣きじゃくる日があったとしても、そんな自分を出来る限り見守っていこう、そう思えた——。


「……そろそろ、良いかもな」

「何がですか?」

「何でもねーよ。ほら、カンファの時間だぞ」 

「あっ、本当だ! すいません、行って来ます」

「忘れ物、ねーな」

「はい、大丈夫です」

「本当に大丈夫か?」

「本当に大丈夫ですって」

「そうか。 なら安心だ。これでもう、前に進めるな」

「えっ?」

「一応、確認だよ。 顔つき変わったからな」

「顔つき……」

 真意が分からず戸惑う俺に、主任は笑顔で、

「まっ、大丈夫だろ。今のお前なら。新人担当、よろしくな」

「えっ……だってこの前、お前にはまだ早いって」

「もう皆には、確認してOKはもらってあるからな」

「主任……」

「返事。 やるのか、やらないのか」

「あっ、は、はいっ! やる!……いえ、やります‼」

「分かった。 じゃぁ早く行け」

「はい、ありがとうございます! 行ってきまーす!」


 ――手紙を出したあの時、

 翔太に『お帰り』と言えた時、

 ルーティーンのような毎日の中で、俺はひょっとしたら、知らない間に何かに気付き、一歩を踏み出せていたのかも知れない。 

毎日、葛藤しながら関わった、その何処かで——


 自分でも気付かなかった、確かな一歩を。


 あの時、答えられなかった問い、

 やっと辿り着いた、自分なりの答え、

 幾百、幾千もの自問自答に、その時々の答えを出して、俺を含めた誰もが、ここまで来た。

 迷い、後ろを振り返り、時に泣きながら。

 それでも今日も開ける、そのドアの向こうで、自分の進みたい道を模索しながら、きっとまた、歩いて行くのだろう。 

 

 時々、休みながら——。



 問・(自由記述)

 

 自分自身の成長に気付いた時、あなたはどうしますか?

 次の、無限にある余白に、 自分なりの未来を自由に、

            

                            ———描け。































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