16

「アマリネッタ王女殿下、この度はご招待いただき光栄でございます」


 スクートを部屋に通すと、アマリネッタの侍女は礼をしてすぐに扉を閉める。カインを伴って来たが、もちろん彼がここに入ることは元から出来なかったことなのだが、完全に人払いを済ませられたこの場には、スクートとアマリネッタの2人しか残らない。

 王女の部屋に相応しい広々とした部屋は、スクートに宛てがわれているものよりもずっと豪奢な造りをしている。扉の前で礼をするスクートとアマリネッタには距離があり、それが心の距離を表しているようにすら見える。

 アマリネッタは椅子に座ったまま、嫌悪感を隠すことなく瞳に込めてスクートを見ていた。許しを得られないスクートはずっと礼をしたままになるのだが、一向にその口を開こうとはしない。

 スクートは視線を下げたまま、眉一つ動かさずにじっと待つ。

 不意にアマリネッタはティーカップを手に取ると、それを優雅な所作で口に運ぶ。実際に見ていなくとも、気配や音でその様子は手に取るように解る。

 スクートの下げられた頭に向けられる視線は相変わらず刺すようなものであるのだが、ティーカップを置いた音が静かな部屋に響くと同時にアマリネッタはようやく口を開いた。


「お前の主人を忘れていないかしら」


 鈴の音のように愛らしいものの、凛とした響きを持ったそれは高貴な者の持つ威圧感だ。

 幼い頃より彼女はこの国において誰よりも貴い身分を有しており、自身が従わせる側の人間であることを十二分に理解していた。教育の賜物であることはもちろんだが、何よりも生来の気質が彼女をより気高くさせたのだ。

 しかし、アマリネッタはみだりに人を威圧したりはしない。侮られることは許さないが、基本的には自身に仕える者たちに対して節度を忘れることなく、忠臣には相応の待遇を約束する。

 そうしてアマリネッタは品行方正でお淑やかな王女という評価を受けているわけだが、それはある問題を除けばという文言が付きまとう。

 アマリネッタは頬に手を当て、ほぅっと息を吐く。伏せた瞼が僅かに震え、もう一度開かれた瞳には依然として憎悪の火が灯ったままだ。


「――面を上げなさい」


 スクートはその命令に従い、ゆるやかな仕草で顔を上げた。

 はたしてアマリネッタは、にこやかな表情で問う。


「お前のためにこのあたしが用意したのだから、感想くらいはもちろん聞けるわよね?」


 表情とは裏腹に、まったく笑っていない瞳が細められる。

 アフタヌーンティーに呼び付けたものの、スクートの見える彼女がついているテーブルには、ティーカップがワンセットしかない。さらに椅子も一脚しかなく、彼女はスクートをもてなそうとして呼び出したわけではないことが窺える。

 アマリネッタは現在、“とある事情”により自主的に自室に謹慎している。引き篭っている状態であった。いつもならテラスなどでアフタヌーンティーを楽しんでいるだろうが、自室にスクートを招いたことにより、余計に嫌悪感が増したのだろう。

 瞳の奥に見える怒りが並々ならぬ温度を持って煮えたぎっていた。

 烈火のごとく罵倒するのではなく、静かに煮え滾る感情が言葉に乗せられ、王女としての姿しか見たことがない者であれば、竦み上がるような心地だろう。ストロベリーの瞳の鋭さは、増していくばかりだ。


「“刺激的な味”に驚きましたが、美味しくいただきました」


 どれだけ睨まれてもスクートの表情が崩れることはない。

 アマリネッタはスクートに毒が効かなかったことを憎らしげに眉間に皺を寄せると、足を組み替える。彼女がスクートに嫌がらせで済むようなレベルではないことを仕掛けるのはいつものことで、そして失敗するのもいつものことだ。

 普段のアマリネッタからすればあまりにも稚拙なその嫌がらせの目的は、単純にスクートを排除したいという思いからだった。

 アマリネッタはジルに懸想をしていた。惚れ込んでいるし、執着しているし、愛と語るには純粋過ぎる思いでジルを想っていた。だが、ジルが何よりも心を砕くのはスクートだけであり、アマリネッタがどれだけ彼を虜にしようと奮闘しても、ジルがアマリネッタを視界に入れることは無い。

 もちろん、アマリネッタがジルにとっては子供というよりも、最早赤子のような年の差があることで意識されないのではとも考えた。だが、アマリネッタからしてみれば年の差など関係ない。それを埋められるだけの愛情でジルを想っているのだから、些細な問題に過ぎないと考えていた。

 アマリネッタはジルに関してだけは己の責務すら忘れ傾倒し、何がなんでも手中に収めようとしている。けれど未だにそれが実を結ぶことも、ジルがアマリネッタを見ることは無い。

 全てはスクートの存在が悪いのだと、そう思うようになるのには大して時間は要らなかった。

 ジルはスクートを何よりも大事に扱い、恋人よりも甘く、家族よりも丁重に触れるのだ。アマリネッタの気持ちを知っているというのに、ジルはアマリネッタの見ているところで平然とスクートだけを可愛がる。

 実際のところはアマリネッタが恋心故にそのように、過度な親密度を持って2人が接しているように見えているだけなのだが、ジルもまたわざとそのようにアマリネッタを煽るような真似をしていることを、アマリネッタが知る由もない。

 そうして散々に弄ばれ続けるアマリネッタは、涼しい顔を崩すことのない聖女に歩み寄る。スクートよりも少し背の高い彼女は、必然的に見下ろす形になり、高圧的な態度がより助長される。

 アマリネッタはおもむろに右手を上げると、なんの躊躇もなくその手を振り下ろした。

 乾いた音が室内に響き、衝撃に金糸の髪がふわりと揺れる。スクートの左の頬がほんのりと色付くものの、けれどそれだけだ。

 アマリネッタはじんじんと痛む手のひらを忌々しいとばかりにさすると、視線を逸らすことも、瞬きすらもしない金色の瞳に溜息を吐く。


「“聖女”なんてお前には烏滸がましい。お前は“人形”だと名乗るべきではなくて?」


 スクートの両の頬を掴むと、わざと爪を食い込ませる。痛みに歪むことのない顔が憎らしく、アマリネッタはそう言い放つ。

 無反応なスクートをじっと間近で睨んでいたアマリネッタだが、酷薄な笑みを浮かべたかと思えば振り払うようにその手を離す。スクートは抵抗しなかったが故に体勢を崩し、床に倒れ込んでしまえばスクートの手をヒールが踏み付ける。ぐりぐりと、執拗に押し付けられるヒールが手の甲を抉るように角度を変え、スクートはそれすらも甘んじて受け入れる。


「憎たらしくて憐れな人形ね、スクート。お前を唯一苛むこのあたしが、お前の主人であることを呪うがいいわ」


 振り上げた足がスクートの手を勢い良く踏み付ける。普通の人であったら手の骨は折れているだろうが、スクートがその程度で壊れるようなことはない。

 手から足を退けたアマリネッタは踵を返し、再度椅子に座ると優雅にティーカップを手に取る。冷めた紅茶は不味いものの、未だに腹の底から沸き起こる怒りを鎮めるには丁度良かった。

 スクートはその場に座り込んだまま、アマリネッタを見上げている。やはり感情の乏しい顔にはなんの感慨も浮かんでおらず、ただ受け入れ、命令を待つだけの姿には吐き気すら催す。


「――あたしの生誕祭が、もう間近にまで迫ってきてしまったわ」


 カップを置いたアマリネッタは、そう切り出した。


「あたしはジル様がパートナーでないと、出席はしたくないの。ジル様が隣にいないパーティーなんて、もううんざり。我慢なんて、たくさんしてあげたわ。あたしの婚約者はジル様しか許さないというのに、お父様やみんなは他の有象無象をあてがおうとするのだから、そんなこと、到底許容出来るはずもないわよね?」


 アマリネッタはにこやかに笑んだ。

 花が綻ぶような春の笑顔は、けれどその瞳には未だ静かな怒りが渦巻いている。


「だけど、ジル様があたしのパートナーを申し出てくれれば、あたしはもう閉じ篭もる必要もないのよ。ジル様の言葉に異を唱えられる者なんて、この国にはいないのだものね。だからね、スクート。お前はジル様にあたしのパートナーとなるようにお伝えして欲しいの」


 夢見るように両手を目の前で組み、どこまでも穏やかな口調でお願いをするものの、それは結局命令でしかない。スクートに与えられるのは承知したという返事だけで、断るという選択肢は端から与えられていない。

 けれど、スクートはその命令を受諾しない。


「私には、その命令を聞き入れることは出来ません」


 アマリネッタはまるで時を忘れたように一切の挙動を止めると、次いで鋭い視線でスクートを射抜く。凍てつく瞳に不釣り合いな業火を内包した瞳に睨まれても、スクートが怯むことも、頷くこともない。


「お前に拒否を許してはいないわよ。道具風情が、主人を拒むなんて愚かにもほどがあるわ」


 アマリネッタはカップを手に取るやいなや、それをスクートに向けて投げ付ける。スクートの顔を目掛けて飛んで来たそれは、けれど目前で床に叩き付けられて無惨な形となる。

 怒りが頂点を越え、肩で息をするように荒い吐息でスクートを睨め上げる。


「僭越ながら王女殿下、私は確かに王家に所有される道具ではありますが、その主人は国王陛下となっております」


 淡々と告げるスクートはスっと立ち上がると、背筋を伸ばしてアマリネッタを真っ直ぐに見詰める。


「そして、ジル様が王女殿下の前に跪くことはないと、どうかご理解ください」


「このあたしに、お前が意見を言うと? このあたしに、お前が逆らうと?」


 アマリネッタが笑いを堪え切れないとばかりに吹き出す。

 高らかな笑い声が部屋に響き、冷え切った室内の空気をさらに凍えさせる。だが、この室内にはスクートとアマリネッタの2人しかおらず、最悪なこの空気の元凶しかいなかった。

 一頻り笑い終えたアマリネッタが顔を伏せ、息を整えて顔を上げる。そこには最早笑みも怒りもなく、一切の感情が欠落した顔がある。けれど瞳だけは爛々と輝いており、仄暗い怒りが殊更激しく燃えている。


「お前ごときがジル様と呼ぶなんて、分不相応なのではないかしら」


 凪いだ声音と、細められた瞳がスクートを捉える。

 肩にかかるローズピンクの髪を後ろへ流すと、アマリネッタは人差し指をふいに振るった。その仕草に合わせてソーサーが浮き上がると、空を切る速さでスクートに飛びかかる。

 スクートは首を僅かに傾けるとソーサーは真横を飛び、扉に当たって粉々に割れた。

 外にいるカインが飛び込んで来そうなものだが、相手が王女なだけにカインもまた下手に動くことは出来ない。スクートはカインに多少の申し訳なさを感じてはいたものの、アマリネッタにはなんの感情もない瞳で見つめ返す。


「お前がいるせいよ。お前だけがジル様に手を取られる。お前だけがジル様に見てもらえる。お前さえいなければ、あたしはジル様に手を取ってもらえるはずなのよ」


 アマリネッタの振るう指先に合わせ、ティーポットが宙を舞い、スクートに襲い掛かるがまたも首だけでそれを避ける。


「ジル様の寵愛はあたしに注がれるべきもの。それをどうして道具のお前ごときが享受しているというのかしら。お父様もみんなも、どうしておかしいって思わないのかしら。他でもない、このあたしがそうあるべきだと言っているのに」


 アマリネッタは親指爪を噛み、ぶつぶつと唱えるように何事かを話し続ける。スクートに話し掛けているわけでもなく、自問自答するそれはやがて、アマリネッタが爪を噛みちぎると終わりを迎える。

 晴れやかな面持ちは先程とうって変わり、いっそ不気味な程ににこやかに笑んだ。


「お前、死になさい」


 そう告げるアマリネッタの瞳は純粋な光を放っており、まるでそうすることが当然だろうと言いたげだった。

 しかしもちろんこれを承服することなど到底出来るはずもなく、スクートがそれを口にすれば首を傾げて問う。


「なぜ死ねないと言うのかしら」


 アマリネッタは椅子から立ち上がると、その場でくるりと回る。ふわりと広がるドレスとローズピンクの髪は、上から見れば花のようだ。

 アマリネッタは上機嫌に鼻歌を歌い、軽やかな足取りで室内を舞う。

 過度な怒りが気を触れさせでもしたのだろうかとも考えたが、スクートが下手なことを言って悪化させるわけにはいかない。スクートが口を開かずにいれば、これまでにないほど柔らかな口調でアマリネッタが再度問う。


「“死ねない”ことと“死なない”ことは、同じだと思っているのかしら?」


 優雅に舞うアマリネッタは首だけを擡げるように振り向くと、ストロベリーの瞳でスクートを見詰めた。驚くことに怒りはそこにはなく、疑問だけが込められている。

 スクートは違和感を覚えるものの、それがなんであるのかが理解出来なかった。

 アマリネッタはそんなスクートをくすくすと笑うと、またも一人で舞い始める。ここには伴奏も、パートナーも、ましてや観客もいない。だというのに、踊り続けるアマリネッタは奇怪でしかないというのに、スクートは魅入られたかのように言葉を失っていた。

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