15
スクートが再起動――意識を取り戻したのは、それから丸1日後のことだった。
瞼を押し上げ、目の前にある天井が自室のものであると認識するまでおよそ0.5秒。それでもまだ判然としない頭を身を起こすことで無理矢理覚醒させ、スクートははらりと肩から落ちる金色の髪を見やる。
煌めくそれらは僅かに深緑の魔力の残滓が煌めいており、自身が“調整”をされたことは容易に理解出来た。気を失う以前の様子を思い出そうとし、それを阻むように軽い頭痛がスクートを襲う。
「......やはり、殲滅をするべきだったのでしょうね」
スクートは断片的に戻りつつある記憶にそう呟く。
この事態を招いた原因は、報告内容がジルの求める結果ではなかったことに起因すると、スクートは考えていた。王命を勝手に捻じ曲げ、フレズベルクを森まで送り返したことへの不満だ。
所有者を問う、ジルの普段とは違う声音が耳に付き纏い、スクートは小さく頭を振った。
軽率であったことを認めるが、あの判断もまた正しかったのだ。ラタクの手綱を離さないためには、彼らの反感を必要以上に買うようなことをすべきではないのだから。
スクートの記憶にある限り、ジルの機嫌を損ねたのは自身が王命を正しく遂行出来なかったことにある。報告はフレズベルクに関してのもののみで、大森林に帰したことは記憶にあったが、不審な男との接触は完全に抜け落ちていた。
抜け落ちているというよりも、引き抜かれているのだから当然である。スクートがどれだけ記憶を洗おうとも、そこには最早なにも残っておらず、ジルによって噛み砕かれた後だ。
そんな“何も知らない”スクートはベッドから降りると、身支度を整え始めた。盥に入れてあった水で顔を洗い、簡素な服装に身を包んで祈りへ行く装いになる。
スクートが任務にあたる日以外の身支度は1人で済ませることは慣習となっているため、部屋にはメイドの姿はない。もちろん呼べばすぐ来るようなところにはいるのだが、部屋の中に押し入ってくるようなことはなかった。
支度を整え終えると、見計らったかのようにコンコンとノックが静かな部屋に響いた。
「聖女様、お休みのところ失礼いたします。フィデティス様がお見えでございます」
既に室内で動き回る気配を察しているだろうに、メイドは少し抑え目な声で入室の許可を取る。
スクートは一拍置いてから通すようにと返した。
カインが室内に入り、彼をソファに腰掛けるように促す。自身もまたその向かいに座れば、続いて入って来たメイドたちがお茶の用意を始める。
それらが揃うのを見届けてから、スクートはメイドたちに席を外すように言いつける。彼女たちは聞き分けが良く、承知しましたの一言で室外に待機するのだから、これでは一体どちらが人形か分からない。
やんわりとした湯気の立つカップに落としていた視線を上げたカインと目が合い、スクートはそれで、と口火を切った。
「ご用命を伺いましょう」
彼は少しばかり眉間に皺を寄せ、次いで傍らに携えていた書簡をスクートに差し出した。そこには王の印が捺されており、何かしらの王命が下ったことを指していた。
スクートはそれに目を通す。綴られている内容は正直首を捻りたくなるようなもので、確認をするように顔を上げる。
彼もまたどこか腑に落ちないものがあるのか、苦味を堪えるように頷いた。
「スクート様の行動を制限するなど、なにを考えていらっしゃるのか......。クルムノクス大公閣下のご指示であることは明白ですが、意図が掴めず申し訳ございません」
「謝罪は不要です。ジル様の胸中を推し量ることなど、私を含めて誰にも出来ないこと。王が承諾されたのならば、私は王命に従うまでです」
綴られていたのはスクートの、王都外への禁止令だった。聖女であるスクートが王都外へ出ることを禁じるそれは、すなわちどれだけ深刻な魔物被害が出ようとも国による援助を行わないということだ。
現在この国は緩やかな衰退をしている。
魔物の襲来も頻繁かつ数やその強大な力の前に人々は怯え、さらに土地が痩せる一方で作物も十分に取れないことから飢饉や病も流行っている。そんな状態がここ数十年と歯止めも効かなくなりつつある。
議会ではこれに対抗策として様々な施策が試されてきたものの、ほとんどが焼け石に水程度の効力を持たない。
なんとか魔物だけでも聖女の力によって退けてはいるものの、出向が禁じられれば小さな村々はおろか大きな街にも被害が及びかねない。そうなれば資源や物資の困窮がさらに深刻化し、王都も少なからずの被害を受けることになるだろう。
民心は王から離れるばかりで、王都に住む貴族たちは当事者意識が薄いのか、軽視しがちな問題にカインは歯噛みする。カインとて政治などの国の運営について詳しいわけではない。
だが、自身の足を使って国内の様々な地域を見て回っているのだ。聖女を王都内に閉じ込めれば、嫌な未来がそう遠からず訪れるだろうことは容易に想像出来る。
故にこの王命の意図を汲めない上、ジルの指示であることが明白なのにそれを問えない自身が恨めしいとさえ思うのだ。ラドリオンでしかないと、そう言って心臓を鷲掴みにされ、今度こそ本当に握り潰されかねないと思えばどうしたって躊躇ってしまう。
その悔しさをスクートに言ったところで、彼女は決してカインの思うような行動は取らないだろう。それを知っているからこそ、隠すことなく顔に出していることだけは許されたいと願うだけがカインに出来ることだった。
実際のところ、ジルがどのような思惑を抱いていようと、スクートがそれを知ることは出来ない。仮に正直に訊いたところで、結局適当なことを言ってのらりくらりとかわされるだけなのだ。
スクートは道具であり、下った命令には逆らえない。ただそれだけのことだとカインに言えば、不服そうな面持ちを上げた。
「私が出向くことは出来なくとも、カインたちが出向くことは出来ます。ですから、これまでとなにも変わりはありませんよ」
王都に勤める騎士たちは、地方に在する数多の騎士とは練度が違う。スクートがいるから一見してそうは思えないものの、大概の魔物を相手取るには十二分だ。
ジルの考えがどうであれ、果たしてそんな騎士たちの手に負えないような魔物が出たところで、国が滅ぶようなことはまずないだろう。スクートが出張ることもなく、ましてや国に損害を必要以上に出させることもない。
きっとジルは王命を覆すことなく、ましてや自身が出張ることもなく王都に、王城にいながら対処する。そう、スクートは確信しているから従うまでだ。
とはいえ、カインもまたそう理解しているにも関わらず、駄々を捏ねるような態度を取るのだからいただけない。己の分を弁えない者を何よりも嫌うジルをスクートも知らぬ訳では無い。
たとえわざとしているのだとしても、それならば尚更スクートはその行いを窘める必要があった。護衛騎士であろうと、彼もまた国民の1人。国民は国の宝であり、それを守るのがスクートの与えられた役割なのだから。
「あなたが私を尊重してくださることには、深く感謝いたします。ですが、カイン。あなたの自らの命を蔑ろにするような振る舞いを肯定出来るほど、私は心がないわけではないのですよ」
カインは自嘲めいた笑みを浮かべると、出過ぎた真似をしたと頭を下げる。無性にその頭を撫でてやりたくなるが、今は間にテーブルを挟んでいる。
行き場をなくした手はカップに向けられ、スクートはほんのりとまだ湯気の残るそれに口をつける。途端にピリッとした痛みが舌先に走り、けれどそれを表情に出すことなくソーサーに戻す。
恐らく仕掛けられているのはスクートだけであり、カインが同じ痛みを感じることは無い。しかし、スクートは彼からカップを取り上げる。まだ口をつけていなかったそれを目で追うカインは、早々に気付いたのだろう。険しい顔付きで口を開く。
「懲りないお方だ......」
「決めつけはなりませんよ。私を憎く思う人は決して、少なくはないのですから」
スクートは立ち上がると、窓辺に飾ってある観葉植物の土にそれを流し捨てる。植物にとっては毒ではないとは言い切れないが、人が口にするよりはマシだろう。
空になったカップを睨むように見ているカインを窘めながらも、このようにあからさまなことを仕出かす人物が頭に浮かんでいた。スクートを本心では心良く思っていないとしても、普通ここまで開けっぴろげにすることはない。
スクートを恐れることはなくとも、スクートの背後にいるジルを恐れているからだ。ジルが果たしてそこまで聖女に対して何かしらの感慨を抱いているのかと言われれば、もちろん持ち合わせいるはずがないと断言出来るのはスクートだけだ。
彼の持つ境界にスクートもまた踏み入ることを許されてはいないし、むしろ誰よりもそれを超えてはならないと強要されているのがスクートだ。
とはいえ、そんなことをただの人間如きが、長らく王国に根を張るジルのことをそんなふうに見られるはずもない。
ジルは人ではないのだから、人の心を解らない。故に人もまた、ジルを知れることなどないのだ。
であればこそ、なにが逆鱗に触れるか分からない以上、行動は慎みを持ってスクートを表面上だけでも恭しく接するものだ。ある程度の妨害等は許容範囲だと、これまでの経験で知り得ているが、毒を盛るなどの直接的な行動に彼らは出られない。
そんなことを仕出かすのはこの国でただ一人しかいない。
「アマリネッタ王女殿下より、本日のアフタヌーンティーに参じるようにと招待状が届いております」
あまりにもタイミングが悪いからか、カインもそのことを後悔しているようだった。彼が書簡とは別に封筒を持って来ていることは分かってはいたが、スクートはカインのやるせなさを思えば敬意を表して苦笑をした。
彼女のそれは感情が乗せられていないことを知っていながらも、カインは自身の情けなさが浮き立つようで羞恥を覚えたが、ひとつ咳払いをして誤魔化した。
席に戻ったスクートは封を開けるとその中身に目を走らせるが、かといって返事を書くことは無い。参加すること以外スクートには許されていないからだ。
招待状とは名ばかりの、召喚状に等しいそれ。
スクートは王に仕えるが、王族を無碍に出来るわけではない。ある程度の度が過ぎたことは拒否権を持つが、基本的に王族も自身の主として見る傾向にあった。
生誕祭が近付いている中、王女には未だパートナーが決まっていないことはスクートも聞き及んでいる。本来婚約者が務めるはずのその役は、彼女が婚約者を立てていないことに起因する。
ひとえにそれは、王女がジルに対して並々ならぬ恋慕を抱いていることは周知の事実であり、そのためにスクートは目の敵にされている。スクートを排除すればジルが自身を見てくれる、そう考えるのはあまりにも安直過ぎて笑いの種にもなっていない。
王がこのことに気を揉むのは下手なことをしてジルを怒らせないかと、さぞかし心臓の縮む思いであろうと考える。ましてや大事な娘がそんなジルに入れ込んでいるのだから、報われない親心の口惜しさをスクートは向けられる瞳の揺らぎで感じ取っていた。
スクートはまだ祈りを捧げていないものの、今日は出来そうもないことを早々に悟ると窓へと視線を向ける。丁度太陽がいちばん高く登った頃合だろうかと、何の気なしに向けた先には突き抜ける空が見える。
「カイン、お茶会中頃合を見てジル様をお連れしていただけますか?」
スクートは金の髪をはらりと肩に垂らして振り向いた。
「ええ、必ずやお連れいたしましょう」
護衛騎士はいつでも忠実であるのだから、スクートは心の底からの感謝を口にした。
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