「自分、金持ちですから」

きの

1章

第0話 もはや自重しない

明かりの少ない路地を歩く一人の男がいる。



男が歩いてきた後方には燦々と明かりの焚かれたきらびやかな建物が。


石造りのその建物に施された白亜の装飾は松明の明かりを縦横に反射し、ここからではまるでそれ自体が一つのシャンデリアと見紛うばかりにきらびやかに見える。



貴族たちの社交場、無地宮パレス・プレインは今日も着飾った大勢の男女で賑わっていた。



「無地の宮殿とはよく言ったものだな……いっそ無地のままならいくらか落ち着くというものだが」



その宮殿を去りゆく男は歩みを止めず、皮肉のように独りごちる。

彼にはそこを飾る花たちは少々けばけばしく感じるらしい。



この社交場は暗に貴族街と平民街の境界を象徴する門として知られている。

訪れる者の多くは貴族だが、中には富裕層――例えば巨万の富を持つ大商人なんかも少なからずいた。中間地点に建てられているのはそういう事情からだ。


そして彼もそんな富裕層の一人というわけだ。


だがもちろん貴族の仲間入りを果たしているというわけではない。


もしも貴族にプライドというものがなければ、その多くは口を揃えて「傾いた家の財政を助けてくれる金持ちとの繋がりが欲しい」とその情けない実情を口にするだろうが、生憎とプライドに手足口が生えている彼らの言い分は、「平民にも参加の機会を与えてやっている」というものだ。


彼からしてみればその辺りの建前はどうでもいいことだが、いずれにせよ貴族にあまり好感は持っていないというのも致し方ないことではある。


付き合いから顔だけ出しにきて、パーティはこれからという時間にはすでに場を後にして平民街を自宅へと去るこの男、ゼガロン・ロブリッチ・ゴルドゴールはこの国切っての大金持ちの一人である。


その気があれば王国の半分の土地を一夜にして買えるとも言われるゴルドゴール家のその資産は、貴族たちでさえ遠く及ばず、羨望と、そして畏怖の象徴に他ならない。



その一翼を担う豪商ゼガロンともなればさぞや浮き世離れした豪奢な生活を送っているだろうという世間のイメージとはうらはらに、しかし彼はこうして平民街を歩くのが嫌いではなかった。


きらびやかな社交界よりも、明かりの落ちた平民外のほうがよほど落ち着くとさえ思っている。



「ここには生活の、そして知恵の匂いがする」



飢える者は生きるために新しいものを生み出し、どうすれば明日を生きられるかを考え常に思考を巡らせている。


それに比べ、そんな彼らの作った服で着飾り、育てた食物で豪勢な食事をとり、あまつさえそれらをあたかも自分の権能であるかのように振る舞う特権階級のなんと愚鈍かなことか。

彼らがエサと物資を与えられる家畜の生をおくっているのが実際にはどちらなのか気づくことは永遠にないであろう。


自身の高尚さを常々口で語る彼らだが、その内容の多くは継承した領土の広さや血筋にすぎず、自身では何も生み出してはいない。自分が所持しているものを自身の権能であると錯覚し、それに溺れて無為な時間を過ごすことに疑いすら抱かなくなった家畜に進歩など望むべくもない。


つまり彼にとって多くの貴族たちは文字通り金を出す革袋でしかないわけだ。


先程までの口先に美辞麗句を並べた腹のさぐりあいにほとほと荒んだ心を落ち着けるように冷たい夜風を受けながら彼は静かな街で歩を進めた。


この一時のために彼はいつもパレスの周辺ではなく、自らが経営する最寄りの店の前に馬車を止めるようにしている。



使用人たちは危険だと言うが、その富裕層とは思えぬ屈強な体は並の夜盗がどうこうできるものではないだろう。



やがて大通りが交わる交差点が見えてきた。

そこをすぎれば彼の経営する宝石商、そしてその前には二頭立ての馬車が吊るされたカンテラの明かりに浮かび上がっている。


と、馬車が見えてわずかに気を抜いた瞬間だった。


まさか狙っていたか――、暗い脇道から人影が躍り出る。


ゼガロンがその正体を見極めるより早く、影はすでに短刀の間合いにまで迫っている。


躱すにはあまりにも距離が短すぎた。

反応が遅れたゼガロンは、とっさに左腕を前に構え、わずかに腰を落とす。


この体制を取れば相手の武器が何であれ、最悪でも犠牲は左手だけで済ますことができる。



対して地面に擦るほど裾の長い薄汚れたボロをまとった人影は、すでに構えを取った彼の対応力にもその巨躯にも怯むことなく体ごと突っ込むように更に距離を詰める。



――まずい、捨て身か!



一瞬の判断。



捨て身の攻撃は一般的な攻撃と同じ受け方をしてはいけない。


普通では考えられない保身を無視した攻撃は対処が圧倒的に難しく、本来ならすぐさま距離を取るべきだが、すでに間に合わない。



物盗りか、刺客か。



ゼガロンは構えていた左手を伸ばし、そして相手の体を――、そっと受け止めた。




突き飛ばそうと伸ばした腕に触れたあまりの軽さに、とっさに受け止めたその身をゼガロンはそっと抱き寄せて目を落とす。


「旦那さま……お花を買ってはいただけませんか?」

「……娼婦、だったのか」


ボロの下には扇情的な薄いドレスが一枚。

しかしそれを纏う体は筋張って、もう何日もまともに食べていないようだ。


彼女は攻撃のために距離を詰めた刺客ではなく、空腹のために足元のおぼつかない痩せた娼婦にすぎなかった。


「それより、この時期にそのような格好では凍えてしまいます。こちらを」


そう言ってゼガロンは自らの厚手のマントで彼女をくるむ。


「そ、そんな!旦那さま、お召し物が汚れてしまいます!」

「ははは、それはいけない。商売道具が汚れているなどと、商人としては聞き捨てなりませんね」


そこでようやく、カンテラに照らされた彼の顔を見た彼女は自分が声をかけた相手がどのような人物かを初めて認識したようだった。


度々に公の催事にも出席を求められる豪商にして、赤毛の魔熊を人の大きさに圧縮したようなこの馬鹿げた体躯である。人相だけならばスラムの子供でも記憶しているだろう。



「なんということ……!私、どうかしておりました……もう何日も食べておらず……、どうか、どうかお許しください」



怯える女に巨躯の男は優しく笑いかける。



「お気になさらず。自分、蓄えはあるほうですから」



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