推しの先生が尊い件について

キノ猫

第1話 推し!!

 ブラック企業勤めの私は、日付が回った3時に家に着いた。式地希美、と書かれた名札を鞄の方に投げて、ベッドに倒れ込む。疲れ果てているのか、瞼が重たくなるのに時間がかからなかった。

(後2時間も眠れる……)

 睡眠時間が2時間なんて、昔だと信じられなかったなぁ、なんて思いながら泥のように眠った。


 放送のチャイムで目が覚めた。頬にへばりついていたプリントがべりりと音を立てて落ちる。

(やば、会議中に寝こけてた!?)

 罵声が飛んでくると思い、恐る恐るあたりを見渡してみたが、私を責める人はいない。むしろ和やかな雰囲気さえ感じる。

 懐かしい制服の人たちが机を囲んで談笑している。

 ぼんやりと視線を前に戻すと、黒板を消してる。黒板消しから出るチョークの粉が粉雪みたい。

 覚醒していない頭で、周りの声に耳を澄ましてみる。

「今年の梅雨、もう終わるらしいよ」

「まじ? 最近暑いとおもってたんよね」

「てか次、生物やから移動教室やん、準備しよ」

 生物なんて、高校の時に聞いた以来だった。

 寝る前の記憶を手繰り寄せる。

 2時間も寝れたら上等だと思って目を瞑ったっけ。

 ああ、これは夢の中か、と納得した。

 そうか、ならなんでもしていっか、とも思った。

 とりあえず、よだれでシミになっていたプリントで紙飛行機を作った。


 どうやら次は移動教室らしい。手帳に時間割が書かれていた。

 どこに行けばいいのかわからない私はとりあえず、廊下に出てみた。ひらひらとプリーツスカートが揺れる。

 生物、移動教室、便覧、とだけ書かれていた手帳だけが頼りだ。

「いやわかんないって、移動教室の場所書きなよ」

 変なところで端折るのは私の昔からの悪い癖だ。

「妙にリアルな夢だなぁ、そこはご都合主義で教室に飛ばん? 夢なんだからさ」

 悪態を吐きながらグラウンドに目をやった時だった。

 ビリビリっと電撃が走った。

 褐色肌に顎髭、頼もしい体躯が上下違うジャージに包まれている。

 日に焼けているはずなのに黒い髪の毛、細い目元と柔らかな口元が印象的だ。

 的場浩司と高橋克典を足して割った感じで私好みの顔の先生。

 明らかに胸が高鳴るのを感じる。

 思い出した。

 高校時代の、推し。


 気付いたら階段を駆け降りていた。体がどこに行けばいいのか誘導してるみたいだった。

 移動教室を覚えてくれててもよかったのに、なんて思いながらも必死に足を動かした。

「先生!」

 体操服の集団に向かっていた先生を呼び止める。

 そして、思い出した。

(うっわ、私、この先生と面識ないんだったー)

 案の定訝しげな顔をした先生がこちらに向かってくる。

 先生は別学年担当なのだ。

(待って、私が近距離で見上げる形になるの? 推しを? えっちすぎん? 下手な官能小説より興奮するって、無理無理無理)

「どうした?」

『吹谷雅弘』と書かれた名札が目に入った。

「へぇ、先生って、まさひろって名前なんだぁ」

「そうだけど、まさかそのためだけに、校舎用のスリッパでここに来たんじゃないだろうな」

「あっ」

 グラウンドに出るときは靴を履かないといけなかったんだったっけ。

(いやそんなちっちゃいこと覚えてないって……)

 私はしどろもどろになりながら、「だって、先生とおしゃべりしたかったから……」と答えた。

「バッジ赤色ってことは3年か。気をつけんとあかんで」

「はぃ……」

 項垂れたとき、教科書からプリントがバサバサと落ちた。

 惨めで恥ずかしい気持ちになりながら、しゃがみ込んでプリントを集める。

 集め終わった私に、先生は残りのプリントを差し出した。

「はいどうぞ、式地さん」

 推しの声で私の名前を呼ばれる。

「っ!」

 感情が爆発しかけて固まっていると、チャイムが鳴ってしまった。

「ほら、授業始まるで、早く戻りや」

「せっ先生! あ、ありがとうございました!」

 走って行ってしまう先生の背中に叫んで、私も駆け足で校舎に向かった。

 やっぱり移動教室の場所は分からなかった。


 その日の移動教室は生物だけだったらしく、全ていつもの教室で済んだ。

 よくつるんでた友達、エリカに「希美、机ココだよ」と教えてもらえたおかげだ。

 ホームルームで、近々定期考査があることを聞いたから、とりあえず『定期考査』とメモしておいた。

 帰りの挨拶もそこそこに、皆バラバラと帰っていく。

 私は今日の出来事を忘れたくなくて、事細かに手帳に記していく。

『推しと少し喋った』、『推しのガチ恋距離無理すぎ』、『お礼言えた』、『名前、呼んでもらった』……。

 書いたはいいものの、誰かにこの熱い想いを伝えたくて、足早に家に向かった。


 家に着いたら、パソコンを起動した。

 パソコンのそばに貼ってあった付箋のパスワードを入れる。適当にいじっていると、お気に入りに掲示板のサイトがあった。

 うわあ、やってたやってた。

 懐かしいなぁと思いながら、ログインした。

『今日、推しと喋ったんだけど!!!幸せすぎる!!!』

 感情のまま投稿すると、すぐにレスがついた。小説を書いているネットの友人だ。

『推しってなんだってググったわ、モー娘板用語か。え、誰と喋った?』

 そっか、当時、推しって言葉は無かったのか。

『学校の先生、顔が好みすぎて死ぬんだけど、今日は私の存在を知ってもらった』

『モー娘じゃなくて先生かよ、まあでも良かったじゃん』

 私はニヤニヤしながら今日の出来事を満足するまで掲示板に書いた。

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