第34話 この世界に御仏を
俺は大広間へこもった。
「もう再開してよろしいんですか?」と心配そうなラベンダーには「大丈夫」とだけ伝えた。
木材と道具を並べると静かに目を閉じる。
経を唱え、御衣木(みそぎ)加持を行う。
これは仏像を彫る前に行う。穢れを払い、仏像の霊性を高めるための儀式だ。
次に俺はラベンダーからもらった香水を手にする。
これは人によっても違うが、俺は塗香(ずこう)と呼ばれるお清めの香を手のひらに広げ、手を清めていた。
が、当然この世界に塗香などはなく、そのまま開始してもよかったのだが、やはり何か物足りないような気がしてラベンダーに借りたのだった。
これは数少ない彼女の持ち物だった。
幽閉が決まった日、絶対に必要である衣類、そして僅かな金と日持ちしそうな食料などを持ち込んだ。持っていける荷物は僅かであった。
でも、彼女はその中に香水を持ち込んだ。
誰にも会わない、幽閉された世界に向かうとあっても女である事を忘れないような彼女が意地らしかった。
男の俺には到底思い付かない。
夜の戦場でどこからか聞こえる平家の敦盛が鳴らした笛を聞いた熊谷次郎直実が「戦に笛を持ってくるなど公家の方々は雅なものだ」と感心したとあった。
その感情にとても似ていた。
塗香の代わりにラベンダーの香水を手につける。
ふわりといい香りがした。ハーブのラベンダーの匂いだ。
塗香をつけるのは清めの意味だけでなかった。
製作中に迷いが生じることがあった。
不安が押し寄せることがあった。
本当にこれで良いのか。仏の慈悲、そしてその魂を表現できているだろうか。
その眼差しは人を救うことができるだろうか。
その時、突如ふわりと優しい香が香るのだった。
迷うな。今を見つめろ。ひたすらに今に集中せよーーー。
まるで仏様が俺に語りかけているかのように。
だから俺はいつも塗香をつけていた。
と、言いつつも。
ブロンド美女がラベンダーの香りを纏わせながら、仏像を彫っているのはいささか絵面がおかしい気をしないでもないが・・・。
まあ見た目はどうでも良い。
いくら見た目を着飾ろうとも中身がなかれば、容易く見抜かれる。
グナシから聞いたあの病気の子供のために俺は仏像を彫ろうと思っている。
子供名前はアルベルト・クリオン。年はまだ10だと聞いている。
父であるサワートさんの話ではもう長くはない。
何かできることはあるだろうか、金もなんの権限もないこの俺にアルベルトを救う方法はないかと考えた時に、不意に仏様の顔が浮かんだのだ。
薬師如来様のお姿がーーーー。
そうか、仏様だ。
仏様のお力をお借りしよう。
もちろんこの世界の人に仏像を彫っても喜ばれないかもしれない。
だけれども仏師である俺にできることといえば、仏を彫りそして人の心を救うことだけだった。
どうか、薬師如来様。
幼き子アルベルトの病を治し、彼の苦しみを救ってください。
静かに願うと、俺は鑿を握る。
彫る、彫る、ひたすらに彫る。
脇目の振らずに彫る。
仏様の魂を宿すように、人のこころの苦しみを救うように。
ただ彫り続けた。
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