第二章 私には大事なミッションがあります! なので至急帰宅希望です。

第7話 気がつくと、大好きな乙女ゲームの世界でした。

「イレーネお嬢様! イレーネお嬢様、大丈夫ですか?」


 まだ子供らしさを残してはいるが男性だと分かる声がして、凜は意識を取り戻す。それと同時に、歩道橋の階段から落ちそうになったことを思い出した。


 ――良かった! 私、命は助かったみたいね。


 凜は、ゆっくりと重いまぶたを持ち上げる。

 すると、青ざめつつもホッとした様子の少年の姿が、凜の目に飛び込んできた。


「イレーネお嬢様、良かった、目が覚めたのですね!」


 目の前の少年が凜を見つめ、涙声で言う。


 ――イレーネ? それって、誰?


 混乱した凜は、朦朧もうろうとしながらも眉を寄せた。

 そんな凜の表情が、苦し気に見えたらしい。目の前の少年が、心配そうに「イレーネお嬢様。まだ、お加減が良くありませんか?」と、凜の顔を覗き込んだ。


 ――私は、そんな洋風な名前じゃない。私の名前は、凜よ!


 そう主張したかったが、何故か喉がカラカラで、すぐに声が出せない。仕方なく、せき込んでみたりなど口内の状態を整えながら、凜は周りの様子をうかがった。そして、自分が居る部屋が予想とはかなり違うことに、凜は絶句する。


 繊細な彫刻が施された白亜の柱。印刷ではない金の刺繍が目を引く遮光性の高い厚手のカーテン。家具も、豪華な上に可愛らしい。テーブルの上に置かれた水差しなどは、マイセンだろうか。真っ白で豪奢な形状の陶磁器で、極彩色の花の絵が華やかで美しかった。


 ――ここは……結婚式場かな?


 目の前の景色は、先日参加した友人の結婚式の会場を思い出させる。だが、凜は『違う!』と心の中で首を振った。そして、目の前の少年の出で立ちを見る。

 上質で真っ白な衣装。少年の着ている服は、清廉な印象を与えるスマートなデザインではあるが、フォーマルなスーツとは全く違った。聖職者に見えなくもないが、こんな衣装を着る宗教が、凜には思い当たらない。ただ、この服装にはどことなく覚えがあった。


 ――もしかして……此処って、コスプレの撮影会場?


 そう考えた瞬間だった。

 頭の中でシナプスが繋がる感覚を、凜は味わう。そして、少年を指さすと、凜は思ったままを口に仕掛けた。


「その服装って、ハル……」


 ――……のコスプレッ!


 心の中で思ったことを、凜が言おうとした時だ。感極まった様子の少年に両手を掴まれ、凜は驚いて言葉を飲み込んだ。


「そうですよ! ご無事で良かった!」


 少年。ハルが、心底ホッとしたと言いたげな表情で、そう言う。それから、彼は訊いてもいないのに『イレーネという他人の身に起こった出来事』を、さも『凛の身に起こった出来事』のように話してくれた。

 ハルの話というのは、要約すると次のようなものだ。


 今の凜は、イレーネという貴族の令嬢で、女学校に通っている。

 そんなイレーネは、女学校で急な高熱を出し、学生寮で寝込んでしまった。高い熱が数日続き、最終的に実家の屋敷で静養することになった。そして、実家に帰ってからも、しばらく意識不明の状態が続いた。それが、ようやく今、熱が下がり、意識を取り戻した。

 そう言う事らしい。

 ハルの口から語られる現在にいた経緯けいいに耳を傾けていた凜は、実のところ、ほとんど上の空だった。

 本来なら訳が分からない今の状況について、しっかりと情報収集し、把握すべきだろう。そうであるのだが、目の前の少年の『ハル』という名と服装、それに自身に対して呼びかけられた『イレーネ』という名の間に関連性を見い出してしまい、思わず、そちらばかりに思考が偏ってしまうのだ。


 ――この男の子がハルで、私がイレーネ……それって……


 話し続けるハルを、凜は繁々しげしげと見た。

 凜に見つめられたハルは「イレーネお嬢様?」と、不思議そうに小首を傾げる。


 ――もしかして、ここは乙女ゲーム『シンシア』の世界ってこと?


 あり得ないと思いつつも、そんな考えが頭を過る。


 ――もしそうなら……ハルが傍にいて『イレーネお嬢様』なんて呼ばれるのは、あの乙女ゲーの悪役令嬢しかいないじゃん! それって、転生したら悪役令嬢だったみたいなラノベっぽい状況に、私自身が陥ってるってこと?


 凜は思わず「マジかよ……ヤバいな……」と、上品さのかけらもない素の呟きを口にした。そして、公式イベントに参加してしまうほど大好きな乙女ゲームの世界に来れたかもしれないという事実に、少なからず高揚した気分になる。


 だが、その高揚感も長くはもたなかった。

 凜は、すぐにこの状況に大問題があることに気が付いたのだ。それは、この状況がまやかしでなければ、かなりの確率であり得る事柄だった。


 ――もしかして……私、死んじゃったの?


 そう考えた凜の脳裏に、歩道橋で乙女ゲームのシナリオライターの男性を助けようとした際の光景が過る。


 ――いや、いや、いや。あんな事で簡単に死ぬなんて……二時間ドラマじゃあるまいし……


 弱弱しく苦笑いし、凜は小さく首を振った。

 すると、凜を見るハルが「大丈夫ですか?」と、心配そうに表情を曇らせる。


 ――これは、きっと夢だ。乙女ゲーをプレイしすぎたせいで、夢の中でまで乙女ゲーをやってるんだ。そうに違いないッ!


 そう結論付けた凜は、心配そうに彼女を見つめ続けているハルに、ニッコリと笑顔を向けた。そして、穏やかな口調で「ゴメンナサイ。熱があったせいで、ボンヤリしてたみたい」と、彼女に出来る最上級に丁寧な態度で、この場を取りつくろう。

 そして、今の状況に対して、次のように対処しようと結論付ける。


 ――これは夢! そのうち目が覚めるでしょッ! 折角だし、悪役令嬢ごっこでもして遊んで、夢が覚めるのを待つとしよう!


 このような軽い決断を、凜は下したのだった。

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