哀そそぐ
はる
大正編
第1話 出会い
肇は庭に鶏を飼っていた。夜市でお手伝いの小幡さんにひよこをねだった末に大きくなったものである。肇はそれらに餌をやるのを日課にしていた。特有の仕草で大麦をつつく鶏をしゃがんで眺めながら、肇は樹に会えるのを心待ちにしていた。もうすぐ来るはずだ。そう思った側から、きぃと木戸が開く音がした。肇はそちらを見、微笑んだ。
「いらっしゃい、樹」
少年の日というものは、ぽっかりと空白が浮かんでいるようなものだ。そこにどんな色を加えるかは、それぞれの裁量による。肇はどちらかというと、部屋遊びに詳しい性分だった。あまり体力がある訳でもなかったため、自然とそうなった。読書と木工細工、そして縫い物をよくやった。最後のは、近所の子どもにバレてひどくからかわれたっけ。樹と出会うまでは、同世代の子どもは粗野なのしかいないと思っていた。そんなことを考えながら、肇は、彼の作った木製の駒を眺めいる樹の横顔を見つめていた。
樹と出会ったのは、三年前だ。物音がして裏戸口を見ると、一人の上品な顔立ちをした少年がこちらを惚けたように見ていた。「どうしたの?」と声をかければ、少年は我に返り、気恥ずかしくなったのか少し頬を染めながら、「……ごめんなさい、あまりに絵になったから」といいながら、その場を通り過ぎようとしたから、肇は慌てて彼を呼び止めた。「おいで、いいものを見せてあげる」と。樹は躊躇いがちに入ってきて、丁寧に木戸を閉め直した。
「……いいのかい? 家の人に叱られない?」
「大丈夫だよ。ここは離れだから」
「君はここに住んでるの?」
「そう。母屋にはいられない事情があるから」
「……そうなんだ」
樹は不思議そうな顔をしながら、それ以上は訊いてこなかった。肇は、この少年を好もしく思った。良家に生まれながら、両親からの愛情に恵まれなかった自分と比べ、同年代の子どもたちに仄暗い嫉妬の感情を抱いてしまうこともあった肇だったが、彼にはそれを感じなかった。愛されているがゆえの無邪気さというより、自発的な配慮の心意気を纏っていたからかもしれない。
「……名前はなんていうの」
「柏木樹、といいます。君は?」
「いい名前だね。僕は肇。早田肇っていうんだ」
樹は嬉しげに目を細めて微笑んだ。
「素敵な名前だね」
ありがとう、と肇も微笑み返した。名前を褒められたのは初めてだった。彼にそう言われるまで、自分の名前の良し悪しなど、考えたことがなかったため、こそばゆい感情が体の内をゆるりと昇っていった。
二人は縁側に腰をかけた。樹が、障子の脇においてあった、木工細工の犬に気づき、肇に話しかけた。
「これは君が作ったの?」
「そうだよ。なんでそう分かったんだい?」
「だって、なんとなく君に似ている気がしたから」
樹はどう説明していいか難しい、というように語尾を弱めた。
「……へぇ、考えたこともなかった。これを削っているときはね、大抵空想の他所の家のことを考えていたんだ。そこで飼われている犬を思って作ったんだよ。……それと関係あるのかな」
樹は迷うように視線を彷徨わせていたが、思いきったように肇に尋ねた。
「君は、ご両親に何かされているの」
肇は正直驚いた。こんなに正面を切って訊いてくる人はいない。大抵、なんとなく察した者は深入りをせず、お茶を濁して去っていくというのに。泣きそうになって堪えた。ここで泣くのは違う。なんていったって、彼とは初対面なのだから。それに、
「何かされているわけじゃない。……母が病気でね。同じ家屋に住めないというだけだよ。大層な問題がある訳じゃない」
「……そうなんだね」
樹は俯いた。
「……僕には両親がいないから」
肇ははっとした。つい自分の立場を守るために、強がってしまった。それがきっと彼の柔らかな部分を攻撃してしまったのだ。
「……ごめんよ。強がっちゃって。……本当はね、父も失踪してしまったし、母も正気ではないんだ。だから、僕を育てているのは、お手伝いさんなんだよ。その人にはすごく感謝しているけれど、本当は少し寂しい。体も弱いし、あまり外に出られなくて友達もいないしね」
肇はこんなにするすると初対面の樹に言葉を紡ぐのを、自分でも不思議がっていた。何故、彼にはこんなにも早く心を開いているのだろう。戸惑いながら樹を見つめると、樹は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「……どうしたの?」
「だって。……君が痛そうな顔をしていたから」
「……本当に? 気がつかなかった……」
「……その犬ね。本当に綺麗な顔をしていると思ったんだ。凛としていて、どこか孤高の雰囲気を纏っていて。そして、優しげな気品があって。……でもその裡には、孤独があるのかもしれないって思うと」
樹は少年らしい愛情に満ちた瞳で肇の心を射抜いた。
「少しでも和らいでくれたらいいなって……そう思うよ」
肇は、初めて与えられた無償の愛に言葉を接げなくなっていたが、やっと応えた。
「……それは今、叶ったよ」
照れで胸がきゅうと収縮する。
「君は、優しい人だね」
樹は意外そうに目を瞬かせた。
「……そんなの、初めて言われたよ」
恥ずかしげに両手を足の間に入れる。
「……僕は母方の親戚の人に育てられているんだ。父が船の事故で亡くなって、母は病死したんだ。……今でも、数少ない二人の思い出を思い出したりするよ。もう会えないって分かっているけれど、心の中にいるから、頑張れることもあるよ」
ああ。やはりこの人は愛を自ら生み出しているのだ。死によって途切れたけれど、彼と両親の間に流れていた温かいものは、今も生き続けている。それに比べて、僕は生きている両親のことも愛せていない。
突然、大降りの雨が地面を叩いた。強い雨の匂いが鼻孔を突く。肇は、女中の足音を聴いた。
「樹、ごめんだけど、今から帰れるかい」
「え、あ、うん……?」
「傘はこちらで用意をするよ。もしこの天候で僕が風邪をひいたら、最悪君のせいにされかねない。お手伝いの小幡さんはけっこう気が棘々してるんだよ」
「あはは、そうなんだ。大丈夫。走って帰るよ」
「足元に気をつけてね」
蝙蝠傘を渡し、小走りに木戸を通り、帰っていく樹の背中を見守りながら、肇はすんでのところで何をするでもない、という無為な姿勢を恣意的に作って女中を迎えた。
「誰かとお話されてました?」
肇はにっこりと笑った。
「それは雨の音ではないですか、小幡さん」
首を傾げながら、それでも雨戸を閉めるのを手伝ってくれ、そそくさと帰っていく女中を見送り、肇は木製の犬を玩びながら、樹との会話の一つひとつをゆっくりと反芻した。純に煌めく瞳。優しげな所在。明るい笑い声。初めて心を開ける相手になるのかもしれない。肇の胸に、期待と喜びと緊張が押し寄せた。
大正後期の田舎町に、新しい季節が始まろうとしていた。
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