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 確かに、あっという間の出来事ではあった。

 スプーンの頭が柄の部分からずるりともげ落ち、白いテーブルクロスの上に音を立てて落ちた。

「…………」

 強引にひん曲げたり、無理矢理捩じ切ってみせたのなら、壱八もこれほど驚きはしなかっただろう。しかも、青年がスプーンの首に触れたのは、ほんの僅かな時間でしかなかった。

 どうして、こんなに呆気なく。

 胴体から切断され、なおも黄金色に輝くスプーンの頭をテーブルから拾い上げた大賀飛駆は、柄の部分と併せて朱良に手渡した。勝ち持った表情をしてもよいくらいなのに、青年の面持ちは何故か暗く沈んだままだった。

 スプーンの折れた箇所は、まさに切断されたというに相応しい綺麗な断面を、外気と衆人の視線に晒していた。手で捩じ切ってこうも美しい切断面になるとは、物理的に、常識的に考えづらい。俄かにも、かつ長い目で見ても信じがたいことだった。

 違うのか。壱八の当感は、そう簡単には収まりそうになかった。この世界は、常識という名の知と非常識という名の無知とで構成された、最終的には合理的である、スマートな世界だと思っていたが。

 そうではなかったのか。

「僕には、妹がいました」

 青年は呻くように語り始めた。地盤が没するに等しい衝撃を受けた壱八に、トリックの可能性に思い及ぶ間すら与えることなく。

「僕のこの力は、妹が僕に与えてくれたものだと、今でもそう信じています。だから僕は、常に自分の力を証明し続けなければならない。妹のために」

 青年の話が、具体的にどういう内容なのかは判りかねたが、直接問い質すのも憚られた。妹がいました。過去形。彼にとって楽しい話題でないことは察しがついた。

「ですから、空のことを、トリックだとか何だとか、詮索するのもやめてくれませんか。空の異能も、本物です。僕が保証します。これ以上、空を〈ガダラ・マダラ〉の事件に巻き込まないでください」

 異能力の真偽云々はともかく、ここは素直に退散するしかないだろう。沈痛な顔で視線を落とす二人の異能者と、限りなく憎悪に近い非難の眼でこちらを睨みつけるプロデューサーを前に、壱八は状況の回復する見込みが完全に消え失せたことを実感した。


「ねえ朱良ちゃん」

 店を出て数歩も歩かぬうちに、早速将門が不平の声を飛ばした。

「最後のあれ、何ですか。こっちの質問が終わってたから良かったようなものの。わちきを差し置いてあんな差し出口を挟むのは、ちょっぴりいただけないですね」

 そんな小言も耳に入らぬ様子で、朱良は考え深げに壱八の前を歩いている。普段からは想像もつかない雌伏の装いが、前を行く背中に見て取れた。

 しかしながら、眼の前で披露された大賀飛駆の異能に、さほど打ちひしがれた様子でもない。スプーンの切断を説明づける、画期的なトリックでも考案しているのだろうか。

「何か変ですね、朱良ちゃん」壱八の耳に手を当て、将門が囁く。

「まあな」

「いくらスプーンが折れるのを見たからって、あのフーディーニ嬢がそう簡単に納得するとは思えませんよ。何か説明可能な切断トリックでも考えてるんでしょうか」

「さあな。店の備品を台なしにして誰が弁償するとか、弁償代は幾らだとか、そんなとこじゃないか」

 占い師に同意するのを避け、適当なことを口にする。

 相変わらず人波の切れない駅前の歩道に出たところで、壱八は逆に尋ねかけた。

「それより、お前は大賀飛駆のことをどう考えてるんだ」

「間近で見たら、なかなか可愛い顔でしたね。モテますよ彼。君とは顔の造りが違います。あ、君の造形を貶してるわけじゃないですよ。誤解なきよう」

「そんなことを訊いてるんじゃない」

「妬いてるんですか、可愛らしい」半陰陽はふふと笑って、「彼のアリバイは確実なものではありません。少々面倒ですが、ご家族の方に伺うべきかも。春霧空ちゃんのほうにも」

「だから違うって。異能のことだよ」

 将門は途端に白けた顔を見せ、ぶっきらぼうに、

「興味ないですね」

「興味ないって、あんな間近で見たのにか」

「興味ないものは興味ないので。異能力があったとしても別にわちきが困るでもなし、逆もまた同じ。信じる信じないは他人の勝手。眼の前だろうとテレビ画面だろうと、信じる人は素直に受け容れるでしょうし、信じたくない人は絶対信じません。〈ガダラ・マダラ〉の職員会議は、厳粛なる超常現象討論の場じゃないんです。刺激を求める外野どもを楽しませるための、下卑たお芝居でしかありません」

 将門は番組プロデューサーの発言を一貫して批判的に解釈していた。異能の実在性如何が討論の主題であると同時に、実は単なる客寄せとしての討論それ自体には大した意味もないのだと。かつて将門が言った、あの番組は一部と二部で矛盾しているとの指摘が思い出された。

「でもこうなると、殺害動機から犯人を指摘するのは難しくなりますね。霊能者と神威云々が殺害されたのは、異能者狩りとして乱暴に一絡げにもできますけど、大学教授はむしろ狩る側の人間でしょう。単純な復讐劇でもなさそうですし、おかげであの番組もすっかり呪われちゃいましたし。肯定派否定派の双方に恨みを持つ人間なんているんですかね」

 占い師の発言はおよそ独り言めいて、当て所ない思索に自ら沈み込まんとするかのようだ。

 一方、壱八は青年がやってのけた異能の実演を、今なお引きずっていた。妹に関する発言も気にはなったが、何にもましてあの光景が壱八に及ぼした効果は絶大だった。

 スプーン自体には、何の仕掛けも施されていなかった。壱八だけでなく、ここにいる三人ともそれは認めていた。にも拘らず、スプーン自身にほとんど力を加えることなく、青年はそれを折ってみせた。

 あの光景を眼にした衝撃は、自身が異能力を否定的に見ていたことの、何よりの証拠だった。事実、擦り替えトリックやレーザーメスによる切断等々、心に浮かぶ解釈はどれも異能を否定するものばかりだ。信じる人は信じ、信じない人は信じない。眼の前の出来事だろうと、画面を隔てた映像だろうと。

 いや、本当にそうなのだろうか。

 小さく見える朱良の背を視野に収めつつ、笑いたくなるほど人の多い歩道を黙々と歩む壱八の脳裏に、二つの文章が浮かんだ。

 メディアは我々に現実世界を指示しない。

 テレビの画像は、不在の世界のメタ言語活動であろうとしている。

 どちらも難解な書籍を判りやすく説明する動画配信者の紹介していた、著名な社会学者の言葉だ。名前は忘れたが、その二文だけは記憶の縁に辛うじて引っかかっていた。

 記号としてのメディアと現実世界との間には、主観の神性を抜きにしても、無限の隔たりがあるのではないか。壱八も思考の内側に、徐々にではあるが確実に没入しつつあった。それが果たせなかったのは、雇い主から交通費を頂戴していないのを思い出したからだった。

「おい将門、電車賃」

「判ってますよ。ところでご飯どうします? 朱良ちゃんもう行っちゃいましたけど」

「だったらゴチになるかな」

「朱良ちゃんいないと、本当に生き生きしますよね、君」

「メディアは我々に現実世界を指示しないのさ」

「何です急に。ボードリヤールなんか読んでるんですか」

「さすが名探偵」

「何です急に。褒めても食事のグレード上がりませんよ」

 漂ってきたアイスクリームの芳香が前菜のように感じられた。荷物持ちの対価を約束され、壱八は少しだけスプーン切断の衝撃を和らげることができた。

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