第65話 シーズンが終わった男

 シーズンが終わってしまった。

 いやワールドシリーズがまだ残っているし、自分のチームがそこで対決している。

 なので終わったのは、彼のシーズンである。

 肘の炎症と言われた武史は、もう残りの試合、ベンチの中でじっとしているしか仕事がない。

 痛いのは痛いが、投げられなくはないとは思う。

 だがアメリカにおいてドクターストップは、絶対的な命令である。

 これが日本なら、男を見せるとか意地を見せるとか、マウンドに上がってしまうピッチャーはいるのだろう。

 もっとも武史にとっては、直史こそがそういうピッチャーとも思えるが。

 実際には故障した状態で、直史がマウンドに登ったことはない。

 だが故障してもおかしくない、という状態では何度も、マウンドに登っている。


 高校時代もあの甲子園、延長まで投げてしまうというのが、明らかに無茶であった。

 だが無茶であっても実際に投げきって、そして壊れなかったのだ。

 大学時代にも、土曜日に投げて月曜日にも投げる、ということはしていた。

 あとは国際大会では、さすがに先発連投はなかったが、リリーフとしては連投を普通にしていた。

 そしてNPBでは、日本シリーズで連投をしている。

 しかも二日目の試合は、パーフェクトに抑えていた。


 昔からずっと、いつ壊れてもおかしくないと、直史は言われていた。

 ただそれよりずっと頑丈と思われている武史は、実際にはそれなりに故障している。

 試合とは関係のないところで、ぽっきりと骨折してしまったこともあった。

 また五年目にははっきりと故障して、二ヶ月レギュラーシーズンから外れてしまったこともある。

 それに比べればこの故障は、ずっとマシなものなのである。

 しかし残りの試合、投げられなくても置物のように、ベンチに入っておかなければいけない。

 武史が投げられる可能性を、ミネソタに示しておく。

 幸いにも武史は、完全な先発型ピッチャーとして、周囲には認識されている。

 なので第六戦まで、出番がなくてもおかしくはない。

 ミネソタが怪我に気づくのは、内部からスパイが教えない限り、第七戦になるのだろう。


 湿布だけを貼られて、マンションに戻った武史である。

 恵美理はそれを聞いて、色々とお世話をしてこようとするが、そこまでのものではない。

 ただ一週間は左手は使わず、二週間は重たい物を持ったりもしないこと。

 武史が言われたのは、ただそれだけである。

 本当なら吊っていた方がいいのだが、それはテーピングで誤魔化しておく。

 上着を着れば問題なく、これは隠しておくことが出来る。


 ニューヨークに戻って医者に診てもらってからの武史は、もう完全に頭がオフシーズンモードに入っていた。

 顔が既に、戦士のものではなくなっていたのだ。

 直史に言われてどうにか気を引き締めているが、それでも限界はある。

 こういう時にはプールで泳ぐのがいいのだろうが、今回の負傷ではそれも禁止されている。

 靭帯などに損傷はないと言っても、熱を持って痛みがあるのだ。

 ネズミなどと言われる軟骨の剥離骨折か、とも当初は疑われた。

 レントゲンを見ても、全くそんなことはなかったが。




「いい機会ですので、将来設計について考えましょう」

「突然だなあ」


 少し女教師っぽい服装で、恵美理はホワイトボードなどを持ち出した。

 普段は予定表などを貼っておくものである。

「武史さんは何歳ぐらいまでMLBでプレイするつもりなの?」

「それは俺の意思じゃなくて、実際にどこまで通用するかが問題だと思うんだけど」

 今回は大丈夫であったが、大きな故障でいきなり引退というのは、プロスポーツの選手にはありうることなのだ。

 また武史は現在30歳であるため、大きな怪我でもしてしまえば、リハビリにも時間がかかる。

 いっそのこと引退するか、と考えるのもおかしくはない。


 それともう一つ、判断すべきことはある。

「MLBで引退しますか? NPBで引退しますか?」

「MLBでいいんじゃないかな」

 大介などは最後のシーズンは、ライガースに戻って終わりたい、などと殊勝なことを言っていたが。

 実際のところは甲子園で、自分のキャリアを終えたいのだろう。


 直史などは引退した後、何をするかははっきり決まっている。

 だが武史は本当に、何も決まっていない。

 そもそもレックス以外に指名されれば、社会人に進んでいたかもしれないのだ。

「引退した後、したいことはあるの?」

「特にないから、君に合わせて生活は変えようと思っていたんだけど」

 恵美理は恵美理で、ニューヨークでも仕事をしている。

 だが代理的、緊急的な仕事が多く、ずっと続けて一つのことを、という場合は少ない。


 日本に戻るのか、それともアメリカに残るのか。

「私は日本に戻りたいけど」

「俺は恵美理に合わせるよ。これまでずっと合わせてもらっていたわけだし」

 そもそもMLBへの移籍も、かなり突然に決めてしまったものだ。

 ただキャリアとしては、とても良かったのではないか、と武史は思っている。


 なんだかんだ言いながら、武史は英語もそれなりに喋れるようになってきていた。

 ただそのあたり、学校の勉強では苦労した大介の方が、明らかに喋れるようになるのは早かったようだが。

 武史としては自分の特殊な仕事に、恵美理をつき合わせているという意識がある。

 それに35歳ぐらいで引退したとしたら、子供たちは10歳ぐらい。

 アメリカで教育するのか日本で教育するのか、そのあたりも考えた方がいいだろう。

 いっそのこと子供の環境を中心に、考えてしまってもいい。

 プロ野球選手というのは、40歳までは普通は出来ない仕事なのだ。


 武史の場合は、伝手やコネについては、かなり多い。 

 引退したプロ野球選手などであれば、解説者などが定番となってくる。

 また再びユニフォームを着て、指導者となることもあるだろう。

 だが武史は自分が、そういうタイプの人間ではないと分かっている。

 現役である今でさえ、データ分析はほとんどベンチとキャッチャーに任せている。

 そもそも野球に対して、さほど興味がないのだ。


 そう考えると将来のことが、不安にならないでもない。

 まあ今まで、なんとかなってはきたのだが。

「生きてくだけならどうにでもなるけど、ただ遊んで暮らすのも、なんだか不健康そうだしなあ」

「それなら一年ぐらい色々やって、興味が出たことに挑戦してみれば? なんならまた大学に行くとか」

 武史の場合、大学は学歴を得るための場所であった。

 卒業すればどうにかなるだろう、という考えがあったし、就職活動をするでもなく、野球でプロに行くか社会人に行くかを決めていた。

 選択するために、野球が役に立ってくれた。

 その野球がなくなれば、自分は何をしたらいいのか。


 おそらく引退するのは、30代の半ばぐらいか。

 そこから新しく何かをするというのは、なかなかに難しいことだろう。

 ただ自分には、メジャーリーガーとしての収入がある。

 幸いなことに両親や兄の教えからも、金遣いが荒くなっていることはない。


 とりあえず恵美理も言っているとおり、日本に戻るのは間違いない。

 あとはどこまで、この体がMLBでもってくれるかだ。

 引退した年齢によって、選択するべき未来も変わるだろう。

 やりたいことをやればいいのか、やれることを探すべきなのか。

 実際のところ日米の企業から、CMなどの以来は色々と来ている。

 そこから芸能界につなげていく、元プロ野球選手の芸能人などもいる。


 武史はそういうことまで考えて、本当に自分が空っぽなのだな、と気がついた。

 なんとなくやっていた野球で、ここまで生きてきてしまった。

 そしてMLBという過酷な日程の中で、なかなか子供たちと暮らすことも出来ない。

 MLBの選手の中には、まだまだ現役を続けられそうでも、家族との時間を持ちたいといって、引退してしまう選手もいる。

 武史の家族が崩壊していないのは、主に恵美理のおかげである。

 もちろんそれに対し、武史も日々感謝はしているが。

 現実として遠征にでもなれば、武史が出来ることはない。

 そしてそれはNPB時代より、MLBに移籍してからの方がひどくなっている。


 このオフは、そんな将来のことについて、もっと考えてもいいかもしれない。

 そう思っている武史が、実は相当に長くMLBの世界で通用してしまうのだから、世の中というのは思い通りにならないものである。

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