第57話 自分だけの男

 人は何を目的として戦うのか。

 そもそも戦うのは、対戦相手であるのか、自分自身であるのか。

 また目的にしても、たった一つのもののためなのか、それとも複数のもののためなのか。

 蓮池はシンプルに考えている。

 人間の世界、金があればだいたいの目的はかなう。

 しかし勘違いしてはいけないのは、メジャーリーガーごときの富豪であっては、真のこの世界の富豪の生活には、とても届かないものであると。

 瞬間的にはそれが成立しても、引退後はどうなるのか。

 シーズン中をほとんど拘束されるのは、確かに面倒なことである。

 だがその拘束によって、無駄な贅沢をしなくてもすんでいると、そういう理解もしておかなければいけない。


 蓮池は慎重な場面では、驚くほど慎重な男である。

 そしてリスクとリターン、またそのリスクが許容範囲内か、そういうことまで考えることが出来る。

 自分の才能を把握した上で、他の才能までは過信しない。

 そうやって今までを生きてきたのだ。

 アメリカにやってきたのも、確かにMLBという、稼げる選手はNPBより稼げるのが、魅力的であったというのもある。

 だがそれ以上にアメリカでは、セカンドキャリアについて考えられている、ということがあった。


 ぶっちゃけアメリカというかMLBでは、引退後の破産が問題になっている。

 さらに言えばMLBだけではなく、他の四大スポーツを主とする人間もだ。

 企業と生涯のスポンサー契約などをしていると、大丈夫だなどと思うかもしれない。

 だが借金が膨らみすぎて、結局貧乏暮らしという人生は普通にある。


 蓮池は自分が、本来なら大学に行くタイプの人間なのだろうな、と思っていた。

 だが日本の大学野球を経由するぐらいなら、高卒でポスティングを最速でとも思ったのだ。

 なおこう考えた他の選手は、たとえば織田である。

 織田の場合は一刻も早くアメリカに来たい、ということもあったのだが。

 そのため引退後は金融の知識などを勉強し、本格的に財産の利回りだけで生活しよう、などと蓮池は考えたものだ。

 そしてシーズンがない間は、そういった大学のセミナーを受けたりもしている。

 引退後には専門的に学び、頭脳労働で生きていこうと思っているのだ。


 金持ちの本質というのは、どれだけ時間を自分のために使えるか、ということだと思う。

 もちろん趣味を仕事にしてしまった人や、そもそも働くために人生を生きているのだ、という人間ならばそれでいい。

 仕事にプライドを持てるなら、それはそれで自己肯定感が高くなることだろう。

 しかしやりたくもない仕事を、生活のために続けているというのはどうなのか。

 逆に自分のやりたいことで生活できているなら、その生活レベルは相当に高いと言える。

 もっとも実際には、自分のやりたいことを全てやるのは、それなりの金銭が必要である。

 このあたりのバランス感覚が、分かっている人間は、少なくとも不幸にはなりにくい。


 蓮池は冷徹な男である。

 能力的には、もっと高い数字を残せてもおかしくはない。

 だが評価されるべきところでしか、本気を出さない。

 プロ入りの時点では、とにかく多くの球団が一位指名するように。

 そしてあらかじめマスコミを通じず、将来のポスティングまでも球団には語っていた。

 だからこそポスティングに忌避感のない、ジャガースをはじめとする数球団に絞られたのだが。


 どのみちNPBで傑出した数字を残さなければ、MLBから声がかかるはずもない。

 NPBでは防御率と奪三振のタイトルを数度取ったが、沢村賞は無理であった。

 時代が悪かったのだ。

 ただし逆に、あの怪物たちとは、ほとんど競争しないパ・リーグに入れた。

 おかげでタイトルは取れたわけである。


 そして実際にMLBでも、先発ローテの主力級として働いている。

 ラッキーズに勝てたのも、蓮池の一勝があったからだ。

 ただ同じア・リーグ西地区に、直史が来たのは不運であったかもしれない。

 比べられる対象、投げ合わなければいけない競争相手が、目の前に現れたからである。

 その直史がトレードで移籍してしまったあたり、本当に蓮池は運もいい。

 実力があってこその運であるが、それでも効率的に生きてきたという意識はある。

 そして蓮池が目指すのは、ここからまださらに遠い。

 成功者となることが、蓮池の俗物な欲望である。




 ミネソタとヒューストンとの第二戦は、当然ながらヒューストンからの攻撃で始まる。

 蓮池としては出来れば、先にミネソタに攻撃をさせて、それを三者凡退に取るピッチングをしたかった。

 そうすればミネソタのピッチャーや守備に、プレッシャーを与えられるであろうと思ったのだ。

 実際のところこれは、織田がやったことと、攻撃と守備は入れ替わっているが、相手への先制攻撃という意味では同じである。

 ピッチングで0に封じることが、ミネソタに対しては攻撃になるのだ。


 一回の表で点を取ってくれれば、それはそれで作戦は立てられる。

 ちょっとまずいかな、と思わせればそこから傷を大きくしていくのだ。

 ただヒューストンの打線は、その先制点を取ってくれなかった。

 そしてそのまま、一回の裏のミネソタの攻撃となる。


 蓮池のスペックはMLBの先発ピッチャーの中でも、かなりトップクラスに位置する。

 それでいながら日本人らしい、姑息と器用の両取りのようなことも行える。

 ただミネソタ相手には、どういうピッチングをしていくか。

 それは実際に対戦して決める。


 蓮池は合理的なトレーニングを重視する、論理派のピッチャーだ。

 だが肝心なところでは、自分の感覚を優先する。

 何かが危険だと思ったら、それには従うべきなのだ。

 己の心の声に逆らうことは、後悔を生んでしまう。

 自分の直感には、逆らってはいけない。

 それで負けたとしても、後悔からは遠いものとなる。


 一番と二番も、MLBの平均から見て、とても危険なバッターではある。

 しかしジャストミートはさせず、内野フライと外野フライに打ち取った。

 三番のブリアンに対しては、本能が警告してくる。

 勝負するとかしないとかではなく、これは危険なバッターであると。

 一応これまでにも一試合は対戦しているが、その時はレギュラーシーズン用の本気であった。

 後続が打たれて負けているが、蓮池の降板したところでは勝っていた。

 おそらくここで負けたとしても、蓮池の評価が下がることはない。

 最低でもそんなピッチングはしておかないといけない。


(確かに危険は危険だが、問答無用の理不尽さは感じないな)

 蓮池の感じた、問答無用の理不尽さは、やはり直史と大介である。

 共に日本シリーズで対戦したが、大介とは状況を整えないと、勝負する気になれなかった。

 完全に全て、負けてばかりというわけではないが。

 もっと理不尽だと思ったのは、直史と対決した時だ。

 パーフェクトに近いピッチングをしていた蓮池に対し、直史はよりパーフェクトに近いピッチングをしてきた。

 バッターとしても対決したいという意識はあったが、蓮池はプロ入りからパ・リーグだったので、もう交流戦と日本シリーズしか、打席に立つ機会はなかった。


 あの二人に比べれば、何ほどのものもない。

 いや、あれに加えて上杉なども、今の日本には巨大な才能が集中したものである。

 才能が一つではなかったからこそ、より鋭く研ぎ澄まされたのか。

 巨大な才能同士は引き合う。

 そして互いに巡り合い、より大きな回転となっていく。

 そんな感傷は蓮池にはない。

 ただあのあたりの存在とは、まともに対戦したらダメなだけだ。


 ブリアンにはそこまでのものは感じない。

 いちいちバッターボックスに入るときに、ぶつぶつと十字を切るのが、無神論者の蓮池からしたら不気味である。

 とは言っても蓮池の家も、普通に仏教ではある。

 宗教が存在するのと、蓮池が無神論者であるのは、別に矛盾することではない。

 ただ蓮池が神とするのは、己自身だけだ。

 己の人生において、己自身よりも大切なものを作るなど、まったくもって理解しがたい。

 表面的には直史に似ているが、決定的に根本的に違う。

 それが保守の直史に対する、蓮池のリベラルなところである。もっと言えばノンポリなのだが。


 ブリアンのバットの一撃で、ボールはレフト前に運ばれた。

 悪いボールではなかったのだが、これも計算の範囲内だ。

(今は布石を打っていく時)

 最終的にチームが勝っていればいいし、チームが負けても蓮池の責任でなければいい。

 あまりにも自己中心的過ぎて、しかしそれが一貫している。

 それが蓮池というプレイヤーだ。




 とりあえずブリアン以外は、想定の範囲内で抑えられる。

 もっとも楽観主義者でなく、自分を過信するわけでもない蓮池は、それで普通に点は取られると思っていたが。

 野球とは点の取り合いなので、味方の打線の援護がないなら、それはもうどうしようもない。

 エースはチームを勝たせるもの、という意識には蓮池にはない。

 エースもまたチームを構成する要素の一つ。

 それを上手く活かせなければ、それは首脳陣の責任なのだ。


 七回二失点、といったハイクオリティスタートが、蓮池が自分に課したノルマである。

 もちろん相手が弱い時は、数字が良くなるように投げていく。

 稼げる時に、成績は稼いでおくべきなのだ。

 ヒューストン相手に七回二失点なら、それはもう充分すぎる数字だろう。

 あとは打線と首脳陣の問題だ。


 ミネソタは明らかに、蓮池のピッチングに戸惑っていた。

 強気のピッチングというのは確かだが、ただそう単純に説明するだけでもいけない。

 MLBでリーグナンバーワンと言われる、ミネソタの打線を全く恐れていない。

 それが違和感となって、誰かさんを思い出す。

 ミネソタをいとも簡単に、完封していたピッチャーを。


 日本人というのは皆、こんななのか、という認識が生まれてしまう。

 いやいや、それは限られた例外である。

 もっともメトロズにも、武史のような存在はいる。

 それにさらに前には、上杉のリリーフを目にしていた者もいる。


 投げる蓮池としても、思ったよりも強くないな、という印象であった。 

 レギュラーシーズンとポストシーズンとで、選手たちのプレイの精度は変化する。

 その中で蓮池のパフォーマンスの向上は、ミネソタのそれを上回っている。

 ならばそれなりに、ミネソタを抑えることは出来るのだ。


 先行したのはヒューストンであった。

 フォアボールとエラーが重なったところで、タイムリーに一点。

 もっともここで一点しか取れないところが、今のヒューストンの限界であるのか。

 この試合自体は勝てるかもしれない。

 だがチームの持つ、重さのような何か。

 ミネソタのそれは、とても動かないように感じる。


 何がどうなっているのか、言語化することが蓮池には出来ない。

 しかしこの違和感を破壊しなければ、ヒューストンはミネソタに勝てないだろう。

 おそらくこの中心にある強固なものに、届かなかったためにシアトルも敗北したのだ。

 そもそもシアトルと五試合も戦ったことで、ミネソタは全体的にレベルアップしたような気もするが。

(俺に負けることで、さらにレベルアップするかもしれないな)

 そう考えるとやはり、ヒューストンは第一戦を、蓮池に任せるべきであった。

 そこで完封でもしてしまえば、この短期決戦において、ミネソタの打線陣を狂わせることも出来たろうに。


 蓮池のこの日にピッチングは、自分で想定していたよりも、さらに上の七回一失点に終わる。

 ただしこの一点の失点は、ブリアンに打たれたホームランであった。

 交代後にミネソタはヒューストンを追いかけたが、この試合では追いつかなかった。

 一勝一敗で、舞台はヒューストンに移ることになる。

 ただしここで全敗すれば、今年のミネソタは終了だ。

 そして日程的にも、蓮池がもう一度先発するかは、微妙なところである。


 投げるとしたら、もう追い込まれた第五戦になるだろうか。

 その場合は登板間隔は、中三日となってしまう。

 この試合も100球を投げて、充分に役割を果たした蓮池。

 だが中三日で必死で投げるほど、その野球に対するスタンスは熱くない。

(結局、俺の評価を間違えたことが、このチームの敗因になるのか)

 MLBに多くの目が向いて、分かりやすい怪物たちがスーパースターとなる。

 その陰に隠れるように、狩人の獣は、その牙を研いでいた。

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