第33話 極東から見て

 八月の頭、日本においては野球はどういう時期か。

 アマチュアであるならば高校野球の地方大会が終わり、甲子園の開幕直前。

 プロ野球であるならば夏休みでもあり、ビールが売れる季節。

 しかし海の向こうから大きなニュースが伝わってきて、MLBに詳しい者も詳しくない者も、同じニュースに色めき立つ。

 佐藤直史のニューヨーク・メトロズへの移籍。

 チームの大エースである中核選手の移籍に、NPBまでの常識しか知らない人間は、心底驚いていたものである。


 神奈川某所の居酒屋で、スターズの選手たちが集まっていた。

「そんなに大変なんですか?」

「大変だったな」

 自分はボストンからニューヨークに移動するだけで、距離的にはそれほどのものでもなかったのだが。

 上杉は一年間を治療とリハビリに、そしてもう一年を復帰のために、アメリカで居住した。

 今までの医療であれば、復帰は無理と言われた怪我であった。

 しかしどうにかこうして、今年もNPBの舞台で投げている。

「あそこに上杉さんがいたら、それこそもう止まらないチームでしょうね」

「どうかな。ワシの球はもう、昔に比べたら衰えている」

 いやいや、まだ170km/h出してますよね、と生暖かい視線が注がれる。

 だが確かに、上杉はもう絶頂期は過ぎたのだ。


 かつて175km/hを記録した、強大な右腕。

 しかしそれは限界を超えて、肩に再起不能の故障をもたらした。

 それでもアメリカの実験的な最先端医療を受け、プロに復帰。

 MLBでも1シーズンだけだが、絶対的なクローザーとして君臨した。

 NPBに復帰した去年も、22勝3敗という圧倒的な数字で10回目の沢村賞を受賞。

 確かに他にも、160km/h超えの若手は何人も出ている。

 それでもいまだに、上杉が一強と言えるだろう。


 上杉は謙遜しているわけではない。

 実際に全盛期の自分であれば、確かにあそこに立つ資格はあったと思う。

 だが球速のMAXスピードは武史に抜かれて、ピッチャーとしての支配力は直史に及ばない。

 もっともチーム全体を引っ張っていく力は、上杉にこそあるものなのだが。

 大介の爆発力や、直史の安定感。

 上杉の存在はそれに劣るものではない。


 少し離れたところで、正也はMLBについて考えていた。

 今の話題は直史が中心で、メトロズが中心となっている。

 だが同じチームメイトであったという点では、正也が一番気になっているのは、樋口の容態なのだ。

 今季は絶望だが、来季の開幕には間に合うという。

 樋口が正捕手をするならば、また来年はアナハイムはピッチャーの育成が上手くいくだろう。

 それにしても今年のMLBは、異常事態が多かった。

 もっとも自分たちがこうやって話題にするのも、あと数日だろう。

 スターズは現在、ライガースとペナントレースの首位を争っている。

 去年はライガースに破れ、日本シリーズ進出も逃したが、今年はかなり期待できる。

 上杉の影響力は、選手全員を一段階上に引き上げるようなものだ。


 ただ今年はタイタンズが、本格的に調子を取り戻してきている。

 この数年はスターズやライガース、そしてレックスの後塵を拝してきたのだが、小川の入団と共にチーム力は上がってきた。

 今年のクライマックスシリーズ進出は、おそらくスターズとライガース、それにタイタンズになるだろう。

 レックスはやはり、佐藤兄弟に樋口の抜けた穴が、大きすぎたと言える。

 それでも最下位になっていないだけ、マシだと言えなくはないのだが。


 NPBで言うならば、セ・リーグなら阿部も、来年で国内FAの資格を得る。

 彼がMLBを志望しているのかどうかは知らないが、昔からMLBを口にしているのは、埼玉の毒島などもそうだ。


 大介や直史と共に、野球人気はMLBの方にかなり取られた。

 しかし根本的に日本人ファンには、MLBはあまり合っていないシステムだとも思う。

 毎年のように選手が入れ替わり、地元を応援するというポジションは取りにくい。

 むしろ日本人選手にファンは集中し、だからこそジャパンマネーも選手に入る。

 直史のトレードはMLBでは当然のことだったのかもしれないが、日本人の目から見ると、かなりフロントが直史を裏切ったように見える。

 もっとも移籍先でSSコンビが復活したのは、古参のファンにはたまらないものだろう。

 来年以降直史がどうするのか、正也としてはそちらの方が気になるのだが。


 樋口はいつになったら、日本に帰ってくるのか。

 あるいはもうアメリカで、選手としてのキャリアを終えるのか。

 正也にもMLBのスカウトは注目していたのだ。

 その気になればMLBに行けたのが、埼玉にいた正也である。

 だがFAになった時、自然と兄と一緒に戦うことを選択していた。

 二人ではかなえられなかった日本一を、今度こそ達成するためにと。

(もう一度、WBCあたりで組めないかな)

 後輩たちに肉を食わせながら、正也はアメリカに心を飛ばしていた。




 佐藤兄弟が同じチームになった。

 その意味をしみじみと理解していたのは、レックスの選手たちである。

「もうあとはメトロズがどんだけ圧勝するかしか、注目するポイントはないんじゃないか?」

 居酒屋のテレビでは、MLBのニュースをやっている。

 NPBもシーズン中であるのに、この数日はスポーツニュースはほぼこれ一色だ。

 だいたい昼間のワイドショーなどでも、この話題で番組を作っている。

 経済効果はどれだけだ、という話である。


 吉村はその中でも、一番あの二人とは関係が古い。

 そもそも高校になるまでは、佐藤兄弟も大介も、完全に無名だったのだ。

 武史などは野球部ですらなかったのだし。


 吉村は高校時代、白富東に勝った数少ないピッチャーとして今でも言及されることが多い。

 故障がちになったがそれでも、年間に20登板ぐらいは先発で投げる。

 200勝はさすがに無理だろうが、150勝には届かないものか。

 それが今の吉村の状況だ。


 ピッチャーとして年上として、吉村はそう言った。

 だが野手として後輩としては、小此木はすごいことになったなと思っている。

「ドリームチームですよね」

「上杉さんがいないけどな」

「なんだかんだ言いながら、新しいスターは出てきてるしな」

 金原や佐竹も、無関心というわけではない。


 たったの二年で、レックスに連覇をさせて、直史は去っていった。

 二年間で50勝という記録は、平成以降には存在しない。上杉でさえ49勝である。

「MLBかあ」

 金原などはスペック的には、MLB級などと言われていた。

 しかし高校時代の怪我なども考えて、挑戦する勇気は出なかった。

 直史や武史、樋口がいなくなったことで、レックスが大型契約を持ち出したのも、残留した理由である。

 実際にあの三人を見ていると、自分ではそれほど活躍はしなかったであろうと思う。


 だが、小此木は違う。

「ポスティングかあ……」

 直史と同期であり、しかしながら高卒で一年目からベンチ入りし、試合にも多く出た小此木。

 ベストナインにも選ばれて、首位打者まであと一歩、また長打も打つという、ユーティリティプレイヤーになりつつある。

 今年で五年目なので、ポスティングなどまだ球団は拒否するだろう。

 だがFA前年にでもなれば、ポスティングも認めるのではないか。


 プロになって活躍をするという夢の先に、まだMLBという道がある。

 それを示してくれたスタープレイヤーが、今の日本人選手には多くいる。

「でもあと一回ぐらいは優勝したいなあ」

 レックスというチームで、また日本一に。

 ただ樋口と武史が抜けてからは、圧倒的にチーム力は落ちた。

 さすがに二年連続で主力を放出していれば、それも仕方のないことだ。


 同じプロの世界でも、日本とアメリカの間には、単に距離だけではない開きがある。

 それをつくづくと感じてはいるが、小此木ならば野手としても通用するのでは、と吉村たち投手陣は思う。

 他にもMLBでも通用しそうな選手は多くいたのだ。

 上杉などはあのままMLBに残っても良かったし、それにホームラン王や打点王を取り続ける西郷。

 だがああいった人間は、もうチームに骨を埋める覚悟なのだろう。


 MLBへの挑戦は、確かに難しいことだ。

 今でも通用せず、結局日本に戻ってきている選手はいる。

 だが挑戦していれば成功したのではないか、と言われる選手も多く存在する。

 特にピッチャーなどは、そう言われる選手が多い。


 夢の舞台というには、もう身近になりすぎた。

 キャリアアップの点からしても、それは充分に視野にいれてもいいことだ。

「行くなら遠慮せずに行けよ」

「俺らは結局、行かないことを選んだんだからな」

 金原も佐竹も、もう30歳を過ぎた。

 野球選手としての寿命はもう終わりに近く、人生を守りに入ってくる頃だ。

 家庭を持って子供もいると、なかなか動くことも出来なくなる。

 それを理由にしてしまうところで、二人には限界だったのだろうが。


 あの、夢の舞台。

 だがそれは、甲子園よりは近い舞台ではなかったのだろうか。

 ペナントレース中でありながら、多くの現役NPBプレイヤーが、海の彼方に思いを飛ばす。

 直史のトレードというのは、それぐらいに日本にも、衝撃をもって迎えられたのであった。




 一方、衝撃はそれほどでもなく、ただ安心している人間もいる。

「これで応援するのは1チームだけになったなあ」

 佐藤家の人間としては、息子たちと娘婿が対決するというのは、なんとも複雑なものであったのだ。

 直史が投げる時は直史を、武史が投げる時は武史を。

 しかし直史と大介が対決すると、どちらを応援するべきか悩む。


 もちろん血縁的には、直史の方を応援するべきなのだろう。

 だが甲子園では二人を応援し、それに娘たちを片付けてくれた。

 大介に対する恩義のような感情はあった。

 それがなくなったというだけで、もう試合をそのままに楽しめるというものだ。

 どっちが勝つのかはらはらする、という事態はなくなった。

 両方を遠慮なく応援できるというのは、精神衛生上とてもいいものである。


 今年のワールドシリーズは、現地に見に行ってもいいのではないか。

 当たり前のように二人が対決しているので、佐藤家の人間は、それがどれだけ難しいことか、いまいち分かっていない。

 ただ周囲が色々と騒いでいる。

 直史は今年でもう日本に帰ってくるのだから、一度ぐらいはアメリカに行ってみてもいいのではないか。

 ニューヨークという、まさに世界の中心。

 そこに対するささやかな憧れに似たものを、佐藤家の善良で平凡な一家は持っていた。

 なぜあのような個性を持つ面々が生まれたのか、なかなか不思議なことである。

 おそらくはまたワールドシリーズ観戦ツアーなどが組まれるだろう。

 ただチケットは今から予約しても、手に入るのかどうか。

『いや、普通に用意できると思うけど』

 最後のピッチングを、直接見てもらうのも悪くはないだろう。

 直史はそう気楽に考えていたのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る