紫黒の鬼と黒緋の姫

紬 蒼

黒ノ章 鬼の誕生

第1話 書簡

 下弦に近づいた臥待月ふしまちづきが空に上がる頃。

 初秋の澄んだ空気に重い溜息が混じる。


 宮廷内にある四つの庁を監査する機関、青庁せいちょうに所属する一介の官吏、ジンは祈るように空を仰いだ。

 体の弱い妻、リレンの容体が芳しくなく、医療機関である白庁びゃくちょう内の療養施設に入院することになった。

 十二歳の息子、シンと六歳の娘、スウォルもしばらく白庁管轄の太白村たいはくむらに預けることになっている。


「ライ、私は初めて愛する家族に嘘を吐き、秘密を持った。でもそろそろ家族に全て打ち明けても良い頃だと思う」

 ライと呼ばれた男は半年ほど前からジンの家の住み込みの使用人をしている。

 表情に乏しく、口数も少ない為、暗い印象を受ける。

 けれど主のジンに対してはいささ饒舌じょうぜつだった。

「心臓の弱い奥方と幼い子供に話すようなものではないと思いますが? 余計不安にさせて怖がらせるだけですよ」

「黙っている方が不安にさせることもあるぞ。だからライ、考えておいてくれないか?」

「……とりあえず、荷物を取りに行って参ります」

 会釈して屋敷に向かうライの背にジンは「逃げたな」と困った風に笑った。

 その背が見えなくなるとジンは再び天を仰いだ。


 これまで真剣に神に祈ったことはなかった。

 見えない存在に祈るよりも目の前に存在する医者に縋る方が現実的だと考えているからだ。

 それに今までの経験上、神が常に正しい者の味方をするとは限らないと知っていたからだ。

 けれど、この夜ばかりは初めて神に祈りを捧げた。


『死神』を私の元へ導いてくださったのはこのためですか?」

 天に問うように呟いてジンは書簡に目を落とす。

「これが運命というものならば、これが私の使命というならば、私はただ進むのみです。だからどうかこの先私が振り返ることがないよう、あの者を含め家族だけはお守りください」

 切実な祈りを捧げ、意を決してジンは書簡を懐に忍ばせ、足早に村を出た。


 向かった先は暗い夜道を曲がった先に突如明るい提灯に浮かび上がる建物、幻想的な雰囲気の漂う高級妓楼『香月楼かげつろう』だ。

 ここに入れるのは貴族か黄庁おうちょうの官吏のみである。

 侍従の者も門より中には入れない上、刀などの武器も門衛に全て預ける。

 ただ例外として妓女から赤い椿の描かれた黄色い札を渡された者は身分に関係なく入れる。

 だが、その札は妓女の中でも人気のある高位の数名しか持っておらず、妓楼外で手に入れることは不可能だ。

 故に主人が侍従の者に遣いを頼んだ場合などに使われることが一般的だった。

 ジンもまた中に入れる身分でもなければ花代を払えるほどの金もない。

 ここに入れる者に札を貰い、初めて中に入る。


 理由は懐の書簡にある。

 この書簡の届け場所として妓楼を指定されたからだ。

 そしてこの書簡にはこの国の未来が懸かっていた。


 初めて足を踏み入れた妓楼の中は妖艶な女達の香と酒の匂いに満ち、弦楽器が奏でる雅な曲がゆったりと流れ、まるで夢の中にいるかのような不思議な心地にさせられた。

 まだ酒も飲まぬうちから酔ったような気にさせられる。

 案内された最奥の部屋の引き戸を開けると、相手はまだのようで座して待つことにした。


 その少し前、ジンの息子、シンは密かに父の後を追って妓楼の前で立ち尽くしていた。

 一年前、ジンが血塗ちまみれの男を連れ帰ってからジンには秘密ができた。

 男の名前はライと言い、使用人として住み着いた。

 あの日何があったのか、以前は何をしてどこで暮らしていたのか。

 名前以外のことは何一つ、ジンもライも家族に教えなかった。


 シンはいつかこの男のせいで父だけでなく、幼い妹、スウォルと体の弱い母、リレンにまで危険が及ぶと考えた。

 だが、ジンがこの怪しい男に全幅の信頼を寄せているようにも感じるし、男もまた危害を加えるどころか守るような言動をする。


 男が血塗れだったのは自身が負った傷のせいだけではない。

 返り血を浴びていたからだと子供であるシンにも分かる程、まるで雨に打たれたが如く全身が血に塗れていた。

 とはいえ、最初に見たその姿のせいで危険な男だと思い込んでいるだけで、実は善い人なのかもしれない。

 そう思い直し、父が信頼する相手ならば自分も信じようと言い聞かせていた。


 その矢先、突然父が母を白庁の療養施設に入院させると言い出した。

 父が仕事の間、子供達とライだけになる為、屋敷を出て太白村の知人宅に世話になることも既に決まっていて、日が落ちてから僅かな荷物と共に移動した。

 残りの荷物をライに取りに行かせ、その隙に家族を置いて出掛ける様子を不審に思い、父の後を追った。

 が、その向かった先に愕然とした。


 そこがどういう場所かシンも知っている。

 父と最も無縁と思われる妓楼に、しかも母が病で苦しんでいる時に行くとは驚きと共に怒りが込み上げて来た。

 しかしそこが子供が入れる場所ではないことも知っていた。

 どうすれば中に入った父を連れ戻せるか、しばし考えあぐね、屈強な門衛がいる正門からではなく、どこか忍び込める場所はないかと裏手に回る。

 見つけた裏門には門衛などはおらず、幸い施錠もされていなかった。


 音が立たぬようそっと押戸を開ける。

 忍び込んだ先には絨毯のように広がる苔の中に石畳の道が続いており、その道の先には小さな雪洞ぼんぼりが点々と掲げられた楼閣が幻想的に浮かび上がっていた。

 まるで夢の中のような光景だったが、ふと見上げた先に足が竦んだ。


 楼閣の二階の角部屋、そこで黒装束の男が父を梁に紐で吊るしているところだった。

 まるで人形のように動かない父が徐々に吊り上げられていく姿に声も出ず、ただただその場に立ち尽くしていたシンだったが、作業を終えた男と目が合った瞬間、反射的に半歩退いた。

 同時に男が俊敏な動きで二階から音もなく飛び降りる。


 一気に距離を縮められ、逃げねばと思うのに、足がもつれてその場に尻もちをつく。

 殺されると思い、目をぎゅっとつむって両手で身を守るようにしてその場で縮こまる。

 その頭上で金属音がした。

 恐る恐る目を開けて見上げると、刃が見えた。

 もう一人、黒装束の男がどこからか現れ、両者共短刀を構えて睨み合っている。

 仲間割れか、後から現れた方はシンを助けに入ったのか不明だが、二人がそのまま戦い始めたので、四つん這いになってシンはその場から逃げ出す。


 二人から少し離れたところで立ち上がって走り出そうとしたが、湿った苔に足を取られ、けた拍子に運悪く傍にあった庭石で頭を打ち、そのまま気を失ってしまった。


 一方、太白村では屋敷から荷物を持って戻ったライがジンとシンがいないことに気づいたところだった。

 寝台に臥す母の傍で眠っていたスウォルを起こし、二人の行方を問うも知らない様子にライは嫌な予感がした。


 医者に二人を預け、すぐにライはうまやを覗いた。

 馬を置いて行った様子からそう遠くへは行っていない。

 普通ならそう判断するが、それは自ら出て行った場合だ。

 誰かに連れ出されたなら行先を徒歩圏内では絞れない。

 おまけにシンの姿もないとなると、二人で出掛けた可能性は低い。

 ライは後者と推測し、ジンの馬に飛び乗り、妓楼へ走らせた。

 妓楼にはライの知り合いがいる。

 その者ならばジンの行方に心当たりでもあるかと思ったのだ。


 奇しくも彼らの行先へ向かうことになったライ。

 村から妓楼までは徒歩で三十分程だが馬なら十分もかからない。

 真っ直ぐに裏手に回り、走る馬の背から重力を感じさせない動きで塀を越え、裏庭に音もなく着地する。


 と、その目に飛び込んで来たのは乱闘する黒装束の二人組と頭から血を流して倒れているシンだった。

 すぐさまシンに駆け寄ろうとした瞬間、ライめがけて短刀が飛んで来た。

 それを紙一重でかわした瞬間、二人のうち片方が煙幕を使い、その混乱に乗じて男の姿とシンの姿までもが消えていた。


 残った片方を組み伏せ、誰の差し金か問うも答えず、代わりに楼閣から悲鳴が聞こえ、反射的に振り返る。

 見上げた先の光景に思わず僅かに手が緩む。

 その一瞬の隙に男はライの手から逃れ、隠し持っていた針を自身の喉に刺し自害した。


 舌打ちをし、ライは周囲をざっと見回して逃げた男の行方を追おうと走り出す。

 塀を越えた先に乗って来た馬はおらず、逃げた男が奪ったものと思われた。


 再度舌打ちをし、ライは地を蹴って走り出す。

 ジンとシンを連れ帰る為に行きは馬を使ったが、この程度の距離ならば走る方が速い。

 妓楼と村を直線距離で結べば数分で辿り着ける距離だ。

 入り組んだ路地を行くのではなく、ただ只管ひたすらに真っ直ぐ進む為、どんな障害物も飛び越え、時に屋根の上をも走る。

 そうして屋根に飛び乗った際、ライは空の一角が明るんでいるのを見た。

 次いで煙が立ち昇っていることにも気づいた。

 そこはジンの屋敷のある方角だ。


 少しして激しく鳴り響き始めた鐘の音に急かされるようにライは再び駆け始めた。

 その脳裏にジンに誓った言葉が浮かぶ。


「俺は『死神』だ。俺がいる限り誰にもあなたを殺させない」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る