第83話 嵐の直前
夕方。そろそろ入場時間だ。
そんな言葉で洗脳教育から解放された俺は、さっきの場所まで戻ってくる。
数時間前の閑古鳥が嘘のように、路地裏は人で溢れていた。
「あ、ひーくんだ!」
俺が人の多さに圧倒されている時。少し離れたところから、ヨレヨレのジャージを着た女の人が小走りで手を振りながらこっちに近づいて来た。
俺たちの方に向かって来てる? でもひーくんなんて呼ばれる奴どこにもいねぇしな。
誰か彼女の知り合いが俺たちの近くにいるのか。なんて思っていたけど、俺の予想に反して彼女は俺たちの目の前で足を止めた。え、なんで?
「ふぅ……やっほーひーくん!」
彼女はハカセを見てニコリと笑いかけた。
「……ひーくん?」
俺は隣に立つ男をまじまじと見つめた。ひーくん。は?
「おや、みぃさん。久しぶりだな」
「……みぃさん?」
俺の問いを無視して二人は会話を始めた。みぃさん。え?
「うん。久しぶり! なんとこれからはいつでもどこでもまゆたんを応援できるんだぜ!」
「なに⁉︎ それは僥倖‼︎」
「うんうん! 今まであまり直接応援できなかった分、これからいっぱい応援しちゃうぞ! いぇーい!」
「ええ‼︎ だがまゆたんの推し度で言えば俺の方が上だ‼︎」
「いやいや、私の方が上だよ‼︎」
「いや、俺だ‼︎」
「いいや私だよ‼︎」
「俺だ!」
「私!」
「…………」
仲良く会話を始めたと思ったら、いつの間にかどちらがまゆたんを推しているかの喧嘩が始まりそうになっている。
何やってんだこいつら。と思う心はあるにしろ、今俺の頭の中は別のことでいっぱいだった。
ひーくん、みぃさん。可愛らしいあだ名で呼び合う二人。今はどちらがまゆたんを愛してるかゲームを喧嘩腰でやっている。仲いいのか悪いのかわかんねぇなお前ら。
てか、え、なにこの状況? 全然脳の処理が追いつかねぇ。え? なにこれ?
「私はまゆたんが初めてのライブで緊張のあまり登場の瞬間転んじゃった写真を持ってるんたぞ‼︎」
「く……ライブ中は撮影禁止なのになぜそんな素晴らしいものを持っている⁉︎」
「まゆたん推しの私が本気を出せばこの程度ちょちょいのちょいなんだよ‼︎」
スマホの写真を見せつけられたハカセが悔しそうに一歩後ずさる。
今の会話をまゆたん本人が聞いたらむしろ嫌われそうな気がする。もう半分ストーカーじゃんそれ。
いいの? この人野放しにしていいの? 絶対やばい人だよ。
「こ、今回は負けを認よう……だが……後でその写真を俺にもくれ」
「ふっふーん。仕方ないなぁ。ひーくんだけには特別に進呈しようじゃないか‼︎」
「ははっ! ありがたき幸せ‼︎」
ハカセは頭を垂れて感謝の意を示している。
もしかして俺はとんでもない魔境に迷い込んでしまったのでは? 目の前の光景に表情が引きつる。
「おやおやみぃ殿! お久しぶりですなぁ!」
「あ、みぃさん! 久しぶりです!」
「おひさー! 私もこれからは毎回参加しちゃうんだぜ!」
ハカセとみぃさんのやり取りを聞きつけたのか、彼女の知り合いと思わしき人たちが徐々に二人の周りに集まっていき、気づけばそこそこ大きい人の輪ができていた。
どの人も楽しそうに会話をしていて、俺はひっそりとその場を後にした。
俺など最初から眼中に無いとは思うが、お前誰? みたいな感じになって水を差したくなかった。あと例え受け入れられても絶対話について行けず、ただ愛想笑いをしている姿が目に浮かぶ。地獄じゃんそれ。
こういうのは面倒くさいことにならないうちに退散するに限る。
そうして遠くから盛り上がる輪を眺めていると、ハカセは俺が居ないことに気づいたのか辺りを見渡し、目が合うと輪を抜け出して俺のところまでやってきた。
「すまない。居づらかったか?」
ハカセは珍しく申し訳なさそうに言った。
「ライブ前だから俺も普段より高揚しているようだ。配慮が足りなかった」
「別に気にするなよ。楽しそうなことは悪いことじゃねぇし、俺もそれに水を差すつもりはない」
遠くの輪では尚も知り合い同士が和気藹々と話に花を咲かせている。楽しそうなのはいいことだ。
「それにしても、あの人は何者なんだ?」
「あの人、とは誰だ?」
「あ、そっか今は数が多いもんな。みぃさんのことだよ。お前とはどんな関係なんだ?」
実はさっきからずっと気になっていたこと。この二人はどんな関係なのか。
全身をヨレたジャージに身を包み、ボサボサの髪に瓶の蓋のような大きい眼鏡を掛けているみぃさん。
ハカセとは特別親しくしていそうな雰囲気に、俺はもしかしたらもしかするのでは邪推している。
あのハカセに⁉︎ と内心否定しつつも、さっきのフランクな感じは実は私たち……と言われても不思議ではない。
「どんな関係、と言われたところでな。俺と彼女はライブで知り合い、そしてまゆたんを愛している同志だ。今みぃさんと話している連中もそれ繋がりで仲良くなったクチだ」
「なんだ、実は付き合っているって言われるかと砂粒くらい期待していたんだけど……」
「馬鹿を言うな。推し活と恋愛を混同するなど有り得ん。それに俺が愛しているのはまゆたんだけだ!」
「お、おう……そうか、悪かった」
それはそれでどうなんだろうか。現実には目を向けないの?
まあこいつの好きを否定するつもりもないし、ハカセがいいならそれでいいか。
たぶん、なんか違うような気はするけど。具体的にどうとかは言えないけど。
「どうやら入場が始まったようだな。俺たちも行くぞ」
「あいよ」
整理番号毎に入場が始まったようで、まゆたん推しの面々も一旦散り散りになっていた。
俺とハカセも中に入る。
薄暗い灯りが灯った室内には、既にたくさんの人でごった返していた。
最前線のステージには暗幕がかかっている。
集まっている人たちは今か今かとライブへの期待感に胸を躍らせているのが見て取れた。
それは隣にいる男も例外ではなかったようで。
「さて、では俺も戦闘態勢へと移行しよう」
眼鏡を外してケースへしまったハカセ。
「そういえばダテだったなそれ。外すのか?」
「ああ。ライブは常に激しい動きを伴う。眼鏡があると全力を出せないからな」
「なら最初から掛けて来なけりゃいいだろうに」
「それとこれとは話が違う」
何が違うんだろう。
まあダテだし、視力が落ちる心配もないし、行動に支障がでることもないだろう。
というか、こうして眼鏡を外したハカセは意外と雰囲気が変わることに気づく。
眼鏡をかけているときは白衣の似合うインテリに見えるけど、今は見た目爽やかな好青年に見える。中身の残念さを知っている俺はそれでもなんとも思わないが、やはりこの男、面はそこそこ整ってやがる。神様って不公平。
「ともかく、俺は前に行くが八尋はどうする?」
「え? 前行くの? この状況で?」
前の方、つまりステージ近くは満員電車の如く人が密集している。俺たちがいる後ろの方は比較的余裕があるが、前は人が入り込める隙間なんてとても見えない。
「当たり前だ。大体まゆたんが来る位置は把握している。なればこそ、俺はそこの最前線を目指すのみ。例え人が密集していようとな」
ハカセはこれから戦地に赴く兵士の如き覚悟を滲ませている。
相当な入れ込み様。ここまで来るともはや尊敬の念に値する。
「無理しない範囲で行ってこい。俺は初めてだから後ろで勉強させてもらうわ」
「そうか。では行ってくる」
真面目な顔で敬礼をして、ハカセは人が密集する戦地に突っ込んで行った。
「本当に行ったよ……」
場所取りは既に戦いなのか、前線の人の圧は時間と共に増していく。前の方の人は人の圧で死なないのか? ちょっと心配になんだけど。ハカセ……ちゃんと無事に帰って来るよな?
ハカセのあの態度はあながち間違いでもないのかもしれない。素人目に見てもわかる。あれは戦場だ。
アイドルはステージ上で歌って踊る。ファンであれば、愛が深いファンであれば尚更、近くで見たいと思うのは必然か。なら当然、人は前へと吸い寄せられてしまう。
俺みたいな素人はおしくらまんじゅうを嫌うが、彼らはそうではないんだろう。
1メートルでも、1歩でも近くからアイドルを見たい。その思いが原動力となって足を前に進ませる。
「そういう熱心なファンが多いアイドルのライブ。ちょっと興味出てきたかな?」
まるで俺の心を見透かしたかの様な声に驚いて反応すれば、全身ジャージに身を包んだ女子がしたり顔で俺の横に立っていた。
なんで俺の考えていることが――
「なんで俺の考えていることがわかるんだって顔してるよ」
またまた言い当てられてしまう。エスパーかよ。
「よくわかりましたね」
「やっくんはわかりやすいからね」
彼女は楽しそうに笑った。
俺、わかりやすいのか。顔にすぐ出てるとは思っていないんだけど。
これはポーカーフェイスを身につけないと今後まずいな。練習しよ。
「そんな俺わかりやすかったですか……ん? やっくん?」
「君は八尋君って言うんだよね? ひーくんがそう呼んでるのが聞こえたから。だからやっくん」
ふふん、と勝ち誇った様な笑みを浮かべるみぃさん。
どうやらこの人は他人をあだ名で呼ぶのが好きらしい。どっかの誰かに似てるな。
「まあ好きに呼んでください。えーっと……」
そういえば俺はみぃさんのことをなんと呼べばいいんだろうか。
さすがに今日初めて会った人のことをいきなりみぃさんとか呼ぶのは馴れ馴れしいよな。
「みぃ、でいいよ。呼び捨てでもさん付けでも殿でも様でもなんでもいいよ。あとため口でオッケー」
俺が言い淀んでいると、俺の意図を察したみぃさんが助け舟を出してくれた。
「わかった。でもいきなりは馴れ馴れし過ぎるだろ。苗字とか教えてくれたらそっちで呼ぶぞ?」
本人が許可しても、それを俺が呼ぶかはまた別の話だ。
俺としては、やはり馴れ馴れし過ぎるのはちょっと気が引ける。
「ノンノンやっくん」
だけどみぃさんはゆっくりと首を左右に振った。
「こういうところではあだ名で呼び合うのは自然な流れ。むしろその方が良いんだよ」
「そうなのか?」
みぃさんが前方の人の群れに視線を向けたので、俺もつられて前を向いた。
「さっき私たちと話していた人たちいたでしょ」
「楽しそうに話していた人たちか?」
「うん。でも、私たちは誰一人として本名は知らない」
「え、マジ?」
みぃ先輩はそうそうと頷いた。
「仲が良いとは言っても、私たちは基本的にはライブだけの知り合いみたいなものだからね。ライブだけのソウルフレンド。ライブを一緒に楽しむのに、その人がどんな名前かなんて関係ない。だからここでの私はみぃ。それ以上でもそれ以下でもないってわけだね」
「……なるほど」
みぃさんの言いたいことはなんとなく理解できた。
ライブだけの繋がり。それ以上でもそれ以下でもない関係だから、お互いプライベートな情報は開示しないってわけか。
同じアイドルが好きで集まったもの。きっとそれだけの情報があれば充分ってことか。
ただ同じ時間を共有して、同じ話題で盛り上がれればそれでいい。そういう繋がりもあるんだな。
「なるほど。じゃあ俺もみぃさんって呼ばせてもらうわ」
「よろしい‼︎」
「ところで、みぃさんはハカセみたいに前に突っ込まなくていいのか?」
俺はより過激さを増す戦場を指差した。もうハカセがどこにいるのか全くわからない。ちゃんと生きててくれよ。
みぃさんはそんな戦場を優しい目で見つめていた。
「私も今日はここでいいかな。久しぶりだし、復習も兼ねて後ろから見るよ。その代わりやっくんにストリリの魅力……主にまゆたんの魅力を伝えようじゃないか!」
「どんだけまゆたん好きなんだよ……」
もうその手の話はもうお腹いっぱいなんだよ。
これ以上聞いたら夢に出てきそう。
「まあ、お手柔らかに頼むわ……」
でも、せっかく目を輝かせて教えてくれようとしているのに、拒否はできねぇよなぁ。
思い出されるのは先程ハカセとやったスパルタ予習。メンバー全員の名前と特徴、曲の合いの手などを鬼の如く叩き込まれたあれ。今度はまゆたん特化型か。
みぃ先輩は鬼ではないことを祈ろう。
「任された!」
みぃさんはとても満足げに微笑んだ。
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