短編の少女ら

ばかのひ

牛乳が飲みたい少女


 春とはいえどお風呂上がりというものは大変体が火照ってしまいますので、私は部屋の窓を大きく開けることにしました。冷えた空気が顔を触れて通り過ぎてゆきます。しばらくじっと、その心地よい風と、自然に細くなる目から入ってくる風景を共に楽しんでおりました。

 ですが私はそのうちはっとして、窓を少しだけ閉めてから冷蔵庫のもとへと行くことにします。こんなことをしている場合ではありません。お風呂上がりの火照った体で飲む牛乳というものは、冷たいお茶や炭酸のジュースなどとは違った快感を満たしてくれるものですので、その愉悦に浸ろうと思った次第です。しかしながらこういう時に人生というものはうまくいかないものなのです。冷蔵庫には私の求める白い液体が入った紙パックは見当たらなかったのです。

 ふと母が立っているコンロの前へと目を向けると、私の欲を満たしてくれるはずであった愉快で素敵な白い液体はお野菜やお肉と共にぐつぐつといってるではありませんか。私の熱い視線が伝わったのでしょうか、母は私をちらりと見るやいなや、火を止めてスリッパをぱたぱたといわせ居間の奥の自分の部屋へと消えていったのです。私はしばらくキッチンに漂う牛乳の死後の姿、もといシチューの匂いを嗅いで過ごしておりました。すると、やはりぱたぱたといわせて母は戻ってきます。そして私の手に一番大きな硬貨を握らせて、またコンロに火を付けました。言葉はありませんでしたが、きっとそういう事なのでしょう。私はお釣りがいくら発生するかをすぐさま計算し、熱く長い息を大きく吐いてから、いってきますと残して自宅をあとにしました。


 音楽プレイヤーやスマートフォンを持たずに出たこと、更には歩いて五分ほどのコンビニエンスストアーではなく十五分もかかるスーパーマーケットの方へ私の足が赴いているのを考えると、どうにも私という人間は休みの前の夜という愉快な時間をゆったりゆっくりもったいぶって楽しみたいと考えているようでした。更にはお風呂上がりの熱気も私を包んでおりますので、大変僭越ながら頭の中に「無敵だぞ、わはは」という感想も浮かんできました。子供の頃に置いてきたはずの妙な冒険心がむくむくと私の胸の中で大きくなっている気がします。

 さて、私の足元ではつっかけが控えめにぺたぺたと夜に音を響かせております。アスファルトというものはどうにも冷たいものですが、私からするといつもいつでも誰に対しても同じ対応というか素っ気なさの気持ちを与えてくるので、言い換えると硬派という印象も感じさせてくるような気もします。地面を見つめて歩く私はなぜかその硬派が大変心地よく感じてしまい、パーカーの中に入れている手を何度も開いては握り、開いては握りと繰り返してしまうほどでした。私はこんな当たり前で平凡な行動ですら愉快だと感じるほど、今日は興奮しているようです。


 信号を待っていると、正面にはスーツを脱いでシャツの袖を捲くったサラリーマンと思わしき男性が私と同じように信号の青の光を待っているのが見えました。この時間です、きっと残業などという大変だといわれる時間を経てここにいるのでしょう。ぱっと見た限りまだお若そう。家に帰ったらお酒の缶と共に男性的なお食事をするのでしょうか。それとも夜でも営業しているファストフードなどで済ましてしまうのでしょうか。私は帰ったら冷たい牛乳を堪能したあと母のシチューを頂くわけですが、見るからに疲れている正面の男性を見ていると、なにやら少しばかり分けてあげた方が良いのではないか、という気が湧いてきました。もちろんそれは妄想だけで終わるのですが、どうにも今の私の心は幼き頃の冒険心を伴っております。このまま何もせず通り過ぎるのはなんとなくもったいない気がしてしまうのは仕方のないことなのでしょうか。

 やがて青の光が夜に輝きはじめました。私もその男性も歩みを進めます。私の心臓はどくどくといつもより多くの血液を運んでいます。なぜならとても素敵な事を思いついてしまったからです。例えば私がその男性を通りすがる際に「お疲れさまです」と言って会釈などをやるのはどうでしょう。本当はシチューを振る舞いたい気持ちなのですが、流石に知らない男性を自宅にあげるのははばかられますので、「お疲れさまです」なら常識の範囲内だと言えるでしょう。

 私と男性の距離は徐々に徐々に近づいていきます。私の心臓はどくんどくんと先程よりも大きく鳴っています。このように知らない人に話しかけるなどは初めてのことです。しかも夜に突然、知らない異性へ、大人へ。あと数歩で男性とすれ違うまでの距離にきてしまいました。私は顔を少しだけ上げて、口を開きました。片方の手はパーカーに突っ込み、もう片方の手はパーカーのファスナーをいじり続けています。


 一歩、二歩、三歩。

 四歩、五歩。


 そして、先程男性が信号待ちしていた側へとついてしまいました。残念ながら、開けた口からは言葉はおろか息すらも出てきてくれなかったのです。振り返り、男性の背中を見ると私の開けた口からはやっと息が「ほう」と漏れてきてくれました。新鮮な空気が体内をめぐり、新鮮な思考が湧き出てきます。

 はて、私は先程何を考えていたのでしょう、知らない人に声をかけるなど不審極まりない行動です。先程までの私は冒険心にあてられた危険な人間だったのかもしれません。何か急に冷静になってしまいました。心なしか、いえ、これは心とは関係ないかもしれませんが、先程まで私を包んでいた熱気は消えてしまったように思います。お風呂の力もこれまでです。パーカーのファスナーを首元まであげて、私は先程とは少し異なる重さの足を引きずってスーパーマーケットへと向かいました。


 さて、私のようなものはあまりスーパーマーケットに来る機会などありませんので、入店してから「閉店時間」などという概念を一切失念していることに気づきました。普段の買い物はコンビニエンスストアーや学校の購買などが主ですから、お店というのは「行けばやっている」ものだと思いこんでいたのです。閉店をお知らせする寂しい音楽が私の耳へと流れ込んできます。この曲は、どこかの国のメロディに日本語があてがわれた曲だったはずです。たしかスコットランドあたり。何が名産でどこにあるのかなどは全く知りませんが。牛乳売り場にたどり着くまでに、後片付けを行っている店員さんの視線を複数頂きましたが、何も言われてないのでまだぎりぎりセーフといった所でしょう。想定ではチョコレートや焼き菓子など、少し体重が気になる軽食なども見て回ってみたかったのですが、それらを巡回している間に閉店になってしまったらたまったものではありません。私は泣く泣くそれらを諦め、牛乳の売り場へと急ぐのでした。

 あまり来ないスーパーマーケットに来てみるのも中々楽しいものです。本日の私は中々に厄介ですから、「迷う」という行為に好意を寄せずには居られません。私は額にしわをよせ、あごに手をやらざるを得ない状況に「にやり」としてしまいました。冒険にはハプニングがつきものです。どういうことかというと、いつも母が普段買ってくる、自宅の冷蔵庫に一番馴染みのあるパックの牛乳を見つけたのですが、牛乳というのは他にも様々な種類があるという事に気づいてしまったのです。牛の模様を模しているものや、「特濃」という文字が大きく書いているもの、「おいしい」という自信有り気な感想までも載せている牛乳もありました。なんと豊かで平和な世界でしょう。そんなものに気づいてしまっては、いつもの「3.6」を買うのを惜しいと思うのは仕方がないことです。そういえば、そもそも私は何が「3.6」なのかも知りません。このまま惰性で「3.6」を買ってしまうのは、先程少し小さくなりかけた冒険心に対する裏切りでしょう。私は心に幾度も語りかけて、一番ピンときた赤いパックものを手に取りました。そもそも牛乳という商品は白や青、緑のパックに入っているものだというイメージが私の中ではありました。ですが私が選んだのは赤のパックです。牛乳の根底を覆す大変破天荒な牛乳だと言えるでしょう。更にこちらの牛乳は最後の一つのようです。人気があるからなのか、入荷が少ないからなのかはわかりません。ともかく最後の一つを手に入れた事は大変喜ばしいことです。

 しかしここで私ははっとして、あたりを見回してみることにしました。もし私と同じように牛乳を求めておつかいで来た少年や少女がおりましたら、そちらに譲ってあげないといけないからです。私はただ赤いからという些細で阿呆のような理由でこの牛乳を取ったのです。別に、赤いものを諦め特濃やおいしいと言い伝えられている牛乳でも問題ないのです。数度首を回していましたが、幸いご両親に「赤い牛乳を買ってきて」と言われやってきた少年少女は居ないようです。他のお客様は半額と書かれたお惣菜に夢中ですので、私は安心してその牛乳を持っていく事が出来ました。

 ポイントカードも袋もクーポンも持っていない私は店員さんにどう思われるのでしょう、などと考えていると、店員さんは素早い手付きで牛乳を袋に入れてくれたので安心しました。私はこちらを頂くためにわざわざ髪も完全に乾ききっていない状態でやってきたのです。ポイントカードや持参した袋が無いと買えないとなったら私の気持ちはどうにもブルーになってしまうでしょう。牛乳はレッドなのに。……心の中で後悔が渦巻いているのは気にせず、私はレジの方にレッドの牛乳を預けました。

 しかしこことで思いがけない事が起こりました。私の選んだ牛乳は中々に高級品だったらしく、思っていたよりもお釣りの額が少ない事に気づいたのです。私は牛乳パックの外壁ばかりに目をとられ、肝心な値段を見ていませんでした。もういっその事、儚い満足感の為にお釣りをすべてレジスター横の募金箱に入れてやろうかと思うほどの混乱が脳内で巻き起こっています。しかし私はその衝動をグッと抑え、価値が低めの硬貨を数枚募金箱に入れる程度で落ち着きます。少しばかりの儚い満足感と、自分の衝動に打ち勝ったささやかすぎる勝利の余韻に浸ることが出来ました。私は口元までパーカーのファスナーをあげて、誰にも気付かれないように頬を緩ませながら、スーパーマーケットをあとにするのでした。


 このまま自宅に帰れば無事に私はこの左手にぶら下げている牛乳を味わえるのですが、どうにもこのまま帰るのはもったいないなと感じてしまいます。ふとどこかに遠回りをしようかとも考えます。しかしまだまだ私は冒険心を取り戻していないのか、目的が無いと少し面倒だなとも感じてしまいます。スーパーマーケットの前にはベンチがあり自動販売機などの光が満ちていますので、私は少しばかりの灯りの下であまり余った冒険心を消費する方法を考えることにしました。

 しかしながら私はどうにも若者です。娯楽といって思いつくのはカラオケボックスやゲームセンター程度です。しかもそれらはネオンがさんさんと輝いている駅前などに集まっています。この住宅街にはそんな輝くものはありません。

 さてどうしたものかと考えておりますと、私の後ろで輝いておりましたスーパーマーケット内の照明が淡いものになりました。入り口にかけられている看板を見る限り、今日はもうおしまいなのでしょう。お疲れさまです、と心の中で思って気づきました。先程言えずに余ってしまっていた「お疲れさまです」を今ここで使うのはどうでしょう。そうすると私の先程の冒険心も少しは暴れ回るのを控えてくれるかもしれません。私は高鳴る心臓の音を聞きながら、自分でも驚くほど大きな声で「お疲れさまです」と口に出し、スーパーマーケットに対し会釈などをしてみました。その瞬間、後ろから先程お惣菜を選んでいたお客様が何人か通り過ぎます。私はとても冒険心を消費した行動とは思えないほど慌ててしまい、情けなくその場をあとにしたのでした。


 あのお客様がたのせいで何も考える事が出来ずに帰路につく羽目になりましたので、私はおとなしく自宅へ向かうことにしました。先程よりは一キログラム増えてるとはいえ、行きと違って帰りは体の重さを感じてしまうのは何故なのでしょうか。先程の信号は赤で迎えることなくスムースに通過する事が出来ました。アスファルトはあいも変わらずぺたぺたと音を響かせており、硬派は通り過ぎると飽きてしまうなという感想も出てきます。私が飽きっぽいのか、アスファルトの方がワンパターンなのかはわかりませんが、どちらにしろ物哀しさを感じます。そして、物哀しさと一緒に寒さも感じてきました。髪を乾かしきっていないですし、春は夜が冷え込むものなのでしょう。パーカーのファスナーもこれ以上あがりません。これでは私の当初の目的であるお風呂上がりの牛乳は堪能出来ないでしょう。私の熱と冒険心はすっかり無くなってしまいました。家に帰った際には、もう一度お風呂に入ってそれから牛乳を楽しむことにしましょう。私は何かから逃げるように、早足で自宅を目指しました。


 自宅のドアを開けるやいなや、母から「遅かったのねえ」とため息交じりに言ってきました。時計を持ち出さなかったのでわかりませんでしたが、私の買い物はシチューが完成して母が食べ終わるほどの時間が経過していたようです。食事を共にできない申し訳なさもありましたが、これは不幸中の幸いです。もし食事を待たれていたら、冷えた体を温かいシチューで暖める逆転現象が起きてしまうからです。確かに春というのはどっちつかずの季節ですが、私はあくまでもお風呂上がりの暖まった体を冷たい牛乳で落ち着けたいのです。母の小言を振り切り、私は再度お風呂に入ることにします。もちろん、最高の牛乳を頂くためです。


 今外に出たら顔から湯気が出てきそうなほど暖まり、万全を期した私は冷蔵庫に入れておいた赤いパックの牛乳を取り出しました。母は「高そうなものを買ったのねえ」とのんきな事を言っておりました。私は小さくほくそ笑んで「高そうなものを買ったんだよ」と心の中で繰り返します。

 こういう時は透明で清涼感のあるグラスが良いでしょう。もし今が冬であれば、それが例え冷たい牛乳を入れるのであっても私はマグカップを選択します。そういうことです。そういう選択を出来るのが私なのです。何故か妙な自信が湧いてきました。とくとくとグラスに牛乳を注ぐと、やあどうでしょう。いつもとは違うとろみがあり、更には真っ白というわけでもなく少し黄色がかっていて、いかにもな高級感が漂っています。かつて牧場で食べたソフトクリームが思い出します。あちらも濃くて大変衝撃的な美味しさだったことを記憶しております。きっとあれは「3.6」ではなく「5.9」くらいあるはずです。何の数字かは未だにわかりませんが。

 数度の深呼吸を経て、心の準備は出来ました。満を持して、牛乳を頂くことにします。一口大きく頂いたあと、喉を震わせます。

 はて。

 自然と首をかしげてしまいました。今度は喉越しだけではなく、味わうために口に含んで吟味してみることにしました。不思議な感じです。まずくはないのです、あれだけお高かった牛乳です。まずいわけではないのですが、なんというかいまいち、言葉にすると……そう、「ピン」と来ません。確かに濃厚なのですが、それが今の私の気持ちと合っていない気がします。いつもの「3.6」はこちらの牛乳より薄くてさらさらしているのですが、私の口はそれを欲しているような気もしてきます。よくよく考えますと、お風呂上がりの暑くて火照っている状態なのであれば、とろっと濃厚であるものより、口当たりの良いさらさらしたものの方が適しているのではないのでしょうか。今更になって後悔の念に駆られてきました。

 私が額にしわを寄せていると、玄関が騒がしくなっていることに気づきました。私は牛乳と対面しているのが嫌になり、まだ三分の一ほど白が満たされているグラスを置き玄関へ行ってみることにしました。


 そこには靴置き場で突っ伏している父と腕を組んでため息をついている母がおりました。「どうしたのか」と母に聞いてみると、父は週末だということを良いことに普段あまり飲まないお酒をたらふく飲んできたとのことなのです。元来あまりお酒が強くない父です。飲んでいる間は良かったものの、駅から家まで歩いている間に途端に気分が悪くなり、足元もおぼつかない状態でなんとか帰ってきたということでした。母は私に水を汲んでくるように言い、父をお手洗いまで運ぼうとしていました。私はお水を汲む際、先程の赤いパックの牛乳をちらりと見ましたが、きっと今の父にも適していないだろうと思い、おとなしくお水を汲みお手洗いに向かいました。父にお水を手渡してやると、お礼もほどほどに一気にあおりました。母は今日何度目かのため息をついて、私にこう言って笑いかけてきました。


「全く、いくら週末だからって普段と違うことなんてしちゃって。浮かれてたら後悔するなんてわかってるのに。困ったお父さんよね」


 笑いかけてくる母に対し、私は何も応える事は出来ず、ただただその言葉を何度も咀嚼し、深く重く、うなずくことしか出来なかったのです。

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