花と猫とサーカスと
牧瀬実那
いつもの宿、いつもの少女とカラフルな非日常
木々の若葉が瑞々しい緑へと変わる頃。
交易都市して栄える港街では、今日も海の外から運ばれた品々を売買する人々の活気あふれる声に満ちている。
そんな喧騒から西に少し離れた一角に佇む、二階建ての宿屋『凪いだ海の宿』。その一階に作られた食堂のカウンター席で、月下人狼のクレバールはうつらうつらと舟を漕いでいた。
天気は快晴。
突き抜けんばかりに澄み渡った空を見たメルが、ここぞとばかりに開け放った窓からは、乾いた心地良い潮風が吹き込み、突っ伏して眠るクレバールの狼耳を優しく撫でていく。
珍しく仕事の依頼が殆ど無い日だった。その僅かな仕事も他の仲間に任せてしまい、することが無いからと手伝っていた宿業務も繁忙期を過ぎてしまえば必要がなく。
掃除し終わったばかりのカウンターに座ってぼんやりと外を眺めていたら、いつの間にか眠りこんでしまった。
音を立てるものは吹き込む潮風に揺らされたドアベルだけ。からん、からんと間を開けて小さく鳴る音色はまるで子守歌のようで、穏やかな午後の昼寝をもたらしてくれて――
いた。
「!?」
突然ガッチャーン、と派手な音と振動が響き渡り、クレバールはびくりと体を震わせて飛び起きた。
先程まで穏やかな音色を奏でていたドアベルがドアごと思い切り壁に叩きつけられた――そんな原因をクレバールが知ることはなく。彼が認識できたのは、赤い塊が銀色の輝く尾を引きながら猛然と自分に迫ってきていることだけだった。反射的に、突撃に備える。
けれど、それが彼にぶつかることはなかった。
「クレ! クレバール! なんかひろった! きれいなの!」
代わりにそれ――異形の女性はそう言いながら手に持ったものを突きつけてくる。普段ならばエキゾチックで端正だと思わせる顔は、そんな気配を微塵も感じさせないほど高揚し、普段殆ど動かせないはずの大きな爬虫類の尻尾が、珍しくうごうごと落ち着きなく辺りを叩いている。クレバールに向けて突き出した手も、うっかり彼に当たりそうな勢いだ。
「グルナ、近い近い! それじゃ見えねぇから!」
押しのけながら注意すると、グルナは「おおっ」とはっとした様子で引き下がった。そわそわと飛び乗っていた椅子に座り直し、改めてびらりと一枚の紙を差し出す。
「……あ? なんだこれ?」
真っ先に目を引いたのは紙の中央を貫く白い文字だった。ことさらそれを際立たせるように、背景は赤、黄色、黒で埋め尽くされていて、目に眩しい。よく見れば白い文字は右下にも記されており、日時と場所、それに細やかな数字が羅列されていた。
「チラシ……?」
綺麗というよりはド派手で目を引くデザインである。謳い文句や端々に描かれた記号に、どこかワクワクする何かがあった。確かにグルナの、というよりも好奇心旺盛な子供が好きそうな雰囲気だ。
「な、な、これなんだ?」
上下左右縦横無尽にチラシから見え隠れしながらグルナが答えを急かしてくる。
一瞬口を開けた後、束の間思案し、クレバールは彼女の方へチラシを向けて真ん中の文字を指差した。
彼の最近の仕事の一つに、目の前に座る半竜人娘へ、文字書きを始めとした勉学を教える、というものがあった。彼女と出会ってから約一ヶ月。これまで教えてきたことが身についているか、確認するつもりで尋ねる。
「これ、なんて書いてあるかわかるか?」
「え、それ文字だったのか!?」
が。
間髪入れずに予想の斜め下の答えが勢いよく返ってきて、クレバールは音がしそうな勢いで――実際、カウンターに頭をぶつけた――突っ伏した。
どうしてそんなことをするのかわからず不思議そうにグルナが見つめていると、そのまま動かなくなった彼から「お前この間教えたばっかだろ……」「後でもう一回復習するからな……」というくぐもった声が、怨嗟のように漏れ聞こえた。
彼女は、しかしそんな様子を気にも留めずにゆさぶり始める。
「なあなあー! ケッキョクこれはなんて書いてあるんだー?」
ゆさゆさ、ゆさゆさ。
ゆさゆさゆさゆさゆさ。
勢い余ってクレバールを椅子から落としそうな揺さぶり具合になった頃、ようやく彼は顔を上げた。
「それは『サーカス』って読むんだ」
「さーかす?」
グルナが首を傾げる。全く聞いたこともない、と言いたげに目を点にして
「さーかすってなんだ?」
「知らないか?」
「おう」
勢いよく頷く彼女に、クレバールはううむと首をひねった。自分だって大昔に見掛けただけで、詳しく知っているわけではない。その時の朧気な記憶を少しずつ手繰り寄せながら、グルナに伝わるように変換していく。
「ええとな、まず大きなテントが出て、その中でパフォーマンスなんかが行われて。その周りは飾り付けられて、屋台なんかも出て……うん、お祭りみたいなものだな」
「おまつり!」
祭りという単語を聞いた途端、グルナががたりと勢いよく立ちあがった。瞳はきらきらと輝き、顔いっぱいに子供のように無邪気な笑顔を浮かべている。そういえばこの間も街角で路上ライブがあった時もこんな感じだった、とクレバールはぼんやり思い返す。彼女はきっと、楽しげにみんなで騒げるものが大好きなのだ。
そんな彼女が次はなんて言い出すか、とても簡単に想像がついた。
「たのしそう! 行きたい! 行こう! クレバール! なあなあ!」
べしべしばしんばしん
案の定グルナは勢いよくクレバールの背を打って催促してくる。激しく揺れる視界に目を回しかけながら、クレバールはしかし、しかめっつらをした。
「けどなぁ……」
――そんな金は無い。
先の言葉をぐっと飲み込み、代わりにチラシを睥睨する。指先で料金設定の記述をなぞりながら思考を巡らせた。
この街に来てからようやく半年という彼には聞き覚えがなかったが、それでもチラシに踊る「一年ぶり!」「皆さまご存じ!」という謳い文句に、この辺りでは有名な一座なのだろうことがわかった。そのせいか、観覧料が少し、高い。
ましてや、とクレバールは指でとんとんと机を叩く。
彼を始めとした仕事仲間達は――グルナもそうだが――どれも大なり小なり訳ありの身である。
普段、宿に持ち込まれる雑多な依頼をこなす万屋のような仕事をしているが、その稼ぎの半分はこの宿への滞在費へと消え、残りの殆どは自身について回るやっかいな事情を解決することに費やしてしまっている。
クレバール自身、出来るだけ仕事は選ばないようにしているが、頭を使うことが得意ではないグルナや年端もいかない仲間などを厄介事に近付けないようにすれば、請け負える仕事はおのずと絞られてしまう。宿代ですらままならない時もあり、時折先程のように宿の手伝いをしてまかなっているような状態だった。
難しい。
眉間にしわを寄せて考え込むクレバールに、隣で様子を見ていたグルナがおずおずと声をかけてくる。
「もしかして、おかねいるのか?」
「当たり前だろ」
「おかね、ないのか?」
「んー……」
返事は濁したが、それでも状況は伝わったらしい。椅子の上で器用に膝を抱えて黙り込んでしまった。一回り小さく見えるほどしょぼくれてしまっている。それでもどうにかしろとわがままを言ってこない辺り、自分では金銭を出せないことも、稼ぐことが難しいことも理解しているようだった。
――理解できるようになった、と言うべきか。
出会った当初は文字どころか煩雑な物事を理解することも、学ぼうと努力することも全く無く、まさに手の付けられない獣のように自分勝手に行動していたことを考えると、とても目覚しい進歩と言えた。
逐一隣で面倒を見ていたクレバールにはそれが感慨深く、いつの間にか親心のようなものが芽生えていることに気が付く。
――少しくらいご褒美をやっても、いいんじゃないか。
心配するな、と悲しげに小さくなっているグルナの頭をぽんぽんと撫でながら、そんなことを考えた。
ぐっと天井を仰ぎ見る。まるでそこからアイディアが降ってくる、とでも言うように木目をじっと見つめながら、ぽつりともらした。
「さて、どうしたものか……」
「なにかあったの?」
不意に、奥にある厨房の方から声が聞こえた。見れば、食器を持ったメルががたがたとカウンターに入ってくるところだった。グルナが小さくなったまましょんぼりと答える。
「サーカスいきたい……」
「あら、いいじゃない」
世間話をするような、いつもと変わらない調子で相槌を返すメルに、グルナは更に沈んだ声で呟く。
「でもおかねない……」
きょとんとした顔をしてメルがクレバールの方を向いた。その瞳に、行かないの、と問いかけが浮かんでいる。クレバールは苦笑しながら肩をすくめてみせた。
「今どうするか、考えてるとこだ」
ふーんと小さく呟き、メルは何事もなかったかのように持ってきた食器を棚に仕舞い始める。
「チケットならあるわよ」
「そうなんだよな……って、え?」
おざなりに、何気なく発せられた言葉だった。
あまりにも平然と言い放たれたせいで、あやうく聞き逃しかけ、思わず問い返す。
「今、なんて言った?」
「だから、チケットならあるわよ」
けろりと言い放つと、えーと、とメルはカウンターに備え付けられた引き出しを開けて中を漁り始める。チケットってなんだ、というグルナの声を聞き流しながら、ものの数秒もしない内にこれこれと彼女は小さな箱を取り出した。クレバールとグルナに見えるように、彼女は蓋を開けてみせる。中にはチラシと同じ色の小さな紙が十数枚、綺麗に積み重ねられて収まっていた。
目を丸くするクレバールと不思議そうな顔で紙束を眺めるグルナに、メルがけらけらと笑って説明する。
「あのサーカス団には結構長い付き合いの知り合いが居てね。そのよしみで、この辺に公演に来る度にいくつかチケットを置いてるってわけ。宣伝も兼ねてね」
そういうと、ぱちりと彼女はウィンクした。いつも依頼を出す時と変わらないその仕草を、クレバールはまるで見たことがないものであるかのように、言葉もなくぽかんと口を開けて穴が開く程見つめる。
そんな彼とは反対に、ぼんやりとチケットを眺めていたグルナが誰にともなく尋ねた。
「これがチケット?」
「そうだ」メルからグルナに視線を移し、頷く。「これがあればサーカスに行ける」
「!」
グルナがぱっと顔を上げた。開かれた目と口が綺麗な丸を描いている。今しがた聞こえた言葉が聞き間違いではないか、確かめるようにクレバールの顔をじっと見つめている。そんな彼女を安心させるように、眉を八の字に下げながら彼は笑いかけた。
グルナの中で懐疑が確信、喜びに変わるのが火を見るより明らかにクレバールにもわかった。
「やったー!」
彼女は両手を思い切り振り上げてぴょこんと跳ねた。椅子ががたんと後ろに飛んでいくのも気にかけず、器用に床に降り立つと「サーカス! サーカス!」と歌うように喜びの声をあげながらくるくると食堂を踊り回る。どたばたがたがたと騒がしかったが、彼女の喜びはクレバールにとっても嬉しく、ひじをつき目を細めて見守った。
その様子を尻目にメルは、しかしクレバールに向かってちっちっちと指を振る。
「もちろん、ただで、ってわけにはいかないわよ」
ぐぬ、とクレバールが少し怯み、仕方がないわ、と腰に手を当ててメルが苦笑した。
「言ったでしょう? 置いてるって。つまりは委託販売だもの。お金はきちっと取るわ」
大分正規の値段よりは安いからお得よ~、と計算機を引っ張り出しながら彼女は付け加える。
「おう」ありがたいのは事実だ、と肚をくくった。「いくらだ」
「そうね、定価の四割引きだから……」
ぱらぱらと計算機を叩いて指し示す。そこにはクレバールにも十分に手が届く金額が記されていた。さらに、とメルは付け加える。
「これから一つ頼まれごとをしてくれたら、更にここから引いてあげる」
「頼まれごと?」
「そう」
にやりと計算高い顔で笑う彼女に、一瞬クレバールに嫌な予感を覚えた。
走馬灯のようにここ半年のことが走馬灯のように脳裏に浮かぶ。彼女は確かに誠実で、保護対象がいるからと危ない仕事は殆ど持って来ない。が、極まれに非常に厄介なモノを持ち込んでくるのだ。
ついこの間受けた依頼も、その極まれな類のものだった。
――廃墟でどぶさらいとグルナのお守をしながら、やたら居丈高でこちらの神経を逆撫でする依頼人を守りつつ、反社会的思想を持った誘拐犯と格闘する、みたいな、そういうのはもう勘弁願いたいな……
肉体的な疲れは元より精神的な疲れの方が大きい依頼だった。思い出すときりきりと頭痛がしてくる。クレバールは瞼を閉じ、軽く天を仰いでふーと大きく息を吐き出して嫌な記憶を脳内から叩きだした。
「あー……あの時みたいなの頼もうってわけじゃないのよ、もちろん」
彼が何を思い出したのか察したメルが気まずそうに目を逸らしながら、気遣いの言葉を投げかける。彼女自身もあの依頼を請け負ったことに後ろめたい気持ちを抱いているようだった。体を起こしながらクレバールは問い返す。
「じゃ、なんだってんだよ」
「おつかい! ちょっと買ってきてほしいものがあるのよ」
そう言うと小さな紙束をクレバールに差し出した。パラパラと中身を確認する。注文用紙の控えであるらしく、それぞれの紙に店の名前と商品名、それからメルの名前が書かれていた。
品物は香辛料や干し魚が大半で、中にはクレバールが聞いたこともないものもいくつかあった。
「今日は三カ月ぶりに南東からの定期輸送船が来る日だから、今の内に仕入れられるものは仕入れておかないといけないんだけど」
食堂の壁にかけられた時計を振り仰ぎながらメルが続けた。
「今日は特別なお客様も来るから、ちょっと手が放せないの。だから、お願い。商品はもう少ししたら南の第四港に来る定期船が積んでいるはずだし、取り置きの依頼をしてるから名前とその予約票を持って行けば問題なく受け取れるはずよ。あとは……ここから南へは少し距離があるから、いつものを使ってもいいわ。どう?」
「それは問題ないが……これだけか?」
「? そうよ?」
あまりにも簡単な依頼に怪訝そうな顔をするクレバールに、メルも何がそんなに意外なのかときょとんとし、それからふっと笑った。
「さっきまで掃除やベッドメイキングなんかを手伝ってもらってたでしょ? その分も加味してるの。不服かしら?」
ふふん、と腰に両手を当て、メルは胸をそらしてみせる。彼女なりの気遣いなのだ、と思い至り、クレバールは素直に頭を下げた。
「いや、助かる。グルナ!」
まだ跳ね回っているグルナに声をかける。びよびよと立ち止まった反動が残っている彼女が見えるようにクレバールは玄関を指差した。釣られて玄関を見たグルナが首を傾げる。
「ん? なんだ?」
「出掛けるぞ」
「サーカスか!?」
きらんと目を光らせ、勢いよく振り向いてくるグルナに、けれどクレバールは軽く首を振った。
「いや、まずはお買い物」
「えー」
むすりと頬を膨らませる彼女の背中を促すようにぽんぽんと叩く。
「買い物が終わったら、サーカスに行けるから」
そう言い置いて出入り口に向かうと後ろからやったーと喜ぶ声とどたばたと走ってくる足音が追いかけてきた。
と思えば、そのままあっという間に彼を追い抜いて外に出て行ってしまう。
はやくはやくと嬉しそうにはしゃぐグルナと、そんな彼女を追い掛けながらはいはいと諌めるクレバールを、ドアの呼び鈴がからんからんと見送った。
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