第52話 成海紅太の苦悩と加瀬宮小白の難題
「おっはよー、紅太」
「おはよ、夏樹」
いつもの通学路を歩いていると、人懐っこい犬のような笑顔を浮かべた幼馴染の
「夏休みが終わったってのに元気だなぁ、お前は」
「僕は夏休みに対して執着してないからねぇ」
「高校生らしからぬ発言だぞそれ」
「優先順位の問題だよ。僕は友達に逢えない夏休みよりも、友達と日々を過ごせる二学期の方が好きってだけ」
「……悪かったよ。夏休み、あんまり遊べなくて」
「気にしなくていいよ。彼女が出来た夏休み、友達に構う暇がないのは当たり前だし。紅太が幸せならそれでいいから。ま、ちょーっと寂しかったのはホントだけどね」
「埋め合わせはするよ。そのうち」
「楽しみにしとく。……で、その彼女さんとはどんな感じ?」
どんな感じか、と。あらためて問いを投げかけられれば答えに困る。
この夏休み、俺は加瀬宮小白と恋人になった。
小白は家の事情で急な引っ越しがあったりして色々とバタついてたけど、会えるときは会ったりしていた。二人きりになった時の小白は、なんていうか――――甘い。
俺自身、あいつといる時は自分が自分でなくなるぐらいに、抑えが聞かなくなる時がある。
特に二人で行った旅行の時なんかは甘い金色の海に溺れて、逆に向こうを甘やかせて溺れさせて、互いの境界線すらも曖昧になるほど、互いに溺れ合った。
しかし、いくら幼馴染かつ親友相手にとはいえ、直接的に言うのは恥ずかしい。
どう言い換えたものかと、表現したものかと、救いを求めるように周囲を眺めていると――――。
「…………輝いてる感じ、かな」
学校に登校する生徒たちの海の中で、その金色の髪を見つけることはあまりにも簡単だった。
そして、向こうも俺に気づいたのだろう。加瀬宮小白。俺の恋人と、目が合った。
「――――っ……」
だが、小白は俺と目を合わせてすぐに、目を逸らした。
気が付かなかったフリをするかのように。無視をするかのように、そっぽを向いた。
「今、加瀬宮さんと目が合ってたよね?」
「……ああ。たぶん。俺の見間違いじゃなければ」
「無視されちゃったね」
「……そうだな」
俺と小白は学校の中ではまだ他人同士として振る舞う。
そういう約束を、夏休み最後の日にした。
小白は良くも悪くも有名人だし、ヘンに注目されることを嫌がった結果だろうと、俺は納得していたのだが……それとも違う。
他人同士のフリをするにしても、今の場面で無視をする必要はなかった、と思う。
距離があったわけだし。少なくとも、あそこまで露骨に避けられるようなことはない。
「喧嘩でもしたの?」
「いや、してない……はずなんだけど」
昨日の夜、通話していた時のことを思い返す。……うん。何度思い返してみても心当たりがない。
もしかしたら偶然そう見えただけなのかもしれないし、そもそも目が合ってなかったのかもしれない。そう自分を納得させて、俺と夏樹は二学期最初の登校を済ませ、そのまま約一ヶ月半ぶりの教室へと足を踏み入れた。
小白は……教室にいない。おかしいな。俺達よりも先に校舎に入ってたはずなのに。
「――――あーあ、もう二学期かぁ」
喧騒で包まれた教室においても、一回り大きな声。
トップカースト故の遠慮のなさを感じさせる声量は、教室の一角から聞こえてきた。
「夏休み、どーせならあと一ヶ月ぐらい延長しないかなァ」
過ぎ去った夏への名残惜しさを滲ませていたのは、
パーマのかかったこげ茶色の髪は夏樹曰く、中学の頃に好きだった女子の好みに合わせたものらしい。が、その女子には彼氏がいたらしく彼の恋は呆気なく終ってしまったとかなんとか。
「わかる~。めい子的にも、今年の夏休みはちょ~楽しかったし~」
のんびりと頷いたのは、
所謂、ゆるふわウェーブの長い髪に、包容力のある体つき。沢田が王子様なら、絵本の中に出てくるお姫様と称するのがぴったりと当てはまるような女子生徒だ。夏樹曰く、男子からの人気はすこぶる高いらしい。
「ねー。プール、ホント最高だったよね、沢田くん」
小鳥の囀りのような清涼感のある声で沢田に呼びかけた黒髪の女子生徒は、
「うん。またみんなで行こう」
そして、それらの生徒たちの中心にいたのは、沢田猛留。
俺達二年生の王子様で、その爽やかオーラは夏休みを経ても尚、健在。
八木、芽乙女、清水、沢田。この四人が、俺達の教室におけるトップカーストグループだ。
「あ、でも次は迷子にならないでくれよ? 太一」
「探すのめんど~だったしね~」
「うっ。わかってるって。あん時はちょっとはしゃぎすぎたっていうかさ……」
話題は夏休みに行ったプールのことらしい。そういえばいたな、沢田のグループ。
そしてあのプールで、俺は小白と…………。
「紅太、カオ赤くない?」
「気のせいだろ」
ダメだ。あの時のことを思い出すと、小白に会いたくなる。
あの華奢な身体を抱きしめて、独り占めしたい衝動に駆られてしまう――――その時だった。
「――――」
教室の扉が開き、教室中の空気が僅かに波打つ。
悪意でも好奇心でもなく、ただ単純に金色の輝きに教室に居る全ての人の目が惹きつける。
数秒にも満たない。ほんの一瞬。だけど確かに、この世界に刻まれた純然たる事実として。
加瀬宮小白は、ただ登校してきただけで、この場に居る人間全ての視線を独占した。
「――――っ……」
また、目が合った。だけどまた、目を逸らされた。
間違いなくワザとだ。本当なら今すぐにでも理由を問うてみたいところだけれど、教室の中で俺と小白は他人同士……あらためてだが結構辛いぞこの約束。小白からの提案ではあるが、俺も同意したもの。が、いざはじまってみると中々に耐えがたいものがある。
本当なら「おはよう」の挨拶の一つもしたい。
言葉を交わし、同じ時間を共有したい。一分でも長く、一秒でも永く。人生という限りある時間に、小白を刻み込みたいのに。
そんな俺の苦痛を知ってか知らずか、俺から目を逸らした小白はそのまま自分の席についた。
「おはよう、加瀬宮さん」
――――今の俺がかけられない一言を、沢田猛留は口にした。
瞬間。俺は自分の全身を、獰猛な爪牙を宿した熱が駆け巡るのを感じた。
ありたいていにいえばこの激情は嫉妬というものだ。重く黒い泥は、独占欲というものだ。
「…………おはよ」
無視するわけでもなく、小白は挨拶を返した。至極普通の反応だ。
しかしそれは、この教室において俺には向けられない言葉でもあって――――
「夏休み、どうだった? 楽しかった?」
「最高だったけど、それが?」
「ならよかった」
――――なんていうか、これ以上見てられない。見ていたら気がおかしくなりそうだ。できるのはただ、机の上に突っ伏すだけ。
…………いっそもう約束を破ってしまおうか。今すぐにでも席を立って、小白を連れ出して、あの口をキスで塞いでしまいたい。
「…………なァ、夏樹。約束を破る男ってどう思う?」
「そんな紅太は見たくないかな」
「…………ご忠告どうも」
ああ……これを放課後まで耐えなきゃいけないのか。
カレシって、大変だ。
☆
――――私には……加瀬宮小白には、とても大きな悩みがある。
夏休みの間に生まれ、二学期当日になって自覚し、生じた大きな悩みだ。
これは難題だ。今まで解いてきたどのテスト問題よりも難しくて、簡単に答えを出すこともできない。というか、解決方法がまるで思いつかない。
せめて予習ができればよかったんだけど、その問題は突然、突拍子もなく現れたのだから仕方がない。
出現したのはついさっき。
二学期が始まって、学校に登校して、そして私は、カレシが歩いてくるのが見えた。
成海紅太。私が付き合っている人。私がどこまでも溺れている人。
校門に向けて、幼馴染の犬巻と一緒に歩いてくる紅太と目が合った。
その瞬間だった。この難題が私の中に現れたのは。
(――――――――――――は? 私のカレシかっこよすぎない?)
登校してくる生徒がたくさんいるのに、一瞬で見つけることができた。
まだ眠いのかな。少しだけ気怠そうな瞼がたまんない。
今にも吸い込まれそうになる瞳も。甘い唇も。
私を抱きしめてくれた腕も。私より大きな手も、優しく触れてくれたあの指も。
ぜんぶ。ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ好き。好き。好き。
てかもうキスしたい。夏休みの後半は会えないことが多かったし、その分、キスできる機会も減ったし。会えなかった反動のせいか、ちょっと今、自分でもびっくりするぐらいおかしくなってる。
だめだ。だめだ。私、たぶん今、ヘンな顔してる。
「――――っ……」
だから目が合ったのに、つい、逸らしてしまった。
……こんなこと考えてるって、バレたくなかったし。
頭を冷やすために教室には直行せず、ぐるっと校舎を一回りした。
「教室では他人……教室では他人……教室では他人……教室では他人……」
校舎を一回りしている最中、必死に自分に言い聞かせる。
ダメでしょあんなの。あんな宇宙一カッコイイカレシが私のカレシってバレたら、絶対に周りの女子が嫉妬する。ただの嫉妬なら慣れてるし、別にいいんだけど。この嫉妬はきっと凄まじい争いになってしまうに決まってるし。
「――――っ……」
十分に頭を冷やしたつもりだったけど、教室に入った瞬間にまた目が合って、また逸らして。
…………放課後までもつのかな。てかこの調子で私、学校生活大丈夫かな。
「おはよう、加瀬宮さん」
などとこれからの自分を心配していたら、沢田が挨拶をしてきた。
……まあ。これを無視する理由はない。一学期の時みたいな態度とって、紅太に心配されたり迷惑かけたりするの嫌だし。
「…………おはよ」
「夏休み、どうだった? 楽しかった?」
「(宇宙一かっこいい)最高(のカレシと過ごした夏休み)だったけど、それが?」
「ならよかった」
爽やかな笑顔を向けてくる沢田。……はぁ。こいつと話してると、周りの女子から不愉快そうな視線を向けられるからすんごい疲れる。挨拶を返したことを後悔してるレベルで。
特にあの……清水って子の視線が一番疲れる。放課後、紅太に愚痴りたくなる……愚痴ってばかりのカノジョって、カレシからするとどうなんだろ。
それから何か沢田と言葉を交わしたけれど、私の中では『私のカレシがかっこよすぎてやばい』『カレシのことが好きすぎる』『てかキスしたい』という難題がぐるぐると渦巻いていて、なんかもうマトモな会話どころじゃなかった。
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