第19話 女神は眠り、そして笑う【★2022/09/18 修正済】

「…………分かった。答えは白昼夢だ」


 ちょうど集中が途切れていた母さんに加瀬宮が来ていることを告げ、往復するように二階にある自室へと戻った俺は、両の眼が捉えた光景をそう結論付けた。


 そうでなければ、加瀬宮小白がベッドの上で気持ち良さそうに眠ってはいまい。


「ん…………」


 夢じゃなかった。俺の夢にしてはあまりにも解像度が高すぎる。


「神よ……なんとかしてくれ」


 呆然としつつ思わず天を仰いだ。なぜ天を仰いだのかというと、制服のスカートが徐々にあられもない感じになってきたからだ。見えてはいけない隙間から布が見えてしまう前に、今この時ばかりは敬虔なる信徒となった俺は天へと眼差しを送った。


 目を閉じるという選択がとれなかったのは、俺が男という脆弱な生き物であるが故だ。

 とはいえ、いつまでもこのままというわけにもいかない。少しずつ少しずつ、見てはいけないものが映りこまないか慎重に警戒しながら、あらためて加瀬宮へと視線を戻す。


「…………お前、寝顔もこんなキレイなんだな」


 眠りにつく加瀬宮は、おとぎ話の中に出てくる女神のようでもあり、どこか幼さも感じさせる。俺に分かっていることは、きっと世界中の美しいものをかき集めてきたとしても、きっと目の前で眠っている一人の少女の美しさにはかなわないということだけ。


 今はたまたま目の前にあるだけで、本来なら俺如きでは触れることすらできないもの。


「こんなとこで無防備に寝やがって……」


 欲が出てしまう。烏滸がましくも触れてみたい。この加瀬宮小白という世界で最も美しいであろう輝きに、指先でも良いから触れてみたいという、浅ましい欲が。


「………………」


 至極当たり前の話ではあるのだが。

 俺は男子で、加瀬宮は……今、目の前で眠っている女神こと加瀬宮小白は女子だ。異性だ。

 今まで知らなかったわけじゃない。忘れていたことすらもない。ただ、今はそれを強く意識してしまっている。


 胸の中で滞留しているその意識を無理やり押し込め、呼吸を整えて気分を落ち着かせる。

 ……さて。寝かせてやりたいのはやまやまだが、このままにしておくわけにはいくまい。

 今回、加瀬宮が我が家を訪れたのは謝罪のためだ。寝るだけで時間が過ぎてしまっては本人としても不本意だろうし、加瀬宮にとって満足のいく謝罪も果たせない。


「加瀬宮」


「…………」


「起きろ、加瀬宮」


「………………」


 ダメだ。反応がない。このままじゃ起きそうにないぞ。


「…………悪い。あとであらためて謝る」


 謝罪をしながら、おそるおそる加瀬宮の肩に触り、ゆすってみる。


「起きろ加瀬宮」


「んぅぅ…………」


 さっきよりは反応があった。よし、このまま続けよう。


「加瀬宮、かーぜーみーやー」


「…………ん……」


 ようやく加瀬宮の意識が徐々に覚醒しはじめたのか、瞼が開いていく。

 ……まつげ長いなぁ、なんてぼんやりと考えていたら――――目が合った。


「…………」


「おはよう。昼寝は堪能したか」


「…………え? なる、み……?」


「それ以外の何に見えるってんだよ」


「あれ……? 私…………」


「寝てたんだよ。俺のベッドの上で。……ほんとビックリしたぞ。戻ってきたら、すやすやと、それはもう気持ち良さそうにしてたから……」


「~~~~~~~~っ……!」


 俺の言葉を聞いているのかどうか分からないが、加瀬宮の顔があっという間に真っ赤に染まってく。青いりんごが赤くなるまでを早送りの映像で見ているようだった。


「ご、ごめんっ。私……あぁ、もうっ! ありえないっ! ひとんちで寝るとか……!」


 耳の端まで真っ赤にした加瀬宮は手で顔を抑えながら一人悶えはじめた。


「ほんっと……サイアクっ! うぅぅ~~~~~~~~……!」


 それから加瀬宮が落ち着くまで、少し時間がかかった。


     ☆


「あの…………申し訳ありませんでした。色々と」


 沈静化した加瀬宮は、リビングに降りた後、バカ正直に俺の部屋で寝てしまったことを母さんに話した。


「大丈夫よぉ。そんなこと気にしないで。可愛いじゃないの」


「そう言っていただけると……助かります」


 いたたまれない、という言葉はまさにこの時のためにあるのだろうと思った。


「……あ。それと、これ。つまらないものですが」


「わざわざごめんね。……あら、これ『グリアンド』のケーキ? しかもシュークリームまで! この時間帯だと予約しないと手に入らないのに……わざわざありがとうっ! 嬉しいわ!」


「喜んでいただけたなら嬉しいです」


 グリアンド、というのは洋菓子店の名前だ。

 母さんも時々買ってくることがあったので覚えていた。シュークリームは人気商品で、下校の時刻には売り切れてしまう。ということは、webであらかじめ予約しておいたのだろう。


 母さんは甘いものには目が無いので、今にも小躍りしそうな様子で、いそいそと冷蔵庫にケーキを入れていく。


「せっかくだしこのケーキ、一緒に食べましょう。お茶も淹れるわね」


「あ、お構いなく」


「構わせてちょうだい。この子が夏樹くん以外のお友達を家に連れてくることなんて滅多にないんだから……加瀬宮さんは何が好きかしら。コーヒー? 紅茶?」


「紅茶」


 母さんの問いに、俺が代わりに答える。


「あんた、そんなことまで知ってるのね」


「……友達だからな」


「友達、ねぇ?」


「んだよ」


「別になんでもありませんよ。紅茶ね、はいはい」


 ……ここまで生き生きとしてる母さんを見るのはかなり久しぶりな気がするな。

 もちろん、再婚したことで以前よりは明るくなったけど。それを考慮しても、今日はずいぶんと浮かれている。


「はい、紅茶。熱いから気をつけてね」


「ありがとうございます」


「どういたしまして……それで、今日はどうしたの? 紅太の話だと何か用事があるってことだけど」


「…………はい」


 本題に加瀬宮は身体を強張らせながらも、あの二人だけのクラス会の日に、俺が家から出ていってしまった理由を説明しはじめた。


 自分が母親と上手くいってないこと。そのことが原因で落ち込んでいたこと。

 そして、そんな加瀬宮のことを気にかけて俺が来てくれたのだと。


「申し訳ありませんでした。あの日、成海は私を心配してくれただけなんです。あの時の私は……本当に、辛くて。傷ついてて。泣きそうになってて……成海はそれに気づいて、走ってまで来てくれて……」


「走ったことは言わなくていいだろ……」


「言っとかなきゃダメでしょ」


「恥ずかしいからやめてくれ」


「ちょうどいいじゃん。私だってさっき、恥ずかしい思いしたばっかだし」


「それは自爆だろうが」


「違うし。てかさ。そもそも恥ずかしいってなに? 私は嬉しかったけど?」


「は?」


「だから……嬉しかったって言ってんの。あんたが来てくれて、嬉しかったのっ! 泣きそうになるぐらい嬉しかったの! だからいいじゃん、ちょっとぐらい恥ずかしくても!」


「なに怒ってんだよ……」


「別に。怒ってないし」


「怒ってるだろ、誰がどう見ても」


「うるさい節穴」


「節穴ぁ?」


「…………本当に嬉しかったのに……恥ずかしいとか……そこまで言わなくても……」


 ぶつぶつと小声で何かを呟く加瀬宮。


 ……というか、節穴ってあれか。俺の目が節穴ってことか。何か見落としてるとか……? いや、見落とすも何も怒ってるようにしか見えないし……。


「仲がいいのねぇ、あなたたち」


「「…………っ……!」」


 母さんがにまにまとしたことに気づいた俺たちは、ひとまずこの不毛な言い争いを中断する。加瀬宮は恥ずかしそうに頬を赤く染めながら、「と、とにかく」と話を強引に戻した。


「あの日、成海は私のために家を出たんです。私がああなっていなかったら……成海は家にいるつもりだったんです。本当です。だから……」


「もういいわよ」


 必死に言葉を重ねようとする加瀬宮を、母さんは苦笑交じりに止めた。


「うん。ありがとう。十分に伝わったわ」


「……本当に、ごめんなさい」


「加瀬宮さんが謝ることじゃないでしょう? ……ううん。紅太にしたってそう。謝る必要なんてないのよ、どこにも。だって、高校生よ? 友達と遊ぶのが普通じゃない。むしろ謝らなくちゃいけないのは私の方……」


 母さんは俯きながら、言葉を絞り出す。


「家に居づらくさせちゃってるのは、あたしの責任だから……」


「お母さんは悪くありません」


 リビングに入ってきたのは、辻川だった。


「家族は助け合って、気遣い合うのが普通です。一緒にいるのが当然なんです。居心地が悪くても……居づらくても。友達よりも家族を優先させるのが、普通なんです。それが普通の家族というものなんです」


 辻川の指摘は正しい。


「あの日、家を出ることを選んだのは先輩です。それにしたって……加瀬宮先輩を理由にして、わたしたち家族から逃げたかっただけなんじゃないですか?」


 そしてこの正しさを否定できるだけのものは俺には無い。

 当然だ。だって、俺は逃げ続けていた。今も、逃げ続けている途中だ。


「…………そうだな」


 だから俺にできることは、辻川の正しい言葉に頷くことだけだ。


「…………ずるいじゃないですか。そんなの」


 辻川は俺たちに背を向け、そのままリビングを出ていってしまった。


     ☆


「今日は悪かったな、色々と」


「別に。私が謝りたいって言いだしたんだし」


 加瀬宮も謝罪という当初の目的は果たし、早々に帰宅することになった。

 今日は金曜日だ。いつもみたいに店に寄ることはできない。


「……ずるい、か」


「正論すぎて笑っちまうよな」


 辻川の言葉はどこまでも正しい。何もかもが正しい。

 だから俺は言い返す言葉なんてない。


「……ねぇ、成海。私たちって気が合うよね」


「そうだな」


「だったらさ――――もう、成海も気づいてるんでしょ?」


 加瀬宮の言葉に、足が止まる。


「私は分かったよ。妹ちゃんの言いたいこと」


 立ち止まった俺の前には、加瀬宮の背中があって。


「私が分かったんなら、あんただってもう分かってるはずでしょ」


「…………容赦ねぇな。そこから目ぇ逸らして、逃げようとしてたってのに」


「それも知ってる」


 加瀬宮の顔は見えない。後ろで立ち止まっている俺には、背中を見ることしかできないのだから。


他人ひとの家には口を挟まない、他人ひとの家の事情には踏み込まない主義、だったのにな。俺たちは」


「そうだね。それは今も変わってないよ、私たちは。でも……」


 振り向いた加瀬宮と目が合った。


「「あんた(お前)には、踏み込みたいって思ってる」」


 別に示し合わせたわけでもなく。

 俺たちの言葉は自然と噛み合っていた。


「やっぱり……」


「気が合うね、私たち」


「だな」


 自分の主義を壊してでも踏み込みたいと思える相手。

 そんな人が目の前にいることに、俺は言葉にできない温かさが自分の胸の内を満たしていた。


「前に言ったよな、加瀬宮。『逃げたって何も解決しない、問題を先延ばしにしているだけ』って。あの時、俺が返した言葉を覚えてるか?」


「覚えてるよ。『悪いことばかりじゃない。逃げた先に良いことがあったなら、無駄じゃないと思う』……でしょ?」


「その言葉だってさ。結局は逃げてるだけなんだよな。目の前に振ってきた問題に対処してるわけじゃない……でも今なら、言える気がする。ちゃんとした答えが」


「うん。分かるよ。成海の言いたいこと、気づいたこと。それが何なのか。……だからさ。その言葉は、妹ちゃんに言ってあげなよ」


 そして加瀬宮は、今まで俺たちが敷いていた境界を踏み越えた。


「……成海から話を聞いたり、成海ママと実際に話してみたりしてさ、思ったんだよね。……ああ、これが『母親』なんだって。私の家族はもう――――終わってるんだって」


 そう語る加瀬宮の顔は笑っていた。


 こんなにも悲しくて、泣きそうになる顔を、俺は見たことが無かった。

 見ているだけで辛かった。目を逸らしたかった。でも、逸らしてはいけないと思った。ここだけは。今だけは。


「私の家族は、もうとっくに壊れてて、砕け散るのを待ってるだけ。……でもね。成海の家族は、まだ間に合うよ。だってみんな、成海のことを見てるし」


「…………逃げ場がないってのはこのことだよな。お前に言われたら、もうどこにも逃げ場がない」


 逃げたいやつの気持ちが分からないやつの綺麗事は、何も刺さりはしない。

 だけど加瀬宮なら話は別だ。同じ気持ちを理解できる者が吐く言葉は、これ以上なく胸に突き刺さる。


「大丈夫。失敗しても、一緒に逃げてあげるから」


「『失敗』って……まるで俺がこれからしようとしてることを、分かってるような口ぶりだな」


「分かるよ。成海だもん。だいたい予想はつくし」


「気が合うってのも厄介なもんだ」


 止めていた足を動かす。少しずつでも、一歩ずつでも、前に進む。


「するんでしょ。負け戦ってやつ」


「ああ。……悪いんだけどさ。協力してくれないか」


「いいよ。私たち、同盟関係だし」


 踏み出した歩を重ねて前に進み、俺は加瀬宮と肩を並べる。


「とりあえず、作戦会議しよっか」


「いつもの店でな」


 そして俺たちはいつもより少し長い帰り道を逸れて、いつもの店にある、いつもの席へと向かった。


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