第13話 閉ざされた扉【★2022/09/18 修正済】
そこにいたのは、スーツをきっちりと着こなした細身の女性だった。
レディースのビジネスバッグを肩から下げ、見た目はかなりやり手のキャリアウーマンといった感じだ。加瀬宮に向けられている眼鏡のレンズ越しの鋭い眼差しは、咎めるような色味を帯びている。
(『小白』……)
加瀬宮の下の名前を呼べる人間で、このタワーマンションの前にいて。
それに顔つきもよく見てみればどことなく加瀬宮に似ている気がする。加瀬宮が大人になって歳を重ねれば、ちょうどこんな美人になるような。
「…………ママ」
やっぱりそうか。加瀬宮の母親だったか。
加瀬宮のお姉さんが大学生であることを頭に入れると、年齢よりも若々しい。
「私の目が届かないからって、またこんな時間まで外を出歩いてたのね。まったく……いつまでもたっても成長しないんだから」
「…………」
心底呆れたようにため息をつく加瀬宮の母親。
やがてその視線は、加瀬宮の隣にいる俺の方へと向けられた。
「……そちらの方は?」
「申し遅れました。成海紅太といいます。加瀬宮の友達です」
「そうですか。いつもうちの小白がご迷惑をおかけしております」
挨拶そのものは至って普通だが、その言葉にはどこか含みがあるように感じてしまうのは、俺の気にし過ぎか、俺が捻くれているだけか。それとも……。
「今日は学校の方で先生の手伝いがあったんです。俺と加瀬宮はそれを手伝ってたんですけど、疲れたので帰りにお店で休憩してたらこんな時間になってしまいました。俺がつい話過ぎてしまって……申し訳ありません」
「お気遣いは結構です。どうせこの子がまた、くだらないことで引き留めたんでしょう。……まったく。他の人に迷惑をかけないでよ。こっちは忙しいんだから」
「…………っ……」
母親の言葉に、加瀬宮は唇を噛み締めながら小さく拳を握る。
「何か言いたそうね、小白」
「別に、なにも」
「……その気に入らないって目つき。心の中で思うのは構わないけど、顔に出す癖はいい加減直しなさい。みっともないわよ」
慣れたようにため息をつき、加瀬宮の母親はそのままマンションへと入っていく。
そのあとを追うように、加瀬宮もまた力のない足取りで続こうとして――――その前に一瞬、俺と目が合った。
「………………っ……」
加瀬宮は痛みに耐えかねたように視線を外すと、そのまま天を衝かんばかりに聳え立つマンションの中へと姿を消した。
「加瀬宮……」
最後に目が合った時の加瀬宮がどんな気持ちだったのか。
俺はそれが分かるような気がした。俺と加瀬宮は似ている。似ているからこそ、分かる。
――――こんなとこ、見られたくなかった。
加瀬宮が最後に残した瞳からは、彼女のそんな感情が、言葉が、滲みだしているような。そんな気がした。
☆
「……ただいま」
加瀬宮の家から真っすぐに帰宅し、リビングに顔を出して帰宅を知らせる。
「おかえりなさい」
「おかえり、紅太くん。学校のお手伝い、ご苦労様」
「疲れてるでしょ。浴槽のお湯、張り直してるから。お風呂に入ってゆっくり疲れをとりなさい」
時刻は十時も回ろうという時間帯での帰宅。
リビングで執筆活動をしていた母さんと、温かいココアをコップに注いでいる明弘さんが温かく出迎えてくれた。
いつもなら居心地の悪さ、罪悪感、後ろめたさで胸がいっぱいになるはずなのに、今日ばかりはその温かさを素直に受け取ることができた。
(『おかえりなさい』、か……)
この二人は当たり前のように『おかえりなさい』と言ってくれる。
だけど。
(……加瀬宮の母親は言わなかったな)
加瀬宮の母親は、帰宅した娘に対して挨拶の一つも言わなかった。
心配の言葉すらもなかった。ただ咎め、呆れ、面倒そうにしていただけだった。
「どうしたの? ぼーっとして」
「……俺って恵まれてるんだなって思っただけ」
「なに、熱でもあるの」
「ねぇよ」
むしろ、あの加瀬宮の母親という存在が、熱を出した時に見た夢であればどれだけよかったか。
「じゃあ、上に荷物置いてから風呂入るわ」
「あ、紅太くん。上に行くんだったら、琴水にココアを持って行ってもらえないかな。今、勉強してるはずだから」
「……分かりました」
「ありがとう。助かるよ」
辻川とはまだ正直、距離感が微妙だ。
恐らく明弘さんもその辺りのことを見抜いているのだろう。こうして差し入れの役目を俺に頼むことで、兄妹間のコミュニケーションの機会を増やしてくれているというわけだ。
これが赤の他人だったのなら断っていただろう。
上手くいかない人間というものはこの世にいくらでもいるだろうし、合わない人と無理して付き合う必要はない。
しかし厄介なことに、俺たちは家族だ。
学校とは違い、この家族という繋がりはこれからも続いていく。
仮に逃げるにしても、目を背けるにしても、俺たちが『家族』という事実そのものはなくならないのだ。
それに母さんがせっかく掴んだ幸せ。ここでめちゃくちゃにぶち壊してしまおうとするほど、俺だって心が無いわけじゃない。
……と、まあ。そんな風に自分の心の中につらつらと言い訳や理屈を並べ立て、心を強く保った上で義妹の部屋の前に立った。
まずは深呼吸。そして軽くノックして。
「あー、辻川。俺だ」
「なんでしょうか」
「明弘さんからの差し入れを持ってきたんだけど」
「…………少し待ってください」
それから少しして、部屋の扉が開いた。
ルームウェア姿の辻川は俺の姿を一瞥して、
「…………おかえりなさい。帰ってたんですね」
と、まずは挨拶の一言をくれた。
「あ、あぁ……うん。さっき帰ってきた」
「? なんですか」
「……挨拶、くれるんだなと思って」
「普通、家族なら挨拶ぐらいすると思います」
辻川でさえ、こうして『おかえりなさい』と言ってくれる。加瀬宮の母親がどれだけ娘に興味を持っていないか。それがますます浮き彫りになったような気がして、逆に気分が落ち込みそうになった。
「これ、明弘さんから」
「ありがとうございます」
ココアを受け取る辻川。
そのまま立ち去るかと思ったが……なぜか、その場に留まっている。
「……どうして、家を避けてるんですか?」
辻川の問いは俺が家族を避けているということを容赦なく指摘している。
「家族は一緒にいるものです。それが普通で、普通が一番幸せだと思います」
「そうだな。普通が一番ってのは同意する」
「それが分かっているなら、あなたも家にいるべきです」
「……そう、なんだろうな。普通は」
「……家族を壊すつもりですか?」
辻川の指摘に、咎めるような色が滲む。
「私は家族の足を引っ張りたくはありません。だからあなたも、家族の足を引っ張るようなことはやめてください。たとえどれだけ……居心地が悪くたって」
俺がこの家に引っ越してきてから、そして俺たちが家族になってから、辻川がここまで感情を色濃く出してきたことは記憶になかった。
それだけ辻川琴水という少女にとって、『家族』というものが重要なのかが分かる。
「お母さんがいて、お父さんがいる。両親が揃ってる。……やっと普通の家族になれたんです。お父さんは幸せになれるんです。この幸せを壊すようなことがあれば……わたし、許しませんから」
そして辻川は部屋に戻り、その扉を閉ざしてしまった。
固く閉ざされた扉。それを開く術は、少なくとも今の俺にはなかった。
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