第12話 逃げた先にあったもの
ジュースとスイーツという報酬を貪った後、流石にこの時間帯から遊ぶことはできまいということで、夏樹とは帰り道で別れた。
このまま家に帰ることもできたが、俺の足は自然といつものファミレスへと向いていた。
「なんかもう、身体がバッキバキだわ」
合流した加瀬宮は苦笑しながらレモンソーダで喉を潤す。
紅茶ではなくドリンクにしたのは、さきほど学園で飲んだばかりだからだろうか。
「普段あんまり使ってない筋肉を動かしまくった感じがするよな」
「わかる」
バイトで働いた時とはまた違う疲労感。このまま店の椅子と一体化してしまいそうになる。
「加瀬宮はさ……」
「ん?」
「……悪い。ミスった。今のは忘れてくれ」
「無理でしょ」
ごもっともだ。ごもっとも過ぎて言葉も出てこない。
「なに。はっきり言ってよ」
「ちょっと踏み込んだことを聞きそうになったから、自分で止めたんだよ。踏み込んだことは訊かない約束だったろ」
俺たちの同盟はあくまでも愚痴を言い合うだけ。
それ以上でもそれ以下でもなく、お互いのことには踏み込まない。そういう約束だった。
「あー……」
加瀬宮は一瞬だけ悩み、考えた後……。
「じゃあさ。こうしない? 成海は私に踏み込んだことを一つ訊く。その代わり、私も成海に踏み込んだことを一つ訊くってことで。これなら
「逆にそっちはいいのか?」
「まあ、成海だし。それにこのままじゃめちゃくちゃ気になるし」
成海だし。その言葉の意味こそ、つい踏み込んで問いたくなるが、そこはぐっとこらえる。
「……わかった。それでいい」
「じゃあ、はい。成海からどーぞ。踏み込んだことを質問してみてよ」
「そんな大したことじゃないんだけど……加瀬宮って、ずっと自分の噂を放置してただろ。なのに、今日は誤解をとこうとしてたのはなんでかなって。そんだけ」
これはあくまでも加瀬宮個人の問題だ。
あの噂について本人がどう思っていようと構わないし、急に誤解をとこうとしても構わない。それは加瀬宮が決めることであり、俺が口出しするものでもない。
だけど気になってしまった。踏み込んだことだと、同盟に反していることだと分かっていても。
「…………あー。そのこと、ね」
「言いにくい事情があるなら、別に言わなくてもいいけど」
「や。そういうのは、ない。ないけど……」
加瀬宮にしては珍しく歯切れが悪い。誤魔化すようにストローに口をつけ、残り僅かだったレモンソーダを一気に飲み干した。
「…………ああいう噂、好きじゃないんでしょ」
「…………? 俺がか?」
「自分で言ったことじゃん」
「言った。確かに言ったけど……それが理由?」
「…………悪い?」
「悪くはないけどさ。よかったのか? あの噂は加瀬宮にとっての自衛なんだろ」
「そうだけど……友達を不快にさせてまで放置しておくもんでもないって思っただけ。ホント、それだけだから」
加瀬宮が『それだけ』と言うのなら、それだけなのだろう。
これ以上は流石に踏み込めない。時と場合にもよるが――同盟とは関係なしに、聞かれて答えにくいことにできるだけ踏み込まないというのは、対人関係における最低限のマナーだ。
「はい、この話は終わり。おしまい。じゃあ次、私の番ね」
「お、おぉ……。なんでもこい」
「んー……でも、いざ質問するとなるとあんまし思いつかないかな」
「なんでもいいぞ」
「そういうこと迂闊に言わない方がいいんじゃない?」
「加瀬宮を信頼してるからな」
「ふーん……そ、そうなんだ」
目を逸らされた。バカな。俺の信頼が届かなかったとでもいうのか。
「じゃあ……妹ちゃんの名前を教えてよ」
「名前? うーん……どうだろ。一応、個人情報だしな。というか、なんで?」
「私の個人情報は成海家に伝わってるのに、私はそっちの情報を何も知らないってのもね」
「あー……それもそうだな」
前回の電話の件で『加瀬宮小白』という名前は、成海家……戸籍に沿って言うならば『辻川家』の面々に知れ渡っている。それこそ義妹である辻川琴水だって、『加瀬宮小白』という名前は知っているわけで(それ以前に噂の件で有名だったため、電話の一件がなくとも知っていたようだが)。
「……分かった。加瀬宮を信頼して教える。念のため釘を刺しておくけど、周りには言いふらさないでくれ」
加瀬宮は「わかった。約束する」と言って頷くと、俺からの言葉を待った。
「
「辻川琴水……それって、一年生の?」
「そうだけど、よく知ってるな」
「友達から聞いたことあったから。すごく優秀な一年生がいるって。確か、入学式でも学年代表として挨拶してたでしょ?」
言われてみればそうだ。辻川は成績トップで入学した優等生。
二年生以上の生徒たちの中に、一目置いている者がいても不思議ではない。
まさかこんなところで義妹のスペックの高さを再認識することになろうとは。
「そっか。あの子が妹だったんだ。……大変だね」
「そうだな。色々と、大変だ」
辻川が悪いわけではないことは重々承知している。
あの家の居心地の悪さは俺が招いているものであり、それ故に彼女に対する後ろめたさも大きい。
「成海はさ。優秀な妹ちゃんに負けないように努力する……とかは、してみないの?」
「…………昔の俺だったら、そうしてただろうな」
「今は違うんだ?」
「今の俺が、そんなことするような人間に見えるか?」
「あははっ。見えない」
「だろ?」
そんなことしたって結果は見えている。
見えている結果を現実のものとした時、あの家での居心地は更に悪くなることだろう。
「そこも同じだ。私も昔は努力してたんだよね。でもダメだった。お姉ちゃんに勝てるものなんて、一つもなかった。ママは私のことを諦めて、私も自分のことを諦めた。お姉ちゃんに勝てるものを探すことも、勝てるように努力することも、全部やめた」
加瀬宮も、俺も。どちらも立ち止まった人間だ。
世間は言うだろう。諦めるな。立ち止まるな。逃げるな。努力し続けることが大切だ、と。
……分かっている。綺麗事はいつだって正しい。どんな時だって間違っていない。
俺も加瀬宮もそれは分かっている。綺麗事の正当性を理解しているからこそ、後ろめたい気持ちがあるんだ。
「私は、お姉ちゃんから逃げたんだ」
「逃げたっていいだろ、別に」
「……そうかな。逃げたって何も解決しないでしょ? 問題を先延ばしにしてるだけだし」
「そうだな。確かに解決はしない。いつか先送りにした問題が、目の前に振ってくることもあるだろう。……でも、悪いことばかりじゃない。逃げた先に良いことがあったなら、無駄じゃないと思う」
「良いこと?」
「俺は家族から逃げた。でも、逃げた先にあったこの店で、加瀬宮と友達になれた」
「………………それって、良いことなの?」
「俺にとっては良いことだ。まだお前と友達になって数日ぐらいだけど……この店で加瀬宮と過ごす時間は、けっこう好きだぞ」
加瀬宮は何も言わなかった。驚いたように、俺の顔を見つめるばかりだ。
「俺は逃げてよかったと思ってる。加瀬宮はどうだ?」
「…………」
加瀬宮は俯いている。自分の心に、あらためて問いかけるように。
「…………私も、同じ」
そして。彼女は噛み締めるように、言葉を絞り出していく。
「前は罪悪感があった。後ろめたさがあった。でも今は、逃げてよかったって思ってる。ここであんたと喋ってる時間は……うん。楽しいから」
いつの間にか、後ろめたさを抱えて逃げ込んでいたこの店に行くのが、楽しみになっていた。こうして言葉にするまで、自分でも気づかないぐらいに。
それはきっと加瀬宮も同じだと思う。同じだといいなと、俺は思う。
「つーかさ……ふふっ。逃げてよかったとか、ヘンなの。普通は逃げるのはダメでしょ」
「……だな」
――――俺は加瀬宮の姉であり、世間的にも有名なkuonという人をよく知らない。
だけど今、目の前にいる加瀬宮の笑顔はきっと……お姉さんには負けてはいないと思う。
これ以上に魅力的な笑顔を俺は他には知らないし、想像することなんてできないから。
☆
会計を済ませると、いつものように店を出て加瀬宮を送っていく。
道中での会話は少ない。店で色々と話していたというのもあるが、あの加瀬宮の笑った顔を見た後、俺はどういうわけか言葉があまり出てこなくなった。
なぜかは分からない。自分でも少し動揺しているぐらいだ。
それに加瀬宮の様子も少しおかしい。いつもより口数が少ない。
…………分かった。これは恐らくだが、照れているのだ。俺も。加瀬宮も。
冷静になって思い返してみれば、ちょっと恥ずかしいことを言ってしまった気がするし、聞かせてしまった気がする。
何より、勢い余って喋り過ぎた。踏み込み過ぎたような気もしている。
幸いというべきか、店から加瀬宮の住んでいるタワーマンションまで五分程度で到着する距離だ。
「……着いたね」
「……着いたな」
たぶん、お互いにほっとしていると思う。あとはいつも通り、型通りの言葉を交わすだけだから。
「……じゃあ、またね。成海」
「……またな。加瀬宮」
本来なら、あとはマンションに入っていく加瀬宮の背中を見送るだけだった。
「こんな夜遅くまで、いったいどこを歩いていたの――――
冷たい女性の声が、加瀬宮にかけられるまでは。
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