第5話 成海紅太の家庭事情【★2022/09/18 修正済】

 同盟相手の気遣いによってもたらされた、いつもより少し遅めの帰宅時間。『辻川』という戸籍上の姓が刻まれた表札を横目に、心なしか重い新居の鍵をあける。

 そのまま息をひそめて見つからないように二階へと直行……したいところだが、流石にリビングには顔を出すようにはしている。


「…………ただいま」


「おかえりなさい」


 リビングのテーブルの上にタブレットを広げて原稿を書いていた母さんが顔を上げ、俺の帰宅を出迎えてくれた。


「おかえりなさい、紅太くん。バイトお疲れ様」


 そして母さんと一緒に俺を出迎えてくれたのは、辻川明弘つじかわあきひろさん。

 俺の新しい父親であり、母さんの新しい夫となった人。

 ……仕事も忙しいはずなのにこうして俺を出迎えてくれるあたり、やっぱり良い人だ。


「今から真紀子さんにコーヒー淹れるんだけど、君も飲む?」


「あー……えっと、俺は大丈夫です。ありがとうございます」


「そっか。もう夜だもんね」


 特に気を悪くした様子もなく、明弘さんは母さんの分のコーヒーを淹れる。


「じゃあ……俺、部屋に戻ります。おやすみなさい」


「うん。おやすみなさい。ゆっくり休んでね」


 何のためにリビングに顔を出したのか。それを特に指摘することも突くこともなく、明弘さんは二階の部屋に向かう俺をそのまま見送ってくれた。

 ……本当に、良い人だ。

 明弘さんと接していると、つくづく思う。

 俺は子供ガキだと。そして未だ馴染めていない、それどころか逃げてすらいる自分の不甲斐なさ、彼らへの後ろめたさを。


 ――――お前は、どれだけ俺を失望させれば気が済むんだ?


「…………あー……くそっ。嫌なこと思い出した」


 頭の中にフラッシュバックする、アイツの声。

 今になっても忘れられない、自分の奥深くに刻まれ、こびり付いた記憶。


「クソ親父……」


 本当にどうかしている。明弘さんみたいな良い人を素直に「父さん」と呼べないくせに、あのクソ親父のことは未だに「親父」と呼ぶことができるなんて。


 こういう時、嫌というほど自覚する。

 俺の中で『父親』という存在は色々と複雑だということ。そして、『アイツ』が今もなお俺の心の中に居座っていることを。


 ……さっさと風呂に入って寝てしまおう。

 心の中でそう決め、足早に二階の廊下を歩こうとした矢先だった。


「帰ってたんですか」


 かけられた声の主は、一つ年下の少女。

 やや小さめの体格を淡い色のルームウェアで包み込んでいる。腰まで伸びた髪は乱れ一つなく、佇まいや所作から清楚で上品な印象を受ける。


「あぁ……うん。ただいま、辻川」


「おかえりなさい。成海先輩・・・・


 お互いにぎこちない挨拶。俺はなんとか絞り出した一言だけれども、相手の辻川……義理の妹になった辻川琴水つじかわことみ


「…………」


「…………」


 挨拶を済ませたところで会話終了。互いに無言となってしまい、実に気まずい時間が流れる。このままさっさと部屋に入りたいところだが、それには辻川を横切る必要がある。廊下の幅はそう広くはない。……つまり、無理だ。


「…………お父さんが、なにか?」


「あっ」


 ついさっき、自分が吐いた「クソ親父……」という言葉を思い出す。

 まずい。確かにここだけ聞けば、明弘さん……辻川の父親に対する不満の言葉、罵倒と捉えられても仕方がない。


「いや、違う。今のは独り言っつーか……あー……そうじゃなくて」


 どんどん言い訳がましくなっていく。これじゃあ誤解を解くどころか誤解に信憑性を与えていくようなものだ。


「今のは明弘さんに対していったわけじゃなくてさ……前の、父親のことだよ」


「…………そうですか」


 少なくとも誤解は解けたらし。内心でほっとする。


「いつもより帰りが遅かったですね」


「悪かった。ちょっと友達を家まで送ってたんだ」


 さっそく締結したばかりの同盟いいわけを利用させてもらう。


「事情は分かりましたが、だとしても連絡の一つぐらいは入れた方がいいと思います。お母さん、心配してましたよ」


 …………お母さん、か。

 凄いな辻川は。俺はまだ明弘さんのことを面と向かって「お父さん」とすら呼べていないのに。だからこそ自分の情けなさと後ろめたさが腹の底で顔を出す。


「悪い。これからは気をつける」


「……それがいいと思います」


 そう言うと辻川は背を向けて、自分の部屋へと戻っていく。


「みんな揃って一緒にいるのが、普通の『家族』ですから」


 気持ち的には大きなボス戦を終えたような感じだ。安堵の息を吐き出し、部屋に戻ったところで――――ふと、思う。


 俺は廊下で辻川と出くわしてしまった。つまり、辻川は一階に降りる用があったはずだ。

 ……だったら。辻川のやつは、結局なにをしに部屋から出てきたんだろう。


 小さな謎を残して、その日の夜は過ぎていった。


     ☆


 翌朝。

 顔を洗ってからリビングに入ると、朝の爽やかな空気によく合う上品な香りが漂っていた。


「おはよう、紅太くん」


「……おはようございます」


 よし。これで朝の挨拶ノルマ達成。……ノルマと感じてしまう自分が嫌になってくるな。


「おはよう、紅太。ほら、あんたもはやくテーブルについて。朝ごはん、今日も琴水ちゃんが作ってくれたんだから」


 テーブルの上には白米に鮭の醤油焼き、味噌汁に小松菜などの副菜が揃っていた。

 お手本のような朝食だ。母さんと二人で暮らしていた頃は、だいたいがトーストだったっけ。母さんは仕事柄(?)夜更かしをすることが多く、朝はそれだけで済ませることが多かった。勿論、それに不満を抱いたことはない。むしろ俺のために余計な時間をとってほしくはないとさえ思っていた。そんなことがあったもんだから、ここまで凝った朝食が出てくると毎回ちょっと驚いてしまう。


「いただきます」


 テーブルについて俺もありがたく朝食にありつく。


「あー、美味しい。こんな朝食を毎日食べられるなんて幸せねー」


「ありがとうございます、お母さん。苦手なものはありませんか?」


「ないない。琴水ちゃんが作ってくれたものなら、なんでも美味しいわよ。ね、紅太」


「あ、ああ、うん。どれも美味しいよ」


「それは何よりです。……まったく、お父さんも少しは二人を見習ってくださいよ? 未だにピーマンが食べられないなんて」


「うっ。だ、だって苦いんだから仕方がないじゃないか」


「子供じゃないんですから」


「面目ない……」


 傍から見ればきっと一家団欒の一幕、なのだろう。たぶん。

 しかし、俺は知っている。この一家団欒の会話は、ある話題をできるだけ避けるようにしていることを。例えるなら、見えている地雷を避けながら慎重に地雷原を進んでいるような。そんな感じだ。


 そしてその地雷原を構築しているのが他ならぬ俺自身だという自覚があるだけに、申し訳なさと居心地の悪さが体を苛む。


「そういえば琴水。もう高校には慣れたか?」


「はい。特に問題はありません」


「入る部活はもう決めた?」


「いえ……実はまだ、部活に入るかも迷ってる段階で」


「そう。じっくり考えてね。きっと琴水ちゃんなら、何をやったって上手く――――」


 そこで、母さんの言葉が途切れた。誤って地雷を踏みぬいてしまったような、そんな顔だ。


「そうだな。辻川なら、きっと何をやっても上手くいくと思う。だから気負わず、じっくり考えてみるのがいいんじゃないか」


 途切れた母さんの言葉を上手く繋げることができただろうか。

 そんなこと、二人に訊いてみるわけにもいくまい。


「ごちそうさまでした」


 丁寧に作られた朝食を一気にかきこんだ俺は、そのまま食器を片付けてしまう。


「じゃあ俺、先に行くわ。いってきます」


「え、ええ。いってらっしゃい」


 鞄を掴んでそのまま家を出る。いつもより登校時間は随分と早めだが、仕方がない。

 気兼ねない一家団欒の場に、俺は邪魔だ。


     ☆


 ――――端的に言えば、俺は父親の期待に応えられなかった子供だ。


 運動も勉学も、父親の満足する水準に到達したことはない。それが母さんが離婚する原因となった。


 そして再婚相手の明弘さんには、何をやらせても完璧な辻川琴水がいた。


 出来損ないの俺と、完璧な義妹。


 これは明言したわけではないが――――明弘さんと再婚し、辻川琴水という完璧少女を迎えた母さんは、きっと心に決めたのだろう。


 父親から出来損ないとして見捨てられた俺を刺激するような話題ことは言わない。


 たとえば、兄と義妹を比較しない。

 たとえば、義妹の優秀さを褒め過ぎない。

 たとえば、個人の能力に関して言及しない。


 俺と接する時は、それらの話題をNGワードとしている。

 無論、離婚の経緯は明弘さんにも共有されていることだろう。


 それが母さんなりの気遣い。新しい家族としてのルール。

 されど――――それは、義妹たる辻川琴水が本来浴びるべき賞賛を損なうことでもある。

 難しいと思う。出来損ないの息子と優秀な義妹を持つ親としての振る舞いというものは。


 ただ…………そうした『気遣い』は、どうしても俺には伝わってしまう。

 気遣われていることが分かっていると、やはり居心地は悪くなってしまうものだ。

 が、母さんは悪くない。明弘さんだって悪くない。辻川琴水が悪いわけがない。


 では誰が悪いのか? そんなのは決まっている。


 成海紅太という出来損ない。ただ一人。


 新しい家族の団欒を壊しているのは、他でもない。俺なのだ。


「それが分かってるからこそ、居づらいんだよな……あの家は」



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