第8話 2008年6月の勝利のうたを忘れない。その1
https://kakuyomu.jp/users/t-aizawa1971/news/16817330663817393192
目が覚めたら既に辺りは明るくなっていた。
そして視線の先には見慣れた天井が……俺は昨夜の記憶を呼び起こす。
確か司とへべれけになるまで酒を飲んでスタジアムに忍び込んだとこまでは覚えている。
でも、この天井は見慣れた実家の天井だ。八王子SCに入団してから、俺はハチスタの中にある選手寮で生活していた。その方が家賃もかからないし食費も浮くし何かと捗るからだ。
プロのフットボーラーなんて、ボール蹴ってるか、飯食ってるか、寝てるかのどれかなんだから。
それにプロのフットボーラーが実家通いってのもあんましかっこいいもんではない。
というか、昨日はあの後、実家に帰っちまったのか?まあ、確かにハチスタから歩いて10分の距離にある実家だ。無意識に実家に足が向かったとしても不思議ではない。
これが帰巣本能ってやつか。選手をやめて、これから先、昨晩のように司にしょっちゅう連れ回されるようになるのかと思ったらゾッとした。
司に合わせてテキーラを飲むのはもうやめておいた方がいいかもな。俺はそんなことを思いながらゆっくりと膝を曲げ始める。
選手を止めたからと言って、この朝のルーティーンは一生変わらないとなじみの整体師から告げられた時は目の前が真っ暗になった。
まあ、でも、しょうがない。人は何かを手に入れるためには何かを犠牲にしなくてはならないのだ。
でも、4年間のプロフットボーラーとして得たものが、この先一生付き合っていかなくてはならない不便な体とつり合いが取れているかと言うと言葉が見つからない。
まあ、二日酔いの頭で何を考えても建設的な考えは浮かばない。
俺は人生で初めてと言っていい二日酔いと言うものを実感しながら、ゆっくりと膝を曲げ始める。
しかし、これが二日酔いと言うものなのか?想像していたよりも全然苦しくない。
むしろいつもよりも爽やかなくらいだ。これはもしかしてまだテキーラが残っているからなのだろうか?
そんな愚にもつかない戯言を考えながら、ベッドの中でゆっくりと膝を曲げる……と、思いもかけず、あっさりと曲がった。
どうやら、テキーラには関節を柔らかくする効果があるのかもしれない。
だとすると、司があんなに無茶な飲み方をするのも納得と言うものだ。
と、その時、「神児ー、朝よー!!」1階から威勢のいい母さんの叫び声が聞こえた。
そりゃ、朝だけれどさ、今日一日くらいはのんびり寝ててもいいじゃないか。これまで20年以上、早起きしてボール蹴ってたんだから。
「神児ー、早く起きなさーい!!」
しかし母さんは俺のそんな気持ちには一切配慮などしてくれず、相変わらず威勢のいい怒声を繰り返す。しょうがない、起きるか。
まぁ、深夜に勝手に家に帰ってきたんだ、昨晩迷惑をかけたかもしれない。俺はテキーラのおかげかどうかわからないが、ここ数年来ないくらいの心地よい朝の目覚めを堪能しつつ、ベッドから降りる。
あれま、本当に膝痛くないや。思わず口元がにんまりとにやける。
「神児ーいい加減にしなさーい、今日、試合でしょー!!」
母さんのその怒鳴り声に背筋がゾクリとした。
ねえ、母さん、おかしいでしょ。昨日の俺の引退試合、親父と一緒に見に来てくれたじゃないか。
しかも引退のセレモニーで花束渡してくれる時、なんでか俺より先に二人とも泣いちまって、俺が慰める羽目になったなんだか締まらない会になったの忘れちまったのか?
一瞬、若年性アルツハイマーという言葉が脳裏に浮かんだ。というのも、先日ドキュメンタリー番組で見てかなりショックを受けたんだ。
俺は急いで階段を下りる。
しかし、なんだか心持ち、世界が広く感じられる。
急いでキッチンにやってくると、母さんは鼻歌交じりで弁当を作っていた。いったい誰の弁当なんだそれ?
というか、妙に母さんが若々しい。ねぇ母さん、最近いいエステでも見つけたの?
まさかそんな思ったままの言葉を言えずもごもごと口ごもっていると、
「ほら、神児、さっさと顔洗ってきちゃいなさい」そう言いながら、なんだか見覚えのある弁当箱にウインナーを詰めている。
確かに母さんが若返っている。俺は思わず正直に言う。
「ねぇ、母さん、若くなったね」
「………………」
思わず見つめ合う母と息子。母さんはなんて言葉を返していいか首をかしげていると、
「プッ、やだわー、神児、お世辞言ったって何にも出てこないわよ。まあ、でも、ハイ」と言って、弁当に詰めていたウインナーを一本取り出し俺の口に突っ込んできた。
「ほら、早く顔洗ってきなさい」
明らかに何かがおかしい。俺はその原因が何かを突き止めるべく、ウインナーを食べながら、とりあえず、洗面台に向かった。その途中で!!
「おっはよー、おにいちゃーん」
大学生の弟の春樹が、幼稚園児の格好で洗面所からやってきた。
ゴメン、自分でもなに言ってるかわからないけど、俺には弟がいて今、大学の寮で生活してるんだ。で、その、弟が幼稚園児の格好して幼稚園児になって目の前にいる。
あまりの衝撃に俺は口から食べかけのウインナーを落っことした。
「ん?どしたの、お兄ちゃん」
そう言って、俺の落っことしたウインナーを拾い上げると、「はい、」と言って手渡してくれた。うん、素直ないい子だ。
春樹はそのまま俺のことなど気に留めずさっさとキッチンに向かっていった。「ママー、僕もウインナーちょだーい」
俺はもうわき目も触れずそのままズンズンと洗面台に向かう。途中トイレの中からお父さんが「おはようー神児ー」と挨拶してくれたがガン無視だ。
そして洗面台まで来ると、大体の予想はついていたが……あたらめて見て見るとさすがにショックを隠し切れない。
そう、鏡の中に小学生の俺がいた……って、小学生であってるんだよなコレ。
俺は一旦洗面台に両手をついて、目を瞑り考えてみる。
これってもしかして、まだ夢の中?
試しにほっぺをつねってみる。うん、イタイ。
それともテキーラの神様の悪戯?とりあえず水を飲む。うん、美味しい。
俺はとりあえず鏡に映った自分の顔をべたべた触り、そしておもむろにパンツの中を覗いてみた。
うん、確かに俺のだ。
これは鳴瀬神児の体だ。間違いない。
そして多分まだ小学生だ。うん。
ズボンをまくり上げて左ひざを見る。メスが入ってない。
今度は右のかかと。うん、ここにも手術の傷跡が無い。
シャツを脱ぐ、あばらの折れた後がない。ってか、顔も傷が全くない。おでこの生え際に針で縫った後もない。
そうだ、思い出した、俺まだこの頃、きれいな体だったんだ。
気が付くと俺はすっぽんぽんになって鏡の前で感動していた。
と、キッチンから春樹がウインナーを咥えながらやって来て、「何やってんの、おにいちゃん?」と不思議な顔をしていた。
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