第9話 予兆

 

 その日、まだ夜が明け切らぬうちに、アーシェは身支度をして港へ行った。

 一週間以上がたった今でも王子はこの街に滞在していたが、父にスフェラ商会の長として頼まれたのだ。

 何でも、どうしても大きな海生石が必要になったらしく、常ならばそう言う期限を区切られた仕事は引き受けないが、気軽に断れない筋からの依頼だったそうだ。

 だから普段はアーシェが潜ることをよく思っていない父も、一番確実に大きな石を取れるアーシェに頼まざるを得なかったのだった。

 すでに昨日のうちに、王子のほうにはアーシェをつけることができないと連絡を入れてある。


 アーシェは久方ぶりに遠潜りができることに心が浮き足立っていた。

 何十日かぶりにクラーケンに会えるかもしれないのだ。

 聞いて欲しいことがたくさんあった。


「アーシェ、今日はちょいと海が荒れそうだ。気を付けていってこいよ」

「うん、わかった!」


 船長に返事をするや否や、アーシェはとぷりと海に身を投げる。

 そうして、光の筋を引き連れて、一気に加速潜行していった。





 古代都市付近に近づけば、いつもの通り、青紫色の触腕が迎えてくれた。


「クラーケン久しぶり!……って、最近こればかりな気がするわ」

《我には数週間など瞬きの間だ》

「私にとってはそうじゃないのよ。寂しかったもの。自由に泳げないもの、あなたに会えないのも」


 いつもの塔でアーシェが苦笑すれば、都市の中にある触腕がくねる。

 その動き方は初めて見た気がしてなんだか気になったけれど、触腕からはなにも伝わってこない。

 この意志疎通は気持ちのほんの表面しか伝わらない。

 だから、ふつうに話をするときのように、言葉にして伝えようとクラーケンが思ってくれなければ、アーシェには読みとれないのだ。


「クラーケンは私がいない間、なにをしていたの?」

 《いつもと変わらない。都市の周辺で回遊していた》


 クラーケンの思念は平静だ。いつもと変わらない。気のせいだったのか。


《陸では、何があったのか》

「ああ、そう! その事でたくさん聞いて欲しいことがあるの!」


 アーシェは目をつり上げて、会えなかった分を取り戻すように今までのことを語った。


「あの王子ったらおかしいんだからっ! 王子様なのに、職人は質問責めにするわ、一緒にお酒は飲むわ、作業は何でもやりたがるわ!

 それでうまくいかなくて、けなされても笑われても楽しそうなのよ? できないんだから当然だって。自分で体験してこそ職人達のすごさがわかるから、興味のあることはためらわないんだって」


 こんな事、潜り手仲間には愚か父にだって話せない。

 王子の身分を知っていてけなすような発言をすれば、不敬罪で捕まってしまうかもしれない。

 人の世には関係ないクラーケンだからこそ、想いを全部吐露できる。

 あの王子にはさんざん引っ張り回されたから、その鬱憤を思う存分吐き出したかった。


「極めつけは海生石を自分で潜って取りにいったのよ?変わり者もあそこまで来れば立派なものだと思ったわ」

《アーシェ、そろそろ石を探した方がいいのではないか》


 話を次ごうとした瞬間を見計らってそう言われ、アーシェは青い眼をぱちぱちとさせた。

 いつもよりずっと早くクラーケンに話を遮られてしまい、むっとするよりも戸惑い、今までの話を考えてちょっと不安になる。

 たどり着いて早々一気にまくし立てたのが不快だったのだろうか。


「ごめん。私の話、つまらなかった?」

《いや、そうではなく。……嵐が近づいている。早く帰った方がいい》


 長いつきあいとアーシェの観察眼で、それだけが理由じゃないと気づいていたが、帰れなくなるのは困るので、不承不承うなずいた。





 海生石を見つけるのには少し時間がかかった。

 一応みつかりはしたが、どれもふつうの潜り手が採るような小粒のもので、父の望む大きさの海生石は見あたらなかったのだ。


 それでめったに使わない海生石の唄を歌い、何とか望み通りの大きさの石を見つけほっとしたときには、すでにあたりから不穏な気配が忍び寄ってきていた。


「もう上の方は荒れているかしら。船が大丈夫だといいのだけど」

《そこまで見送ろう》


 アーシェは差し出された青紫色の触腕に、目を丸くした。

 海底都市から離れないクラーケンが、見送るというのだ。

 今まで一度もそんなことなかったのに。


「え、でも、いいの?」

《海面まで送る》


 まるで別れを惜しむ恋人のようではないか、とアーシェは今までの不安を吹っ飛ばして、差し出された触腕に飛びついた。

 触腕から伝わる気配は素っ気なかったけれど、アーシェをくるむ力は優しい。

 苦しくないよう、傷つけないよう、細心の注意を払われて、ゆっくりとアーシェを乗せた触腕は高く高く水面に向けてのぼっていく。


 案の定、上に行くにつれて、静かだった海流が荒れ始め、水が若干濁り出す。

 そのうねりはアーシェでも少々手こずったかもしれない。


《少し、船とは離れているようだな》

「大丈夫、これくらいならまだ泳げるから。送ってくれてありがとう」


 感謝の意味を込めて、ぎゅっと抱きついてから、ゆるむ触腕の中から抜け出して船に向かって泳ぎ出す。

 すると、いくらもたたないうちに、アーシェの名を呼ぶ潜り手達の声が聞こえてきて驚いた。

 船の近くに顔を出せば、ほっとしたような怒ったような船長の顔に出迎えられた。


「おまえ、無事だったかっ。急に海が荒れ始めたから呼び戻そうとしたらいなくてよ、近くの潜り手達と一緒に探してたんだぞ!」

「そうだったの!?」


 目を丸くするアーシェの傍らに、次々と潜り手達が現れる。

 それほどの騒ぎになっていたとは気づかなかったと、申し訳ない気持ちで船にあがったアーシェは、その直後に海面から王子が現れてさらに驚く。


「トヴィ様!? なんでいるんですか!」

「その兄ちゃんも、探索に加わってくれてたんだよ。よっくお礼を言っておけよ」

「すみません! ご迷惑をおかけしました!」

「無事でよかった」


 船に近づいてくる王子の手を握って引き上げたアーシェは、王子の顔がひどくこわばっていることに気がついた。


「どうかなさったんですか。もしかして、お加減でも」

「……いや」


 いつもより覇気のない返事をした王子はそのまま港につくまで、船の片隅で、黙りこくっていた。

 王子の様子が気になったアーシェだったが、潜り手達に口々にとがめられつつ無事を喜ばれたのに応じるだけで時間が過ぎた。

 結局話しかけられずに港へ降り立たのだが、そこで王子に腕を捕まれ引き留められた。


「アーシェ、話したい。時間をくれないか」

「な、何ですかいきなり」

「君が海の中で共にいたものについてだ」


 その、恐ろしいほど真摯な表情にアーシェは、自分から音を立てて血の気が引いていくのを感じていた。

 だめだ、だめだ。平静になれ。まだ決まった訳じゃない。


「何の、事でしょう」

「あの青紫色の触腕だ底のほうに巨大な本体が隠れているのだろう。君はあれがどんなに危険なものか知っているのか」


 その意味深な言葉が、アーシェの癇に障った。

 この街の出身でもない、実際に彼に会ったこともない、しかも海に潜り始めたばかりの王子に、なにがわかるというのか。

 そんな反論が喉元まででかかったが、王子の痛ましいものを見るようなまなざしと、捕まれた腕の強さに戸惑った。


「私の話を、聞いてくれないか」


 その言葉が、あまりにも苦しげで、アーシェは気がつけばこくりとうなずいていた。

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