第4話 海底の都市

 アーシェは水を吸って重くなった衣を脱いで下着シュミーズ一枚になる。

 と、てしり、ととがめるように頭に触腕がおろされた。


 《アーシェ、年頃の娘なのだから、少しは自重しなさい》


 その、たしなめるだけで全然動揺などしていない声音は、毎度のことながら悔しいと思う。

 こちらは毎回ちょっぴり緊張しているというのに。

 海で日差しを浴びても白い肌は、同じ潜り手の娘にはうらやましがられるし、まろみを帯びている身体の曲線は、青年達からの熱を帯びた視線をもらう。

 ならば彼も誘惑されてくれないかとためし続けているが、動揺している風だったのははじめだけで、今では触腕の色も変わったりしないから、今ではほぼ習慣だ。

 そんなことはいえないから、アーシェは衣を塔の欄干に干しつつからからと笑った。


「なぜ? あなたと私しか居ないのに。それに濡れた服を着続けるのって、気持ち悪いのだもの」

《だがね》

「それよりもクラーケン、デートしよう!」

《また、かね》

「好きな人とは何度でもしたいものよ」


 そうして触腕に抱きつけば、あきらめたように触腕の一本がアーシェを掬い取って移動する。


 すいっとおろされた石畳の路を、アーシェは触腕を握りつつ歩いた。

 海底都市の道は貝殻の裏側のようにすべらかだ。

 所々建物が壊れているところがあったりはするけれど、何百年、下手すると何千年もそのままだなんて信じられない。

 ひょいと路地を曲がれば人に会いそうなほどだったが、ここにはアーシェと青紫のクラーケンしか居ない。

 邪魔する人は誰もいない。二人だけだ。

 膜の向こうの海流が動くと、光を通して水の流れが影になり、きらきらと揺らめく。

 そこに時折、蛇のようにうねる触腕の影が混じった。

 この都市では、雲の代わりに海水の揺らめきとクラーケンの触腕が影を作る。

 建物の壁や、道路に映るそれはゆるりゆるりと姿を変える。

 アーシェの家にはステンドグラスもあるが、そこから差し込む日の光に似ていて、それよりもずっと柔らかかった。

くっきりと濃く彩るクラーケンの触腕の影との対比は、見ごたえがあるといつも思う。 


「ここでは、雨は降るのだっけ?」

《振らぬよ。だが、空気の精製の為に常時風は対流する》

「じゃあ、真水はどうしていたの」

《浄化槽があってな。膜を通して海水より塩分を分離している。もっとも、今は故障していないか確認する程度にしか精製していないが》

「あ、だから、動いている噴水や水路は真水なのね」

《肯定だ》

「……あとで、噴水の水使っていい?」

 

 呆れたような気配が伝わっていたけれど、青紫の触腕に従って歩けば、すぐに水の吹き出す噴水にたどり着いた。

 真水で軽くて足を洗いながら、アーシェがちらりと頭上を見れば、クラーケンの銀の瞳は見当たらない。


 感覚器官の代りもするという触腕も、いつの間にやら遠くへ行っている。

 港の男達は、アーシェたちが着替えているのを隙あらば覗き見したり、からかってきたりするというのに、この違いは何なのだろうと、いつも思う。


「……別に離れなくったって、かまわないのになあ」


 ぽつりとつぶやいた声は、たぶんクラーケンに届いてない。

 まあいっか、とぱしゃりと水を跳ね上げ立ち上がると、アーシェは触腕に駆け寄った。



 また触腕を握りながら、きままに路を曲がると、その先は崩れた建物でふさがれて行き止まりになっていた。

 引き返そうか、とアーシェが考えるまもなく、すいと、触腕に腰がさらわれる。

 あっという間に崩れた建物の向こうへおろされたアーシェは空にある銀の瞳を見上げた。


「ありがとう、クラーケン」

《このあたりは人の足には難儀だ。別の場所を推奨する》

「かまわないわ。だって、助けてくれるでしょ?」

《我は万能ではない。この触腕は人のような器用さはない。ほんの少し加減を間違えるだけで、おまえを殺してしまえるのだよ》


 触腕がするりとアーシェの首筋に回される。

 ひんやりとした感触と、湿った海水のにおいのするそれに、アーシェは頬をすり寄せた。


「知ってるわ。だけどそんなことにはならないって信じてる」

《全く君は……》


 あきらめたような声音とともに、首筋から触腕が離れて行くのを見送りながら、アーシェは胸の内で付け足す。

 本当は、あなたになら殺されたってかまわないのだけど。

 けれど、アーシェが転びそうになるたびに、細心の注意を払って触腕をさしのべてくれる優しい怪物に、そんなことはいえないのだ。

 まあ、それが、危なっかしい子供に対する父性のようなものだったものだとしても、アーシェにとってはたまらなく嬉しいことだったから。

 でも、ちょっぴりでも、ほんのちょっぴりでも、意識してくれないかなあと、思ったりもするのだ。


《そろそろ、帰る刻限ではないか、アーシェ。石をとる時間がなくなってしまうよ》

「はあい。クラーケン」


 素っ気なく帰りを告げるクラーケンにアーシェはそっとため息をつく。

 本当に、もうちょっと名残惜しく思ってくれてもいいのに。





 **********





 まだ湿った衣をつけて、ゴーグルで目を覆い、海生石の起動詩を唱える。

 そうして触腕に乗って海底都市を後にしたアーシェは、海底都市の外側あたりへ向かった。

 手近な岩と岩の間をのぞけば、あっけないほど簡単に、青く透き通った石が鎮座している。

 生まれたての赤ん坊の拳ほどはあるそれは、はっきり言って破格だ。

 ふつうの潜り手達は、小指の爪くらいの大きさのそれを求めて砂の中をかき回し、岩の間を探すのだ。

 小指の大きさで一月は暮らせる。

 親指だったら三月は。

 ここにふきだまっている海生石が、海流にもまれ、岩に当たって砕けて流れていくらしい。


「不思議ねえ。ここにだけしかないのだもの。でも、最近はきれいな青が増えたって評判だわ」


 海生石の光がある間は、アーシェも海の中で言葉を紡げる。

 思わず独り言を言えば、触腕がするりと腕に触れた。


《アーシェ。あまり時間をかけると》

「わかってるわ」


 クラーケンにせかされて、アーシェはしょうがないと赤ん坊の拳くらいのものを見つけだして、腰に下げている袋にそっとしまう。

 そうして、ふと思い出した風を装って言った。


「そうだ、クラーケン。私、しばらくこれなくなるの。お父様について、お城に行かなくちゃいけなくなったのよ」

《城、か》

「そう、お城。何でも舞踏会があるんだって。おまえも16になったのだから、亡くなったお母様の代わりにパートナーとしてきてくれって」


 父は、スフェラ商会という、海生石を商う商会の長だ。

 この国では海生石は重要な位置を占めている。その関係で招待状が来たらしい。

 アーシェが潜り手をしていることをよく思っていない父に、強制的にうなずかされたのを思い出して暗澹たる気持ちになってると。


「しょうがないから行ってくる。2週間くらいはこれないわ」

《そう、か》


 ほんの少し、いつもと違うニュアンスに、アーシェは少しおどろいた。


「クラーケン、もしかして、寂しがってくれる?」

《いいや。都、というのは華々しいものだ。君も、娘らしく楽しんでくると良い》

「それ、街の子全員に言われたわ。舞踏会に出られるなんて素敵、お城の王子様に会えるなんてうらやましいって。でも私は、ここに来て、あなたと話す以上に楽しいことなんてないのよ」


 これから待ち受けているマナーやダンスのおさらいのことを考えてうんざりしていたアーシェはとん、と触手に頭をなでられた。


《そこで固辞すれば君は悔やんだだろう。己の道理を引っ込めてでも、父君のことを思った選択を、我は良きものだと思う。選んだからには、精一杯つとめを果たしなさい》


 クラーケンにそういわれてしまったのなら、頑張らないわけにはいかない。


「……うん、わかった。お父様の商談がうまく行くように頑張ってくる。クラーケン、待っててね」

《我はここから動く必要がない》


 素っ気ない言葉だったけど、青紫の触腕に抱きつけば、別の触腕が頭をなでかたは励ますように優しくて、アーシェの心はやっぱり温かくなったのだった。

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