ねむりについて

井内 照子

ねむりについて

 西の空を灼き、陽は山裾に呑まれていく。

 夜の闇の触鬚が延び、中空のグラデーションは悠然と藍に染まる。藍の地に白や赤、青みがかった小さな光が灯り、卯花色のお月様は船旅をなさっている。

 私の口元で燻った煙草の煙がお月様の光に陰を点け、近くの川の流れる音は遠く時を伝える。家の前に広がる乾いた赤土畑にさらさらと風が這い、いつかに野兎がつけた足跡を削り取る。

 先の夜にあった感傷に昼は絡み取られ夜はやって来る。

にわか賑わう星空も、その隙き間の澄んだ闇も、遠い光の流れた時も、広く果てないはずなのに、それからみてはまた狭くちっぽけな一塊の人間の裡に沈みいく。

 私が及ばないものに世界は埋め尽くされ、それでいて私がそれを感じさせるほど巨大であるのはなぜだろう。その矛盾と眠りが世界の境界を、つまり私を消しさっていく。


 暗い夜が空を埋めると家の中で父が怒り《いかり》だす。父の怒りは私の家に夜が来るための儀式だ。父の怒りは夜とともに来る災厄で、それほどに父には夜が不安なのだ。

 私が父の怒りを夜が来るための儀式だと知るのは、昨日の夜も一昨日の夜もずっと遥かなる以前から、ある連続的な私という人格にそのことが刻まれていることだからだ。父の怒りは私や兄を産まれてから今に至るまで、そうある仕方で拒み続けている。

 父のわずかに残された世界の様態は怒りの儀式となり、それは積極的な価値を持たない、ほとんど無意味なものに違いない。

 父は思い通りにならないものごとを嫌い、怒る。怒りの矛先が私であれば、父にとっての私とは道具的な思い通りにならない有機物なのだ。

 そう例えば卵を産ませるために飼っているのに卵を産まないし、やたらと気性だけが荒い雌鶏。番をさせるために飼っているのに泥棒には吠えず、いつまでも懐かない番犬。

 私や兄はそれらに似ているようで、ある同族的な価値を伴って社会的に認知された人間で、父の私に対する一義的な肯定が怒りであるのと同様に、人間に残された世界に対する二つの自己肯定は怒りあるいは暴力と自死である。

 父は私に怒りを向けなければ世界に自分の力を発せない。そうしなければ自分が生きていることを確立しえないと思っているのだ。ある道具的で一義的なものとその他とでは、大きく隔たっているのにも関わらず、父には私という他者は道具に過ぎないのだ。


 たとえば鉛筆。決められた濃さを、その乗せられる材質によって変化させ、線や点を使った図柄を用途に応じて書き出すための道具であって、例えば尖らせた芯の先で手の甲を貫くためにあるのではない。

 もちろんそんな使い方が出来なくもないが、手の甲を貫くのであればより鋭利で硬いもの、アイスピックなどのほうがずっと良い。アイスピックはある行為において用いるに適さない一塊の氷を、その行為に用いるのに適した形に成形するためにあるわけで、手の甲を貫くためにあるのではない。

 手の甲を貫くために作られた道具があるか私には分からないが、鉛筆やアイスピックをなにかを書くためや氷を成形するために用いずに、手の甲を貫くために用いるためにあると解釈するのは、解釈者の恣意の範疇であり、その恣意的な解釈の範疇にあるそのもの自体とは異なった性質上の道具に過ぎない。つまり乱暴な言い方をすれば、同じ様な性質を持っていれば何だっていいのだ。

 アイスピックで自分のかあるいは他人の右若しくは左の手の甲を貫くことについて想定されることが、硬く尖っているというアイスピックが持つ性質に依拠するのか、それともその考えに至る思考に依拠するのか。アイスピックあるいは鉛筆を尖ったものであり、ある一定の力を加えれば手の甲を貫けると考え行為する。その際、行為者、つまり解釈者ははたしてアイスピックが氷を成形するためにあると考え、鉛筆がものを書くためにあると考えるだろうか。

 考えない。

 手の甲を貫くそのとき、アイスピックが氷を成形し、鉛筆がものを書くためにあるとは考えない。

 その硬く尖ったものは手の甲に貫くもので、貫いたものなのだ。

 父の私に対する道具的理解は父の恣意によってあり、実際に私そのものは父の恣意とは無関係である。

 しかし父の私への理解は氷を成形するためにあるアイスピックであって、実際の私はいままさに手の甲を貫くアイスピックそのものに違いないのだ。


 母は父の怒りに歪んだ笑顔で応えることしかできなくなり、七年前私の十二歳の冬に発狂し、道へ飛びだして車に敷かれ死んだ。

 私はその時の母が狂っていたとは思えない。

 母はずっと前から狂っていたし、むしろ正気に戻った時にようやく死ねたのだと思うようにしている。母の世界は死ぬ直前に合理性を取り戻し、その世界を担保させていた母以外の世界の逃げ道は自死しかあり得なかった。そうであるなら、まだ救いがあるのだ。

 父は母の死を嘆きはしなかった。ただいつものように怒り狂い、私たちへ当たり散らし、母のつくったという体面の恥を恨み、母の恥は私たちにのもとにあると二年あまり言い続けた。それから父は私たちには始めから母など居なかったかのように仏壇を売って酒に替え、位牌と骨をビニル袋へ詰めて捨てた。

 余計な怒りを買わないために、私も兄もビニル袋から母の位牌も骨も拾いはしなかった。

 父が母の仏壇や位牌、骨を捨てたのは忘れたからであるのか、忘れるためだったのか定かではないが、後者であることを望みながら私と兄には前者だと直感的に分かった。


 母の墓標はどこにも無い。

 つまり母はもう居ない。


 その一年後兄は家を出て、それ以来連絡も寄越さない。兄は父にも連絡を寄越していないことは、ぶつぶつと父がそのようなことを仄めかしていた。

 兄が去った家に残された私は変わらない父の怒鳴り声を聞きながら高校に通い、父は自分が養っていけるのは自分の能力のためだと言っては私へそれ以上の意味は無い怒りをぶつけた。

 私が高校へ通うことも、大学に行くことも父が決め、父は私が言う通りに出来なければ怒り、言う通りにしても誉めることはなかった。

 自分はお前を養ってやっている。自分がお前に教育を受けさせてやっている。自分はお前を愛してやっている。

 私にとって父の愛は怒りで父の扶養は隷属、父の教育は暴力だった。

 しかし、考えてみると私は父の言う通りにしないという選択をした時に、はたしてなにか自分の意志をもって欲したことがあったのだろうか。

 父の扶養を拒み、兄のようにどこ知れず去り、生きようと思っただろうか。

 父の理不尽な怒りとそのことに対する私の拙い憎悪が絡み合っている他に、なにか不自由していることがはたしてあるのだろうか。

 私は兄が家を出た頃には父よりも身体も大きくなっていた。父より身体の大きな私をみて、兄は家を出ていったのかも知れない。


 父より大きな私の身体は大して役に立たなかった。

 殴られた時の痛みが減るとか、帰る時間を送らせるためにアルバイトが出来るようになったとかその程度だった。怒鳴られれば身体はすくむし、殴られれば程度はあれど痛い。

 その度に私の中の父の暴力の記憶は繰り返され、その苦痛は身体と精神の垣根を飛び越え、強度を増していく。

 私の感情の記憶が正しければ、私のまだ幼い頃、父の怒りは橙色の夕焼けを眺めるだけで消せるくらいのものだった。母が発狂したころ父の怒りは赤かった。母が死ぬと父の怒りは黒く蠢いていた。兄が家を出るころ父の怒りは冷たく金属的な光を帯びていて、最近ではその本体が私には見えなくなった。父の怒りはそうして無味乾燥で連続的な暴力の総和に変わった。

 私は怒りの色遊びをしなければならなかった。その行為を直視することがはたして有益なことであるとは思えなかったからだ。

 私のそんな父へのささやかな報復は毎朝みせる頬の歪みだけで、私が微笑むと父はいつものように癇癪を起こすのだ。晩年の母に似ているとか、嘲るような笑いだとか言って怒る。

 私の微笑みを母の晩年だと解釈する父に私は少し嬉しかった。まだ自分の殺したあの哀れな女を忘れていないのだ。私たちの母をどこか心の隅で覚え、罪悪を感じるこの小さな男は私の微笑みを苦しく思う人間なのだ。と、私は父のそのちっぽけさを嬉しく思うのだ。

 しかし私がたとえ毎朝微笑まなかったとしても、おそらく父は癇癪を起こす。父の性質はそうなのだと、私の中には明確に刻まれている。

 はたして私のそれ以上に父の性質を浮き彫りにした心が、いまこの世にあるのだろうか。その意味では父と私とは確かに繋がり補いあっているのだった。


 ねとねとと冷えたコンビニ弁当を一人食べ、買い置きの生温いビイルをゴクゴクと呑み下す父の背中は、昔よりもずっと狭く見える。

 それは私の幻想かも知れない。過去への憧れかも知れない。

 私が居ても居なくても、誰が居ても居なくても父は孤独なのだ。その意味で私も孤独なのに違いない。父に養われ、生き長らえさせられている私はまた孤独なのだ。父と二人生きている私は孤独なのだ。そして孤独であるということは反転し、孤独でなければならないという価値へ転落していく。

 父と私とは交互依存的で情けない二人ぼっちでなければならない。

 冷えたコンビニ弁当やそれを肴に呑むビイル、各々二人の勝手気侭な食卓、仄暗い蛍光灯、どれもその孤独の証ではなく、孤独の証はその周囲に群がる私や父のごく心理的な空白と無関心に象られ、それは意味蒙昧な怒りへ転化されていく。

 私という存在は父によれば在っても無くても大差ない性質のもので、例えば階段を踏み外ししこたま臑を打った時に感じる暴力性と似た感情を父は私に向ける。

 それでいて、無くてはならない掛け替えのないものであって、父が私の不要だと認識していることと、実際に私が必要だということとは同質なのだ。


 父の暴力を受ける時私は岩になる。岩になり、怒りの奔流を受け表皮を削り取られるかわりに芯を守る。岩の芯は表皮に刻まれた歴史を刻々と感じながら、岩であることを保持し、岩であることが出来なくなったときに消失する。岩が岩であることは外的な判断に依存し、岩は岩であるかそれとも石であるのか、あるいは砂であるのか分かるわけも無い。孤独な岩は自分が岩であることを知らず、石であっても石だということも知らない。

 父の怒りの奔流に私という岩はやがて岩であることを知らぬ間に、ちっぽけな硬質の塊という性質の他なにを残すことなく、岩で在りながら岩でなくなっていく。

 硬質な塊という性質を持つ私は、父とともに孤独ではなく二人ぼっちで、二人ぼっちな私と父とその隙き間には表面的には寄生者と宿主という交互的な関係性の他に何も無い。


 それでも家族じゃないかと、野暮ったいことを考えてもみる。

 家族、血族であることについて、私と父とにとってなにか重要なことなのだろうか。父が私を養うには家族であるという体面があり、私の生存に関する怠惰はその体面に依存している。それ以上に家族たることの証明は、孤独を象る父の世間体しかない。世間に対して家族とは一体なのだ。おそらく父は自分が孤独であること知らない。それか孤独故に最後の僅かな繋がりをその体面に託しているのかも知れない。


 兄は家を去り、家族ではなくなった。

 母はこの世を去り、家族ではなくなった。

 それ以前に母は父とは家族ではなく、他人、恋人、家族、故人と生存者というように形式を鞍替えし、その間に強制的に生み出された私と兄とも、去れば家族でもなんでもなくなる。

 父には会社、私には大学という所属する社会集団がある。コンビニ弁当やビイル、服や水道、ガス、電気、その他のライフラインも欠かせない。

 その繋がりを意識すればするほど、孤独であることの反転的な価値は際立っていく。依存者としての私を浮き彫りにさせていく。

 私という岩や父の怒りもそんな屈辱的な作法による性質に埋没し、その意味で世界から引き剥がされ、そして一体となり、一つの家族となる。


 酒に酔って充血した父の眼が私を睨む。私の目頭も熱くなる。きっと似たような表情で私と父は向かい合っている。どちらともがいまにも泣き出しそうな表情だと、そう見えなくもない感動的な場面。

 私は私の感情を写して熱くなった泪が、いまにも滲んできそうなことに堪える。私が泣けば、また私は余計な被害を被ることになるからだ。

 私は亀のように身を包める。小さく小さく、硬く硬く岩になる。表情を父に読まれてはならない、声を出してもならない。呼吸は出来るだけ静かに、聞こえないほど静かに、穏やかな心を包まった身体の中心に沈めていく。

 父を直視しないこと、父が私を直視しないこと。

 父がすぐそこでなにか怒鳴っている。もう岩である私には何を言っているのかは分からない。

 人間の言語も、感情も、価値もなにもかも私には無意味なのだ。私は岩だ。背中に何かが当った衝撃が走る。そのほかに感じるほどの痛みはない。私は岩だ。


 私はある日のトモちゃんを憶い出す。

 私が小学校に通っていた頃、珍しく雪の積もった日に雪合戦をした。多分十歳かそれくらいの冬だった。その日小学校は休みになって、九時くらいになってトモちゃんから電話がかかってきた。

 雪合戦をしよう。

 十人くらい同じ年頃のお友達が集まって、近所の公園で雪合戦をした。素手で雪を団子状に丸めて投げあう。

 雪で指先が冷え赤くなって、痺れる。じんじんという痛みが指先に走る。指先に息を吹きかけて暖める。息が熱い。火傷するかと思うほど熱い。また雪を握って投げる。

 雪合戦の最中に後ろからふざけたトモちゃんが私の背中に雪玉を投げる。トモちゃんは味方の私に雪玉を投げ付けた。

 雪玉がめり込むのか砕けるのかはっきりとしない鈍い音がする。それほど痛くないけど、背中にどんという衝撃が走る。

 私はトモちゃんに雪玉を投げ返し、正面を向き敵陣に雪玉を放る。またトモちゃんはふざけて雪玉を投げてくる。それだけでキャッキャと笑い、トモちゃんは楽しそうにしている。

 相手せずに私が屈んで雪玉を作っていると、トモちゃんの雪玉が私の背中に当たる。仕方ないから私は雪玉を投げ返す。トモちゃんが投げる。私も雪玉を投げ返す。

 ほどなくして、雪合戦は白けておしまいになる。帰り道にトモちゃん家の前を通って、じゃあねと言って別れた。

 トモちゃんと別れた背中の方からトモちゃんのお母さんの優しそうな声がし、溢れそうになった泪を我慢しながら私は家路を歩いた。

 みんな家に帰ってお昼ご飯をとったのに違いない。

 家に帰ると、家には髪もぼさぼさで服もよれただらしない姿の母がひとり、朝の食器も片付けないまま食卓に腰をかけている。母は映りの悪いテレビを見るでなく見て、ぼっけとしている。きっと朝からずっとこうしていたのだ。私の呼びかけに母は応えない。私は冷蔵庫を漁る。冷蔵庫に食べられそうなものはない。戸棚をひっくり返しても何も無い。私は母の脇に腰をかけ、母と同じように見るでなくテレビを見て、ぐうぐう鳴る腹を摩る。

 いつの間にか父が仕事から帰って、夜の儀式が始まる。母は父の怒りを受けているのかそれともしらないのか、相変わらずぼっけとしたまま夕飯の支度に取りかかる。

 兄はなかなか家に帰って来ない。

 私は布団に潜り込む。布団に潜り煩わしい世界を消し去る。布団の闇のトンネルは際限なく広がりながら縮まり、一点になってぱちんと弾ける。

 そして朝が来て、ぐちゃぐちゃになった地面と泥にまみれた雪がある。


 父は私を痛めるのに飽きて、風呂へ行く。


 私とトモちゃんはお互いに雪玉を投げあった。父は私を痛めつけ、私はそれに堪える。トモちゃんはいまごろどうしているのだろう。トモちゃんならいまでも雪玉を投げられたら投げ返してくれるのだろうか。私はきっと投げ返せない。銃口を突き付けられても銃など持ってすらいないのと同じように。


 私は煙草を咥える。

 煙草を咥え、火を点ける。

 煙草の先に火を当て吸い込む。乾いた唇に吸い口が吸い付き、唇の皮が少し剥がれる。

 煙草の煙が鼻先を霞めて蛇行し薄まりながら昇っていく。

 天井の隅で薄まった煙草の煙が滞留し、ゴミだらけのこの家に火を点けたらさぞ良く燃えるだろうとふと思う。

 父の調子の外れた歌声が風呂場に響く。カビだらけの浴室の最も純な浴槽の澄んだ湯に赤い血が溶けていく瞬間を想像し、その想像を振り払おうと私は煙草の赤黒く燻った暴力的な火を眺める。

 赤黒く燻った煙草の火へと私の心は移し替えられる。そこから延びる煙の陰へ吸い込まれても良いようなちっぽけな部屋。抽象的な現実が浮かび上がり、私は性的な興奮を覚える。

 誰でも良いからいま私を抱いてくれる人は居ないだろうか。抱かしてくれる人は居ないだろうか。

 卑欲と一緒に煙草の火を灰皿でもみ消す。

 私の欲求はあの父の暴力から離れられないのに違いないのだ。

 だからきっと私は父に抱かれることを求めている。その考えに応えようとしても、吐き気が邪魔をして進まない。確かにその瞬間のビジョンが脳裏へと浮かび上がり、かき消しても浮かび上がり、こびり付いて離れない。

 父の性質からすれば、それは根本的に間違っている。父はそれだけはしないはず。なぜそこまで父に信心深くなれるのか自分でも分からないが、そうなのだ。


 もっと楽しいことを考えよう。もっと楽しいことを。


 いつだか家族でDランドに行ったことがあった。たしか幼稚園に通っていた頃。五月の連休のどれか。

 連休で混みなかなか進まない高速を、いつもなら怒り出す父が珍しく笑顔だった。その頃まだ母も人間的な表情を幾つか知っていたし、兄も素直で私は幼かった。癇癪を起こしたのも幼い私が一番先で、それを宥めようと不気味な笑顔をした父と母が居た。

 高速を降り、駐車場に車を止め、チケット売り場でチケットを買う。その間中どこにも長い列ができていた。Dランドを魅力的に感じられない私は、人々はなぜそれほど苦労してまでDランドに行きたがるのだろうかということのほうが興味深かった。

 その答えはその目的地にあるに違いない。無意味な移動という時間の浪費に癇癪を起こしながら、私はどこかそう思っていた。

 目的地に着いて、兄に手を引かれアトラクションへ向うと、また長い列が出来ている。長い列は進まない。私はまた癇癪を起こす。これだけだからと言う母の言葉を信じ、暑い五月の陽の光と人混みの汗臭さを我慢して、ようやく乗れたなんとかマウンテンというアトラクションは並んだ時間に比べて味気ないほど短かった。

 同じ動きを繰り返す奇妙な動物のロボットや人工的な装飾、それを面白がる人達、急に滑り落ちる箇所を過ぎ、泣き出す同じくらいの年頃の子供。

 すべてが偽物っぽくてたまらなかった。

 相変わらず不気味なほど笑顔の父は兄と私に楽しかったかと聞き、兄は父に似た笑顔でうんと応えた。私が応えに詰まっていると、どこからかさっきのアトラクションに興じているときの写真を持ってきた母は、私はきっと怖がっていたのに違いないと言った。三人はけたけたと笑う。

 すべてが偽物っぽくてたまらなかった。

 それから兄と父、私と母に別れた。母と私は混んでいないアトラクションへと並び、興じ、どこでも食べられそうな味のホットドックやお菓子を食べ、お土産を買った。夕方になって兄や父と合流し、大きな着ぐるみのキャラクターが踊るパレードを見て、帰路についた。

 帰りも道は随分と混んでいたようだが、私は眠ってしまった。

 目覚めると次の朝になっていた。

 はたしてDランドに行ったのは夢だろうか。食卓の上に母とお土産に買ったお城の入ったオルゴールつきのスノードームがあった。Dランドは夢じゃなかったのだと分かり、私は安堵した。

 その日の父はまたもとの父へもどっていた。食卓の上に置かれたスノードームはその父に投げられ、安っぽい音を立て砕けた。

 Dランドが楽しかったというわけではないが、私たちは平和だった。その平和はスノードームと一緒に砕け散った。

 私には同じ動きを繰り返すアトラクションの人形たちも、表情の変わらないパレードの着ぐるみたちも、幸せそうな人々も、笑顔の家族も、みんな似ていた。

 それでも、あの日私たちは平和な一日を過ごしたのだった。


 父が風呂から上がった。私が風呂に入ろうと服探しにもたついていると、父は私の右脇腹を膝で蹴り上げた。不意を付かれた私は床に転がる。鈍い痛みと荒い呼吸が数瞬を引き延ばし、絶え間なく襲ってくる。

 父は倒れ込んだ私を見下し、それから興味無さげにぷいと寝室へ戻っていく。

 病院へいくほどはやられていないだろう。経験的に私はそう思った。脱衣所で服を脱ぎ患部を見てみると、皮膚の一部がじわり赤く染まっている。

 明日になったら青くなって、三日もすると黄色に染まる。

 脱衣所の鏡に映る私の皮膚は蝋細工のように奥行きのある班目模様をしている。呼吸し心臓が血液を送り出すと皮膚は私とは別の生き物であるように動き回り、日々模様を変化させる。顔や手は不自然に肌色をして、不浸食のその部分はまるで後でつけたようにも見える。私の境界はどこなのか。

 父の怒鳴り声が遠く聞こえる。

 風呂の湯が患部に滲みても堪えられないほど痛むことはあまりない。傷や痣が重なりあって、私の細かな神経はどこか大雑把になっているのだ。身体を洗っていても、洗っているのが私の皮膚というよりか甲羅を擦っているような感覚になる。亀の苔落しに似ているのかなと思うと、なんだか可笑しい。そんな亀のような私を脳裏に思い描き、にやけながら風呂を出た。


 どうやら父は眠ったようだ。家は寒気がするほど静かだった。怒気の欠片だけ静寂に零れ落ち、所詮それは眼前にはなく予期に過ぎない。


 父の鼾が静寂の奥から聞こえてくる。父の眠りの邪魔をしないよう息を殺し慎重に布団へ潜り込む。極度に光を遮断した狭いこの穴蔵は時を飛び越える装置に違いない。

 湿った埃とカビの臭いが立ちこめたアナログなこの装置が、時空を隔てた私の認識を繋ぎ止め、明日と今日との境界に延びている。

 過去には戻れないけれど、少しだけ先の未来へ続くタイムトンネル。

 毎晩私が布団に横になり眼を瞑って眠りに就くと、いま目の前にある世界は一点の光に消えていく。眼を開いている時には見たこともないような深い闇が背を延ばし、その中に線状の白い光が瞬いている。

 ほどなくして音や臭い、痛みも光と連れたって消失し、空白が出来上がる。その空白の合間に私は姿を隠し、私を取り除いた純粋な世界だけがある。眠りから覚めると純粋な世界にまた放り込まれ、その連続の中に息をする私はそれ以前と以後の私と同じなのだ。

 もしそうでないならば眠り以前の私と眠り以後の私とは全く違ったもので、消失した私の以前は以後とで分断され、そもそも以前も以後も存在せず永遠に今だけがある。今に放り出された私は、今と私という本性のほかに時と運動の担保を持たないから、私や今ですらない。

 今、私であるということは、それ以前とそれ以後が断続的ではなく連続的でなければあり得ないのだから、その連続性の担保は私でなく、私の知らない世界に依拠しなければ成り立たないはずなのだ。

 絶息しそうなほど伸し掛った掛け布団の天井に吐き出される息が跳ね返る。跳ね返ってくる息は、生暖かく首筋を撫でる。人に抱きしめられたら、きっとこんな感じだろうな。私の吐息が私の首筋を撫でる心地はこそばゆいようでいて、なんだか虚しい。

 きっと私を無条件に包容してくれる人がいたら、私はすぐに恋するだろう。恋。じゃなくて、従属かもしれない。でも、父に対する従属とは違う。なら、依存。依存とも違う。傾倒じゃないし、崇拝でもない。やっぱり恋だと思う。でも、それって普通じゃない。そんな私の感性が人と話していて噛み合ないのだろう。普通、好きだから包容されたいと願うわけで、包容されたから好きだというのは変っているのだ。挨拶でハグをする国もあるから、私がそんな国に行ったらいちいち恋することになるのかな、とかとも思う。きっとそんなことはない。私の求めている無条件の包容はそれとは根本的に違うのだから。


 布団の中は息苦しいくらいに蒸してくる。首を布団から出すと、枕元でデジタル時計の文字盤が緑色に発光し、月光に満ちた部屋の空気に浮き出して見えた。

 身体中を這うぬめりとした汗が妙に色めいて思えて、生唾を飲み込む。気色悪いはずの汗が陰部の粘膜を思わせ、粘ついたその液体の皮膜に全身を覆われた私は、まるでそのみだらなものの象徴ではないか。そう思うと、生臭い異臭が鼻をかすめていく。

 実際には何も無い。分かっている。分かっているけれど、それはそこにある。確かにある。異臭は姿を変え、ドブの底と水に濡らした牛角やヘビースモーカーの老人の口臭を混ぜ込んで腐らせたような臭いをさせている。

 胃の中の内容物を吐きそうになるのを我慢した。実際に吐き出してみると吐き出すものは胃にはなく、胃のまわりの筋肉がけいれんを起こしているだけだった。

 私の胸の鼓動が脳膜を揺らし、ゆったりと流れているようで加速度的に走り去る時の中で、鼓動は耳鳴りに変質していく。耳を塞いでも私の中にある耳鳴りは止もうとはしない。真っ暗闇の視界に鈍色の青が透け、その青に私の皮膜の境界は溶けていく。

 眠気。

 瞳をしばたかせたときに見るような閃光が、しかと瞑られた瞳の奥で弾けて、方位などない中空を落ちていく。


 身体を布団と床に繋ぎ止める重力を感じ、それからも飛躍し、離れゆく感覚の中、私は眠りへ落ちていく。落ちていく。


 白靄の天井は一寸先かそれとも遥か遠方か。仄灯りの白線の上をおぼつかない足がよたよたと歩みを続ける。一直線に歩みを続ける。到着点はどこだろうか。そんな問いは持たず、私という定点すら定かでないのに私は歩みを続ける。酷く足は重たい。午なのか夜なのか。夢であるのか夢でないのか。産まれてきたことも、死にゆくことも定かでない眼前の地平を跨ぎながら、私は歩み続ける。白靄は全てを覆い隠している。足が重たいのではない。私と云う存在が気怠いのだ。ふとそう思えば、背に延びるいっさいの記憶はついさっき起きたことであっても不思議ではない。


 三歳の憶い出も、十五の憶い出も等しく同じ時に内包されている。


 いま、この私の所在はどこなのだろう。


 白靄が全てを覆い隠す。時より感じる視線や投げかけられる声のようなものの所在は果てしなく無遠慮でいて、その分だけ不明瞭だ。白靄の形作る人陰も、またその視線や声も私の知る人のものに良く似ている。私も、憶い出も、人の気配も、言語もこの白靄の外から来たのに違いない。白靄の外と内とを隔てたのも私なのだ。私の言語なのだ。


 涼やかな一条の風が吹き去り、辺りは橙の陽に包まれる。開けた地形が遥かに続き、金色の下草や、空に住む青、ネズミ色の雲の陰。白靄の所在は午でも夜でもない、朝に延びている。早い朝に延びている。

 私は朝を跨ぎ、眼を覚ます。眠りに就いた私をそこに残して。

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