第2話 ドジャース

●船寿司の代償

 千鶴子が古着を折りたたみ、紐で縛っているところ、小学校から樹が帰って来た。また何かあったようで、うつむいてランドセルを背負ったまま、のろのろと部屋に上がって来る。千鶴子は、話を聞こうか聞くまいか迷ったが、その間に樹は階段の手前でランドセルを下し、プリントと連絡帳を取り出した。


「これ」

 元気なく母親にそれらを手渡すと、樹はランドセルを引きずるように二階に上がってしまった。


プリントには「家庭訪問のお知らせ」、そして、連絡帳の今日のページには、


「予てお聞きした通り、お店を開けておられる時間に伺います。五月に入って宿題も授業態度も、先月までとは見違えるようです」と書かれている。樹の担任は、一年生から続けて担任をしている定年間際の女性教師だ。躾に厳しく、入学時は左利きのことですら、毎日連絡帳に書かれていたほどだった。ただ、今回はいつになく良く書かれている。にもかかわらず樹は萎れている。どうしたことだろう。


 千鶴子が二階に上がると、樹は自分の勉強机に向かってぼそぼそ言いながら宿題のドリルをやっていた。覗き込むと八割ほど出来ている。「早いなぁ」「学校で半分くらいやっててん」「そうなん。えらいなぁ。でもなんかあったん」

 樹は両手に持った鉛筆を置いた。


「学校いったらな、昨日遊びの約束してたのにけえへんかったって、すごい言われてん。上級生の野球に入れてもらえるとこやったのに、僕を待ってる間に他の子らにグラウンド取られたって」


 確かに、千鶴子は昨日、学校から帰って来た樹を捕まえて、そのままお使いに出した。


「あ、ほんまやな。Qちゃんの都合聞かんと頼んでしもたなぁ。けどそれは友達には言うたんやろ」

 樹はうつむいたまま答えた。


「うん、でも遊びの約束の方が先やって。お店のお使いは遊びより大事やって言うたら、『ほなそう言いに来てからお使いいけや』て」

 なるほど、それもそうだ。千鶴子は、その場に座って、樹の話の続きを聞いた。


「でも、紙貼るだけやから、すぐ終わると思てん」


「そういうたらそうやな。でも割と帰って来るの遅かったなぁ」


「三福荘になぁ、旦那さんって人が来てて、祥子ちゃんが美味しいお寿司屋知らんかって言うから、船寿司に注文しに行ってあげてん」


「へぇ、それええことしたやん」


「そしたらな、Qちゃんの分も頼んだから一緒に食べよって言われて食べててん」


「あ、あんたお寿司よばれて(ご馳走になって)たん。電話しとかなあかんわ。それで遅ぅなったんやな。ほんで、そのこと友達に話したんか」


「うん、そしたら、お前約束やぶって、船寿司の出前食うてたんかって」

 樹は涙ぐんでいる。 千鶴子は、寿司の下りはうまく隠して話せばよかったのにとは思ったが、小学二年生にはそんな応用は難しい。


「もうおまえなんかよせたらへんて言われてん」


「お母さんも悪かったなぁ。Qちゃんの都合も聞いてお使い頼まなあかんな」

 母は、樹の背中を撫でた。


「ええねん。お店のお手伝いの方が大事やし、宿題もできるもん。ぼく野球もしたことないし。宿題終わったら図書館行ってくるわ」

 うつむいたまま樹はそう言うと、ドリルに顔を向けた。


 千鶴子は階段を降りながら、最近よいこになってきた我が息子に違和感を覚えた。成長したと言えばそれまでだが、「遊びにいきたい」や「図書館いきたい」がこれまではもっと優先されていたように思える。


「これも『春ちゃん』のおかげなんかな」と千鶴子は呟いた。




●ついてくるやろか

 古着を縛り終え、店の作業台に運んだ時、瀞の軽トラックが店先に着いた。


「これだけ、お願いします」

 千鶴子は縛った古着をトラックの荷台に載せた。荷台には、既にいくつかの古着が段ボール箱に入っていた。


 三福荘の件で仲間外れにされたことを瀞に伝えると、瀞は苦笑いをしてため息をついた。 束ねた古着をぽんっと叩きながら、


「これ持って行って、仕入れに回るけど、Q、ついてくるやろか」


「あ、宿題できたら、図書館行くって言うてたわ」


「帰りに図書館寄ってもええで」「聞いてくるわ」と千鶴子は家に入っていった。その背中を見ながら、瀞は思った。樹は自分が四十歳で生まれた息子だ。幼稚園や小学校で友達があまりできず寂しい思いをしていることが不憫で、仕事に余裕がある時には連れ出してやり、手伝いもさせてきた。様々な現場は、本来子供が立ち入れるところではなく、面白い経験をたくさんさせてやれる。でもそれは、一種の過保護で、子供はもっと子供同士でぶつかっていかなくてはならないのかも知れない。また、せっかくの息子なのに自分は体を病み、体を使って遊ばせることができていない。自分が子供の頃の野遊びなどほとんど教えてやれない。自分が若く健康であったなら、もっと活発な子供になっていたかも知れない。姉のさと子は、幼稚園からバレエを習いだし、四年生の今も続けている。せめて何か樹が夢中になれるものが見つかればいいが。


 樹が店先に出て来た。本を二冊持っている。



●ドジャース

 堺屋の軽トラックは、六万体町から学園坂を下り、松屋町筋を南につきあたると国道二十五号線から阪神高速の高架下に入った。


「どこいくのん」と、樹が聞く。


「ほら、橋げたの下に人いてるやろ。あの人らに古着あげるんや」

 そこには、五人ほどの浮浪者が気だるげに佇んでいる。


「ふぅん、なんで?」


「よう買わんのや」「なんで買えへんのん」


「あの人らな、仕事がないんや。そしたら、お金入ってけえへんやろ」


「あ、そうか。うちはお父さんが働いてるもんな」

 瀞は、周囲を見渡しながら頷いた。


「そうやな。したいことがあって、喜んでもらえたら働けるんや。でもそんなん失くしてしもた人もおるんや」

 軽トラックを道端に停めると、瀞は誰かに声を掛けた。樹も続いて降りる。そこには、ピンクのカーディガンを着た老婆が立っていた。


「いつもいつも」

 老婆はニコニコしながら、近寄ってくる。瀞は、荷台から古着を降ろし始めた。


「Q、荷台に上がって、こっち側に荷物寄せて」

 樹は、老婆を気にしながら、軽トラックの荷台に上がった。


「ほれ、こっちこんか」と老婆が声を掛けると、数人の浮浪者が近寄ってきた。樹は古着の束や箱を彼らの手が届くところに押しやっていく。次々と手が伸びてくる。その中に一際長い右腕が一束を掴んだ。樹が顔をあげると、そこには、野球帽を被った金髪の青年が立っていた。


「うわっ万博やん」と、樹は思った。昨年家族で行った大阪万博で樹は、生まれて初めて間近で外国人を見た。何を話しているかもわからない見上げるような人達が万博会場にたくさんいた。今、浮浪者と老婆の中に金髪の白人青年が薄汚れて立っている。樹の中の幼い外国人への印象が混乱した。


「あっはっは、ドンちゃんにびっくりしてるで」と、老婆が声を上げた。つられて他の浮浪者も、ドンちゃんと呼ばれた白人青年も笑った。


 白人青年は、笑いながら、「ハイ、カモン」と両手を出して軽く手招きをした。樹は、彼と瀞の顔を交互に見ながら、恐る恐る近づいていく。すると、彼は、軽々と樹を両手で抱き上げ、高く掲げた。浮浪者たちから歓声があがる。樹も驚き、声をあげた。彼は、樹をゆっくりと地面に降ろした。樹はドキドキしながら地面に降りると、思わず瀞のズボンに捕まった。

「あっはっは。あんたの子ぉか」

 瀞はにこにこしながら頷いている。



 高架下に古着を運んだ男たちは、自分に合いそうなものを広げ始めていた。瀞が老婆と話している間、樹は、白人青年と話している。彼は、


「そう、ライト、レフト」と言いながら手をかざし、簡単な英単語を樹に教えていた。樹も青年の声を真似る。次は樹が指さすものを彼が英語で答えていく。二人は笑いながら、言わば指さしゲームをしていた。 樹が青年の野球帽を指さす。


「キャップ、ベースボールキャップね」と青年は答えた。「ベースボール?」と、樹が聞き返す。


「野球、だヨ」と、ボールを投げる仕草とバットで打つ仕草をした。樹は、野球と聞いて、今日学校で「もう仲間に入れてもらえない」ことを思い出した。すると、母に話した時と同じ言葉が出た。


「ぼく野球したことないわ」

 青年は少し驚いたようだった。


「野球をしたことナイだって?見に行ったことはあるんだろ」


「公園で大きい子がやってるのは見たことあるで」

 オウと青年はこぼし、


「オトナの、野球、プロ野球だヨ」とにっこり笑った。樹は高校野球もプロ野球もテレビで垣間見るだけで、まだよくわかっていない。樹が首をかしげると、青年は、「南海ホークス、近鉄バッファローズ、阪急ブレイブス、阪神タイガーズ…」とチーム名をあげ、自分の野球帽を指さしながら、「ブルックリン・ドジャース」と言った。


「ドジャース?」と、樹が聞き返す。青年はうなずきながら自分の胸を叩き、「ボクは、ドジャースと呼ばれてるヨ。みんなは『ドンちゃん』言うヨ」と笑った。


「ぼく、堺屋樹。Qって呼ばれてるねん」

 樹は、ドジャースが本名でなくあだ名で自己紹介をすることに格好良さを感じた。 思わず話し方を真似してしまう樹に、「オゥ、Q!ヨロシクネ」と、ドジャースはごつい手で握手を求めた。樹も思わず手を出し、二人は握手をした。


「ものすごい選手がいて、信じられないプレィをするんダ。そして、たくさんたくさんの観客が立ち上がって、…オー、オー!」とドジャースは、「大歓声をあげる」という日本語の表現ができず、立ち上がって自ら興奮する観客の仕草をやってみせた。 

 樹はゲラゲラと笑ってしまう。

 瀞や老婆や道を行く人が振り返える。それに気づくとドジャースは小さくなってトラックの影に隠れるようにしゃがんできょろきょろした。樹の顔をみて、少しひょうきんにウィンクをしてみせる。樹にはそれが、瀞がたまに見せる「大丈夫だよ」といったサインのように感じられた。


「Qは何歳だい」「ぼく7歳やで」


「きっと楽しめるよ。ぼくを野球に連れていってって言うんだ。 Take Me Out to the Ball Game」


「え?」

 ドジャースは、他の浮浪者から黒のマジックを借りて無造作に空になった段ボール箱のふたを破って、大きく先ほどの言葉を書きつけた。紙の隅に「Dodgers→Q」と書き添える。樹は、まるで少年探偵団が秘密の暗号文を渡されたようなワクワクを感じた。


「なんじゃそりゃ」

 気づけば老婆と瀞がそばに来ていた。瀞は訝しげにそれを見ていたが、老婆はまた声を出して笑って言った。


「アメリカ人が野球場で歌う有名な歌じゃ」

 老婆が外れた調子で歌いだすと、微妙な気まずさが漂った。




●問屋にて

 浮浪者たちと別れたあと、父子は仕入れ先の問屋に来ていた。樹は、軽トラックの荷台に座っている。瀞や店員が荷台に載せる商品が盗まれないよう見張るためだ。商品が載せられたらそこにシートをかけて隠すようにしていく。


 樹は、シートの上に座って見張り番をしながら先ほどの紙を見ていた。顔見知りの若い店員が、「おうQちゃん、それなんや」とやってきた。


「さっき高架下で古着あげてたら外国人の人が書いてくれてん」「あ、金髪の背ぇ高いやつやな」「知ってんの?」


「最近流れてきたみたいやけどな。あそこらは、ハナちゃんが締めてるから大丈夫やけど、他のんがうろついてたら気ぃつけなあかんで」

 うっかりしていると、荷台から置き引きにあうことはよくあることだ。樹は頷きながら聞いた。


「ハナちゃん?」「なんか派手な色のおばんいてへんかったか。ハナちゃん自体は軍艦アパートに住んどって、あいつら時々風呂入れたったり、世話したってるから頭あがらんねや。Qちゃんのおやっさん、ハナちゃんと古い馴染みみたいやん。こっちも面倒が減って助かるで」

 彼が後ろを振り向くと、折りたたんだ段ボール箱を回収している男が振り向いて軽く会釈をした。


「ほら、あのおっさん、そん時もおらへんかったか」「そうやったかなぁ」


「なんやQちゃん、頼んないなぁ。あないしてそれとなく目ぇ光らしてくれてんねや」

 軍艦アパートは、先ほどの高架下から北にあがったところにあり、住民が勝手な建て増しを繰り返して外見がごつごつとした軍艦のようになっていて、「軍艦アパート」と呼ばれていた。




 帰りの車内でも樹はずっと、段ボール紙に書かれた文字を見ていた。先ほどの店員が、文字の上にカタカナで発音を書いてくれていた。


「なんて書いてあんねや」「テイクミー、アウト、ツーザ、ボールゲーム」

 樹は、指でなぞりながら答えた。


「野球のこと、ボールゲームて言うんやな」


「あ、ボールのゲームか」

 樹は、意味に気付いて笑った。


「野球見に行きたいか」と瀞が聞く。「うん」

 樹は続けて、


「なんか、ものすごい選手がいて、信じられないプレィするのん見たい」


「そんなプレーって毎日出るもんちゃうやろなぁ」と、瀞は苦笑いをして軽トラックを図書館に走らせた。




●野球

 樹は、「野球入門」と「伝記・ベーブルース」を借りて来た。家に帰ると、晩御飯を食べながら、今日のドジャースという白人青年に出会った話と、書いてもらった紙、野球の話をしたが、両親は実はあまり野球について詳しく知らないようだった。


「ふぅん」と樹は一言もらすと黙ってしまった。


 母は、また違和感を感じた。以前なら「野球見てみたい」と前のめりに訴えてくるところだ。


「テレビ、野球やってるんちゃう?」と母は、水を向けた。


「あ、うん」

 樹がテレビをつけると、巨人対ヤクルト7回戦が中継されていた。5回裏ソロホームランが出て、2対1となっていた。樹は箸を止めて野球に見入っている。しかし、試合はそのまま両軍1点も取れないまま終わった。実際には、ホームランが出にくいとされた石川県営兼六園球場で3本のホームランが飛び出し、毎年下位に甘んじているヤクルトが、負けはしたものの9安打の巨人を2点に抑えた試合だったが、樹には、ドジャースが言っていた「ものすごい選手がいて、信じられないプレィをする」ものには見えなかった。振り向くと家族も少しつまらなさそうに見えた。樹はテレビを消し、


「ご馳走様」と言うと、傍らに置いていた「ベーブルース」を読みだした。




●土曜日早朝

 土曜日、井上が堺屋に着くと、ちょうど樹がシャッターを上げようとするところだった。

「井上君おはよう。お父さんもう車でこっち来るわ」

 井上が会釈をしている間に堺屋の軽トラックがやってきた。


 瀞と井上の二人は、大きな冷蔵庫を荷台に上げると縄をかけて固定した。その間に、適当な工具を樹が積んでいく。


「今日はQちゃんはいかへんのか」


「うん」

 この瞬間、下宮房子の思惑がまた一つ崩れたことに誰も気づいていなかった。


「学校終わったら図書館行って、そのあと祥子ちゃんが勉強教えてくれるから三福荘いくで」


「そうかほな後で会うかもな」

 井上は、軽トラックの助手席で手を振ると出発していった。

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