Q 編1
みはらなおき
第1話 菜の花の河原
●菜の花の河原
樹は、愛用の16インチ自転車を押して歩いている。三福荘の帰り、後ろにくっついていたはずの女の子はいつの間にか、消えていた。
樹は、商店街に通じるまっすぐな道に出たところで自転車に乗った。緩やかな坂を下りだす。樹は大きなあくびをした。眠気が押し寄せてくる中、ふらふらと店の前に到着すると、樹は上り口に這い上がって、靴をもじもじと脱いだ。
「おかえり」
さと子がテレビで人形劇を見ている。
「うん」とぼんやり答えながら、座布団まで這って行く。母・千鶴子が台所から、
「伝言張ってきてくれた?」と尋ねる。さと子が覗き込むと樹はもう眠っていた。
夢の中で樹は、見渡す限りに菜の花が咲き乱れる草原で、女の子と追いかけっこをしていた。二人は河原にやってきた。樹が石を選んで女の子に渡し、丁寧に投げ方を教える。女の子が右手で投げた石が、川のほとりに落ちた。水面や水しぶきに太陽が眩しく反射している。そのそばに、紺の着流しの裾をつまんで水に足をつけた下宮が立っていた。
「ほんまありがとうな。Qちゃん」と下宮は、穏やかな笑顔で二人に話しかけた。
「おじさん、幽霊やったん」
「そうやねん。ごめんなぁ。怖い思いさせたなぁ」
二人は一旦顔を見合わせて首を横に振った。
「向こうに渡ったらあの世や、ほら」
下宮が指差す向こう岸には、下宮の両親らしき夫婦と、祖父が立って手を振っていた。
「だいぶ待たせてしもぅたわ。そしたら、いくわ。最後にもう一回礼言いとうてな」
「おじさん、さようなら」「さようなら」
「あ、そうや。Qちゃんと……それからお嬢ちゃんはなんて言うんや…」
下宮は女の子の方を向いた。女の子は頷き、「春」と恥ずかしそうに短く答えた。
「春ちゃんか。うちに手伝いに来た時から、ずっと二人一緒におったんやろ」
二人は手を繋いで頷いた。
「春ちゃんて言うのん」と樹が言う。
「うん」と、傍らの春は嬉しそうに頷いた。
「ほんでQちゃん、ここどうしてん」
下宮は右手で自分のこめかみから側頭部に手を当ててみせた。
「え」と、樹も右手で同じところを触ろうとしたが、手を繋いでいる。春が代わりに優しく、樹の側頭部を右手で撫でた。いつのまにか、樹の頭部の右側はぽっかりと穴が開き、ぼんやりと光っている。
「幼稚園入った頃、交通事故におうたとこや」
樹は、入園間もないころ、道路に飛び出して交通事故にあっている。だが、春は、
「ううん。うまれたときからあいていたの」と言った。下宮も川から数歩樹に寄って、覗き込んだ。
「そうか、肉体やなしに、霊体とかそんなもんが生まれつきぱっくり口開けてるんやな」
春は頷いた。
「えええ、そんなんいやや。怖いんちゃうん」
樹は繋いでいた手を離して、頭を恐る恐る触り、下宮と春を交互に見た。樹の体を優しく抑えながら春が言う。
「だれでも、ここからはいっていたずらできるし、かってにからだをうごかせる」
「事故ももしかしたら、何かにやられたのかも知れんな」
下宮が春を見つめて言った。
「だから、わたしがふさいだの」
春は下宮に向かって、先ほどまでと同じ調子でゆっくりと言った。
「えっ。ほなその時から、ずっと一緒におったん」
樹は交通事故の後しばらくたってから、急に大人しくいい子になったと言われてきた。
春はうつむいて頷いた。
「ずっと話しかけてくれてたやんな。最初はわからへんかったけど、このごろは一緒に宿題したり、本読んだりしてんねんで」
樹は、すごく明るい声で春の両手をとり、飛び跳ねた。春もつられて、軽く飛び跳ねた。下宮は、裾を気にかけながら、しゃがんで二人の目線に合わせると、春に聞いた。
「ほんで、春ちゃんは何もんなんや」
樹は両手をつないだまま、春の顔を見た。「何者?」
春も樹を見つめている。
「わたしは、いもうと」「でも僕、妹いてへんで」と、樹は単純に返した。
春は、樹を見つめながら、少し首を横に振った。
「うまれるはずだったいもうと」
樹は首をかしげた。下宮は、言葉を選びながら尋ねた。
「それは、おかあさんのお腹に入ってたけど、生まれることがでけへんかったってことか」
春は、また首を横に振った。
「おとうさんとおかあさんがつくるのをやめたの」
樹は、少し話についていけなくなってきた。春は続けた。
「うまれるまえ、さとこちゃんといつきちゃんとわたしで、きょうだいになろうってはなしていたの。だれからうまれようかさがしてたら、おかあさんとおとうさんが、ほかのあかちゃんがうまれるおてつだいをして、げんきなこがうまれたの。じぶんたちもこどもをつくろうってはなしだしたの。だから、あのひとたちのところにうまれようってきめたの」
春の話に、下宮と樹は息を呑んだ。
「Qちゃん、覚えてるか」「全然」
少し沈黙が流れた。
「もうええんちゃうかぁ」
川の向こう岸で、下宮の祖父が手を振った。そこには、下宮の両親以外にも数人が集まっていた。みな微笑んでこちらを眺めている。下宮は立ち上がる。
「もうええねんて。こんなもんやけど、二人にちょっとはお礼ができたかな」
「春ちゃんは、僕の妹でええねんなぁ」
「おう。そうみたいや」
下宮は向こう岸の人達が頷く様を見て、そう答えた。
じゃぶじゃぶと下宮は川を渡っていく。
「Qちゃん、本いっぱい読んでな。図書館の本全部読んだらかしこなるで」
「うん、ありがとう」
樹は二三歩、川に近づいて手を振った。春も手を振っている。足元の石がごろりとずれ、樹は川に尻餅をついた。
「おかあさん、Qちゃんおしっこしてるで」
さと子が樹を揺さぶり起こした。
●春ちゃん
堺屋家では晩御飯が始まっている。
「さっきまた夢見てたんやろ?春ちゃんて誰なん」
千鶴子とさと子が笑いながら、箸を動かしている。
「え、なんで知ってるのん」
「『春ちゃんっていうの』って言うてたやん。ほんで、手ぇ振ってたで」「夢かぁ」と樹は小さくこぼした。
「でも、春ちゃんはな、妹やってん」
二人は、夢の話だと笑いながら頷いて聞いている。
「ほんでほんで」
「お姉ちゃんと僕と春ちゃんで、どのお母さんから生まれようかって見ててんて。お母さんとお父さんが、どっかの赤ちゃんが産まれるのを手伝ってて、『自分たちも子供作ろう』って話してたからお母さんから生まれることにしてんで」
さと子は一瞬固まった表情をして、「ないない」と笑っていたが、千鶴子は急に真顔になった。
「そんな話、Qちゃんにしたことあったかなぁ。従兄のまこちゃんおるやろ。まこちゃんのお産手伝どうて、その後、お父さんとそんな話したわ」
「うわ、やったぁ」と、樹は思わず声をあげた。
「まこちゃんのお母さんが産気づいた時、そばに誰もおらへんかってな、お父さん呼んで、二人でまこちゃんを取り上げたんや。安産でなぁ。あんまり簡単に産まれてきたんで、『こんなんやったら私らも子供作ろか』言うて、話してたわ」
千鶴子は、終戦後の栄養不良の時代に結核で長い入院歴があり、夫・瀞と同じく、肺の一部を失っている。二人は入院中に知り合い結婚した。医師からは、出産や子育ては体力的にも難しいと言われていたが、この一件を機に子供を持つことを決めた。
「まこちゃんのおかげやな」と樹が言う。
「ほんまやなぁ。でも、さと子とQちゃんの二人やで?。春ちゃんはどうしたん」
さと子が、千鶴子の顔を見た。
「いややわぁ。別に次の子産んでへんだけやん」と、千鶴子は笑った。
「そや、お腹にいたけど産まれへんかったんとちごて、お父さんとお母さんがこどもをつくるのをやめたって言うてたわ」
「ほんまなん?」と、さと子がまた千鶴子に聞く。
「そんな話もしたわ。Qちゃんも小さいころやけど、聞いて覚えてたんかな」
「なんで春ちゃん産むのやめたん?」と、樹が聞く。
「そら、Qちゃんが、アホですっごい手ぇかかるからや」とさと子が立ち上がって、樹を指さし、高らかに言った。
「ええっ、ほな僕のせいなん!」
樹は今の一言を深刻に受け止め、声が震えた。
さと子は冗談のつもりだったが、思わぬ方向になりうろたえ、「ごめんごめん」と樹に寄っていった。千鶴子は、なんでこんな存在もしない妹の話題でおかしな展開になるのかと、首をかしげながら、樹の頭を撫でた。
「夢でその春ちゃん他にもなんか言うてへんかった?」
樹は半泣きで答えた。
「幼稚園の時、交通事故で頭怪我したやろ。ほんまは前から頭に穴開いててんて」と、樹は右の手のひらで頭の右半分を押さえた。
「ほんで、いたずらされたりしててな。春ちゃんがここをふさいでくれてん」
千鶴子は思った。確かに事故の後、しばらくしてから樹はおとなしく聞き分けのいい子供になった。それまではいわゆる疳の強い子で夜泣きが激しかったり、感情や行動が極端なことがよくあった。
「ほな、こないだ朝から宿題やってたのも春ちゃんとなん?」
「そうそう」と、樹が答える。
千鶴子は、合理的な理解に至った。樹は自分が成長していること自体をまだ自分で受け入れられておらず、交通事故の頭の怪我の傷口を、それまでの『できなかった自分の象徴』とし、解決してくれた存在として、『春ちゃん』を創造したのではないか。宿題があったかどうか「自分に聞いてみぃ」と思い出させたり、文章や問題を声に出して読むよう教育してきたのは自分だった。子供を作ることにした話も、三人目について話し合ったことも、樹が聞いていたかも知れない。そもそも「春」という名前も、樹が生まれる前に死んだ樹の祖母と同じ名前だ。きっと、こんな記憶や出来事が、樹の夢の中で組み合わせられたのだ。きっとそうだ。
千鶴子は、大きく息を吐いて深く息を吸った。
「春ちゃんは、お母さんの体とQちゃんの怪我、どっちも心配してくれたんやな」
続けて、
「さと子ちゃんとQちゃんと二人育ててただけやなしに、お店も始めて、その頃はほんまにテレビがよう売れてな、おかあさんも納品にいったり、ほんまに忙しかってん。春ちゃんがこうして来てくれてほんまに嬉しいわ」
千鶴子は、樹の中の「春」の存在を否定せず、また樹も否定せず、前向きにやっていくように促そうと思った。ところが、
「うわーん」
樹は突然大きな声をあげ、千鶴子の膝に抱きついてきた。体全体で千鶴子にしがみついてくる。まるで赤ん坊のようだ。さすがに小学二年生にもなればこのようなことはないはずだ。
「春……ちゃん?」
戸惑いながら、千鶴子はしっかりと赤ん坊のように柔らかくなった樹を抱きかかえた。樹の中の春は、母に抱かれてこの上ない幸福感を感じていた。涙が次から次へと玉になって溢れ出して流れていく。
ひとしきりたっぷり泣いた後、さらにしばらくして、春はそろそろと母の膝から降りた。
「もうええのん?」
千鶴子は、樹にではなく、春にそう言ってみた。この不思議な出来事が何か腑に落ちるような気がした。膝から降りた子供は、いつもの樹の顔に戻っている。
「うん」
樹は照れ臭そうにしている。樹は黙ってぐしぐしと涙を拭うと、左手で箸を使ってご飯を食べ始めた。
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