絶対旦那と結婚したいのに、十年前にタイムスリップして旦那の想い人の命を救うことになりそうです!!
浦菊詩苑
第1話
雲ひとつない青空の下、桜吹雪が舞い遊ぶ中で明が言った。
「雅、誕生日おめでとう。それから、その……俺と、結婚してください」
一度行ってみたいと昔言ったことがある、満開の桜がすぐ側で咲き誇るレストランのテラス席。それを覚えていてくれたらしい最愛の彼氏が、私の誕生日にそこを予約してくれていた。予想していた以上に美味しい食事に舌づつみを打ち、サプライズでバースデーケーキまで運ばれてきて、こんなに幸せなことはないとはしゃいでそのケーキを写真に収めようとスマートフォンを手に取ったとき。待って、と呼び止められて顔を上げたら、明が小さな箱を持って緊張した面持ちで私を見つめていた。
「え……っ」
「……その、えっと、幸せにします。一緒に幸せになりましょう。家族に、なろう。雅」
「明……」
この瞬間を私は絶対に忘れない。明がパカリと開いたベルベット地の小箱の中では、かわいらしいエンゲージリングが太陽の光を受けて虹色に輝いていた。状況を飲み込んだ瞬間ぽとりぽとりと涙が落ちる。それを拭う間も無く私は何度も頷いて、彼に言った。
「する。明と結婚する‼ 今世も来世も来来世も、未来永劫私の輪廻が続く限り明と結婚する‼」
「……大袈裟だなあ、雅は」
そう苦笑した明は、左手を出して、と私に言った。それに従うと、彼は箱から取り出した指輪を薬指にそっと優しく嵌めてくれる。サイズがぴったりで驚いていると、寝ている間にこっそり測ったんだと照れくさそうに笑った。その笑顔も指元で光るリングの冷たさも全て、なんとかして切り取ってアルバムかどこかに保管して何度も何度も噛み締めたいと思った。私が選んだ黒縁メガネのレンズの向こうで、彼の瞳が甘く蕩ける。笑って細まったときのこの目の形がとても好きだと改めて思った。
そこでふと、エンゲージリングが入っていた箱のブランド名が目に入る。私が十年追いかけているアイドルの芹沢くんが、ドラマでヒロインに贈ったものと一緒だった。ああ、こんなところでも、と思わず少し苦笑する。けれども自分の指先で光るそれは画面越しに見る五千倍はキラキラ輝いて見えて、私は胸がいっぱいになりもう一度明にありがとうと言った。
明は私の職場の先輩である。営業事務として二十五歳の時に中途入社した会社で、システムエンジニアとして働いていたのが明だった。第一印象は無口で少し怖そうなひと。担当業務も違うし、そこまで関わることもないかと特に気にかけてもいなかった。でもその週末に行われた歓迎会で、上司に過度に酒を勧められて困っていたとき。彼はそっと近くに来て私にウーロン茶を渡し、「ウーロンハイを飲んでるって言ったらいいよ。あんまり無理して付き合わないようにね」と声をかけてくれた。驚いてお礼をと言うと、「気にしないで。部長酒癖悪いんだよ」と少し笑って去っていった彼に、私は完全に恋をしてしまったのだ。無理のない気遣いとか、押し付けがましくない態度だとか、そういう全てにドキドキしてしまってダメだった。
私は恥ずかしいことに、この歳になってもアイドルを追いかけ回しているいわゆるオタクである。現実世界で恋なんてできるわけなんてないと諦めていたし、このまま推しを追いかけて彼がいつか結婚報告なんかをするのを聞いて絶望し、惰性で残りの人生をやり過ごす決意まで固めていたほどだった。そんな中で十年ぶりに突然現れた、手の届く範囲でときめきを覚える人間。しかも後々判明するのだが、明と私は実家も近く徒歩十分の距離だった。運命的なものすら感じた私はとそこから猛アタックをし、なんとかデートに漕ぎ着け、無事に交際を始めて一年半。ついに受け取ったその指輪に、私は思わずにやけてしまうのを止めることが出来なかった。
明はいつも私にとても優しくて、どんなときも穏やかな愛をくれる。けれども交際に至ったのが私のゴリ押しだったから、本当に好かれているのかどうか悩むことも時々あった。それでも彼は気性が荒いタイプではないし、二人とも特に嫉妬をさせるような交友関係もなかったから、私達の交際は本当に平穏なものだったように思う。喧嘩も特にしたことがないし、順風満帆だった。
プロポーズをされた日、二人で一緒にコンビニでゼクシィを買って、同棲している家に帰ってこれからのことについて話し合った。お互いの親に挨拶に行く日取りだとか、両家の顔合わせだとか、入籍はいつにするかどの式場を選ぶかなど考えることは盛りだくさんだ。けれどもどれも楽しくて、明のお嫁さんになるんだと思うと幸せで胸がいっぱいになる。はしゃぐ私を見て明が嬉しそうに優しく微笑むから、こんなに幸せなことはないと何度も何度も思った。そして、順調に結婚に向けて動いていたある日のこと。
「突然なんだけど、結婚する前に俺の幼なじみと会ってくれない? 紹介したいんだ」
食事中、そう明に言われて私は目を輝かせた。
「もちろん‼ 明、幼なじみいたんだね。紹介とかちょっと照れくさいけど嬉しいよ‼ ぜひ」
「ありがとう。まあちょっと気難しいけど悪いやつじゃないから……家が近所でよく遊んでたんだ。幼稚園から大学まで一緒の腐れ縁で」
「へー、そうなんだ‼ そんな人がいたの、知らなかった。会ってみたいな、明の小さい頃の話とかも聞きたいし」
「うっ。それはちょっと嫌だな……」
「なんでよ~」
あはは、と笑いながら首を傾げると明は少しだけ気まずそうに苦笑した。彼はあまり自分のことを語らない。質問すれば答えてくれるけれど、過去のことや交友関係についての話題を避けているように思えた。あまり積極的に人間関係を築くタイプではないし、友人らしい友人は一人もいないのかとすら思っていたくらいだ。だからそんな相手がいたことに驚きつつも、会えるのがとても楽しみだった。
そして当日。明の幼なじみが予約してくれたらしい店に私たちは直接向かうことになっていた。少し入り組んだ場所にあり、道中迷ってしまったが、早めに出たことでなんとかギリギリ定刻には間に合う。明いわく、その幼なじみ……晴海直人さんは、時間に遅れると面倒らしくて、それを聞いて少し緊張した。
到着した店の重たい扉を開くと、中は少し薄暗かった。落ち着いたBGMが流れていて、土曜日の晩だと言うのにさほど騒がしくない。私達が店内に足を踏み入れた瞬間、物腰穏やかなウェイターさんに低くていい声でいらっしゃいませと声をかけられた。なんというか高級感のあるお店で、ちょっぴり萎縮してしまう。
「あの、晴海で予約してると思うんですが」
「晴海様ですね。既にお待ちされています。お席へご案内致しますので、どうぞ」
「ありがとうございます」
どうやら明も緊張しているらしい。声がいつもよりおどおどしている。そんな彼に私は少し笑って、おしゃれなお店だねと声をかけた。明は困ったように眉をひそめてこくりと頷く。こういうところは苦手なんだろう。私たちが食事するときはだいたい家で何か作るか、入ってもチェーン店や気軽な居酒屋が多いし。
臙脂色の絨毯の上を歩きながら、まるでバージンロードみたいだなぁなんて思った。いま検討している結婚式場のそれも、美しいワインレッドだったはずだ。もうすぐ結婚するという実感はいまひとつ湧かないけれど、なんだか少しだけワクワクしながら私は明と並んでウェイターさんの後をついて行った。
「おー、久しぶり。場所わかったか?」
案内された個室につくと、既にソファ席に腰掛けていた男性がゆるい口調で明に話しかけてきた。
「迷った」
「だろうな。遅れてきたら奢ってもらおうと思ってたのに」
「金持ってるくせに貧乏人にたかろうとするなよ」
「金なんていくらあってもいいからな。……と、はじめまして。晴海直人です」
いつもより少し雑な口調で話す明が新鮮でちょっとびっくりする。男友達の前だとこんな感じなのか、なんて思っていたら幼なじみさんが私の方を向いて口を開いたので、慌ててぺこりと頭を下げた。
「時遠雅です、よろしくお願いします」
「雅ちゃん。かわいいねー、めちゃくちゃ歳離れてるんじゃない?」
「別にたいして離れてないよ、二個下だ」
「じゃあ二十七歳か。若く見えるって言われるでしょ」
「あはは、ガキっぽくて……」
「若く見えるっていいことじゃん、どこ行ってもかわいがられそうだね。ま、座りなよお二人さん」
晴海さんはなんだかオシャレなお兄さんで、正直明とお友達というのがちょっと信じられなかった。少し長めの髪にゆるくパーマをかけ、薄いグレーのニットに細身のネックレスをつけているのがとても似合っている。モデルさんみたいだな、と思いながら嫌らしくない程度に盗み見た。かっこいいけどちょっとチャラそうにも見える。なんか高そうな時計をしてるし、指輪もじゃらじゃらついてるし、似合うし。そんな失礼なことを考えていたら、晴海さんがメニューを私たちに渡してきた。
「なんか好きなの頼みな、ここ何頼んでもウマいから」
「あっはい‼ ありがとうございます、どうしよう」
「こんな洒落たところ来ないから料理名見てもピンとこないんだけど……直人が頼んで」
「へいへい」
仕方ねえな、と言いながら晴海さんがベルを押す。そして現れたウェイターさんに、彼はいくつか料理名を言ってくれた。お酒は各自で注文することになり、晴海さんと明はビール、私はチューハイを頼む。オーダーを繰り返したウェイターさんが一礼して去っていった。
「会社の後輩っつってたっけ?」
「そう。雅は営業事務だけど」
「社内恋愛ねー。楽しそうでいいじゃん」
「お前は恋愛だったらなんでもいいんだろ。また刺されるぞ」
「えっ⁉ 女の人に刺されたことあるんですか⁉」
ごくごく普通のテンションで繰り広げられている会話からとんでもない単語が飛び出たので思わず素っ頓狂な声を上げる。そんな私に明は、そうなんだよと呆れたような顔をしながら教えてくれた。
「大学二年の……いつだ、五月とかだっけ。新学期始まってすぐにいかにもメンヘラな黒髪姫カットに手を出して、ぶすっといかれてたな」
「あのときはさすがに女遊びやめようかと思ったな。やめなかったけど」
あまりの内容に目を白黒させるが、晴海さんは気にせず笑っている。まあでも確かにモテすぎて女のひとりやふたりに刺されそうだな、とこっそり思ったりした。なんか独特の雰囲気を醸し出しているんだよな、このひと。色っぽいというか。
「まあ俺なんかのことよりさ、雅ちゃんはコイツのどこがよかったの? つまんねー男でしょ、ゲームしかしないし」
「あ、私もわりとゲーマーで。デートはもっぱら一緒にフィールドを駆け巡ってます」
「へー、意外。明、いい彼女見つけたじゃん」
「なんかお前に言われると腹立つな……」
「なんでだよ」
そんなふたりのやりとりに思わずくすりと笑ってしまう。男友達と話している明、いつもよりちょっと子供っぽくてかわいい。なんて考えていると、お酒が運ばれてきた。
「じゃ、お二人さん婚約おめでとう。乾杯」
「乾杯」
「ありがとうございます、乾杯~‼」
そして私たちは、グラスに口をつけた。
「直人さんはお仕事何されてるんですか?」
「ん? 個人トレーダー」
「個人トレーダー‼ えっ初めてトレーダーをやってる人に会いました」
「まぁあんまいないよね」
運ばれてきた料理の味を堪能しつつ、何の気なしに直人さんに聞いてみた回答が予想外のもので私は目をパチクリさせた。隣にいる明がビールを飲みながら言う。
「……こいつもともとめちゃくちゃ頭良くて、うちの大学の医学部にいたんだよ」
「えっ医学部⁉」
「そーそー。ま、親父が医者だからその流れでね。株は大学入学したくらいから趣味でやってたんだけど、二年の夏休みかな? なんかまぐれでけっこうな資産を築いちゃってさ。大学続けんの馬鹿らしくなって辞めて、そっからは細々それを運用してる感じ」
「そんな人実在するんですか?」
「するんだよなーここに」
冗談めかして直人さんが言うから、はへーと私は頭の悪い返答をすることしかできなかった。すごい、そんなこと本当にあるんだな……とただただびっくりしてしまう。羨ましい、私もそんな感じで生きたい……いや向いてないけど、チキンだしビビリだから株になんて絶対手を出せないんだけど。
「それより雅ちゃんと明の馴れ初めでも教えてよ。どんな感じで付き合ったの?」
株とかって頭の良さもだけれどたぶん勇気みたいなのも相当必要だよなあ、と思っていたところで直人さんが話を変える。私はそれに思わず食い気味に元気よく答えた。
「私がめちゃくちゃ押しました‼」
「へー、意外と肉食系なんだ。コイツのどこがそんなにいいの?」
「おい直人、そんなに深く聞くな」
「優しいところから好きになったんですけど、今では全部好きですね……」
「雅も答えなくていいから」
素直に答えると気まずそうに明がビールを呷る。普段はなかなかこういう顔を見る機会がないから、なんだか少し楽しくなってしまった。照れてる明、かわいいなぁ……思わずニコニコしていると、直人さんが茶化すように言う。
「熱いねー。ま、幸せそうで何よりだよ」
「直人さんはそういうお相手いないんですか?」
「俺は全然だねー、モテるけど」
「あはは。確かにすごいモテそうですよね」
多分特定の相手がいないだけで、女には困っていないんだろうな……と思いながらお酒を飲み干す。そのタイミングで、次は何がいい? と直人さんに聞かれたので今のと同じものにしようかな、と私は答えた。気遣いまで完璧だなんて、この人は超人かなにかなんだろうか。そんなことを思っていたとき、お酒を飲み終えたことも手伝ってか少しトイレに行きたくなる。タイミングとしてもちょうどいいし、いま行くかと立ち上がった。
「注文お願いしておいていいですか? 私ちょっとお手洗いに行きたくて」
「もちろん。ここを出て左に行った突き当たりにあるよ」
「ありがとうございます」
そう言いながら私はぺこりと頭を下げて個室の扉を開いて歩き始める。……直人さん、なんだか飄々としているけれど、話しやすくていい人だ。最初はちょっと緊張したけど、思っていたより楽しくて嬉しい。そうだ、二人の小さい頃の話とかも聞きたいな……なんて次の話題について考えていたところでお手洗いに着いたのだが、使用中である。そこでハンカチがカバンに入ったままなのを思い出し、スマホと口紅と共に持ってくるかと私は先程までの道のりを引き返した。しかし個室の入口に差し掛かったあたりで、声がする。
「いい子じゃん、雅ちゃん。よかったよ、お前がちゃんと前向けたみたいで」
「……雅は俺にはもったいないくらいいい子だよ」
「結のときと同じようなこと言ってんじゃねぇよ」
自分の名前が聞こえてきて、うっかり私は足を止めてしまった。そしてそのあと、知らない名前が耳に入り動けなくなる。聞き耳を立てるなんていけないとわかっているのに、初めて聞く名前……おそらく明の元カノか何かであろうその名に私は好奇心が刺激されてしまい固まってしまった。
「雅ちゃんは結のこと知ってんの?」
「……言うわけないだろ。知らないよ」
「まあそりゃそーか。でも結婚ってなるとあれじゃね? あのー、ウェディングムービーだっけ、よくあるやつ。新郎新婦の写真映したりさあ、昔のお前とか全部隣に結いるでしょ」
「……そういうのはやらないようにしたいなと思ってる。雅はしたがるだろうし、実家に挨拶に来るときは昔の写真を見たいとか言ってるけど」
「かわいそ、雅ちゃん」
「結のこと知る方が嫌だろ」
だからアイツのことは墓場まで持っていくよ、と明が言った。それに対して直人さんが「愛だねぇ」と言ったけれど、それは私に対してのものではなくその結さんという人に向けたもののような気がした。
墓場まで持っていこうと思うような大きな感情を、明は誰かに抱いているというのか。頭から冷水を被ったみたいになんだか全身から血の気が引いて息苦しくなる。そのとき直人さんが「追加のドリンク頼もうぜ。俺ウィスキーにしようかな」と言い、明も「俺も」と言ったので私はハッと我に返った。直人さんが呼び鈴を押したようなので、ウェイターさんが来る前に慌ててお手洗いへと戻る。もう誰も使用していなかったことにほっとしつつ、中に入った私は扉に背を預けた瞬間力が抜けてしまった。ずるずるとしゃがみこみ、私は呆然とする。
……結のこと知る方が嫌だろ、と先程明は言っていたけれど。そんなふうに気を使ってしまうくらい大きな何かがあったということは、ただの元カノじゃないんだろうか。直人さんもよく知っているということは同級生とかかなぁ。……結婚を目前に、こんなに心が揺さぶられるとは思わなかった。
たとえ明が過去にどんな存在がいたとしても、いまの彼女は私だし結婚するのも私だ。そう言い聞かせてみるけれど、でも付き合ったのは私が猛アタックしたからだし……と不安になってしまう。プロポーズだってしてくれたじゃないか、そう思い直して自分を慰めても、年齢的にちょうどよかったから責任も感じてしてくれただけでは、なんてマイナス思考に絡め取られた。
私は二十七歳、明は二十九歳の年だ。そりゃお互いそれなりに忘れられない恋の一つや二つ、あってもおかしくないだろう。そう思ったとき、ちょうど店内に聞き覚えのあるメロディが流れ始めて私はため息をついた。芹沢くんのセカンドシングルをオルゴール調にアレンジしたものだ。……ほら、現に、私だっているじゃないか。十年間神様みたいに崇めて、追いかけて、恋をした相手が。そのくせ自分のことは棚に上げて、明には自分だけを見ていてほしいだなんてワガママが過ぎる。そんな子供じみたこと、思ったって無駄だ。……でも心というものは簡単に制御ができなくて。
ハァ、と私はため息をついた。いつまでもお手洗いで蹲っているわけにはいかない。用を足して鏡を見、自分の頬を軽く叩いて気合いを入れた。しょぼくれた顔で戻るわけにはいかない、考えるのは後にしよう。そう思って私はお手洗いの扉を開いた。
「おかえり。雅のお酒届いてるよ」
「あ、ありがとう。お手洗い混んでて遅くなっちゃった」
「ここトイレ一個しかないのだけ微妙なんだよな」
うまく振る舞えているだろうか。わからないけれど私はなんとか笑顔を作り、お酒を飲む。そして……緊張しながらも、なんとか普通の声色で二人に聞いてみた。
「直人さん、せっかくなんで昔の明のこと教えてくださいよー‼ 明、ぜんぜん学生時代のこととか教えてくれないから」
「こら雅」
「いいじゃん。だめ? ……それとも聞かれたら困ることでもあるの?」
「……そういうわけじゃないけど」
直人さんがいるときしかこんな話はできないだろう。明と二人のときに聞いてもはぐらかされるのが目に見えている。だから私はあえてここで聞くことにした。……だって少しでも、私が知らない明のことを知りたい。
「んー、まあ今とそんなに変わんないよ。基本ゲームばっかやってて……あ、でもテニスは割と上手かったよな」
「えっ⁉ 明テニスできるの⁉」
「おいそれも言ってないのかよ。大学の時テニスサークル入ってたんだ。二人とも二年の終わりに辞めたんだけどね」
「そ、そうだったんですね……」
インドアな明がテニスサークルに入ってたなんて。びっくりしていると明は少し気まずそうに「二年で辞めたから話すこともなかったんだよ」と言った。本当にそうなんだろうか。なんだかさっきから変に勘ぐってしまう。なんで二人して辞めたんだろう、そう聞こうと思ったところで直人さんが口を開いた。
「雅ちゃんは大学のとき、サークルとか何やってたの?」
「え? あぁ、バトミントンです」
「あー、ぽいね。なんかやっぱ趣味似てるんだな、二人。いいじゃん」
そういえばゲーマーって言ってたけどゲームの趣味も合うの? どんなのが好きなの? と直人さんが聞いてくる。……なんか上手く話題を変えられた気がするな、と思いながら私達はしばらくゲームの話をした。
「そういえば直人さん、株を始めたきっかけってなんだったんですか?」
あのあとお酒もずいぶん進み、かなり打ち解けてきたタイミングで私は普通に疑問に思っていたことを彼に聞いてみた。直人さんは、んー? とカルパッチョを食べながら答える。
「医学部ってけっこう忙しくてなかなかバイトできなくなるって聞いてたからさ。なんか他で稼げねぇかなと思って勉強したんだよ」
「す、すご……。じゃあ大学の時はバイトしてなかったんですか?」
「いや、二年までは個別指導塾でバイトしてたよ。実習が入るようになるまではテストさえパスすりゃそんなに忙しくないからな。明と同じところで働いてた」
「えっ明、塾でバイトしてたの⁉」
また知らなかったことを知ってしまい、思わず大きな声が出た。それに明は少し気まずそうに頬を掻きながら返答する。
「……言ってなかったっけ」
「知らないよー‼」
今日だけでどれほど明の新情報を得てしまうんだろうか。出会ってもう二年になるのに、なんだか知らないことばかりな気がしてきて少し悲しくなってきた。
「……なんか、私って明のことなんにも知らないんだね」
「この歳になると学生時代の話とかすることもなくならない? まあ雅は友達が多いから今でもよく話に出るけど、俺はそんなに友達いないしもう三十だから忘れちゃったよ」
「そんなもんかなぁ……。あれ、でも明ってコンビニの夜勤してたとか言ってなかったっけ」
「コンビニの夜勤もしてたよ。塾講は途中で辞めたから、その後に」
「そ、そうなんだ……」
サークルも塾もやめてたなんて、と私は少しだけ驚く。何故って彼はあまり物事を途中で投げ出すタイプじゃないからだ。現にいまの会社も新卒の時からずっと働いているし、どんなにサークルやバイトが嫌だったとしても明が簡単に辞めるとは思えなかった。大学生のときのバイトやサークルならそんなの普通かもしれないけれど、でも、どうにも引っかかってしまう。
「……塾ってどこでやってたの? 家の近所とか?」
「そうそう。あけぼの個別指導塾ってところ」
「え、あそこなの⁉」
「あ、知ってるんだ」
聞き覚えのある名前に私は驚いて目をパチクリさせた。たしか……クラスの女の子が行っていたような気がする。当時私が好きだった彼と仲の良かった子だ。その子はギャルっぽくてあんまり話したりもしなかったから、名前を思い出せなくて確かめられないけれど、明に教えてもらっていたかもしれないと思うとさらに羨ましく感じられた。私は従姉妹が行っていた予備校に高三から通い始めたんだよなぁ。十年前に嫉妬していた彼女にこの年になってまた似たような思いを抱くなんて……と思っていると、直人さんが口を開いた。
「あれ、雅ちゃんと俺らってもしかして実家近い感じ?」
「そうそう。俺ら一丁目で雅は三丁目に住んでたんだよ、最初に知った時はびっくりした」
「へー。じゃあもしかしたら俺らが雅ちゃん指導してた可能性もあるんだ。俺ら二十歳の時雅ちゃん高三でしょ?」
「わ、本当ですね……‼」
「なんかそう言われると悪いことしたみたいな気持ちになってくるな」
「二個しか変わらなくても生徒ってなんかフィルターかかるもんな」
そんなふうに笑いながら直人さんが言う。……明が先生かぁ。どんな感じだったんだろう。明に勉強を教えてもらいたかったな。けっこう優しく理論建てて教えてくれると思うし。そんな妄想をしながらお酒を飲んで、ご飯を食べた。そして結さんのことは結局なにもわからないまま、いい時間だしとお開きになり私は明と帰路に着いた。
「面白いひとだったね、直人さん。気難しいって聞いてたけどぜんぜんそんなことなかったじゃん」
「だいぶ丸くなったんだよ、アイツも。でも楽しめたのならよかった」
「楽しかった~」
家までの道のりを、明と手をつなぎながら歩く。五月の夜は少し肌寒いけれど、酔いを覚ますほどではないから頬は熱いままだった。……酔った勢いで全部聞いてしまった方がいいのだろうか。少し悩んだ後、私は口を開く。
「……なんで辞めたの? バイトとサークル」
「ん? んー、なんとなくだよ」
「なんとなくで辞めるタイプじゃなくない? 明。……まさか両方元カノと一緒にやってて別れたからだったりする⁉」
「はは。なんでそう思うの?」
「え? な、なんとなく? だって塾講師やってたこともテニスサークル入ってたことも教えてくれてなかったから、なんか気まずいのかな~って」
「そんなんじゃないよ。単純に塾講師ってバイトでするには割に合わないことが多くて、楽そうなコンビニ夜勤に変えただけ。サークルは……もともとあんまり合わなかったのをずるずる続けてたんだけど、もういいかなって思って」
「ふぅん……」
いまひとつ納得できないような気もするけれど、深く聞くのも憚られた。……でも、なんでそう思うのって、質問に質問で返してくる感じはやっぱりいつもの明らしくなくて少し違和感を覚える。どうしても、結さんとやらが関係しているように思えてならない。
「もっと直人さんに明の話聞きたかったなー‼ 当時明が好きだった女の子の話とか、元カノとか」
「どうしたの急に。今までそんな話、気にもしなかったのに」
「気にはなってたよー、明が言わないから聞かなかっただけで」
「そんなの聞いたって楽しいもんじゃないでしょ」
明が少し笑いながら言うけれど、なんだかその瞳はちっとも笑っているように見えなくてどうしたらいいのかわからなかった。いま聞いてしまえば楽だろうになんだか怖くて先に進めない。結局その日は何もわからないまま、家に帰って眠りについた。
あれから半年が経った。お互いの実家への挨拶も両家の顔合わせも済み、結婚式場も日取りも決まって着々と入籍に向かって進んでいる。しかし結局私は結さんについて何も聞けないままだった。それに明の実家に行った時も昔の写真は見せてもらえなかったし、ウェディングムービーも付き合ってからのツーショット写真だけで制作することになった。結婚が近づけば不安な気持ちは凪ぐのかと思っていたのに、そういう小さな積み重ねで前に進むほどにモヤモヤが大きくなるばかりである。そんな冬の朝、出勤前に明が言った。
「今日同じチームの人と飲み会の日だから、雅はご飯、テキトーに済ませてね」
「あ、うん‼ そうだったね、了解」
念の為社内の人間に交際がバレないようにしていた私達は、出社時刻を少しずらしていた。結婚式に招待するのはどうしても会社関係の人が多くなるので婚約したことはもう言ってあるが、なんとなくその名残りと冷やかされるのが恥ずかしくて今も別々に家を出ている。行ってきますのキスをして、私が先に家を出た。昨日給料日だったし、今日は何か食べて帰ろうかなぁ。何にしようかな、なんて考えながら冷たい風に吹かれて歩いた。
その日は一時間ほど残業をして退勤した。どうしようかなぁ、ハンバーガーでも食べようかなぁ、寒いしラーメンもありだなぁ、なんて悩みながら駅の方角へ向かう。そんなとき、見覚えのある人影を見つけて私はあっと声を上げた。ふわりとしたゆるいパーマが揺れて、背の高いその人がこちらを振り向く。
「直人さん」
「あれ、明の。雅ちゃんだっけ、仕事帰り? お疲れ様」
「お疲れ様です‼ 仕事帰りです」
直人さんはゆるく笑って私にひらひらと手を振った。今日は少し大きめのトップスに細身のパンツを履き、もこもことしたマフラーを巻いている。相変わらず様になるなぁ、なんて思いながら私は彼に近づいた。
「直人さんはどうしたんですか?」
「俺? デートの予定だったんだけど、めんどくさくなってブッチしたとこ」
「え」
「仕事で遅れるって言われたからじゃあいいやって断っちゃった。でも店の予約はしてるし……あ、雅ちゃん一緒に行く?」
「えっ、え? え、それ彼女さん? 怒るんじゃないですか」
あれ、こないだは彼女はいないって言ってたけどできたのかな、作る感じじゃなかったけどな、なんて思いながらもデートという単語から慌てて聞く。するとのんびりした答えが返ってきた。
「彼女じゃないからへーきへーき。あ、ていうか明は? せっかくだし明も誘っていいよ、たぶん店空いてるし」
「あ、明は今日飲み会で……」
「そうなんだ。じゃあ二人で行く? アイツ怒るかな」
「ど、どうでしょう……言えば、大丈夫な気も……」
そう返しつつもちょっとまずいような気がするようなしないような。そもそも異性の友人がぜんぜんいない私は、明がいるのに他の男性と二人で食事に行くことなんて一度もなかった。嫌がるかなぁと思いつつも、同時に先日の飲み会での話が頭に浮かんでしまう。逡巡の後、ごめんねと心の中で明に手を合わせながら、私は直人さんに向き直った。
「直人さんだし、LINEしたら大丈夫だと思います‼ ぜひ」
「そ? んじゃ行こ、あそこも美味いし洒落てて気に入ってるんだ」
「直人さんはグルメなんですね。美味しいお店に詳しいのすごいです」
「まぁどうせ食べるなら美味いもん食いたいからね」
「それなのに細身で羨ましい」
「あー、よく言われる」
やっぱり、なんて笑いながら私は直人さんについて歩いた。
少しして到着したのは落ち着いた雰囲気のイタリアンバルだった。会社の近くにこんなにおしゃれなお店があったなんて、と私は驚く。一本裏道に入ると全然知らないものだなぁ、いつもは家でご飯食べるから真っ直ぐ駅に向かっちゃうし。なんて思いながら店内へ進む。
通されたのは窓際のテーブル席だった。もう既に明の参加する飲み会は始まっているだろう。明に連絡しておきますね、と一声かけてスマホを手に取ると、直人さんは頷いてメニューを手に取った。「帰り道で直人さんと偶然会って、流れで一緒に晩ご飯を食べることになりました。もし嫌だったらごめんね‼ 早めに帰るね」とメッセージを打つ。それを送信したタイミングで、直人さんに「雅ちゃんは何飲む?」と聞かれた。ごろっと果実が入ったマンゴーサワーが美味しそうだったので、それを選ぶと直人さんが呼び鈴を押す。
「とりあえず酒と前菜だけ先に頼んじゃおっか。気になるのあったら言ってね」
「あ、はい‼ どれにしようかな」
そう悩んでいるうちにウェイトレスさんが来て、直人さんがお酒と前菜の盛り合わせを頼んでくれた。彼女が去った後改めてメニューと向き合うも、どれも美味しそうで困ってしまう。生ハムのピザとか食べたいなぁ、クリームパスタもいいなぁ、メニューとにらめっこしていると直人さんがくすくす笑った。
「雅ちゃん、すごい顔に出るよね。どれとどれで悩んでるの?」
「えっ⁉ あっわかります⁉ 恥ずかしい」
「すげーわかる。言ってみ」
「こ、この生ハムとルッコラのピザと、サーモンのクリームパスタが美味しそうで……」
「いいじゃん、両方頼もっか。シェアしたら食べれるでしょ。ここの、そんなにサイズ大きくないし」
「え‼ でも直人さんが食べたいものは」
「俺は食べたくなったらいつでも来るからいいよ。せっかく付き合ってくれてるんだから、雅ちゃんが食べたいの選びな」
他には何か気になるものある? と聞かれたので私は素直に鯛のカルパッチョ……と答えた。直人さんはそれに対してもいいねと笑ってくれる。すごい、このひと本当にモテるだろうな……。なんだか少し人間味に欠けるところも含めて、魅力的だと思う。ぼんやり彼の上等そうなセーターを眺めていたら、お酒が運ばれてきた。直人さんがそれを受け取った後注文を済ませてくれる。
「じゃ、今日はありがとね。おつかれさま、乾杯」
「か、乾杯……‼」
小さくぶつけたグラスが小気味いい音を立てる。ごくり、とサワーに口をつけると甘さが疲れた体に沁み入った。
「おいし~……」
「よかったよかった」
思わず顔を綻ばせると、直人さんが楽しそうに笑った。本当に顔に出るね、と言われて頬を赤らめてしまう。
「わかりやすいのは長所だと思うよ。明もそういう雅ちゃんのことが好きなんでしょ」
「そ、そうだったらいいんですけど」
「そうだよ」
どこか確信めいた物言いをした直人さんは穏やかに笑った。そんな彼を、私は思わずじっと見てしまう。……やっぱり、直人さんは、明のことをよくわかっているんだろうな。
「直人さんは明と本当に仲がいいんですね。幼なじみの腐れ縁って聞きました」
「アイツの方が勝手に縁を繋いできたんだけどねぇ」
「そうなんですか?」
「そ。わりと俺は子供の頃とか一人でいるタイプだったんだけど、そんな俺に寄ってきたのが明」
そう語る彼の目は優しいけれど、いまのどちらかというと内気であまり人との関わりを持たない明からは想像がつかなくて私は驚くしかできなかった。
「……なんか全然信じられないです」
「まぁアイツだけじゃないからね。他にもうひとり幼なじみがいて、そいつが孤立しがちだった俺に声をかけてきた感じ」
「へぇー……」
そんな話を聞くうちに前菜の盛り合わせが運ばれてきた。チーズやハム、ソーセージ、サラダ、キッシュやパテを塗ったバゲットが所狭しと並べられている。美味しそう、と目を輝かすと直人さんはまた楽しげに目を細めた。
「いいねー雅ちゃん。こないだも思ったけど、食べさせがいがある」
「あっ、改めましてこの間は、ご馳走様でした」
「いいよいいよあれくらい。お祝いだし」
そう言って直人さんはスパークリングワインに口をつける。先日の食事の際、いつの間にか直人さんが会計を済ませてくれていたので明と二人で驚いてしまった。払う、と食い下がる明に、直人さんは「これから金もかかるだろうし、祝いがてら大人しく奢られとけ」と取り付く島もなかったのである。
「……直人さん、本っ当にモテそうですね」
「まぁね。この見た目だし羽振りいいし、モテないわけないよね~」
「すごい。そのセリフ、人生で一度でいいので言ってみたいです」
「ははっ。面白いな~雅ちゃんは。ほら、食べな食べな」
楽しそうに直人さんが笑う。そんな彼を見ながら私はとりあえずサラダに箸を伸ばした。そのときスマホがピコンと通知音を鳴らしたので反射的にそちらを見る。明からの通知で、「そうなんだ、了解。帰るときLINEして」というメッセージが送られてきていた。……怒っては、ないかなぁ……多分。
「明だった? なんか言ってる?」
「了解、って。あと、帰るときLINEするようにって」
「へー、心配されちゃってるかな。なるべく早く帰さなきゃ」
「いや、どうでしょう……特に気にしてないような気も」
「そう? アイツけっこう嫉妬深いイメージあるけどね」
なんて言いながら直人さんがチーズを摘む。……それってつまり、結さんとやらには嫉妬をしていたということだろうか。私はそれほどの感情を彼から向けられたことがない。そう思った瞬間、足元がぐらつくような不安に襲われる。
「……明、元カノとかにはそうだったんですか? あんまりそういう話って聞いたことなくて」
「え? あー……。あいつそんなに自分のこと話すタイプじゃないよね」
「はい……。その、それに……あんまり嫉妬深いとかもピンとこなくて。私にそもそもそんなに男友達がいないっていうのもあるかもしれないけど」
「なんか心配なことでもあんの?」
「心配っていうか……。その、付き合い始めが私の猛アタックがきっかけで、押し勝って始まったみたいなところがあるんですよ。社内恋愛だから断るのが気まずくて付き合って、そのまま特に問題もなく交際が続いたから、年齢が年齢だしプロポーズしてくれただけだったりするのかな、って思ったり……って、すみません‼ こんな急にめんどくさい話を」
一気に言葉が溢れてしまって、はっとして口元を押さえる。いやいやだめでしょいくらなんでも、彼氏の友達にこんなにあけすけな愚痴を言うのは……はっと気づいて気まずくなった私は誤魔化すようにお酒に口を付ける。シロップが沈殿し始めたのか、先程より甘くないそれに少しだけ眉を顰めた。そんな私に直人さんが聞く。
「……マリッジブルーって感じ?」
「あ……。そうなのかも、しれません……」
「この人と結婚して幸せになれるのかなぁ、とかじゃなくてこの人は本当に私のことが好きなのかなぁ、って不安になるんだ。珍しいね」
「……すみません、忘れてください」
「いいじゃんかわいくて。まあでも明が雅ちゃんと付き合ったのは相当雅ちゃんが好きだからだと思うし、プロポーズなんてよっぽどの覚悟をしてると思うよ。そこは信じてやりなよ」
「……そうですよね」
わかってる。わかってるはずだ。だって実際、明にプロポーズされたときは天にも登る思いだった。幸せで幸せで浮かれきっていた。そのあともずっと有頂天だった。……私が引っかかっているのは、結さんという女性のことだ。やっぱり直接聞いた方がいいんだろうか。でも墓まで持っていくなんて思っている秘密を、明が簡単に教えてくれるとも思えない。どうしよう、と思った時、直人さんが優しく言った。
「ま、俺で良ければ吐き出したいもの吐き出したら? 別に本人には言わないし、同性の幼なじみだからこそわかることもあるだろうしね」
そう微笑んでグラスを飲み干す直人さんに、私はどうしたものかと唇を噛む。そして少し悩んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「……ごめんなさい、実はこの前聞こえちゃったんです。……結さん、って人のことを話しているのが」
「‼」
「ハンカチを忘れて取りに戻ろうとしたらちょうどその話の最中で……。本当にごめんなさい、直人さんじゃなくて明に直接聞くべきだってわかってるんですけど、勇気が出ないままずっともやもやしてて」
「……そうだったんだ」
空になったグラスを直人さんがテーブルに置く。そして真っ直ぐに私を見つめた。
「知りたい? まあ知りたいから話してるんだよね」
「……はい」
「俺は明と違って別に雅ちゃんのことが好きな訳でもないし、優しくもないから何も隠さずに言うよ。ここまできたらはぐらかすのもどうかと思うし」
「はい。大丈夫です」
「そう」
直人さんが少し遠くを見つめる。その先にはアンティーク調のペンダントライトが天井から吊り下がって淡い光を放っていた。それを視界に入れた直人さんは、眩しいものを見るかのように目を細めてからグラスを飲み干す。そしてその細く美しい指で呼び鈴を鳴らした。
「次のグラスが来たら、話してあげる」
「……ありがとうございます」
そう言って笑う彼は少し寂しそうで、結さんはきっと直人さんにとっても大事な人なんだとわかってしまった。しばしの沈黙。ウェイターさんが来て注文を取り、さっき頼んでいたカルパッチョとパスタが来る。直後、白ワインが運ばれてきた。それを受け取り、ウェイターさんが去ったとき。
直人さんが懐かしむように言った。
「結は明の元カノ……みたいなもんだよ。で、それと同時に明と一緒に昔の俺に声をかけてきた子でもある。さっき言った、俺の幼なじみだ」
「‼」
元カノみたいなもん、という言い方に少し引っかかる。しかしそれ以上に。幼なじみの女の子だったなんて……と私はなんだか負けたような気持ちになってしまった。だってそのひとは、私の知らない明をきっとたくさんたくさん知っているんでしょう。そう思うと胸が苦しくなり、思わずぎゅっと唇を噛む。そんな私に、直人さんは温度のない声で言い放った。
「でももう死んでる」
「えっ」
「俺達が二十歳の時。車に跳ねられて死んじゃった」
「……」
「けっこう大きい事故でね。当時ニュースにもなったんだけど近所だったなら覚えてないかな?」
そう言われて私は思い返す。……そういえば高校生の頃、図書館の近くで居眠り運転のトラックが若い女の人に突っ込んだ、大きな事故があった気がする。昔の記憶を掘り起こす私に、直人さんは淡々と続ける。
「俺の親父がやってる病院に運ばれたんだ。手は尽くしたけどだめだったらしい。まあ俺はそのとき二年で、まだ実習も行けなかったからその場にはいなかったんだけど。……でもたまたま親父の忘れ物を届けに行ってて、緊急搬送されるアイツを見た」
ふぅ、と息を吐いた彼がグラスに口をつける。言葉を失っている私の前で直人さんはグラスを少し揺らして、「もう十年になるのか」と呟いた。
「あれ以来俺はそれがトラウマみたいになっちゃって、医学部を辞めた。俺も明も、バイトもサークルも結に誘われて入ったからさ、二人して両方辞めちまった」
「……」
「こういうとき、男っていうのは情けないよなぁ。俺なんかタバコもやめちまった。十六の時から吸ってて、ずーっとやめろって結に怒られてたのをやめられなかったくせに、いざ怒ってくれるひとがいなくなったら吸う気にならなくてな」
そう言って直人さんは苦笑する。それからゆっくりと言葉を紡いだ。
「まあ、よくある話だよ。ただ結と明は家が隣で、それこそ家族同然に育ってたからな。お互い惹かれてるのが丸わかりだったけど、なかなか踏み込めなくて……。やっと踏み出そうとした瞬間に死んじまった。そっからだなぁ、明が輪をかけて暗くなったのは」
予想だにしていなかった回答に私はどう返事をしていいかわからない。……明に、直人さんに、そんな過去があったなんて。そんな人が二人の隣にいたなんて。そしてもう、亡くなってしまってるだなんて。
うまく飲み込めずにいる私の脳みそで、明が「墓場まで持っていく」と言った声が繰り返し再生された。……それほど大切だったひと。今でもきっと大切に思っているだろうひと。
「まあ、だから明が結婚するって聞いた時はびっくりしたよ。アイツ一生独身か、最悪どっかで首吊るかもなって思ってたから」
「そ……そんなに……」
「ま、そんだけ雅ちゃんが明にとって魅力的だったんだと思うけど……。こんな話聞いたあとじゃ、こういうのも慰めにしか聞こえないか」
そう言いながら直人さんがピザを食べる。冷めるから食べな、ともう一度言われて私も慌てて一切れ取った。美味しいのか美味しくないのかよくわからない。心臓がバクバクして、そっちに気を取られてどうしようもない。
「ま、良くも悪くも死んだ人間のことだからさ。あれからもう十年だ。明も明なりに折り合いをつけられたから雅ちゃんと付き合って、結婚しようと思ってるんでしょ。今まで心配なことがなかったのなら信じてやりなよ。ちゃんとアイツは雅ちゃんのことが好きだから」
「……」
「じゃなきゃプロポーズなんかしないよ。そんな中途半端な男じゃないって、雅ちゃんが一番わかってるでしょ」
そう言ってグラスを傾ける直人さんに私はただ黙って頷いた。……わかっている。そうだ、明が私を大切にしてくれていることも、きっと相当ドキドキしながら……覚悟を決めてプロポーズしてくれたことも。……わかっている。わかっているんだ。ただ、今まであまりに平穏な幸せの中にいたから、突然発覚した事実に戸惑いを隠しきれないだけで。
私は自分を落ち着かせようとサワーに口をつける。氷が解けたそれは、先程よりずいぶん水っぽく感じた。そのタイミングでウェイターさんがパスタを持ってくる。……いつもなら絶対余裕で食べられるんだけど、今日ばかりは頼みすぎたなと思った。
「……まだ食欲ある?」
「あんまりないけど食べます」
「残したりしないんだ。いいね」
「人として当たり前のことです……」
「ふふ。そっか」
ゆるく笑って、直人さんはパスタに手を伸ばす。小皿に自分の分を盛り付けて、それからフォークでくるくる巻き取り口元へと運んだ。その姿も様になるし、なんだかこの人は品がある。顔がいいだけじゃなくて、ご実家が病院ということは相当しっかりされてるんだろうし、マナーも染み付いているんだろうなぁと思った。私なんかとは大違いである。そんな直人さんと幼なじみだった、明と結さん。明はあんまり自分の家の話もしないけれど、それでもお家は相当立派で挨拶に行く時は気が引けてしまったものだった。……結さんは、どうだったんだろう。
「……結さんって、どんな人だったんですか?」
「んー? 死んだ人間の話これ以上聞いても意味無いでしょ、どうしても教えてほしいってんならするけど」
そう言って直人さんはパスタを食べ続ける。私もそれに倣って、自分の小皿にトングで少量取り分けた。クリームパスタは照明の光を浴びてテカテカと輝き、美味しいですよと主張しているかのようだった。それを見ながら私も一巻口へ運ぶ。……大丈夫、おいしい。とってもおいしい。
「……直人さんが辛くないのなら、聞きたいです」
「え? あー、俺のこと気にしてくれんだ。ありがと。まあさすがに大丈夫だよ、もう相当時間も経ってるしね」
「……ならいいんですけど、無理はしないでくださいね」
「はは、面白いねぇ雅ちゃん。そんな顔して無理すんなって言う?」
笑われてしまって私は思わず自分の頬を触る。むにゅりと丸いほっぺたが潰れて、情けない顔になっていそうだなぁと思いつつ、そんなに酷いんだろうかと心配になった。しかし焦る私に、直人さんはニヤリと笑いながら続ける。
「……結はめちゃくちゃ美人だったよー。背も女にしては高い方だし、気も利くし頭もいいし、大学に入ってからはボブカットにゆるく当てたパーマが似合ってねぇ。すごいモテてたんだ」
「……その情報だけで勝てないなっていま思いました。私のこの髪,、屈強なストレートで、どんなパーマも一日と持たないんです」
「はは、そんな感じする。背も小さいし雅ちゃんは美人っていうよりかわいい系だよね。だから最初見た時びっくりしちゃった。女の子って結構違うタイプの男と付き合ったりするけど、男ってわりと似たような女を好きになるからさ」
「……確かに」
明ってどういうタイプが好きなんだろう。そもそも普段、あんまり好きとかかわいいとか言ってくれるひとじゃないんだよな。口下手な方だから気にしてなかったけど、そもそもぜんぜん私のことが好みじゃなかったらどうしよう。いや、私のほうが好みだったとして、自分のタイプとかを飛び越えて結さんのことを好きになっていたんだとしたらそれはそれでめちゃくちゃ嫌だけど……。
考えれば考えるほどに撃沈してしまい、私はほとんど水になっているサワーをゴクリと飲み干す。すると直人さんが苦笑しながらドリンクメニューを渡してきた。
「はは、ごめんごめん。意地悪したね。なんか雅ちゃんからかいがいがあるからつい。ほら、次なに飲む?」
「……ちなみに結さんは何が好きだったんですか」
「あいつ? 芋焼酎」
「美人な上にそれは絶対勝てない ……。わたしは赤のサングリアを」
「ウケる。そこ競うとこじゃないでしょ」
笑いながら直人さんが呼び鈴を押し、ウェイターさんにサングリアを頼んでくれた。私はそれにぺこりとお礼をして、ぬるくなってきたピザを食べる。……うん、おいしい。さっきよりは美味しく感じる。少しだけほっとしながらピザをむぐむぐと食べ進める。そんな私に直人さんは笑った。
「どうしてもしんどくなったら、明と別れて俺んとこ来れば? 俺けっこう雅ちゃんのこと好きかも」
「ぶっ‼ っ、げほ‼ げほっげほっ、」
「おーいい反応、ウブだね~。まあでも明の彼女を寝取るのはさすがにナシかな」
「っ、さっきからなに言ってるんですか⁉ せ、セクハラ‼ セクハラですよ‼」
「はいはいごめんごめん。ほら水飲みな」
「……っ、ありがとうございます」
「どーいたしまして」
直人さんが笑いながら渡してきた水を受け取って飲み込む。それで少し心を落ち着けていると、彼はやっぱりニヤニヤしながらこちらを見てきた。……すごい悪い顔をしている。
「直人さん、本当にチャラいですね」
「そ? でもま、このやり取りでちょっとは元気出たでしょ」
「……」
「あ、いま“確かに……いい人かも……”って思ったね。こういうことを言語化するやつにろくな男はいないからこの手に引っかかっちゃだめだよ」
「~~~ッ、引っかかりません‼」
「あ、ドリンク来たねぇ」
図星を突かれて赤面する私を直人さんは飄々と流し、受け取ったドリンクを渡してくれた。赤いワインの中に、苺や林檎、オレンジやブルーベリーなど色とりどりのフルーツが浮かんでいてとてもかわいい。美味しそう、と思いながら受け取る私に、直人さんは優しく言った。
「……雅ちゃんは素直だねぇ。家族仲いいでしょ」
「え? わ、わかります?」
「すげーわかる。愛されて育ったんだろうなって感じがする。そういう意味では明と合うだろうね、アイツは内気だけどめちゃくちゃ大事に育てられてるから」
そう言ってピザの最後の一切れを食べる直人さん。……私からすると、こんなに上品にピザを食べられるのって、相当大切に育てられたんだろうなって気がするんだけどそうではないんだろうか。でもきっと彼の口ぶりからはそうじゃないんだろう。深く聞いた方がいいんだろうか。聞かないほうがいいんだろうか。逡巡の後、私は彼を窺いながら口を開く。
「……直人さんは御家族のこと、あんまりお好きじゃないんですか?」
「好きじゃないっつーか、向こうが俺のこと嫌いだねー。まあ大事な跡取り息子が医学部辞めて無職じゃあ話にならんわな」
「私は株で財産を築き上げているの、相当すごいと思いますが……‼」
「まあ俺なんでも出来ちゃうからね」
そう言ってワインを飲む直人さんの目元は、長いまつ毛が影を落としてなんだか寂しそうに見えた。
「なんでもできるってすごいです。私はなんにもできないので」
「そ? なんにもできないって、その笑顔で言える方が俺にはすごいと思うけどね」
「?」
言葉の意味がわからず私は首を傾げる。……何も出来ないと開き直るこれの、どこがすごいんだろうか。本当に私は何も出来ないんだけど。そう思っていると直人さんがくつくつと笑った。そして口を開く。
「話が逸れたね。結の話に戻るか」
「あっはい、ぜひ‼」
「アイツは歴史オタクでね、日本史を専攻してたんだ。親が両方とも弁護士の家に生まれて忙しかったから、ずっと家で本を読んで育ったせいらしい。アイツも頭がよかったなぁ。それこそ結もなんでも出来るタイプだった、運動も得意だったし友達も多くて人気があって」
「……すごい、キラキラしてますね」
しかしそう言われて私はなんだか少し不思議に思った。そんな眩い女の子と明が仲良くしている図が今ひとつ頭に描けなかったからである。いや、芋臭い自分がいつも隣にいるからそう思ってしまうのかもしれないけれど。そんな考えが顔に出ていたのか、直人さんはまたくすりと笑った。
「あんまり明と合いそうじゃないでしょ?」
「……まあ、それだけ聞くと、はい」
「結は三歳の時に交通事故で父親を亡くしてて、女手一つで育てられてるんだよ」
「えっ……」
「で、結の母親と明の母親が昔から仲が良かったってのもあって、よく明の家に預けられてたらしくてね。それもあってそれこそ兄妹みたいに育てられてたんだ」
そう言われて、先日立ち聞きしてしまったウェディングムービーの話を思い出す。実家に挨拶に行かせてもらったときも、ご両親に明さんの昔の写真とかを見たいですと言ってもはぐらかされてしまっていた。そうか、写真を見せたくないのは……本当にほとんど全ての写真の中に、結さんが写っていたからだったんだ。だからきっとご両親も気を使って……。知らなかったとはいえ申し訳ないことをしたな、と思っている私に、直人さんは続ける。
「まあ家庭環境がそんな感じだったからね、余計に結はしっかりしなきゃと思ったんだろう。なんでも出来るやつだったけど、すげー努力家だったよ」
「……そうなんですね」
努力家、か。この直人さんが手放しで褒めるということは、それはもう相当だったんだろう。そうかぁ。家族みたいに育てられてたんだ。そんなに素敵なひとと。
「すごいひとだったんですね」
「ま、そうだねぇ」
「……何よりも、直人さんと明をテニスサークルや塾講師に誘えるっていうのが一番すごいです」
「あー、両方人手が足りないって強引に入れられたんだよ。そういうところ、アイツには勝てなかったからなぁ……」
直人さんが懐かしそうに目を細めて、ワインを飲んだ。その声色が、表情が雰囲気が、どれもがとても優しくて寂しそうで、私は思わず口を開く。
「直人さんも好きだったんですか」
「ん? 結のこと?」
「はい。……って、すみません。不躾な質問をしました」
「いやいーよぜんぜん。それに残念ながら俺はアイツをそういう対象として思ったことがない」
そして一呼吸置いて、直人さんはゆっくりと言葉を紡いだ。
「入る隙がなかったからな。アイツらの中に」
「……」
「ガキの頃に受けた衝撃ってけっこう引きずるじゃん? コイツらの中には入れねぇなって一番最初に声をかけられたときに思ったんだよ。まあ気づいたら三人で遊ぶようになってたんだけどさ」
そう言った直人さんが、残り少なくなっていたクリームパスタを自分の小皿に全部盛り付けた。私はそれを聞きながら、サングリアに口をつける。甘酸っぱくて美味しくて、でも少しだけ苦い。
「意地悪なこと言っちゃった。ごめんね」
「……いえ。だってそれが本当のことなんでしょう」
「うん。……ごめん。明だけ前に進んだみたいでむしゃくしゃしてたのを、雅ちゃんにぶつけちゃったかも」
「……そっかぁ」
この言葉はどこか掴めない直人さんの、嘘偽りのない本音のようで私は責める気になんてなれなかった。傷つく気にもならなかった。
「教えてくれてありがとうございます、直人さん」
「……やっぱ雅ちゃんいい女だわ。明に飽きたらこっちにおいで」
「あはは、残念ながら私来世でも来来世でも輪廻が転生する限り明と一緒になるって決めてるくらい好きなんで、飽きるとかありえないです」
「すげー。言われてみてぇな、そんなセリフ」
そう言って笑った直人さんがメニューを出してきて、デザートに何か食べる? と聞いた。食欲がないなんて言っていたくせに、アイスクリームの文字を見た瞬間私はこれ‼ と大きな声を出したからまた直人さんに笑われた。
出されたアイスにはベリーソースやチョコレートがたっぷりとかかっていて甘ったるく、到底お口直しには向いていなかった。けれどもそれを食べて、結局今回も直人さんにご馳走になって、私は他愛もない話をしながら彼に駅まで送ってもらった。
「じゃ、今日はありがとう。気をつけて帰ってね」
「こちらこそまたご馳走になって、ありがとうございました‼ 美味しかったし楽しかったです」
「はは、あんな話したのに楽しかったって言えんのがすげーよ。またばったり会ったら奢ってあげんね」
「やったー、楽しみにしてます」
「それじゃ」
直人さんがひらひらと手を振りながら去っていく。彼はこれからBARで飲み直すらしい。私はぺこりと一礼して、直人さんの後ろ姿を少し見送った後改札へ向かった。そのときピコンとLINEの通知が鳴る。明かな、と思いながら画面を見るとやはり思った通りだった。メッセージにはいま飲み会が終わったと書いてある。彼もこのあたりで飲んでいたはずだ、と私はぐるりと方向転換した。
「駅前のコンビニで待ってるよ。一緒に帰ろう」そう返信してスマホをコートのポケットに入れる。明日の朝ごはんのパンでも買っておこう、と私は店内をぐるぐると回った。
「お待たせ」
「明。早かったね、パン買っといたよ」
「ありがとう。すぐそこで飲んでたんだ」
自分が好きなジャムパンと明の好きなクリームパンを買って、会計を済ませたところで明に声をかけられた。そこ、と指された場所には賑やかな大衆居酒屋が見える。なるほど、と思っていると彼が口を開いた。
「びっくりしたよ。直人と飲んでたなんて」
「なんか仕事帰りにたまたま会って挨拶したら、待ち合わせてた人が遅刻しそうとかで嫌になってブッチしたところだったらしくて。店の予約は取ってるから代わりに来てって誘われちゃった」
「あー、アイツらしいな……」
「またご飯ご馳走になっちゃった‼ 私連絡先聞いてないから改めてお礼言っといてくれる?」
「わかった。何食べたの?」
「なんかオシャレなイタリアン。美味しかったし楽しかったよ」
「そっか、よかったね」
そんな話をしながらコンビニを出る。途端冷気に顔を打たれて私はぶるりと身震いした。寒い、と明に体を寄せると寒いねと返ってくる。あと二週間でクリスマスだ。懐かしいな、と私は目を細めた。
「もうすぐ付き合って二年になるねぇ」
「そうだね。クリスマスに告白してくれたもんね」
「ふふ、懐かしい~。今年のクリスマスは何しよっかぁ。チキンでも焼く?」
「いいね。ピザも取る?」
「いいねぇ~」
クリスマスのような人が多いタイミングは基本的に家で小さくパーティーをすることにしている。そういうところも気が合うのでよかったなぁと思う。まあ一番最初、付き合うことになった日のデートはイルミネーションを見に行ったりしたんだけど……。懐かしいなぁ、と一人でクスクス笑ってしまった。
「なに笑ってるの」
「んー? 付き合った日のクリスマスデートを思い出してた」
「あー、人混みに雅が酔って避難したやつね」
「そうそう。しょぼいイルミネーションしかない駅のベンチで勢いあまって告白しちゃったやつね」
「あれ本当にびっくりした。現地に着いたら告白するつもりで何回もセリフを頭の中で唱えてたのに」
「ウソ‼ 黙ってたらよかった、優しくされてついうっかり」
「悪い男に引っかかったみたいな言い方するのやめてくれる?」
あはは、なんて笑っているうちに改札にたどり着いた。ICカードを翳して中に入り、一緒にエスカレーターに乗る。そういえば、上りのエスカレーターに乗る時はちゃんと私の下に乗ってくれるところとか、今更だけど好きだなぁと思った。
そう、結局過去がどうであれ、明が過去にどんな人が好きだったのであれ、私が明のことを好きなのは変わらないしいま彼の隣に立っているのは私なのだ。たとえ彼が、私じゃなくて結さんのことを胸の一番大事なところに置いているかもしれなくても。
ホームに着いた途端に電車が来た。ちょうどよかったね、と明を見上げて微笑む。彼も私を見て笑ったから、なんだかもうこれで十分な気がしてきた。電車に乗り込み、二人並んで座れる座席を見つける。これもちょうどよかったね、と二人で腰掛けた。大丈夫、大丈夫だ。私はどんなことがあったとしても、変わらず明と幸せにやっていける。……そう思った瞬間、隣に座った明が口を開いた。動き出した電車のガタゴトという轟音の中でも、私の耳は彼の言葉をしっかりと拾い上げる。
「……雅、直人に結のこと聞いたでしょ」
「え」
「ずっと無理して笑ってる。ちゃんと話すからそんな顔しなくていいよ」
「……っ、」
優しくそう言われた瞬間に、ぽたりと右目から涙が零れ落ちた。そんな私の眦を、明が冷えた指先で拭う。
「大丈夫だよ。心配させてごめんね」
「~~~~ッ、」
どうして自分が泣いているのかわからないけれど、ぼとぼとと流れる涙を慌てて両手で拭いながら私はこくこくと頷いた。電車の中、帰宅ラッシュからは時間が外れているとはいえそれでもそこそこいる乗客からの視線を感じて恥ずかしい。でも明は泣かないで、とも言わずただ私の背中を摩ってくれていた。どうしてこの人はいつもこうやって、無理をする私をちゃんと見つけて、欲しい優しさをくれるんだろうか。やたらと揺れる電車の中、私は明の手をぎゅっと握った。冷たかったはずの手はじんわりと熱を持ち始め、ぽかぽかと心まであたたかくなっていく。
私はきっと、明がくれるのと同じだけの優しさは返せないと思う。彼に結さんのような大きな存在がいたことさえ気づけなかったし、今までも明が困っていたり苦しんでいるときにほしい優しさをあげることはできていなかったと思う。……結さんはできたのかな。結さんはできたのかもしれない。
でもそれでも、たとえ何がどうであっても、私が誰より世界で一番明のことを愛している。
最寄り駅に着いた私たちは手を繋ぎながらゆっくり歩いた。いつも繋いだ手は明のポケットに突っ込んでいる。昔ふざけてやったこれが、いつの間にか二人の当然になっていたのだ。寒い夜道を身を寄せあって歩く。郊外にある私たちの家は、駅からの道もさして人がいなくて静かだ。明の優しい声が冬の澄んだ空気の中で響く。
「……そっか、あの話を聞いてたんだ。ごめんね、気づけなくて。最近時々顔が暗いなとは思ってたけど……結婚式の準備で忙しかったしそのせいかなって思ってた。本当にごめん」
「え、いや、明が謝ることじゃないよ‼ 私こそ立ち聞きしちゃって、その上直人さんに勝手に話聞いて、本当にごめんね……」
申し訳なさと気まずさから俯いて謝ると、明は気にしないでとゆるく首を振った。そのあと、ウーンと考えるようにゆっくり息を吐く。
「……何から話そうかな。直人からもけっこういろいろ聞いたよね」
「うん。……そうだね。明の幼なじみだってこととか、すごい美人でモテたこととか、焼酎が好きなこととか」
「アイツそこまで言ったの? いやまあ焼酎は好きだったけどさ」
少し笑ってそう言う直人に胸がきゅうっと苦しくなる。世界で一番好きな人が、私以外の誰かのことを話して寂しそうに微笑むのを見るのは、こんなにも辛いことなのか。
「じゃあだいたいのことは聞いてるか。結のお父さんが早くに亡くなったからほとんど兄妹同然に育ったこととか、俺の誕生日に結が死んだこととか」
「えっ」
知らなかった情報に、私は思わず目を見開く。……そんな、明の誕生日に。明の誕生日は……二月十四日、バレンタインだ。
「あー……これは知らなかったか。ごめん、言わなきゃよかったね」
「ううん、ううん……教えてくれてありがとう。そうなんだ……そっか、辛かったね……」
「……まあ、そうだね。けっこうキツかったな」
眉を下げる明に私はどうしようもない思いでいっぱいになった。そっか、だから誕生日付近はいつも少し元気がなかったんだ。この歳になると老けるのを実感するから嬉しくもないよ、なんて笑う明に、そんなものなのかなぁなんて無知な私は流してしまっていた。
そっか。じゃあ明は二十歳の誕生日に大好きだった彼女に死なれてしまったんだ。記憶の中の結さんは二十歳で止まったままなのに、自分はどんどん歳をとっていく。……そんなの、辛くないわけがない。
「その日は土曜日で、結は午前中に塾の授業があってさ。午後から会う予定だったんだ。で、その途中に車に跳ねられて」
「そんな……」
「鞄の中に俺宛のバレンタインチョコが入ってたんだ。後から結のお母さんに渡されて……けっこう堪えたよ」
「……」
明が夜空を見上げながら苦笑した。冷たい空気のせいか、東京でもこの時期はそれなりに星が見えるように思う。どうして人が死んだ時、星になったなんて言うんだろう。そんなことを考えながら、私は小さく口を開いた。
「……結さん、素敵な彼女さんだったんだね」
「まあ厳密に言うと付き合ってはないんだけどね。バレンタインチョコの中に手紙が入ってたけど、それを読んだ時にはアイツもう死んでたから」
「…………そっかぁ」
そうだったんだ。だから、元カノみたいなもんって。そんなのあまりにも辛すぎるじゃないか。そりゃ、そんなひとが死んでしまったなら、一生独身でいるか後を追うかと思っても仕方がない。私はどんな言葉をかけるべきなのかも分からず口を噤む。しかしそんなとき、明がぎゅっと私の手を握った。
「雅」
「ん?」
「……結のことはね、とても好きだったよ。今でも本当に大切に思ってる。……正直に話すと、未だにアイツの夢を見て、雅に申し訳ないって思うこともあるんだ」
「そんな……」
そんなの、申し訳ないなんて思うことじゃない。私だって夢に見るだろう。ずっと引きずっていてもおかしくない。なんなら明がやっぱり結さんのことを忘れられないから婚約を破談にしてほしいと言い始めてもおかしくないとすら思う。だって明は、きっとそれほどに……。そう考えて息が詰まりそうな感覚を覚えたとき、明が真っ直ぐな声で言った。
「でも、俺が結婚したいって思った女性は雅しかいないよ」
「え……」
「俺が一生一緒にいたいって……隣で幸せになりたいって思うのは、雅だけだよ」
「……明」
思わず明を見上げると、彼はとても優しい瞳で私を見つめて微笑んでいた。明が瞬きをする。その瞬間私は時間が止まったように思った。
「好きだよ」
「……」
「普段は恥ずかしくてさ、あんまりちゃんと言えないんだけど……。俺は雅のことが本当に好きだよ」
「うん……」
「雅と出会ってからね、明日が来るのが楽しみになったんだ。雅が俺の隣で笑ったり泣いたり怒ったり拗ねたりしてるのを見るとね、生きててよかったなぁって思うんだ」
「……私、泣いたり怒ったり拗ねたりしてる?」
「映画を見てすぐ泣くし、前を歩いてる人のゴミのポイ捨てにかなり怒るし、俺が雅の髪型の変化とかをすぐに褒めないとちょっと拗ねる」
「……ふふ」
よく見てるね、と笑うと当たり前でしょ、と返ってきた。そんな彼の優しさに、私は心がぽかぽかあったまる。
「明、だいすき」
「うん、知ってる」
「ずーっとずっと、ずーっとだいすき」
「うん、ずっと俺の隣でそう言ってて」
「……うん」
約束するね、と言った声は震えてしまった。滲む視界の中、寂しそうに嬉しそうに笑う明が揺れた。
結さんを超えないといけないような気になっていた。勝たないと明の隣にいてはいけないような気がしていた。……でも、そうではないようだ。結さんがいないからかもしれないけれど、でも明は私のことを選んで好きでいてくれてるんだ。だったら私は私のまま、一生君を好きでいよう。私は私のやり方で、絶対に君を幸せにしよう。
世界で一番愛おしいひとが、私の隣で笑って私を好きだと言う。これ以上の奇跡はきっとどこにもないだろう。私はぎゅっと彼の手を握り、大切に噛み締めた。
そしてあれからさらに数か月。今日は四月八日、天気がよく桜が咲き誇る麗らかな日。春の匂いに包まれて、私たちは……結婚する。
鏡に映る私は、プロの施す化粧によってまるで別人のようになっていた。ある程度濃くないと撮影の際に顔がぼやけてしまうので、と塗りたくられたチークやアイメイクには途中かなり不安を覚えたが、ヘアセットまで決まるとしっくりきたから驚いた。
結婚式の準備はなかなか大変だったし、新婚旅行の手配も相まって相当バタバタした。でも明の大学からのお友達で、イラストレーターの北条さんが描いてくれたウェルカムボードを見ると本当にテンションが上がったし、新婚旅行では二人でいまやっているゲームの聖地巡礼がしたいなんて話をしたり、とても充実していたように思う。当日の朝を迎えても今ひとつ実感はわかなかったけれど、ウェディングドレスを身に纏うとなんだか本当に結婚するんだ……としみじみ思った。
「気になるところはないですか? 仕上がり、こちらで大丈夫ですか」
「はい‼ ありがとうございます……‼」
「とてもお綺麗ですよ。では新郎様をお呼びしますね」
「は、はい……」
新郎である明は別室で用意をしているらしい。対面の瞬間をカメラに押さえられるらしく、カメラマンさんが二人待機していて少し気恥ずかしかった。ヘアメイクを担当してくださった方が椅子を引いてくれて、パニエで大きく広がったドレスで歩き方がぎこちない私を介助してくれる。ドキドキしながら立ち上がり、指定された場所へ立った。
「新郎様、新婦様のご用意ができました」
「はい……‼」
扉の向こうから緊張した明の声がする。そしてゆっくりとスタッフさんが扉を開けた。
そこでは真っ白なタキシードに身を包んだ明が緊張した面持ちでこちらを見ていた。目が合った瞬間、同時に照れくさくて微笑んでしまう。
「明、かっこいい」
「……雅、綺麗だよ」
「やったあ」
近づいてくる明を見上げると、彼が少し首を傾げた。それに私もつられると、明が口を開く。
「なんかすごく背が高くなったね。相当高いヒール履いてる?」
「履いてる……。チビだから、高いの履かないとドレスが映えないって……」
「転ばないようにね」
「フラグ立てるのやめてもらっていい?」
もう、とふざけたように怒りながら言うと明にごめんごめんと笑われた。どうやら明も少しだけメイクをしているらしい。いつもより肌が綺麗だし唇の色も健康的だ。ちょっと整えるだけでこんなに変わるのかぁ、と見とれてしまった。
「……雅、そんなに見られると照れる」
「だってかっこよくて」
「わかったから……」
そう言って顔を隠すように手を前に持ってくる明に、スタッフさんと一緒に笑った。幸せだなぁとやっぱり噛み締めてしまう。
その後カメラマンさんに連れられて式場前や式場内で写真撮影をされた。ゲストはその間に受付を済ませたり飲み物を飲んだりチャペルへ案内されたりするらしい。その間に結構な枚数の写真を撮られて、笑顔の作りすぎてもう既にほっぺたが痛いな、なんて思った。
そしていよいよ、挙式の時間である。大きな木造の扉の前には、燕尾服を着た父親と留袖を着た母親が待っていた。家族仲はいいほうだと思うけれど、社会人になる際いい機会だからと一人暮らしを始め、家を出てからはやはり会う機会が格段に減った。先日も母親はドレス選びに着いて来たし、父も年始に会っているけれど、それでも少し期間が空くとなんだか随分老けたように思う。私が結婚する歳だもんなぁ、なんて感慨深くなってしまった。
「雅……すごく綺麗ねぇ」
「ありがと、お母さん」
眦を下げながら言う母に笑みを返す。父は少し寂しそうな嬉しそうな複雑な笑顔でこちらを見ていた。お父さん、白髪増えたなぁ。お母さんも皺が増えた。なんだか胸がいっぱいになっていると、スタッフさんに新郎入場お願いしますと声をかけられた。明がそれに頷いて扉の前に立つ。ひらりと手を振ると、こくんと頷いて強ばった顔のまま前を向いた。スタッフさんが扉を開き、まずは神父さん、続いて明が歩いていく。それを見守ったら次は私の番だ。母親にベールを下げてもらい、父親と腕を組む。パイプオルガンが壮大に入場曲を奏でる中、私は父とバージンロードを歩いた。パシャパシャとスマホで写真を撮る音がする。友達や会社の人がウェディングベール越しに見えた。高校の頃からの親友の美琴や弟の葵も目に入る。反対側の新郎席には直人さんや北条さんもいる。そして目の前には、私をじっと見つめている明。大好きな人に囲まれて、祝ってもらって、大好きなひとと結婚できる。これ以上の幸せはないと思った。明の元に到着し、父と明が握手を交わす。その後私の手は父親によって明の手へと導かれた。古い形の式だけれど、憧れが強くてこの形を選んだのだ。そして明と共に、少しだけ階段を上がって祭壇前へ立つ。賛美歌を歌い、神父様の聖書朗読を聞き、そして誓約の時間が来た。
「暁月明さん。あなたは雅さんと結婚し、妻としようとしています。あなたは、この結婚を神の導きによるものだと受け取り、その教えに従って、夫としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて、変わることなく、その健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、死が二人を分かつときまで、命の灯の続く限り、あなたの妻に対して、堅く節操を守ることを約束しますか?」
「はい、誓います」
「時遠雅さん。あなたは明さんと結婚し、夫としようとしています。あなたは、この結婚を神の導きによるものだと受け取り、その教えに従って、妻としての分を果たし、常に夫を愛し、敬い、慰め、助けて、変わることなく、その健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、死が二人を分かつときまで、命の灯の続く限り、あなたの夫に対して、堅く節操を守ることを約束しますか?」
「はい、誓います」
宣言の後指輪の交換をし、明の手でベールが上げられる。ベール越しだった彼が鮮明になり、私と明はまた顔を見合わせて少し笑った。ゆっくり明の顔が近づいてきて、そっと唇と唇が触れる。キスなんて何度もしているのに、人前でするのは恥ずかしいな……と思っていたとき、急に頭がズキンと痛んだ。
「ッ……?」
なに、これ。内側から脈打つような激しい頭痛に襲われる。突然いったいなんだろう、と焦る私の耳に、神父様が私と明が夫婦となったことを高らかに宣言する声がした。これからは祝福の拍手を受けながら退場する運びになっているはずだ。……けれども、頭が、痛すぎる。
「雅? どうしたの、気分悪い?」
私の様子がおかしいことに明は気づいたようで声をかけてくれた。けれども頷くことも首を振ることも、話すことすらうまくできない。どうしよう、と思いながらも式場内は盛大な拍手に包まれている。とにかく滞りなく挙式を終えなきゃ、と体を参列者の方へ向けた時。
ぐらりと、揺れた。
「みやび、」
明の慌てた声がする。彼の手が私の肌を掠めた。けれども履きなれない高さのヒールも手伝って、私の体は勢いよく傾いていった。どうしてこんな、大事な時に。そう思いながらも私はあまりの頭痛に目を閉じる。体をどこかに打ち付けたのかどうかすら、わからない。
*
「雅、起きなさい……。雅‼」
「んぁっ」
遠くからお母さんの声がして、深い海の底から引っ張りあげられるように突然意識が浮上する。パチリ、と目を開けると母が私を見下ろしていた。その姿に違和感を覚える。
「やっと起きた‼ もー、遅刻するわよ」
「……あれ? なんかお母さん、若返った?」
「はあ? お世辞言っても二度寝させないわよ、アンタ今日テストだって言ってたじゃない」
「へ? ……テスト?」
「三年生になって初めての学年テストとか言ってなかった? いくら大学入試に内申が関係ないからって気を抜きすぎよ」
「え……?」
何を言ってるんだ、お母さん。私はぱちくりと瞬きを繰り返す。そしていま私が見ているものが実家の自室の天井だということに気づいた。同じく、自分を包んでいるものが、学生時代に使っていた掛け布団だと気づく。……は? え? どういうこと。実家なんてとっくの昔に出て、今は明と同棲中で……。と、そこまで考えた私は飛び上がった。そして大声を出す。
「待って結婚式‼」
「は?」
「いま私結婚式の途中なのに‼ えっ⁉ なんで実家にいるの⁉ 待って待って明は、えっ」
「はあー⁉」
混乱する私を他所に、お母さんは深いため息をつく。待って、なんでお母さん留袖じゃなくて部屋着着てんの? そう慌てていると、母が呆れたように口を開いた。
「寝ぼけてるのはわかったから早く支度して学校行きなさい。じゃあお母さんもうリビング戻るからね」
「えっ……」
待ってよ、と声をかける間もなく母は私の部屋を出てバタンと扉を閉めてしまった。いやいやいやいや、私挙式の最中に倒れたんだよ⁉ 神父様に「ここに新しい夫婦が誕生シマシタ~神の加護ヲ~」みたいなことを言われたタイミングでぶっ倒れたんだよ⁉ 退場どうなった、披露宴どうなった、ていうか明はいったいどこだ‼
そう慌てながらベッドから出て、私は固まった。ベッドの横に置いてある姿見に映る自分が目に入ったのだ。
「うそ」
ウェディングドレスじゃなくて部屋着のスウェットを着ている。そしてそれだけじゃない。鏡の中にいる私は、明らかに……若返っていた。どう見てもこれは、高校生くらいにしか見えない。
どういうことだ、と慌ててスマホを探す。しかし枕元に置いてあったのは、スマホじゃなくて。
「……うそぉ」
昔私が使っていた、それはそれは懐かしいガラケーだった。恐る恐るその折りたたみ式の携帯電話を開き、日付を見て卒倒しそうになる。今日は四月八日だった。
……ただし、十年前の。
絶対旦那と結婚したいのに、十年前にタイムスリップして旦那の想い人の命を救うことになりそうです!! 浦菊詩苑 @shionuragiku
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