第9話


僕に辞令が出ていることは、職場に着く前から知っていた。

 

舞が僕との浮気を、本社に告発したのだ。

 

新たな勤務地は埼玉の外れにある、ほとんどワンオペレーションで切り盛りするような店舗だった。

 

クビにならなかっただけ、感謝しなければと思う。

 

職場に着くと予想通り、従業員たちが好奇の目で僕を見てくる。

 

しかし、何も動揺することはない。

 

僕はもう、全てを普通で包み込もうとするのはやめた。

 

自分自身が普通であれば、何が起こっても動じることはない。

 

人の求める普通を、無理やりプレゼントしてやることはない。

 

さすればそのうち、人から見える僕の姿は「何事にも動じない無敵の男」となるだろう。

 

今は少しの辛抱だ。

 

実にすがすがしい気分のまま荷物をまとめ、誰とも言葉を交わさずに店を出る。

 

紺のワゴンRに乗り込もうとすると、舞の姿があった。

 

「どうですか?」

 

「ちょっとは反省してくれましたか?」

 

僕は、覚えたてのタバコに火を点けた。

 

「私、もう誰かを受け入れようとするのはやめました」

 

「なんだか、損した気持ちになるから」

 

「そんなことするより、自分を大事にしてくれる人に目を向けるほうが良いんじゃないかなって」

 

則人

「奇遇だね」

 

則人

「俺も最近、まったく同じようなことを考えたんだ」

 

舞は口を使わずに「はぁ?」と言った。

 

「とにかく、もう私のこと何とも思ってないですよね?」

 

「それをハッキリさせないことには、決着つかない気がするんです」

 

則人

「舞ちゃんはどうなの?」

 

「……」

 

則人

「舞ちゃんが僕を大事に思ってくれるなら」

 

則人

「僕もその通りにしようと思うけど」

 

初めから、こう言っておけばよかったんだ。

 

変に阿(おもね)って相手に合わせようとするから、自分の普通がどんどん捻じ曲がっていく。

 

今の僕なら、舞との関係だって当たり前のように飲み込んでいける。

 

「……本当、そういうとこ」

 

それだけ言って、舞は去っていった。

 

そういう所が何なのかまでは、教えてくれなかった。

 

×                      ×                      ×

 

もも子が帰ってきた。

 

それもこれも、福原がスムーズに事を進めてくれたおかげだ。

 

それは、彼女が弁護士として優秀であることに他ならないが、

 

「お前のような人間にはならない」という強い意思表示にも感じた。

 

どんな人間も、法のもとに平等だ。

 

人生を狂わせた相手だろうが、同じように相対する。

 

それは彼女の信条とも重なっているのだろう。

 

塀の向こうから、福原に連れられたもも子が出てきた。

 

もも子は僕を見ると、少し微笑んだ。

 

何かを諦めたような笑顔だった。

 

福原

「一体、どんな手を使ったの」

 

福原

「もも子さんは、あなたとの復縁なんて望んでいなかった」

 

則人

「どんな手も使ってない」

 

則人

「俺はただ、彼女にプロポーズしただけだよ」

 

福原

「もし何か、強請(ゆす)りを掛けているんだとしたら、その時は——」

 

もも子

「そんなことありません」

 

もも子

「私は、この人と結婚するんです」

 

もも子

「一生を共にするんです」

 

もも子は、まるで自分に言い聞かせるように言った。

 

福原

「もも子さん……」

 

福原は同情の目でもも子を見た後、僕には怒りの眼差しを向けてきた。

 

福原

「あなた、本当に悪魔ね」

 

それだけ言い残し、福原は消えた。

 

則人

「さあ、帰ろう」

 

夕日に照らされたもも子の顔は、この上なく美しかった。

 

×                      ×                      ×

 

紺のワゴンRが見慣れた大通りに差しかかった頃。

 

一言も話さなかったもも子が、ついに口を開いた。

 

もも子

「ねえ」

 

もも子

「ホテル、行きたい」

 

則人

「えっ?」

 

もも子

「今なら私、出来そうな気がする」

 

則人

「そんな、無理しなくていいよ」

 

もも子

「そうじゃないの」

 

もも子

「……身体で覚えたいの」

 

もも子

「私、この人と結婚するんだって」

 

しっかり前を見据えているのが、運転しながらでも分かった。

 

×                      ×                      ×

 

プロポーズした日から、それほど時間は経っていないはずなのに、

 

彼女と優しさを持ち寄るのは、すごく久しぶりな気がした。

 

彼女は宣言通り、コンディションを整えていた。

 

僕はすごく嬉しかった。

 

彼女もまた、僕を受け入れてくれると分かったからだ。

 

意気込んで目線を下げると、それは想像とは違う光景だった。

 

則人

「……あれ」

 

緊張しているのか?

 

僕は腑抜けた身体を、鏡張りの壁に写した。

 

すると、見る見るうちに視界がぐらついて、さまざまな快楽物質が、脳へ一気に

噴射されていくのを感じた。

 

僕は自分を慰めていた。

 

違う。

 

僕は彼女を愛さなきゃいけないんだ。

 

そう思えば思うほど、その手は止まらない。

 

快楽に比例して、むしろ速度は上がっていく。

 

僕は恥辱に全身を支配され、気付けば涙を流していた。

 

鏡に写ったもも子の顔を見る。

 

笑っていた。

 

この上ないほど幸せそうに。

 

人生が報われる瞬間を、目撃したかのように。

 

そして彼女は、僕の背中にまとわりついてきて、耳元でこう囁いた。

 

もも子

「いつから、そんなふうになっちゃったの?」

 

もも子

「でも大丈夫」

 

もも子

「私が全部、受け入れてあげるからね」

 

ふと見ると、寿命がもう近いであろう古い扇風機が、ゆっくりと首を振りながら回っていた。

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普通を風になびかせて 明星圭太 @cherishyouruchu

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