俺は優勝が見たいんだ!

四紋龍

俺は優勝が見たいんだ!

「かっとばせーッ! みっなっいー!」


 俺の声は、周囲の大歓声に混ざり合って溶けていく。周りには、汗を流しながら声をあげ続ける老若男女。こんな光景は、久しく見た事が無かった。その光景だけで、嬉しさがこみ上げる。あちこちから飛ぶ、頼むぞ、打ってくれの声。一点差、九回二アウト、ランナーは二塁。安打なら同点もある。ホームランなら、サヨナラだ。ピッチャーが投げた、四球目。スライダーが、甘く浮いた。バキィという小気味よい音が、ドーム中に響く。大歓声が上がり、そして口々に叫ぶ。


「来い! 来い! 来い!」


 俺も、叫んだ。そして、白球は、飛んできた。ライトスタンド中段に飛び込む、サヨナラホームラン。


「おおおおおおおお!」


 叫んだ。叫んだ。叫んだ。歓喜に包まれる中、殊勲の一打を叩き込んだ南井がダイヤモンドを一周する。これで、遂に、首位に〇・五ゲーム差の二位。明日勝てば、遂に首位に立つ。かつては万年最下位の貯金箱と揶揄された、我らが東京エクリプスが。


「いやー、流石だなァ」

「今年の南井はホームラン王も狙えるな!」


 周りの人々は浮かれながら、そんな事を話し続けている。俺も上機嫌になりながら、近くを通ったビールの売り子の背負うサーバーに、手を突っ込んだ。

「ックァァァッァー! うめぇ!」

愛するチームの勝利を噛み締めながら飲むビール、まさに至上のひと時だ。ビールを買う必要はない。腕をサーバーに突っ込めば、その味を感じる事ができるのだ。


そう。そんな事ができる。できてしまう。何故なら、俺は「幽霊」だからだ。


 七月七日。その日、俺は実に忙しい時間を送っていた。普段は然程のお客もない商店街だが、今日は違う。商店街の七夕祭りで、普段からは考えられない程のお客が押し寄せるのだ。普段からこの町でたこ焼き屋を営む我が家でも、売り上げがずば抜けるのだ。そういう訳で、日中からたこ焼きを焼きに焼き、売りに売りまくった。


 その日の八時。流石に、たこ焼きを求めるお客は減っていた。俺は疲れ切っていたが、同時にある種の高揚も味わっていた。忙しさが振り切れると、そういう気持ちになるのだ。まして、俺には心の支えもある。店の中のテレビで、彼らが頑張っていた。


《さあ、ここは踏ん張りたい早川ですが! 打ち返した、打ち返した、大西の打球はセンター前に落ちる落ちる、三塁ランナー武は悠々ホームイン! 六対三、六対三、点差が開きます!》


 そうだ。彼らも頑張っている。大西は苦節七年ようやくレギュラーを掴み、武は一時限界が囁かれたほどの不調を経験したが今年見事に復活、首位打者を狙えるほどの活躍を見せている。彼らの活躍が、俺にも元気をくれていた。


「今年は強いなァ、エクリプス」

「連敗しねぇのが良いよな、こりゃ今年はクライマックス……いや、優勝だってあるぜ」


 お客であるおじさん二人がそんな事を言っていた、その時だった。不意に、ドカンという音がした。


「何だ!?」


 そう叫んで、俺は店を飛び出す。そして、はっと目を見開いた。目の前の天ぷら屋が、燃えていた。既に一階は煙で埋まり、中の様子は全く見えない。


「大変だ、火事だ火事!」


 そう叫び、店に飛び込む。父さんはすぐに火を消すと電話に飛びつき、母さんはお客の二人を避難させていた。俺は消火器をひっつかみ、てんぷら屋に向かう。天ぷら屋の主人はと探すと、這う這うの体で逃げ出しているのが見えた。


「ナカさん、中に人は!?」

「お、奥に陽介が」

「何だって!?」


 そう聞いて、俺はいてもたってもいられなくなった。陽介というのは、この天ぷら屋の息子だ。俺にも負けない程のエクリプスファンで、十五歳の年齢差など関係ない友情を育んでいるのだ。助けなければ。そう思った。俺は消火器をぶちまけながら、店の中に突っ込んだ。


「陽介! 陽介、どこだ!」


 そう叫ぶと、兄ちゃんという悲鳴が聞こえた。炎と煙に遮られて見えにくいが、炎の壁の向こう側に彼の姿が見える。


「待ってろ! すぐに行くから!」


 そう叫んで、俺は陽介の方に走った。陽介との間を遮っている炎を消火器で抑えながら叫ぶ。


「来い、今のうちに! 大丈夫だから!」


 陽介は怯えていたが、覚悟を決めたか一気に走り、炎を飛び越えた。彼を抱きとめて、出口の方に走らせる。


「行け、走れ! 俺も、すぐに」


 その時、当たりに爆発音が響いた。それが、俺の覚えている、最期の瞬間だ。それを最後に、俺の記憶は一旦途切れる。


 次に気が付いた時、俺は星の中に浮かんでいた。正確には違うのかもしれないが、俺にはそう思えたのだ。そして、俺の目の前に、一組の男女が現れた。まるでこの世のものとは思えない、美しい姿の二人だった……と、その時は思った。今にして思えば、当たり前の事だ。


「こ、ここは? 俺は、どうなったんだ」

「ここは、天界」


 そう、男の方が言った。まるで青年漫画の主人公かの様な、端正な顔の男だ。


「君は、死んだのだよ。あの時、爆発で気を失い、そのまま煙に巻かれてな」

「は、はあ? そんな」

「事実だ。普通なら、君の魂はこの宇宙の中央に向かい、そこで君の人格を失う。そして、別の生き物に転生するのだ」


 その男の言っている意味は、良く分からない。しかし、俺には我慢ならない事が一つあった。


「じ、じ、冗談じゃねえぞ! 俺は、まだ死にたかねぇんだ!」

「知っています。貴方の願いは、見ていますから」


 女の方が、そう言った。これもテレビで見たどんな女優やアイドルよりも、綺麗だった。


「ね、願い?」

「はい。貴方の、短冊を」


 そう言って、女が手を虚空にかざすと、一枚の短冊がその手の中に現れる。それは、俺が七夕祭りの前日に書き、商店街の真ん中に置かれた笹に吊るした短冊だった。《今年こそエクリプス優勝、日本一!》と書かれた、短冊だ。


「私には、この……エクリプス? というのは、分かりませんが」

「や、野球チームですよ。俺が応援してる。ずっと応援してて、今年初めて、優勝が見られるかもしれないんだ! だから、俺死ぬ訳にゃいかねえんですよ」

「その優勝というのは……?」

「えーっと、まずペナントレースってのがあって、クライマックスシリーズがあって、そんで日本シリーズってのが……」

「うーむ。よう分からん、が。具体的に、どうして欲しい?」


 男がそう言う。俺は、思わず訊き返した。


「え? それ、どういう」

「君は、一人の少年の命を救い、その命を散らした。君の勇気と道徳心は、報われねばならん。だから、その願いを叶える」


そう聞いて、俺は息を呑む。うっすら感じてはいたが、やはりこの二人は。そう確信すると、俺は意を決して言った。


「ちょっと、その短冊の内容、変えて良いですか」

「うん?」

「俺は、エクリプスが日本一になる瞬間を、見たいんです。だから、お願いです。後三ヵ月と、少しで良いんです! 日本一が決まるまで、その時まで、俺を現世において下さい」

「それは、できる。しかし、良いのかね。君の望みはエクリプスの日本一、なのだろう。それを叶える事もできるが」

「大丈夫です。エクリプスは、自力で日本一になれます! だから、その瞬間を、見たいんです!」

「君の肉体は既に生きる事はできない状態だ。魂だけを現世に留まるという事ならば、できるが」

「それで大丈夫です。お願いします!」


 俺がそう言うと、二人は頷いた。そして、俺の意識は再び遠のく。次に気が付いた時、俺の体は、自分の部屋に戻っていた。部屋を出ようと、ドアノブに手を掛ける。しかし、すり抜けてしまった。俺は、本当に幽霊になったのだ。


「マジかよ……」


 そう呟き、扉に向かってゆっくりと進む。すると、まるで何もないかのように、するりとすり抜けてしまった。この感覚になれないとなぁ、と思う。廊下を歩く必要もない。ふわりと浮き、一階まで降りていく。壁をすり抜けると、両親がいた。喪服を着て、暗い顔をしている。机の上の新聞を見ると、七月八日になっていた。悲しんでいる両親の顔を見るのは辛く、俺はすぐに家を飛び出した。陽介はどうなったのかと思ったが、分からなかった。向かいの天ぷら屋は完全に燃え、周りにも延焼していたからだ。


 俺は、後楽園ドームに向かった。幽霊になった今、仕事をする事もできない。両親に感謝を伝える術もない。ならば、ここに住もうと決めた。今までであれば入れなかった場所にも入れる。グッズ売り場や飲食店の裏を覗くのは、楽しかった。ひょっとすれば選手の控室にも入れる、と思ったが、それはやめておいた。なんというか、神聖な場所に立ち入りたくなかった。


 こうして俺は、夢の様な生活を始めた。昼は球場をぶらつき、夜は観戦に勤しむ。ビジターの際には、空を飛んで他球場へと向かう事もできた。ビールサーバーに手を突っ込めば、その味を楽しめるというのも覚えた。飲んだり食べたりはできないが、触れる事で感じる事はできるのだ。俺にとっては、まさに夢、至福の時間だった。


 しかし、そんな夢の時間は、儚く終わりを告げた。


 きっかけは、俺の油断だった。夜、試合が終わり、ファン達も帰ってほとんど誰もいなくなったドーム内。警備員が数名、見回っている以外は誰もいない中、俺は浮かれていた。一時は五点差をつけられた絶望的な試合展開からの、大逆転劇。俺は浮かれ気分そのままに、大声で球団応援歌を歌ってしまったのだ。


「いざー進めー! わーれらの夢のーせてー!」


 俺はてっきり、自分の声は全く周りに聞こえていない物だと思っていた。それまで声を出すのは、周りに大量の観客がいる環境ばかりだったからだ。しかし、幽霊に話しかけられたとか、謎の声が聞こえるとか、俺もよく聞いた話だった。そう、幽霊となった俺の声は、生きている頃程ではないにしろ、周りに聞こえたのだ。俺は気が付かなかったが、その声を何人かの警備員が聞いたらしい。それで、まだドーム内にファンが残っていると捜索したが、全く見つからなかった。


 俺はその次の日も、また次の日も、同じような事を繰り返した。勝って喜び、負けて悔しがり、その度に声を出した。俺はその時は周りに自分の声が聞こえている事に気が付いていない。思い切り声を出して良いのだと思い込んでいた。警備員は毎日のように聞こえる謎の声を上に報告する。やがてその話は、エクリプスのオーナーの耳にも入った。


「何? せっかくチームが調子いいのに、そんな事で水を差される訳にはいかん。話題にするなと言っておけ」


 最初はそう言っていたようだが、なおもその「謎の声」が収まらないと聞くと、オーナーは決断を下す。


「よし。そういう事に詳しい専門家を呼ぼう」


 そうして呼ばれたのが、土門という名の霊能力者だった。彼は弟子三人とドームにやって来るや、何やら儀式を始める。俺はその様子を遠くから見ていた。最初は、変な格好した連中がやってきたなぁと暢気に思っていたのだ。土門はやにわに俺の方を指さすと、叫んだ。


「そこに! そこに霊がおる! おそらく、地縛霊じゃ! それがこの怪異の原因、ただちに除霊せねば、禍が降りかかりますぞ」


 俺はその時、初めて俺の存在が疑われていた事、そしてよりにもよって除霊せねばならない悪霊認定されてしまった事に気が付いた。土門という男、どうやら霊を感じる事はできても、その正邪の区別はつかないようだ。


「冗談じゃねえ! あともう少しで、エクリプスは優勝なんだ! それを見ずに除霊なんぞ、されてたまるか!」


 俺はそう心中で叫び、逃げだした。しかし、問題がある。俺は浮遊はできるが、それ程素早くは動けない。精々自転車程度の速度だ。つまり、もし遠くまで逃げすぎてしまえば、夜の試合を直接見る事ができなくなる。それは無念だ。


 俺は決めた。あいつらから逃げ切り、かつ試合は全て、現地で見届けてみせると。そして、エクリプスが日本一を勝ち取る瞬間を見て、その幸せの中成仏すると。日程変更が無ければ、丁度三ヵ月後に日本シリーズの第七戦が終わる。そこまで、逃げ切ってみせると。



 こうして、彼らと俺との「鬼ごっこ」が始まった。リーダーの土門は、こちらの存在をある程度感知し、追う事が出来る。また弟子達は直接こちらを感知する事は出来ないが、方位磁石の様な道具でざっくりと方向を知り、また札によってこちらを拘束できるようだった。そうして拘束されれば、俺は土門によってなすすべなく除霊され、無念の消滅を迎えねばならないのだ。


 一つ、俺にとって最高にありがたい事があった。土門達は試合のない時間にしか動けない。試合が始まるとなると、大勢の人間がここにやってくる。そんな時に、怪しげな格好をした連中が四人もいたら悪目立ちするし、下手をすれば妙な噂を読んで客足に響きかねない。奴らが大っぴらに動けるのは、ドームに客がいない時間だけだ。つまり、試合を見る事は可能なのだ。


 それに、ビジターの時は全く彼らを気にしなくていい。連中は自分達が追っている「悪霊」が熱狂的エクリプスファンで、ビジターの時には他球場に行っているなど思っていない。


 しかし、俺にとって気の抜けない日々が始まったのは確かだった。彼らは探知能力や道具によって、すぐに俺が完全な地縛霊でない事に気が付いたからだ。行こうと思えばこの東京のどこにでも行けるというのは、すぐにばれてしまった。普段は近場に隠れて、試合開始直前にこのドームにやってくるというプランはすぐに辞めざるを得なかった。


「この悪霊、面白いの。地縛霊ではない。おそらくは浮遊霊、自らの死を理解できず現世を彷徨い、禍を齎しておるのじゃ」


 土門はそんな事を言っていた。ちげえよバカタレ、死んだ自覚はあるよと叫びたかったが、なんとか堪える。


 ある時、久しぶりに家の様子を見たくなった。両親は俺の死から立ち直ってくれただろうか、と気になったのだ。ふわふわと向かうと、商店街はすっかり元通りになっていた。天ぷら屋も再建されていたし、両親も元気にたこ焼きを焼いている。しかし、店の一角に俺の遺影が置かれているのを見て、切なくなった。先に死ぬなんて思ってもみなかった。ごめんなぁと思った、その時だった。土門の弟子二人が、家の近くにやってきていた。俺は慌てて上空に舞い上がり、じっとする。弟子二人ならば方角を分かるだけなので、上空にいれば誤魔化せる可能性は高いのだ。しかし、もしバレれば一巻の終わり。


「ここか?」

「ああ。確かに、この霊地図のシミはこの家の場所を指している」


 二人はそんな事を言いながら、良く分からない紙を見ていた。やがて一人が、父さんに話しかけた。


「ご主人。つかぬ事をお尋ねしますが……ここで、最近不幸がありませんでしたか」


 そう問われ、父さんの表情は曇る。少し間を開けて、父さんは絞り出すように言った。


「ええ。向かいが、火事になりましてね。それで、倅が死にました」

「それは……失礼な事を。ご愁傷様です。……息子さんは、何か、この世に未練を残す様な事は、ありませんでしたか」

「……いいや。私には分かりません」


 親父の顔が、固くなる。おそらく、怪しげな宗教の勧誘か何かだと疑っているのだろう。俺は黙って、じっとその様子を見守っていた。二人はなおも何か聞こうとしていたが、父の表情を見て引き下がる。


 二人は店から離れながら、何か話していた。近づくわけにはいかず、良くは聞き取れなかったが、「あの息子」「可能性は」「悪霊」といった単語は聞こえて来た。或いは、俺の正体がばれたのかもしれないと思った。その時だった。


「兄ちゃんはそんなんじゃない!」


 その声を聴いて、涙が出そうになった。二人の前に、拳を握りしめた陽介が仁王立ちで立っていた。弟子の一人が何か陽介に言ったが、陽介は最後まで聞かずに、また叫んだ。


「兄ちゃんは、僕を助けてくれたんだ! 出てけ! 兄ちゃんを悪く言うなら、殴るぞ!」


 その剣幕に驚いたのか、弟子二人はそそくさと商店街から出ていった。俺は泣きながら、心の中で陽介に礼を言うと、また身を隠すべく飛んだ。もう、ここに戻って来る訳には行かない。俺が下手に戻ってきた為に、あの二人はここに来て、そして俺の家を見つけた。その結果、父さんと陽介を傷つける事になってしまったのだ。


 その日も、エクリプスは勝った。それも、ただの勝ちではない。二位のハイフライヤーズとの直接対決を制した事で、遂にマジックが点灯したのだ。優勝が、目前に近づいていた。俺も周りのファンと一緒に、大喜びで浮かれていた。ヒーローインタビューが終わり、ファンが帰っていく、その時だった。


「あそこだ!」


 不意に、土門の声が響いた。完全に油断していた俺は、慌てふためいて逃亡する。しかし、逃げた先にはエクリプスのユニフォームを着た、土門の弟子がいた。彼らはファンに紛れて、俺を探していたのだ。俺は必死に逃げた。彼らは群衆をかき分けねばならないが、俺はすり抜けられる。しかし、不利な点もあった。俺の視覚や聴覚は、生前と全く変わっていない。透視や超感覚などは使えないのだ。一方で、彼らは術や道具によって、俺のいる方向を確実に捉える事が出来る。下手に壁をすり抜けたりすれば、その壁のすぐ向こう側に奴らが待ち受けている、そういう可能性も大いにあるのだ。そしてうかつに飛び上がる事もできない。商店街の時は弟子だけだったが、今は土門がいる。土門は空中にいる俺の正確な場所が分かれば、そこに札をかざす事で拘束、除霊まで行えるのだ。空中に飛び上がれば、俺は天井によって土門の姿を知覚できなくなる。そうなれば、下で土門が俺に狙いを定めても気が付けない。


「クソッ、捕まってたまるか、こん畜生!」


 俺は必死に逃げた。しかし、逃げる先、逃げる先に奴らの姿がある。満員の観客の流れがなければ、簡単に捕まっていただろう。


 俺は考え抜いて、最後の手段に出た。床をすり抜け、一気に選手の控室に向かう。そう、ハイフライヤーズの選手達の元へだ。彼らは試合後、軽いミーティングの後ホテルに向かう事になる。彼らはエクリプスのファンと変わらぬ格好をしている。そうである以上、関係者立ち入り禁止の区域に入る事は出来ない。ドーム関係者には彼らの事は伝わっていても、ハイフライヤーズの選手や監督達にまでは伝わっていない筈だ。彼らと共に、彼らの宿泊するホテルに向かう。連中がそこに入ろうとしても、止められる筈だ。


 俺はなんとか、選手達に合流できた。周りにはハイフライヤーズのファンはいても、彼らの姿はない。エクリプスのファンが、ハイフライヤーズの選手にサインを求める事などあり得ない。近づいて来ても、ハイフライヤーズのファンに怪しまれるだけだ。負けた直後なのだし、最悪叩き出されるだろう。


 ハイフライヤーズのバスの中に滑り込み、俺はようやく一息を付けた。バスは走り出し、俺は選手達の雑談に耳を傾ける。


「強いな、今年のエクリプスは」

「マジック付いちまったもんなぁ……クライマックス目標に、切り替えた方が良いかも」


 彼らがそう言っているのを聞いて、改めて自覚した。優勝が、近づいている。


 翌日、俺はそれとなく様子を探った。昨日の彼らの騒ぎは、ファンの間でも話題になったようだ。奇妙なファンがいたとかいないとか大騒ぎして、人ごみの中を駆け回りえらく迷惑したと。オーナーもこれを問題視し、彼らの「エクリプスのファンを装っての試合中の捜査」を禁止した。オーナーは、あれから特に変な問題も起こっていないし、チームの調子も良いという事もあって俺に対する興味を失った様だった。土門はなおも、俺の除霊に拘っている様だったが。


 そして、遂にその時が来た。エクリプスとのシーズン最終戦、シーズン全体でも残り七試合という試合が、その時になった。エースの田原が八回一失点の力投を見せ、そして九回、クローザーの藤田がマウンドに上がる。二人をポンポンと打ち取って、そして、最後の打者をツーストライクワンボールに追い込んだ。運命の、四球目。外角低めに決まったストレートに、球審の手が上がる。見逃し三振。その瞬間、俺は叫んでいた。周りの誰もが叫んでいた。遂に、遂に、遂に。エクリプスが、優勝を果たしたのだ。言葉にならない叫びが、辺りを包んでいた。俺は恍惚とした気持ちで、このまま消えても良いとさえ思った。しかし、まだ終わりではない。クライマックスシリーズが、そして日本一がある。


 それは即ち、俺と土門の鬼ごっこが最後の局面を迎えている事を示してもいた。俺はあの後、何度かビジター選手のバスに同行して球場から逃げるという手を使った。しかし、これは却って危険になっていた。サラリーマンの格好をした彼らが、密かに車でこちらを探り、追跡している事があったのだ。彼らも必死だった。あの服装は、彼らにとってはユニフォームである。誇りの象徴であるはずだ。それを脱ぎ捨てでも、俺を除霊しにかかっていた。


 逃げ続け、逃げ続け、その間にも日々は過ぎる。ペナントレースは全日程を消化、クライマックスシリーズも終わり、エクリプスは見事に勝ち上がった。そして、ゴールドファインダーズとの日本シリーズが決まる。


 日本シリーズがいよいよ始まる、その直前。土門はオーナーにある提案をした。ドーム全体を囲う様に、盛り塩を始めとした幾つかの儀式を行わせて欲しいと。そうすればドームを結界で包み、中に悪霊がいれば封じ込め、外にいれば入れなくできる。どちらにせよ、除霊に大きな益があると。この提案自体は、ずっと前からされていた。しかしオーナーは、変な事をしたくないと断っていたのだ。しかし、日本シリーズが始まるという区切りで、そういう益を呼び込むのは悪くないかもと、オーナーはそちらに傾きかけた。そうなれば、俺は非常にまずい事になる。それを止めてくれたのは、エクリプスの大久保監督だった。


「私は反対です。そういう、神頼みみたいなのには縋りたくない。そんな事をしなくても、選手達は立派に日本一を勝ち取ってくれます」


 それに、と彼は続けて言う。


「なんですか、悪霊、ですか。でも、彼はずっと、私達を見守ってくれたんでしょう。私達は今年、大きなアクシデントも無く、優勝という大きな成果を上げる事も出来た。もし、そんなものがいるとして、私には悪霊なんかじゃない。むしろ、福の神に思えますよ」


 そう、言ってくれたのだという。俺はその場に直接はいれなかったが、大久保監督がその後に記者にこの話をして、スポーツ紙の紙面を飾る事になった。俺はその記事を見て号泣した。


 土門達との鬼ごっこ自体は、最後まで続いた。日本シリーズは第七戦まで縺れに縺れた。第七戦、三勝三敗で迎え、最後の後楽園ドームでの試合。試合展開は先発の横山が先制を許す苦しい展開ながら、五回に的場の犠牲フライで追いつくと、七回に蛯名のホームランで勝ち越しに成功。投手陣も持ち直した横山らが踏ん張り、最後には抑えの藤田が登場。しかし、先頭打者に四球を初めツーアウト二、三塁のピンチを招く。ここで、大久保監督が動いた。


《ピッチャー、藤田に替わりまして、田原》


 そのアナウンスに、場内はどよめく。俺も驚いた。なんと、エースの田原がこの場面で。しかし同時に、かーっと胸が熱くなるのを感じた。


 田原は二球で、相手打者を追い込んだ。一球外すか。いや、そうはしない。誰もが、固唾を呑んで見守る中、その三球目は投じられた。内角高め、胸元に食い込んでくるようなストレートに、相手打者のバットは空を切る。その瞬間、遂に、その時がやって来た。後楽園ドームが、揺れた。誰もが拳を突き立てた。ナインが歓喜の輪を作り、大久保監督が舞った。遂に、待ち望んだ瞬間が来た。


 その時、聞きなれた声を聴いた気がした。その声の方を向くと、父さんが、母さんが、そして陽介がいた。母さんの膝の上には、俺の遺影。泣きながら、母さんが言っていた。


「良かったねえ。良かったね……」


 陽介が、叫んでいた。


「やったよ、兄ちゃん、やったよ!」


 その声を聴いて、俺の中の何かがふっと軽くなった。そうだ。俺は確かに、エクリプスの日本一が見たかった。でも、それ以上に、父さんや母さんや、陽介とその瞬間を喜び合いたかったんだ。


 その瞬間、俺の体は光り輝き始めた。そして、宙に浮きあがっていくのが分かった。タイムリミットが、来たのだ。


《これで、満足したか?》


 あの男の声がした。


《あなたの願いは、叶いましたか》


 あの女の声がした。俺は、大きく頷いて、言った。


「全て、叶いました」


 その瞬間、俺の体は無数の光の球になった。それきり、俺の意識は消えた。

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