うつろ鬼
郷里侑侍
うつろ鬼
この前、僕に新しいお父さんができた。お父さん(血のつながった、本当のお父さんのことだ)が死んでから一年ほどしか経っていないというのに、お母さんは再婚を決めた。
「あの人が亡くなって早すぎるとは私も思うわ。でも、あなたはまだ子供なんだから、なるべく早く次のお父さんがいたほうがいいと思ったの」
お母さんはそう言った。お母さんが僕のことを考えているのはわかるが、それはそれとして僕には受け入れがたいものがあるのだ。僕が渋々うなずいでみせると、新しいお父さんはお母さんの肩に手を置いて語りかけた。
「仕方ないさ。私もそんなに早く受け入れられるとは思っていないよ。ゆっくりと家族になっていこう」
僕にはその言葉が白々しく聴こえた。それからというもの、僕は新しいお父さんを未だに受け入れていない。
その日も僕は二階にあるお父さんの書斎に入って、遺された本や研究資料を読んでいた。お父さんは民俗学者とかなんとかという仕事をしていて、日本中の大昔からある建物や遺跡を調べていた。僕が勝手にお父さんの書斎に入ると、お父さんは笑っていたがお母さんは「勝手に入ってはいけない」と怒っていた。でも、最近はお母さんは僕がそういうことをしてもあまり怒らなくなった。お父さんがいなくて寂しい僕の気持ちが伝わってるのかもしれないし、単にそうする元気がないのかもしれない。
かび臭い本に書かれていることはよくわからないが、そうしているだけでお父さんの人生に触れている気がして心が満たされた。
今日はどんな本や資料を読もうか。この前読んだS県の離島に伝わる奇祭についてのレポートは、さながら伝奇小説じみていて面白かった。そう考えながら書斎を歩き回っていると、窓の外から家の前に黒い何かがいるのが見えた。なんとなく気になった僕は窓ガラスに顔をつけて外を見下ろす。
黒いなにかは、女の人だった。真っ黒で長い綺麗な髪と、同じくらい真っ黒な服。そして陶器のように真っ白な肌。テレビでしか見たことがないような、まさしく『美女』というのが正しい人だ。
僕はその人の浮世離れした、ぞっとするような美しさに目を奪われた。そのとき、彼女が僕の方を見て微笑んだ。僕は驚いて後ろの机にぶつかってしまう。机から本が落ちる音がした。
おそるおそるもう一度窓の外を見たが、彼女はいなくなっていた。
落とした本を拾おうとすると、それは本ではなく日記帳だった。日付を見ると2年前から始まっている。最初の方をめくると、その日にあった出来事が箇条書きで短く書かれている。日記というよりも思考整理のメモのようなものなのだろう。
ぱらぱらとめくっていくと、ある日を境に日記の様子が変わった。そこにはこうあった。
◆◆◆
■月■日
N県で発見された祠の調査から一週間。どうやら禁忌を侵してしまったようだ。
あの祠には本当に『うつろ鬼』が封じられていたのだ。不可抗力だったとはいえ、私はそれを破ってしまった。
時折感じる強い悪寒。視界の端に映る黒い人影。
伝承の通りであれば、私はもうじき死ぬかもしれない。
私はもう助からないだろうが、家族が心配でならない。
後のことは奴に頼むしかない。どうか、妻と息子を守ってほしい。
◆◆◆
それから数日して日記は途切れた。お父さんが衰弱して倒れる前の日だった。その後、お父さんは衰弱して口もきけなくなり死んだ。
その日記の内容を信じるならば、お父さんは『うつろ鬼』と呼ばれるなにかと出遭い、それに憑り殺されるようにして死んだ。そして、その脅威は今、遺された僕たちにも迫っているらしい。
僕はもう一度窓の外を見る。やはり、先ほどの真っ黒な女性はもういない。日記にあった『黒い人影』という言葉を思い出す。あれが『うつろ鬼』なのだ。
ざわざわとした気持ちが押し寄せてきた。思い切り叫び出してしまいたい衝動に駆られる。お母さんの顔が見たくなり、階下に降りた。
「お母さん……!」
僕はほとんど叫んでいた。お母さんはリビングにいた。右手の指先にティーカップがひっかかって、そこからこぼれた紅茶がフローリングを濡らしていた。お母さんはソファに沈むようにして意識を失っていた。
僕ははっとしてリビングの窓の外を見た。さっきの黒い女がこちらを一瞥して、そのまま幻のように消えた。恐怖のあまり、僕はとうとう叫び声をあげてしまった。
━━━━━
お母さんは病院で検査を受けたが、その衰弱の理由はわからなかった。お母さんの身体はいたって健康で、ただ水漏れのように体力がなくなっているのだ。だが、僕はその理由が何かを確信していた。お父さんの日記にあった『うつろ鬼』だ。窓の外にいた黒い女だ。あれがお父さんの次はお母さんをその毒牙にかけようとしているに違いない。
「ごめんね」
病室のベッドでお母さんが僕に謝った。
「新一さんとの結婚のことよ。あなたのためと思ってたけど、あなたの気持ちは考えてなかった。ごめんね」
「やめてよ、こんなときに。お母さんまで死ぬみたいじゃないか」
「そうね。でも、新一さんならいいお父さんになってくれると思ったのは本当なの。吾郎さん──前のお父さんの知り合いで、『奴は頼りになる』ってよく言ってたから……」
お母さんが『前のお父さん』と言ったことが、僕は腹立たしかった。それよりも気になったことがある。もしかすると、お父さんの日記に書いてあった『奴』とは新一さん──新しいお父さんのことではないだろうか。だとすれば、彼が急な再婚に説明がつく。お父さんは新一さんに側で僕たちを守ってくれるように頼んだにちがいない。
その後、新一さんが病室に来た。新一さんは不安げな顔でお母さんの手を握りながらはげましの言葉をかけていた。そして、彼の運転する車で家に帰った。
新一さんは僕に簡単な夕食を作ってくれた。すこし味付けが濃かったが美味しかった。
寝る前、新一さんにお父さんの日記を見せた。死ぬ前に書き残した、あの箇所を読んでもらった。それから、あの日見た黒い女の話もした。あれこそが『うつろ鬼』にちがいないと僕は力説した。僕は新一さんの腕を強く握った。彼の身体に積極的に触れるのは初めてのことだった。
「新一さんは、お父さんから頼まれてきたんでしょ? 化物から僕たちを守るために、お母さんと結婚したんでしょ?」
新一さんは眉間に皺を寄せて同じ箇所を何度も何度も読んでいる。
「これは本当に、吾郎くんの部屋にあった日記なんだね?」
「そうだよ。お願いだから、僕たちのことを助けて!」
新一さんは日記を閉じ、長い溜息をつきながら立ち上がった。
「参ったなあ」
「君のことはお母さんの後で、ゆっくり味わって食べるつもりだったんだけどなあ。子供の精気の方が大人よりもうまいから、後にとっときたかったのに……」
「え?」
ごりごり、ぼきぼき、と。鶏の軟骨をかみ砕くときの音を100倍にしたような嫌な音がして、新一さんの身体が痙攣する。眼はテニスボールほどに大きくなり、口は耳まで裂け、夕食のときには普通だった歯は研いだ鉛筆のように太く、長く、鋭くなった。肌は鬼灯のように赤く、整えられた髪は急にぼさぼさの長髪になった。節くれだった指からは汚れた爪が長く伸びている。
新一さんだった何かが口から硫黄のような臭気をはらんだ熱気を吐く。『うつろ鬼』の正体は新一さんだった。
「間抜けな人間が封印を解いてくれたから、お礼にそいつの家族をまるごと食ってやろうと思ってなあ。昔は油断して封印されたモンだから、めんどくせー変装したり、お前のおふくろに術かけて信用させたりしたのによぉ、あの親父がそんな根回ししてやがったとはなあ」
うつろ鬼は恐怖で体がすくむ僕を両手でつかみ、持ち上げた。するどい爪が食い込む痛みに僕は短く叫んだ。
「クソガキが。お前が教えてくれたおかげで助かったぜ。それにしてもお前もツイてねえなあ。日記なんか見つけなきゃもうちょい長生きできたのによぉ」
うつろ鬼は口を大きく開けた。むせかえる臭いに僕は吐き気すらおぼえた。
「精気だけ吸い取るのがオツなんだがよ、チンタラやってられねえし、お前は直に頭からバリバリ食ってやる。あばよ」
鬼の牙が目の前に迫ってくる。恐怖にわななく声帯が辛うじて「たすけて」と発声した。
ばきり。硬いものが鬼の牙でかみ砕かれる音。
「はい、もう大丈夫」
気づけば僕は誰かの腕の中に抱かれていた。見上げると、あの黒い女だった。僕が『うつろ鬼』だと思いこんだ、あの女性だ。
振り返ると、うつろ鬼はばきばきと音をたてながら椅子をかみ砕いて飲み込んでいた。
「あの椅子があなたに視えるよう、暗示をかけました」
彼女の手が僕の頬にふれる。彼女は優しい眼差しを僕に向けた。引き込まれ、そのまま転落しそうな真っ黒い瞳を見ていると僕の心は不思議と落ち着いていった。
「吾郎くんに頼まれてあなたたちを守りにきたのですが、存外あの鬼が用心深くやっていたのでいささか手こずりました。でも、あなたが日記を見せたことで鬼に隙が生まれました。ありがとう」
彼女は立ち上がってうつろ鬼に近づいた。うつろ鬼は粘液にまみれた椅子の破片を吐き出している。
「なんだこりゃあ、この俺が、化かされるなど……」
うつろ鬼は彼女の姿を見るとぎょっとしてうろたえた。
「お、お前、まさか……『夢幻使い』……」
「よくご存じで。もっとも、名前が知られていいことなどなにもないですが」
「なんだってんだチクショウ、せっかくシャバに戻れたってのによ……! これなら封印されてた方がマシだった……!」
「そうですね。でも許しませんよ。君から家族を守るよう、友人に頼まれてしまいましたから」
「くそったれぇええーっ!」
うつろ鬼が彼女にとびかかった。いや、そうしようとした。うつろ鬼が動こうとしたそのとき、いつの間にか彼女はうつろ鬼の身体を背後から絡みつくように抱きしめていたのだ。
彼女はうつろ鬼の頭に手を置いた。
「君のようなやつにもっとも効くのは──」
「やめ、やめ、やめてくれ……」
うつろ鬼の眼球が恐怖に震える。
「『自分自身を忘却する』、こういう手法です」
彼女の指先がうつろ鬼の額をとん、と叩いた。次の瞬間、うつろ鬼の姿が消えた。椅子の破片にこびりついた粘液も、奴の爪が食い込んだ痛みも、すべて消えた。まるで初めからいなかったように。
━━━━━
ほどなくしてお母さんは退院した。新一という男のことはなにも覚えてはいなかった。僕たちはまた二人きりで暮らしはじめた。まだまだ寂しかったが、辛くはなかった。お父さんが遺したものが僕たちを守ってくれたからだ。
「さすがに、うつろ鬼を消したからといって吾郎くん──あなたのお父さんまでは戻ってきません。私の術の領分を超えています」
「いいんです。そのうちきっと受け入れられると思いますから」
「あなたは強いですね。これなら心配はなさそうです」
彼女は微笑んだ。寒気がするくらい美しい人だった。まるでこの世のものではないように。きっと本当にそうなのだろう。彼女は踵を返した。
「では、そろそろ私は行きます。吾郎くんとの約束も果たせました。お元気で」
「あの! できたら、お名前を教えてください」
彼女は微笑を湛えて振り返った。
「
僕がまばたきをすると、彼女の姿は消えていた。それ以来、夢子さんの姿は見ていない。
うつろ鬼 郷里侑侍 @kyouri_yuuji
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