フーディーニの憂鬱

蔵井部遥

種と仕掛け

「はなさないでね、とけちゃうから。」

 その女はベッドで確かにそう言った。俺の体の下で快楽に顔を歪めながらもその言葉を口にした時は眼に暗い光が宿ったのを覚えている。




 どうも異能を身につけたらしい。


「らしい」というのも非常に曖昧だが、事実曖昧なのだから俺自身もこう表現するしかない。

 グレゴール・ザムザのようにある朝目覚めると巨大な毒虫になっているのは困るが、ある朝突然、微妙な異能「らしきもの」を身につけるのも困惑するほかない。


 俺が身につけた異能らしきものは治癒能力だ。


 今朝、朝食を支度して不注意でペティナイフで左手の親指の腹を切ってしまった。

 思いの外深く傷つけてしまったため、手近にあったキッチンペーパーで親指を覆い血が零れないように止血しながら、常備薬を収納してある箱から絆創膏を取り出して傷口に貼ろうと血塗れのキッチンペーパーを取り除いてみると傷口がない。

 ペティナイフを研いだばかりだから傷口が鋭利でくっついたように見えるせいかと思い、思い切って親指の腹を広げてみても傷口もなく痛みもない。傷口が無いだけなら、俺の勘違い、目の錯覚かとも思うのだが、手には先程まで溢れていた血でまだ湿っているキッチンペーパーがある。

 よく手入れされた刀で達人が斬ると斬られた方は気づかない、なんて描写を漫画で見かけたり、繊維に沿って鋭利に切断された物体がくっついたりするという都市伝説は耳にしたことはあるが、自分の身に起こると話は別だ。指を切った時の熱い痛みは覚えているし、血も実際に出ている。だが傷口はないという現実は現実だ。


「血は流れた、だが傷口はない」

 という現象とどう向き合うか。このまま放っておいても良いのだが、奇妙な、況してや自分の身に起こった不可思議な現象を放置するのもどうにも収まりが悪い。奇妙な体験談として人に話すしにしても、SNSでネタとして書くにも、オチや原因の予測がつかないと格好もつかない。

 となると原因の解明には再現実験を試すしかない。偶々、奇跡のような確率で綺麗な切り口の切創が瞬時にくっついたのかも知れない。


 逡巡していても仕方がないので再現実験を試みる。目の錯覚ではないことを記録するためにスマホをスタンドに立て掛け、動画モードにして小指を画角に収める。鋭利な刃物を用意して左手小指にあてがい、刃先を左から右に薄く走らせる。

 鋭く小さな痛みが来てからすぐに小指の腹から血が出てくるがすぐに止まった。血を拭って確認すると、あるはずの切創が無い。刃先は新しいものに替えてはいるが、傷口が瞬時にくっつくような現象が起こるとは思えない。

 念のため撮影した動画を確認したが、やはり錯覚でもなんでもなく小指から血が出て閉じるところが記録されていた。

 この事実から推察すると、俺は特異体質になったのかなんなのかは分からないが治癒能力を身に着けた”らしい”。


 治癒能力を身に着けたらしいのは分かったが、詳細は一切分からない。ただ傷が瞬時に治ったという事実が2回連続で起こっただけだ。1回だけなら偶然綺麗な切創がすぐ塞がっただけとも思えるけど、2回連続となると何らかの再現性のある現象なんだろう。


 で、どうする?


 まず頭に浮かんだのが大学病院などの専門機関で診察を受けることだ。だが、恐らく前例の無い話だから適切な対応をしてもらえるか分からないし、そもそも病気かどうか曖昧だし、病気どころか怪我が治っているんだからお門違いに思える。万が一研究材料として興味を持たれて身体中を弄くり回されても業腹だ。

 SNSに動画をアップして原因の特定に繋がるようなコメントをもらうことも考えたが、

「嘘松」

「フェイク動画バレバレw」

 など好き放題書かれたり、ゴミみたいなアカウントに適当な考察されたりするのが関の山だと思うので思い留まった。

 となると、原因の解明はさておき現象への対応を考えるぐらいしかやることはないのだが。

 異世界転生ものなんかだと、神の使いとやらが新しい能力を便利に説明してくれたり、ステータスが別ウィンドウで見られたりするんだが、現実は厳しい。


 まずそもそも、この現象が体質なのか、何らかの超自然的なメカニズムに由来するものなのかが分からない。分からないから発動条件も不明。

 修練や研究を重ねて身につけた魔法や超能力、科学技術ならどのような条件で発動するのか分かるんだが、残念ながら俺が分かっているのは、指先を切ったら瞬時に治癒した、という現象だけ。

 発動条件、能力限界、縛りや対価諸々が不明なので全く使えない。ファンタジーやRPGの治癒魔法のように、呪文の詠唱とMPの消費と引き換えに魔法が発動するならこちらも安心して使えるが、その辺が全く分からないから不安でしょうがない。

 能力限界と回数制限が分からないのもかなり厳しい。異能で手から火が出ますっていうなら、やってみて駄目でもそれほど害はないけど、治癒能力の場合、駄目だった時のダメージが大きい。切創が治りませんでした、ならしばらく待てば良いけど、お試しで指を切り落として繋がらなかったら洒落にならない。回数制限が分からないのもかなりネックになる。いざ命の危機って時に、これまでで治癒能力を使い果たしていました、なんていうのは嫌なホラーでよく見かける話だ。

 種も仕掛けもございません、なんて奇術の常套句があるけど、本人が種も仕掛けが分からないなら使い道が無い。


 それにしても思考がまとまらない。不可思議な現象に遭遇したとしても混乱し過ぎだと自分でも思う。



 ここに来て一人の名前を思い出す。雨宮百合。少し前にマッチングアプリで出会って寝た女。顔は十人並みで体は良い女、所謂“癒し系”にカテゴライズされるだろう。食事をしながら妙にオカルトやスピリチュアルな話を振ってきて多少警戒感はあったが、百合を抱くことで頭がいっぱいだったので適当に相槌を打ってやり過ごした。抱いた後に連絡が来たが、面倒そうな女に関わりたくなくてその後の連絡は無視していた。ネットで知り合った抱けそうな少し頭が変な女に対しての俺のいつものパターンだ。


 一切の連絡を無視していたので多少の気まずさはあるが、オカルトに詳しそうな百合なら何か分かるかも知れないと、メッセージを送ってみた。これもザオラルメールかと一人で苦笑する。

 程なくして返信があった。こちらが無視していたので期待はしていなかったが、貞操観念も低そうだったし、案外気にしていないかも知れない。

「お久しぶり」

 淡々とした返信に対して、一笑に付されても仕方ないと思いながら今朝からの治癒能力が発現した現象かいつまんで文章にまとめてメッセージを送る。

「治癒能力?」

 百合からのメッセージが続く。

「本当に治癒能力だと思ってる?」

 これは治癒能力ではないのか。未知の病かなんなのか。

「何か知ってる?」

 先を促すためにメッセージを送ってみる。と、着信があった。電話をかけてくると思わなかったので驚いたが、藁にも縋る思いで電話に応答する。


「何か困ってるの?」

 笑いを堪えているような百合の声に少し心がざわつく。

「困ってはいないけど…。困惑している。」

困っていなんだ。」

 なんだ、この女は。何が言いたい。

「怪我が治って困ることはないだろ」

 少しイライラしながら相手の言葉を打ち消す。

「治癒の癒って字の由来知ってる?病気に罹った体の悪い部分がくり抜かれて病気が治るって意味から出来てるんだよ。」

 含み笑いを隠すのを止めた様子で女が続ける。

「癒着って言葉があるでしょ?病気で臓器がくっついたりするの。癒しってそんなに都合がいいものばかりじゃないと思うんだよね。」

 世界がぐらつく。

「とけてくっついて“癒”されて。私って癒し系って呼ばれるんだよね。悪い部分がくり抜かれてそこには何が埋まるのかなあ。何もないのに癒されるなんてそんな都合の良いことは世の中ないよね。」

 心底おかしそうに俺を嘲笑しながら女が言う。

「物事には理由はないけど、メカニズムはある。何かが欠落すればそれを埋めるために贖いが必要となる。くり抜かれた場所には何かで埋めないといけないの。今のキミの頭だと理解できないかも知れないけど。」

 女の言葉が理解できないまま頭の中で反響する。頭の中に霞がかかったようだ。

「キミは空っぽだからね。それに相応しい人間になるの。体に悪いところが出てくる度に君の知識や記憶がとけて流れてくっついて“癒”してくれる。そういうメカニズム。」

「なんで俺が。」

 思考がまとまらないまま言葉を絞り出す。

「言ったでしょ。物事には理由はないけどメカニズムはあるって。キミである理由はないけど、キミは偶々私に行き会った、ただそれだけ。私を捨てたからなんて殊勝なことは考えなくていいよ。」


 本来なら立っていられないぐらい心臓がバクバクがしていてもおかしくないのに俺はけっこう平気だ。そういえばなんでおれはだれかとはなしているんだろう。ふときれいなじぶんのゆびをみてもなにもわからなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

フーディーニの憂鬱 蔵井部遥 @argent_ange1121

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る