第29話 優先順位

 アメリカ社会において直史は、あまり社交的な人間ではない。

 もっとはっきり言ってしまえば、人間関係は閉鎖的である。

 アナハイムにほぼ腰を据えた瑞希のほうが、よほど人間関係は広いだろう。

 その分、直史には一方的な信奉者がいるわけだが。


 ただその日は、久しぶりに旧懐を暖めることとなった。

 アナハイムにてトローリーズと対戦するのだが、直史はともかく本多はローテに出番がない。

 その本多から呼び出されたのである。

「俺たち二人の組み合わせは珍しいのでは?」

「言われてみればそうだな」

 そこそこ接触はあるのだが、深い交流と言うほどではない。

 一番最初の接触は、直史が高校一年生で、本多が高校二年生であった春だろうか。

 もっともあの時は、本当に顔を合わせた程度である。

 練習試合の相手だったが、本多が投げることもなかった。


 その後は春季関東大会での対戦があり、それにワールドカップではようやく同じチームにもなった。

 とは言っても直史は、他の三年生ピッチャーを押しのけて、二年生でありながらクローザーに。

 本多もちゃんと勝利投手にはなっていたが。

「ワールドカップは楽しかったなあ」

「WBCは一緒になってませんしね」

 直史がプロに行っていたら、一緒になっていたのだろうが。


 祭りに参加した仲間という意識はある。

 NPBでは同じリーグだったので、顔を合わせることも多かった。

 だが意外と、深く関わるのはそれぐらいか。

 なので連絡があった時は、ちょっと驚いたものである。

「うちはもう今年は無理かもしれないな」

 本多が言っているのは、現在のトローリーズの状況による。

 メトロズとの対戦以来、極端に打線のデッドボールが増えた。

 それに切れて乱闘まで起こしてしまい、主力が二人しばしの出場停止。

 そもそもの原因を作った選手は、トレードに出されることは決定した。


 直史としては、判断が早すぎるな、と思う。

「大介のことだから、あと一週間もすれば復帰すると思いますけどね」

 いやそれは、どうなんだろうという表情の本多。

 だが直史は慰めであっても、無責任なことは言わない。


 過去の大介の怪我などに、先日見舞った自分と、その後に見舞った武史。

 明らかに大介は、通常の三倍ぐらいの速度で治癒してきている。

 これが腱や靭帯であったのなら、むしろ回復には時間がかかったのかもしれない。

 だが大介の骨の回復力は、本多も身近で見ているではないか。

「本当に化け物だな」

 ほっとした顔をする本多である。


 トローリーズへのヘイトは、本当に異常なものであった。

 だが去年はプロ無敗の直史に土をつけ、そして今年は明らかに自己の記録を塗り替える勢いでホームランを量産。

 もちろん全ての人間が、大介を応援するわけもない。

 しかしその記録を阻むのは、もっと正面から立ち向かった結果でなければならない。

 かつてNPBにおいては、優勝が決定した後では消化試合となり、タイトル争いのために敬遠が頻発していた。

 この点では明らかに、MLBは個人タイトルよりチームの勝利を優先している。

 他にいくら、MLBがおかしなところはあっても、これは間違いのない美点である。


 直史に対しても、バント攻勢などはやってこない。

 文化の違いと言えば、それまでではあるのだろう。

 直史に言わせれば、本当に勝利のみを追及するのは、日本の高校野球が一番だと思う。

 フィジカルに恵まれたわけでもない選手でも、頂点に立つことが出来る。

 その限界のところが、甲子園だと思っている。

 強豪校が選手を集めて、強いチームを作って甲子園を制覇する。

 それを妨げた直史だからこそ、そんなことを言っても説得力があるのだ。


 二人の会話は、今のリーグの状況には及ばなかった。

 共通している話題は、甲子園とワールドカップぐらいか。

 NPBという舞台は、直史は二年しか経験していない。

 超強豪と、完全なる進学校。

 全く違う環境から、二人は高校時代の話に華を咲かせた。




 トローリーズとの三連戦が始まる。

 例年であればハイウェイシリーズと呼ばれ、四試合で行われるこの両チームの対戦。

 しかし今年は同地区内でインターリーグが行われるため、六試合が行われる。

 まずはアナハイムの本拠地で、三戦が行われる。

 シアトルとの試合を挟んで、またすぐに今度はロスアンゼルスで戦うというのは、既に誰もが分かっていることだ。


 大介の怪我以来、とことんヒールのイメージがついているトローリーズは、本多の言ったとおりチーム状態が悪い。

 悪質なスライディングが許されたのは過去の時代。

 それこそコリジョンルールがなかった時代のことであろうか。

 アメリカのスポーツは、その頂が高いがゆえに、ドーピング問題なども含めて、ぎりぎりのところを攻めている。

 それでいながらクリーンなイメージは持っておかないといけない。

 安全に見られるスポーツ。それが野球である。

 危険なスポーツであるなら、それこそボクシングのような格闘技でも見ていればいいのだ。

 そのあたりの判断がつかないと、こういうことになってしまう。


 トローリーズはラフプレイを犯した選手を、既に放出すると決定している。

 なんと言ってもトローリーズは、大きな経済圏を持つ人気球団であるのだ。

 イメージを悪くするプレイヤーを、わざわざ持っておくメリット。

 それは豊富な資金力を持つトローリーズには、あまりないことである。

 なおオークランドあたりであると、ファン層なども割りと乱闘などに寛容であったりする。

 ひどい話だが、アメリカでは暴力で発散することが、暗黙の了解で認められている部分がある。

 なお認められていない部分で暴力を振るったりすると、普通に銃が出てくるのが、アメリカの恐ろしいところである。


 アナハイム側で行われる、三連戦の第一戦。

 先発はボーエンである。 

 なおこの三連戦も次の三連戦も、本多の出番はない予定だ。

 直史と違って中四日などは行っていないので。

 本多以外にも、良いピッチャーを揃えているのがトローリーズ。

 そのバランスのよさは、レギュラーシーズンで戦いぬくことを主眼に置いて作られている。


 ポストシーズンを勝ち進むのは、一戦に力を集中する突破力。

 だがナ・リーグ西地区は、3チームの争いによって、競争のレベルが高い。

 平均して高い力も必要となる。

 なので戦力を、両方の方向性で使うことが必要となる。


 ベンチの首脳陣が考える、戦力の効果的な運用。

 選手の中では樋口が、一番それを考えている。

 とにかくここまで、投手陣には故障者がいない。

 それは樋口のリードが、安定した球数を投げさせるからだろう。

 直史以外のピッチャーも、樋口のリードの安定感が分かってきている。

 MLBらしくはないキャッチャーの姿であるが、ことリードだけに限るなら、日本人キャッチャーもありなのかな、と思わせる。

 特にアナハイムは、坂本がいた時代から、日本人捕手が続いている。

 そして直史と坂本のバッテリーで、ワールドチャンピオンになったのだ。


 ボーエンもまた、実績から樋口を信じている。

 首を振ることはあるが、それでもすぐに樋口は、意表をつくサインを出してくる。

 この試合もまた、間違いのないピッチング。

 七回を投げてヒット四本の一失点。

 そして攻撃においては、しっかりと打点を取ってくれる。


 去年もオールMLBチームのキャッチャーに選ばれた樋口だが、今年は打率以外の全てが、おおよそ去年よりも向上している。

 その打率も三割は超えているのだから、出塁と長打に優れているのだ。

 無理にホームランまでは狙わず、ライナーに近い打球を外野に飛ばす。

 それをケースバッティングでするのだから、キャッチャーよりもバッターとしての才能が上だと勘違いされても仕方がない。

 この試合もホームランを一本。

 充分にリードした状態で、試合は終盤に入る。


 アナハイムもやはり、リリーフ陣は微妙なものだ。

 クローザーのピアースはいいのだが、そこまでに一点ぐらいは取られるパターンが多い。

 試合を六回で終わらせる、勝利の方程式がほしいものだ。

 だが5-3で最終的には勝利。

 第三戦に直史が投げることを考えれば、勝ち越しはほぼ決定である。

 ……フラグではないだろう。




 第二戦、これも終盤までリードできたのなら、勝ちパターンのピッチャーで勝てなくはないはずであった。

 トローリーズはバッティング面で、ここのところ数字を落としている。

 内角を厳しく攻められていることが多いからだ。

 ただそれでも、今年から本格的なメジャーデビューのフィデルは、調子に波がある。

 初回に三点を取られてしまえば、首脳陣は次の試合のことも考え始めてしまう。

 第三戦はおそらくリリーフのいらない直史が勝つし、翌日も試合はない。

 わずかだがピッチャーを休ませることが出来るのだ。


 終盤までなんとか、二点差以内なら。

 それなら打順次第で、逆転を狙っていける。

 そう思っていると、上手くいかないのが世の中である。

 アナハイムというチームは、比較的お行儀がいい。

 絶賛ヘイトを稼いでいるトローリーズであっても、しっかりと勝利を目的として戦う。

 そもそも報復合戦などは、不毛でしかないのだ。


 六回までを五点という、微妙な数字でフィデルは最低限の役割を果たした。

 ただその時点でアナハイムは、三点しか取っていない。

 プロの世界でシーズンを送るのだから、負ける試合は必ずある。

 だから負けるにしても、どうやって消耗を少なくして負けるかが重要なのだ。

 アナハイムの場合、直史の他にはボーエンとレナードが、勝利を期待できるピッチャー。

 この三人は大切に、ポストシーズンに向かって使わなければいけない。


 対して他のピッチャーは、育成中であったりイニングイーターであったりする。

 負けても無駄にリリーフを使わせないところまで投げてくれれば、それで全体としては価値がある。

 六回まで投げてイニングを食ってくれれば、規定投球回には到達する。

 そういうピッチャーは決戦では役に立たなくても、充分な戦力としては換算されるのだ。


 最終的には5-7という点差でアナハイムは敗北。

 トローリーズとしては、まず一つだけでも勝てたと思っていいのだろうか。

 アナハイムも先発が無理をすることなく、しっかりと投げてきている。

 直史が一人で全勝して、他のピッチャーが五割で勝てば、それだけでポストシーズンには進出出来る。

 無茶な話に聞こえるかもしれないが、現実でもある。


 七月に入ってから、アナハイムは上手く勝てていない。

 先発はそこそこ抑えても、リリーフへの継投が上手くいかなかったりする。

 四月と五月には、ほぼ同等の勝率であった。

 六月の勝率で、どうにか貯金が出来たと言っていい。

 それが七月になって、また調子を落としている。

 そこれなりに得点も取っているのだが、大量点で快勝というものがないのだ。


 しかし三戦目、投げるのは直史。

 ここで勝てばこのカードは勝ち越しとなり、またすぐに当たる次のトローリーズ相手には、第一戦で投げることになる。

 二試合連続で、打線を封じてしまう。

 そんなつもりは直史にはない。

 なぜならここでトローリーズの調子をこれ以上崩させても、アナハイムにはあまり意味がないからだ。

 これがア・リーグのチームで、しかも地区優勝を争うようなチームなら、もちろん大きな意味はあったろうが。

 アナハイムが現状、一番憂慮すべきはヒューストンとの対決。

 それぞれの地区のチームの現状を見てみると、西地区で優勝すれば、勝率は二位になる可能性が高い。

 ミネソタがとにかく、圧勝続きであるのが苦しいところだ。

 ただリーグチャンピオンシップで戦うところまで持っていけば、アナハイムはエースと経験の差でどうにかなると思う。


 メトロズの方は大介の回復が早く、すぐに調子を取り戻してきそうだ。

 八月までに復帰してきたら、残りの二ヶ月でまた大きく勝ち越しでくるだろう。

 どちらにしろアナハイムもメトロズも、大きな戦力は抜けてしまっている。

 ターナーが間に合うのなら、アナハイムも一気に勝率を上げていけると思うのだが。

 彼がいない間に使われている若手も、それなりに育ってきている。

 それが六月の間に、そこそこ勝ち越せた要因とも言える。




 直史は自然崇拝ぐらいは認める無神論者だが、自分の人生にはある程度の運命が関わっているような気がする。

 いや、自分だけではなく、大介もまたその運命に導かれているような。

 野球には神様がいて、甲子園にはマモノがいる。

 大学野球の聖地は神宮と、やたらと日本は野球を神聖視していたりする。

 何事もまず聖書とキリスト教が中心のアメリカを、笑えないような気はする。

 ただ少なくとも、音楽の女神は間違いなく、二人の勝負を観戦している。


 第三戦、まずはトローリーズの攻撃。

 直史は内野フライ二つに、見逃し三振で三者凡退に抑える。

 そしてその裏、確実に一点を取ってきた。

 1-0で勝利のムードが漂いかけるベンチ。

 いっそのことどこかで、この無失点記録は途切れた方がいいのでは、と樋口も思ったりしているのだが。


 直史が一度も負けないとしても、他のピッチャーで負けてしまえばどうなるのか。

 アナハイムとメトロズと言うよりは、直史と大介の対決。

 しかしレギュラーシーズンの間に、直史を使い続けるのは心配でもある。

 バイオリズムの変化により、コンディションが不調というのも、本来ならあるのがピッチャーだ。

 それすらも完全にコントロールすることに、長けていることが直史だ。

 NPB時代、打線の援護が少ないスターズであったとは言っても、上杉は年に数回は負けていた。

 それも登板間隔を縮めた結果であるのだが。


 直史の本日の調子は、いつも通りである。

 つまり一人のランナーも出ていないということだ。

 そして一人当たりに使う球数は、三球から四球。

 実際には二球目で片がつく場合もあるのだが。


 トローリーズもやはり、基本的には待球策であるらしい。

 今はチームの調子が落ちているが、それでも本来ならトローリーズは、ポストシーズン進出からワールドシリーズ優勝を目指すようなチームだ。

 最優先はまず、この三年間ずっとリーグチャンピオンシップで敗北している、大介のいるメトロズとの勝負。

 だがそこを超えたとしたら、ア・リーグのチャンピオンと雌雄を決することになる。

 ミネソタが強い、ア・リーグの今年のレギュラーシーズン。

 だが平均的な強さよりも、エース一枚の力が勝敗を左右するとなれば、アナハイムがミネソタを破ることも充分にありうるのだ。


 直史をどうやって攻略するかが、ワールドシリーズ優勝へとつながる。

 打って勝つのは正直難しいが、去年のように第七戦にまでもつれこませればどうだろうか。

 チームスポーツであるのだから、チーム全体の戦略として、直史を削るというのは採用すべき作戦だ。

 ただその意識があっても、直史はゾーン内で勝負をしてくる。

 確実に打つような手段が、はっきり言って見つけられない。

 ならば消耗させてピッチングの精度を落とさせるのも、一つの策ではある。

 もっともレギュラーシーズン中の一試合では、それはとても難しい。

 やはりアナハイムとミネソタがリーグチャンピオンシップで対戦し、直史がそこで消耗しているというのが、ナ・リーグから出て対戦するチームとしては効果的に思えるのだ。


 もっとも本多は、直史の甲子園をリアルタイムで見ている。

 共に大阪光陰と対戦した、夏の準決勝と決勝。

 片方はノーヒットノーラン扱いであったが、事実上はパーフェクト。

 そして翌年の決勝など、15回までを完全に抑えきったのだ。


 ワールドカップにおいても、12イニング投げて一人も出さないという快投。

 本多は東京の高校で、プロでも東京のタイタンズであったので、その後の直史のことも良く知っている。

 大学野球など選択肢になく、そのまま高卒でプロに進んだ本多だが、直史は平気で中一日の間隔で完封を続けていたのだ。

 なんと無能な監督かと、本多は思ったものである。

 今から思えば、それでも直史は余裕であったわけだが。




 八回まで、内野安打とポテンヒットで、ランナーは二人出ただけ。

 アナハイムは追加点を取って、5-0と試合の勝敗は決めてしまった。

 あとは直史が、マダックスを達成するかどうか。

 しかし今日は出たランナーをダブルプレイで殺されていないので、やや球数が多い。

 直史は下手にマダックスにはこだわらず、完封狙いに目標設定を変える。

 点さえ取られなければ、野球は負けないスポーツなのだ。


 九回の表、トローリーズの最後の攻撃。

 ここでも代打を出してくるあたり、トローリーズは諦めが悪い。

 ただこれは代打の若手が、上手く打ってくれればめっけもの、というぐらいなのだろうか。

 実際にそのバットは、直史のボールを捉えた。

 ただし完全に打球の勢いは殺され、サードゴロとなる。


 深く守っていたため、これが内野安打となってしまった。

 本日三本目のヒットというのは、直史にしてはそこそこ打たれている部類だ。

 そしてトローリーズは、ここで考え方を変えてきたらしい。

 このノーアウトのランナーを、どう利用すればいいのかというものだ。


 ワンナウト一塁からでは、バントでランナーを進めても、点が取れる確率はむしろ低くなる。 

 だがそれは統計で見ただけの話であり、実際にはランナーの走力や次の打者の打力によって、様々な計算をなさなければいけない。

 このシーズン、ここまで一点も取られていない直史。

 ノーアウトからランナーを出しても、二塁にまで進まれなければ、得点の確率は低い。

 アウトカウント一つを取れば、二塁にまで進めてしまってもいい。

 スチールをしかけてくるのは、直史のクイックと樋口の肩を考えれば、勝算はあまりない。

 だいたいこの試合、ここで一点を取られても、既に趨勢は決まっている。

 ただ直史が失点して、記録が途切れるというもったいないことになるだけだ。


 ノーアウトから打順は先頭にもどり、そして直史のボールにも当ててくる。

 上手くバウンドさせて、内野ゴロにはしたが、二塁でアウトは取れない。

 一塁に送ってアウトで、ここからすぐに三塁にも投げる。

 二塁に到達したランナーが、わずかに三塁を窺う様子を見せたからだ。

 しかしそんな甘さは、アナハイムの守備陣にはない。


 これでワンナウト二塁。

 ヒットが出れば当たりによっては、ランナーが帰ってくる。

 内野の間を抜けていく、ボテボテとした打球であれば、むしろ好都合。

 ここは三振か内野フライで、アウトを取りたい。


 確率的に言うならば、ここで直史が打たせて取っても、ヒットになる可能性は低い。

 ランナーが三塁まで進めば、それはまた得点のチャンスが増えるだろうが。

 ただ冷静に状況を見てみれば、別にヒットを打たれてもいいのだ。

 それで一点が返ったところで、何が変わるというのか。

 直史からも点は取れるのだ、という当たり前の事実が確認される。

 常識的に考えて、それはおかしなことではない。

 去年もレギュラーシーズンにポストシーズン、点を取られているのだから。


 ただバックを守るアナハイムの野手陣としては、それは面白い話ではない。

 内野安打で出たランナーに、ホームベースを踏まれてしまうこと。

 直史の自責点ならばともかく、守備のミスが存在する。

 一点もやりたくないのは、むしろアナハイムの野手であったろう。




 樋口としては、長期的な展望から、ここで一点も取られたくない。

 直史が投げたら負ける、と他のチームには思わせている。

 だがそれに加えて、一点も取れないという絶望。

 あくまで点を取られていないのは、運の良さによるものだと、直史も樋口も分かっている。

 エラーと内野を抜けていくゴロ安打、そして進塁打までが加われば、一点ぐらいは取られるものだ。

 それでも出来れば、一転も取られたくないというのは、直史の魔法の一つだ。


 この試合にただ勝つより、そちらの方が重要なのだ。

 なのでここは、三振か内野フライが望ましい。

 しかしトローリーズは、上位打線である。

 どうにかこうにか当てる程度なら、そこそこ粘れるバッターは多いと思う。

(内野ゴロでも、上手く左に打たせれば、二塁ランナーを牽制してから、一塁でアウトを取れるか)

 ポテンヒットの可能性を、樋口は心配したのである。


 単純な進塁打になってしまっても、それでもうツーアウト。

 確かにランナーが三塁にいるというのは、ツーアウトからでも点が取れる可能性は高い。

 だがそれは、キャッチャーの技量が左右する値だ。

 直史としては樋口のリードに、何も文句を言うつもりはない。


 ゴロを打たせる。

 そのために必要なのは、沈む球だ。

 スルーを投げて、それを右方向のゴロとして打たれる。

 勢いは弱いものであったが、打球はまさに懸念していたコースを通った。

 ライト前へのヒットになる。

 そして二塁ランナーは、三塁を回っていた。

 ライトもやや前に守っていたので、タイミング的には難しいのではないか。

 それでもトローリーズは、ここで一点を取りにきた。


 心理的な立場を、直史も樋口も分かっていなかったと言えよう。

 今のトローリーズは大介の件で、完全にアウェイでの試合が苦しくなっている。

 だからここで負けてでも、直史からは一点を取りたかったのだ。

 その一点はただの一点ではなく、呪縛を解くための一点になる。

(けれどタイミング的にはアウトだぞ)

 アナハイムのライトは、三塁へのタッチアップを防ぐ役目もあるため、それなりの強肩である。

 しかし三塁を回ったランナーの動きに、やや焦りが出てしまったのは確かだろう。

 ホームベースよりやや前に出て、コリジョンルールに抵触しないようにする樋口。

 そこでワンバウンドながら、ライトのバックホームのボールが戻ってきた。


 高く遠くへ投げるより、強く低く投げた方が、ボールは早く到着する。

 しかし一度地面に接触することにより、バウンドが変わってしまうことはある。

 樋口はミットを伸ばしたが、体が泳いでしまった。

 そして捕球したと同時に、ランナーも視界に入っていた。

 まっすぐにホームを目指す、問題のない進塁のルートであった。


 不充分な体勢の樋口に、ランナーは激突する。

 そこからランナーはホームベースに触りにいくが、審判のコールはアウト。

 送球の乱れによる、走塁妨害と取られてもおかしくなかったが、樋口の動きは完全にボールをキャッチするものであった。

 そして激突されても、ボールを落としてはいない。

 判定としてはアウトなのである。


 樋口に激突する、と思えたランナーの方は、残念そうに起き上がる。

 これで一点は取れなかったのだ。

 しかし激突された樋口の方は、起き上がることが出来ない。

 マウンドからカバーに入っていた直史が、一番近いのでそれに駆け寄る。

 ランナーの方は二塁まで進んでいたが、そこで止まる。

 ツーアウト二塁で、まだトローリーズに得点のチャンスは残っている。

 だがアナハイムにとって、重要なのはそちらではなかった。


 あの衝撃の中でも、樋口はボールを落とさなかった。

 だが肉体がそれに耐えられたかというと、そういうわけではない。

 執念による失点の阻止であるが、左半身にランナーは当たってきた。

 右半身でなくてよかった、と頭の中ではまだ冷静な部分があるが、激突した左肩の痛みは、危険信号を鳴らしている。

(優先順位を間違えた)

 樋口はここで、絶対に怪我をしてはいけなかった。

 キャッチャーとしての能力もそうだが、アナハイムの弱くなった打線の二番打者として。

 だがこの左肩は、ちょっと何かが切れるような音がしていた。


 九回の裏、ツーアウト二塁。

 五点差であるのだから、直史に失点がついたとしても、もっと優先すべきことはあったのだ。

 樋口が離脱しては、アナハイムは崩壊する。

(終わった……)

「すまん」

 痛みの中から、覗き込んでくる直史に、樋口はそう声をかける。

 それが何に対する謝罪かは、直史にはよく分かっていた。


 単純な骨折なら、まだ可能性はあっただろう。

 だがこれは違うな、と樋口にははっきりと分かった。

 樋口の今シーズンは、おそらく終わった。

 それはつまり、アナハイムの戦力の崩壊をも意味するのであった。

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