第10話 無人の尖兵
違う、あれは獣じゃないし、生物ですらない。
ガソリンがなければ動かないただの道具だ。
だが、知っているはずのおれでもまるで生物に見えるくらい、そのバイクには意思や、血が通った動きがあった。
肉食動物に狙われているようだと錯覚してしまうくらいに。
「プリムム!?」
バイクの近くの木に身を隠すプリムムは、拾った石ころを手に持つ。
おれと目が合うと、
「わたしが気を散らすから、二人はそこからすぐに逃げて!」
つまり囮になるのだと言う。
だが、当然だがそうなると危険がプリムムに集中する。
それを知って、黙って任せられるわけがない。
「違うプリムムッ、そいつは亜獣でも生物でもない、気を引く戦略が――」
効くわけがない、そう言い切る前に、バイクの方に動きがあった。
しかし気づけば視界から消えていた。音を頼りに目線を上げれば、高速回転する前輪が目の前に見えた。
顔に触れれば皮膚の全てを持っていかれそうな……、本能的な予感が体をぞっとさせる。
っ、と息が詰まったと思えば、呼吸がままならない。
なぜならたった数秒だが、水中に沈んでいたからだ。
プリムムがいた向こう岸に上がって理解したのは、決死の覚悟でセイナンがおれを引きずり、川に飛び込んだのだ。
おれたちは全身ずぶ濡れになっていた。意図せず飲んだ水を吐き出しながら、
「セイ、ナン……っ、川の、魚は……ッ」
「うん、大丈夫。なんとか傷は抑えられたよ」
それは無傷ではないことを意味している。セイナンが手の平で押さえている自分の右腕……、押さえた指の隙間から滴る赤い血があった。
地面を掘るくらいの強い顎で噛み付かれれば、セイナンの肉など簡単に抉り取れる。
駆け寄ってきたプリムムがセイナンの傷を見る。うっ、と顔をしかめたことで腕の傷の酷さが分かった。
腰のポーチを探るプリムム……、持っている治療道具で対応できればいいが……。
「無理ね、血を止めるくらいしかできないわ」
「それでいいよ。これくらいの傷、なんてことないしね」
「ふざけないで。顔を真っ青にして言ったそのセリフを信じられるとでも思うの?」
道具が足りない。だが、できることはある。
包帯を巻いて止血する。今だけは、とりあえずそれで間に合うはずだ。
「……あんたが、見つけなかったら――」
プリムムは誰にも聞かせないつもりで、思わず呟いたのだろう。
言った本人がハッとしていた。だからこそ本音であると分かった。
彼女の言う『あんた』が、おれだというのはすぐに理解できる。
タイヤ痕を見つけなければ。調べようとしなければ。今頃はもっと先へ進んでいたはずだ。
バイクと遭遇することもなかったかもしれない。だが、もしもの話だ――おれが調べなくともバイクには遭遇していたかもしれない。
でも、セイナンが怪我をしなかった未来があったと思えば、そこに至るまでの行動を『しなければ良かった』と思うのは仕方がない。
おれさえいなければ。
…………、おれは、セイナンから視線をはずし、自立するバイクを見る。
おれを仕留めようとして失敗したバイクは、鰐の巨体を足場に、おれたちへ、強力な
人のように、目が向いていても、僅かに視線のずれがある。
細かい機微も分かるようになり、ライトの大半はおれたちに向けられていても、あくまでもメインは、プリムムだった。
――狙いはプリムムか。
予想通りに、バイクはタイヤを回して、水面を道として走り抜けた。
水面と地面の段差で体を跳ね上げ、前輪が上へ向く。
プリムムが、自分が狙われていると分かった上で、おれたちとは逆側へ避けようとした。
だが遅かった。上へ向いていたバイクの前輪が、急速度で下へ向く。
重心が前方へ移動したような……、構えた斧が振り下ろされたイメージだった。
森に似合わないエンジン音が、自然の音をかき消す。
プリムムは横ではなく、咄嗟に後退したために、バイクの攻撃範囲から逃れられた。
彼女は今、腰を抜かしてしまっている。
そこは前輪の上下可動範囲内ではないが、前後可動範囲内ではある。
バイクが直進すれば、プリムムは正面から受け止めることになる。
「こっちを、向けっ!」
セイナンが石ころを拾って投げる。バイクのボディに当たったが、ダメージになっているとは考えられない。……どころか意識さえもセイナンに向けようとしなかった。
規則的なエンジン音が変化する。
発進の前兆だった。――間に合うか!?
横からプリムムに飛びついて転がり、バイクの突進をギリギリで躱す。
受け身が取れず、おれもプリムムも地面に身を削られたが、仕方がない。
あのままバイクのタイヤに巻き込まれるよりは、全然マシだ。
「――なんで逃げないんだよ!」
「腰が、抜けちゃって……っ!」
足に力が入らないようで、おれが体を支えても、プリムムの膝は力なく崩れてしまう。
直進したバイクは森の奥で折り返し、こちらへ向かってくる。
……どうする、動けないプリムムを背負って逃げる……? 二手に分かれるか?
プリムムが狙われているなら、二手に分かれる意味はない。おれが逃げ延びるという意味であれば達成できるが、する必要もないのだし。
その時だった。
バイクのライトがおれに向いた。
標的がプリムムからおれに変わったのだ。
「……よし」
これでプリムムを放置しても大丈夫だろう。…………しかし、本当に?
行動に移す前に、一つ、気になることがあった。バイクの標的の選び方だ。
亜獣のように動く獲物を、視界に入ったから襲っているものだと思っていたが、違うようだ。
初めから振り返ってみれば、まずおれを狙い、次にプリムムを狙い……、そしておれにこうして狙いが戻ってきた。
セイナンは一度も狙われていない。
ここまでそう時間も経っていないためかもしれないが……。
距離、か。バイクと距離が近い者から狙われる……。確かにおれは今、プリムムを庇うように前に出ている。だが一番最初、おれが狙われた時、一番近くにいたのはプリムムだった。
木に隠れていたとは言え……、
いや、ライトが視界だとすれば、可能性もあるのか?
そもそも、なんでおれが狙われたんだ? バイクに意思があり、突発的におれを狙いたいのだと思った、と言われてしまえばそれまでだが。……たぶん、違う。
人間の道具による呪い……確か、アナベルだったはず。
隣のプリムムに、以前、話してくれた亜人街での事件のことを聞いた。
「……詳細って言われても、あの時に話した以上のことはないわよ」
「アナベルはあくまでもルール内で作動するもので、アナベル自体に意思が宿るわけではないんだよね?」
「ええ、そうだけど……、待って、絶対にそうとは言い切れないわよ? というか、一体なにをしようとして――」
「ありがとう」
プリムムの質問には答えず、得た前提から考え始めると、答えはすぐに見つかった。
プリムムの肩に手を触れ、離す。するとバイクの狙いがプリムムに移動し、再びおれがプリムムに触れて離すと、眩しいライトがおれの方を向く。……推測が確信に変わった。
「セイナンは狙われていなかったわけじゃない。
狙われていた期間が短いからそう感じていただけなんだ」
目印のようなものがあったのだ。
それを一番最初に持っていたのは、死体になった鰐の亜獣だ。
そこに着地したセイナンと、彼女の肩に手をかけたおれ。
バイクに殺され、持ったままになっていた鰐にあった目印はセイナンに移動し、さらにおれへと移動した。だから亜獣の上でおれがまず狙われたのだ。
川へ飛び込み、岸へ上がった時点では、セイナンに目印が渡っていた。包帯による止血をおこなった際に、プリムムへ目印が移動した。
セイナンが石ころを投げても反応しなかったのは、恐らくバイクには、目印になった相手しか見えていないのだ。その目印だけが頼りなのだろう。
そして、目印はおれとプリムムを行ったり来たりし、最終的におれが持っている。
バイクはおれしか狙うことができない。
……覚悟は決まった。
「おれの命で二人が助かるなら、安いものだろ」
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