泣桜

かえさん小説堂

泣桜

 ―ああ、美しい。


 その光景を目にすると、どんなに雄弁な人でも思わず言葉を忘れてしまう。それまでに…ああ。


 かく言う己も、その言葉を失った一人らしい。物書きである己が言葉を失うなど、あってはならぬことだ。己は、その瞬間、生きる術を失ってしまうも当然なのだ。それなのに、ああ、なぜだろうか。


 己は、しばらく棒のように、つっ立っていて、己の腕に小さな蝿が止まってようやく、意識を取り戻した。圧巻だった。

 幸福と云っても足りぬ、喜びと云っても足りぬ……。己は、それを現す言葉を持ち合わせていなかった。いや、恐らく、どんな辞書をめくっても、これにふさわしい言葉など、出てくるはずがなかった。


 そう思うと己は、カッと焼けそうなくらいに顔を赤らめた。急いで、隠すように、手帳と万年筆をしまいこんだ。自分の小ささや愚かさが、ありありと見せつけられているようだった。しかも、それは他者に嘲笑されることも、ましてや、慰めてくれることもなかったのである。自信家の己をも、そう思わされた。


 これは、実際に見た者にしかわからぬ感情であろう。己の足りぬ言葉で云うならば、そう…大地のような力強さがあり、硝子細工のような繊細さがあり、日のような温かさ、幼子のようなあどけなさがあり…ああ、駄目だ。

 何を云っても物足りぬ。ふつふつと言葉は出てくるのにどれも足りない。違うような気がしてくる。最早、これを表せる者など無いのではないか。かの先人たちも、容易には言葉にはできまい。人智を超えた存在…不意に、そんな意識がわいてきた。


 その桜は満開の時をすぎ、もう何枚かが、はらはらと散っていた。薄紅色の花が、まるで青空に溶けていくかのような優しさが、そこにあった。夢でもみているようだ。



 ふと、己の隣を、もう六十を超えているだろう老爺が、ふらふらとした足取りで、桜の方に向かっていくのが見えた。その老爺は、己の方をちらちらと見ると、何か物言いたげな、哀れむような表情をした。


 何だ…。老爺は、またふらふらとした足取りで桜に向かっている。


 急に夢から覚めたようだった。この老爺が入りこむだけで、あっけらかんとした、美と醜という矛盾が生じた。やはり桜は変わらず美しいが、老爺はそのせいで、もっとみすぼらしく見えた。己は、いても立ってもいられなくなり、


「如何しましたか」


 と、なるべく優しく声をかけた。速くそこを退いてくれ。己の感動が冷めやらぬうちに。


 老爺は、もう聞いているのか聞いていないのかすらわからない眼を、しょぼしょぼとこすり、「何ですかいの」と、しゃがれた声で返事をした。


「いえ、ふらついていたものですから、心配になりまして。お手を貸しましょうか」


 己は優しい笑みをうかべていった。


 本当は老いぼれの手など、握るどころか触ることもしたくないのだが、桜を美しくあらせるためだ。背に腹は代えられない、という思いで、己は数歩、老爺に歩みよった。老爺は、しゃがれた声で、


「いんや、ちぃと足が悪いだけよ。心配には及びませんで…」

「いや、いや、それはいけません。もし転んでもしたら、どうなさるのです。や、私が見る限り、足が相当お悪いようだ。やはり私がお手を貸しましょう。何なら、お家まで送りましょうね」


 己が早口でそう云うと、老爺は何を思ったか、にんまりと口の端をつり上げて、こう云った。


「お前さんは、あの桜がたいそうお気に入りのようじゃな」


 ぎゃう、と、己は手を強く握った。この老いぼれは、己の内心を知っているのだ。わかっているのだ。それなのに、こいつはこの桜の前から、己の前から消えない。己は無性に腹が立った。しかし、老爺は、己の内心とは裏腹に、うんうんとうなずきながら、にんまりと笑った。


「ええ、ええ、そうだろうとも。誰もがあれを見れば、我をを忘れることだろう。」

「……」

「しかし、お前さんは、あれが何かわかっていない。あれが単なる桜だと、ほんに思うかえ」


 己は黙っていた。桜についての話は聞きたいと思ったが、どうせ長々と説教されるにきまっている。老人の説教は長い。何か云って話を長引かせることは、避けたいところだ。


 老爺は、黙りこくる己を見、しゃがれた声で続けた。


「あれは、なぁ。泣桜と云うてな。桜は、ほんに美しいが、桜自身は、哀しんで、いつも涙を流しておるのよ。」

「まさか」


 己は苦笑して云った。


「あれだけ美しいんだ。桜が涙を流す? 己には、そうはみえないですがね」

「いんや、桜は泣いておるのよ」


 老爺が首を振る。己はさらに強く手を握りしめた。


「あれにはな、苦しんだ人間どもが集まってくるのよ。借金やら、駆け落ちやら…そんなのでな。そうして、決まって、そういうやつらが、あの桜で首を吊るのよ」


 己は目を見開いた。握った手も、思わずゆるむ。まさか、あんなに美しいものが、自殺になんてものに使われていただなんて。


 老爺は続けた。


「あの桜で首を吊った者たちは、誰かが降ろして、そうして桜のもとに埋めるのよ。腐敗した肉は、桜の養分になるからなあ。…けんど、桜はやはり、哀しいみたいだ」


 そう云った老爺は、どこか遠くを見つめるようにして桜に目を向けた。


 ―あの美しさは、命だったのだ。失われた命が、桜と一体化して放たれる、光だったのだ。そう思うと、夢のようにぼんやりしていた桜が、急に鮮明に見えてきた。

 一枚、また一枚と、散りゆく花が、青空に飛び立っていくようだ。


 泣桜。


 そうか。お前は、命を咲かせていたのだな。


 己がふと隣を見ると、そこに老爺の姿はなく、代わりに、一枚の花弁が、そこにふんわりと降り立っていた。


 己は一人で赤面していた。そして、散りゆく泣桜の姿を、とりとめもなくみつめていた。

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泣桜 かえさん小説堂 @kaesan-kamosirenai

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