5


「これ書いてほしいの」

 呼び出された先は病院だった。待合に座るほーさんは、ツヨシを見つけると同時に立ち上がり、一枚の紙を突きつけた。「人工妊娠中絶に関する同意書」と書かれた紙は、エアコンの風にゆれるほど薄い。

「ごめん、本当に。お礼に、何でもするから」

 ほーさんは、暗い目をしていた。いらないと言われていたのに、今日、突然必要だと言われたこと。今日中に同意を得られなければ、妊娠期間の関係で、もうおろせなくなること。他の誰にも頼れなかったこと。何にも関係ないのに、申し訳ないということ。

「本当に必要なの?」

 押印欄を見つめながら、ツヨシは食い下がった。ほーさんへの気持ちは、まだまとまっていなかった。それ以前に、この紙に本名を書くことにひどく抵抗があった。ほーさんはくちびるを噛みしめて答えない。

 ツヨシは受付に座る女性に声をかけた。少々お待ちください、との声のあとに出てきたのは、中年の男性だった。

「法律上はね、まあ、いらないっていうように考えることもできるんですが」

 男性は視線を合わせずに早口で言った。

「ただまあ、あなたも自分のお子さんがね、勝手にその流されたとかいうと、あとから、ああやっぱりなあ、って思うことも、あるかもしれないということで」

「あの、どういうことですか?」

「つまりねえ」

 焦れたように男性は眼鏡を押し上げる。

「納得してくださいよ、ということです。いるんですよ、たまに。俺の子どもを殺しやがって、って、病院を訴えるかたが。こっちだって、別にやりたくてやってるわけじゃないんですけどね。ともかく、そういう痴情のもつれみたいなものをね、こっちに向けられたらたまらんわけですよ。だからこうした形で、一度は納得しましたよ、と合意をいただけると、まあお互いにすれ違いもないわけです」

 ともかく、うちの決まりなので。そう言って、話は終わりだというように男性はドアの向こうに消えていく。ほーさんは、力なく椅子に座ったまま動かない。

 女の人は守られている。専用の車両も、専門の病院もある。ツヨシは、パステルピンクで統一された待合室を見渡した。ぽつりぽつりと座っている女性は、みんなじっとうつむいて動かない。女性は、守られるべき存在で、守られてしかるべきだ。

 それは、何から?

 ほーさんの隣に座ろうとすると、すかさず「男性は立ってお待ちください」と声をかけられる。外に行こう。ほーさんは低い声で言って、振り返りもせず自動ドアをくぐる。

 よく晴れて、けれど風のつめたい午後だった。びゅう、と吹く北風に、ほーさんが体を震わせる。ツヨシはジャケットを脱いで差し出した。ほーさんは受け取らない。

「相手、どんなひとなの」

 全部めんどうくさくなって、ツヨシはジャケットを着直すと、入り口前に置かれたベンチに座った。デリカシーのない問いかけだったけど、自分には聞く権利があると思った。雨風にさらされた椅子が、ぎい、と音を立てる。ほーさんは動かない。

「知らない」

「え?」

「記憶にないの。気づいたらホテルにいたし」

「付き合ってたんじゃないの?」

「この生活始めてから付き合った人いないよ」

 もし彼氏がいたら、さすがに一緒に暮らせないって。ほーさんは、まるで当然とばかりにおかしそうに笑う。

「けど、ときどき誰かと一緒にいたじゃん」

「一緒に飲んでただけだよ。たまたま飲み屋で会って、意気投合して。別に、男の人だけと飲んでたわけでもないんだよ」

 ほーさんがさみしそうに言う。私はただ、いろんな人と話してみたかっただけなんだよ。これまで閉じた世界にいた分、たくさんの人生を聞いてみたかっただけなんだ、と。

「朝まで帰ってこなかったのは?」

「オールで飲んでたり、途中で解散になったあと、お酒抜けるまでマックで寝てたりとか」

「車、戻ってくればよかったのに」

「酒臭い人間と一緒に寝られる?」

 言葉につまる。要は、未成年で、かつ車を運転できなくなるからと真面目に飲酒を控えてきたツヨシに、遠慮したんだろう。

「記憶にないって、酔っぱらってってこと?」

 気を取り直して、ツヨシは訊ねた。「それで、連絡先聞かなかったとか?」

「うーん、というか、しゃべった覚えもないっていうか」

「は?」

「一人で飲んでたら、なんかすごく眠くなって、気づいたらベッドのうえというか。相手の顔も見てないって言うか」

 何を言っているか分からなかった。だって、子どもじゃない。いい歳の成人女性が、そんな誘拐みたいなものに巻き込まれる?

「それって、犯罪じゃん」

「そうそう。でも、お金は無事でね。よかったんだけど、警察行ったら、金品取られてないなら合意だったんじゃない? って」

 だから、いっそ盗んでくれた方がよかったかな。ほーさんはあっけらかんとそう言った。

「すぐ病院いこうと思ったんだけど、保険もなかったし、お金もなかったし。迷ってるうちにこんなになっちゃって。失敗したよね」

 そういうことだったのか。ツヨシは、これまでの自分の勘違いを呪った。ほーさんが産みたいと思うわけもないはずだ。徒労感が全身を覆う。同時に、隣で寝起きしていた相手が、知らない間に犯罪に巻き込まれていたことに背筋が寒くなる。

「言ってくれればよかったのに」

「言ったら、何か変わった?」

「そりゃ、そうだよ。子どものことだって、もっと納得できたし、協力できたし」

 ほーさんは小首を傾げた。本気で分からない、というようだった。

「私の問題に、君の納得は必要?」

 ツヨシは言葉に詰まった。ほーさんはすぐにへらっと笑みを浮かべ、「まあでも、結局、同意書たのんでるし、必要か」とうつむいた。

「でも私は、付き合っている人との子どもでも、産む気はなかったよ」

「なんで?」

「まだ自分の人生、生ききってないから」

 びゅう、と風が吹いて、ほーさんのパーカーを揺らした。さすがに寒くなったのか、顔をしかめたほーさんはツヨシの隣に座る。

「人間として生まれてない、ってやつね、ムカつくけど、でもそうかも、って思って」

「それはさ、でも、子どもいたってさ」

「もちろん、産んでみたら楽しかったとか、生きがいになったとか、そういうことがたくさんあるのも知ってる。けど、それでも私は、自分一人の人生をもう少し生きてみたいの。だから、子どもも彼氏もいらない」

 ひとりがいい、というほーさんを、ツヨシは不思議な気持ちで見つめた。

「ほーさんは、変わってるね」

「そうかな?」

「そうだよ。女の人なのに男が必要ないんだ」

 ずっと、女の人のために生きろと言われてきた。「女の人は弱いんだから、守ってあげられるような男の子になってね」箸の持ち方より先に、母にそう教わった。ありがとうと言われるのはうれしくて、いつしかそれが当たり前になっていた。女性は弱いから、困ったことがあれば男の人が助けてあげなきゃいけないし、寂しがりだから傍にいてあげなきゃいけないし、子どもを産み育てなきゃいけないから、男が支えてあげなきゃいけないと思っていた。窮屈で、ときどき叫び出したいくらい重たくて、けれどツヨシがいると安心、と言われるたびに、ほっとした。存在価値を決められているのは、しんどくて、楽だった。

「だいたいの女の人は、本当は、ひとりでも生きていけるよ」

 ほーさんは当たり前のように言った。少しさみしくて、けれどだいぶほっとするような気持ちで、ツヨシはその言葉を聞いた。

「紙、かして」

「……いいの?」

「うん。ほーさんに恩売れるの、もうないかもしれないし」

 バインダーに挟まっていたボールペンをノックして、ツヨシは自分の本名を綴っていく。

「恩なら、もう十分もらってるよ」

 顔をあげると、ほーさんは困ったように眉を下げる。

「だって、一度も手出さなかったじゃん」

「……俺が、そういう目的でほーさんと一緒にいたって、思ってたの?」

「まあ、少しはね」

 視線を合わせず頷くほーさんに、ツヨシは正直、かなり傷ついた。

「寝っ屁するようなやつにときめかないよ」

 傷ついたことを隠すように、あえておどけて言えば、ほーさんは苦く笑った。

「あれね。ごめん。わざと」

「え?」

「ああすれば多少、萎えるかなって」

 最後の一文字がぶれる。紙に穴が空きそうなほど、力が入ってしまった。

「そういうのさ」

 ツヨシは息を深く吸った。

「そういうのが、嫌だったのかもしれない。本当は、ずっと」

 男だから、女の人の体を触りたいでしょ。違うの? じゃあ、男が好きなんでしょ。

 虫は平気でしょ。

 下ネタ好きでしょ。

 強いでしょ。働けるでしょ。稼げるでしょ。

 バカでタフで優しい男の子。だから、私たち、安心できるわ。

 そういうのが嫌で、全部捨ててしまった。逃げてしまった。でも逃げた自分ももう嫌で、そんなときに、ほーさんと出会った。資格がないという思いがあった。ほーさんに触らなかったのは、思いやりとか理性とかじゃなくて、ただ、男という役割から逃げた自分にそんなこと、許されるわけないと思いがあった。

「なるほどね」

 バインダーを受け取って、ほーさんは自分の名前を書いていく。思いがけずきれいな字で、ほーさんの本名を知った。

「でも、あなたが理想の男じゃなかったから、私は救われたよ」

 私に触らずに、私を助けてくれて、ありがとう。命を奪う契約書を胸に抱えて、ほーさんは静かに笑った。

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