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「ほーちゃん、今日も休み?」

 店長がとげとげした声で電話を受けている。搬入された商品を移動させながら、ツヨシは新商品のマリなんとかが三百円もすることに驚く。ツヨシの昼食三回分だ。

「悪いんだけど、このまま夜までいける?」

 形ばかりの確認の裏には、姉の不始末をとれ、と言う本音が透けていた。コンビニとも商店ともつかないこの店で、ツヨシたちは複雑な家庭の姉弟というていで働いている。

「いいすよ」

「悪いね。でも困るなあ、こんな休まれちゃうと。何のための臨時採用だかわかんないよ」

 白い庁舎から帰って一週間後、ほーさんはまず、コインランドリーで乾かした洗濯物の匂いがダメになった。ふかふかになったブランケットを持ち帰ると、口を手で覆って、ドアを開けたすき間からげえげえ吐く。仕方なく車の屋根で乾かしたタオルは、やっぱりどこか生臭い。つわり、という言葉を聞いたことはあったけれど、こんなに人を苦しめるものだとは思わなかった。ツヨシは初めて、ほーさんから食べきれないおにぎりをもらった。

 休む理由は当然言えない。即戦力じゃないバイトは、そもそも必要とされていない。毎日のように吐いて、ほとんど水しか飲んでいないほーさんは、それでもすぐ復帰するからと言ってきかない。彼女を止める権利も、そしてカバーするだけの懐の余裕もない。

 店長は、たのむよ、と言って、休まずツヨシの隣で品出しを始めた。悪い人ではないのだ。一緒に菓子パンを補充しながら、ツヨシは思う。欠勤にもっと怒り狂う店長はいたし、バイトにすべてを丸投げして、ミスや遅れを小姑よろしくねちねち指摘する店長もいた。

「寝てきたらどうっすか? 店長こそ、昨日から入りっぱなしでしょ」

「はは、ありがとう。そんな心配してくれるの、ツヨシくんだけだよ」

「奥さんだって心配してるんじゃないすか?」

 ないない、と店長は首を振った。

「もっと稼いで来いって、もうかんかん」

 昔は優しい子だったのに、と店長は肩を落とす。その優しいってのが、そもそもウソだったんじゃないか、と女きょうだいに囲まれたツヨシは思うが、口に出すことはない。

「その点、ほーちゃんはいいよね。ちょっとぼんやりしてるけど、モテるのも分かるよ」

「あの人、モテるんすか?」

「モテるよ、知らないの?」

 行きつけのスナックに連れていったら、そこの常連のおっさん全員めろめろでさあ。店長は口元をゆるませて笑う。やっぱりと思う気持ちと、不思議に思う気持ちが交じり合う。

 突然の妊娠報告をすぐ受け入れられるくらいには、ほーさんの夜遊びを知っていた。でもいざモテると聞くと、首をひねりたくなってしまう。笑うと目が糸のように細くなるほーさんは愛嬌があるけれど、手元のパンの包装に描かれた、数学教師の描くグラフみたいに整ったアイドルの顔とは似ても似つかない。

「ああいうね、なんでも許してくれそうな子っていうのは、顔があれでもモテるんだよ」

 ツヨシくんも、おっさんになったら分かるって。店長の言葉は、真っ先に彼女ができた同級生や、仲間内で一番にセックスを経験した友達と同じ、一段上から語り掛けるような響きがあった。新作のゲームを一番に手に入れたヤツや、SNSでバズったヤツの自慢話より、少しだけ暴力と服従の気配が濃い響きに、ツヨシはいつもとまどう。

「この子のほうがよっぽど、かわいいと思うっすけどね」なんとなく同意するのが嫌で、ツヨシはパンを棚に押し込む。店長は、いつか分かるよ、と笑った。

「おっと、こんな話してると、小森さんに怒られちゃうな」

 もうすぐ来る遅番のバイトは女性だった。店長は肩をすくめ、腰に手をあて立ち上がる。

「でもさ、これくらい許してほしいよね。女のために働いてるんだから、女で癒させてくれよって、思っちゃうよね、ちょっとだけね」

 帰りがけ、ほーさんに何か差し入れようかとドラッグストアに寄った。たくさん吐いてるから、スポーツドリンクがいるかな。冷えピタは、熱じゃないから要らないし、おかゆなら、食べられるんだろうか? レジに向かう途中、薬棚が目に入った。頭痛。下痢。くしゃみ鼻水。当たり前のことだけど、つわりのコーナーはどこにもない。


 好物のメロンパンを、結局ほーさんはふたくちしか食べられなかった。

「ごめんね、せっかく買ってきてくれたのに」

 ぐったりとパンを抱えるほーさんの手から、袋を取り上げる。食べかけ、ごめん。ツヨシは気にせず、歯型の残るパンをかじった。誰かれ構わずひとくちを奪い合っていたツヨシは、食べかけを貰うのだってむしろラッキーな気分だけれど、ほーさんにとっては、大変下品なことみたいだ。ほーさんは、かなり家族力の強い家にいたんだと、きれいに整った歯並びを見ながら思う。前に箸の持ち方を褒めたとき、居心地の悪そうな顔をしていたから、あえていうことはないけれど。

 だからジーパンをスカートに履き替えて、ぼさぼさの眉毛を整えて、口周りのうぶ毛をなんとかすれば、実はけっこう、お嬢様にも見えるんじゃないかとツヨシは思う。

 店長の言うモテるうんぬんは分からなかったけれど、ほーさんが夜飲み歩いて帰ってこないことはめずらしくなかったし、知らない男の人と連れ立って歩いているのを見かけたことも、片手じゃ足りない。そのうちのどれが本命で、子どもの父親なのかは知らない。そんなことをしているから、こんなハメになるんだと思わなくもない。でも正直、気の合う相手を見つけて、車を降りるねと言い出すのを待っていたところだってある。

 ほーさんとの旅は楽しかったけれど、この状況が普通ではないことを、ツヨシは十分に自覚していた。それなりの歳の女の人と、血縁関係も、肉体関係も、恋愛感情もない自分が一緒にいることに、ときおり罪を犯しているのではないかと思うくらい、落ち着かない気分になった。かといって、彼女の車を、わざとではないとはいえ壊してしまった負い目もあるし、スペアのタイヤを返せと言われたら困ってしまう。ツヨシにできるのは、ただ彼女がこの生活に飽きて、出ていくなり出ていけなり言い出すのを待つことだけだった。

 暗い車内で、ほーさんはスマホから目を離さない。相手と連絡をとっているのだろう。例の支援団体から援助を受けられないと知ってから、ほーさんはこうして、スマホを眺めることが多くなった。休んだら? と勧めるツヨシに、ほーさんは首を振る。「ぼんやりしてたら、産まれちゃうもん」

 ツヨシは男で、たぶん死ぬまで、自分の体から子どもを産むことはない。女の人と肌を合わせた経験もまだないから、妊娠という現象は、冥王星が太陽系の惑星から外されたニュースくらい、遠い出来事だった。だから、こういうときに何をするべきなのか、想像がつかない。保健体育の授業は、配られたコンドームで水風船をつくったやつらが正座させられたことしか覚えていない。

 産婦人科病院のサイトを見るのは、アダルト動画のURLを開くよりも緊張した。子どもをおろすには、手術が必要らしい。てっきり、薬か何かで出すのかと思っていた。手術費用をおそるおそる開くと、思ったより高くなかった。けれど、とてもすぐには出せない。少なくとも、ツヨシの靴底貯金では到底足りない。あてはあるんだろうか。もしほーさんに泣きつかれたとき、自分は何ができる?

 週数によって手術の方法も金額も違う。場合によっては、同意書なんてのも必要らしい。後遺症の欄で指が止まる。出血。吐き気。そして精神症状。PTSD。うつ。運転席から体をひねって、後部座席を見る。ほーさんはお腹を守るように、体を縮めて眠っている。

 相手が分からないから、家もお金もないから、本人がそう言ったから。だから産まないのだと、産みたくないのだと思っていた。けれどそれは、ほーさんの本心なんだろうか?

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