パーキングエリアで生まれたい

湾野

1

 ほーさんはソフトクリームと答えた。

「冬でも?」

「冬でも」

「寒くない?」

「それがいいんじゃん」

 ソフトクリームはね、家じゃ食べられないでしょ、とほーさんは言った。「うちは自然志向っていうか、クッキーとか全部、手作りだったのね。だから、子どもっぽいけど、人生最後に食べるならソフトクリームがいいな」

 そういう君はどうなの。訊ねられて、ツヨシは大根おろしと答えた。

 大根おろしは家族力が強い家にしかないの、と言ったのは一番上の姉だと思う。

「お金があって、大根が余ってる家とか、お母さんがずっと家にいて、午後三時くらいからその日の夕食の仕込みを始める家とか、あとはお父さんとかおじいちゃんとかがいる家じゃないと、出てこないものなの。うちは大根の葉っぱも食べるくらいだし、お母さんはずっと外で、お父さんもおじいちゃんもいないでしょ? だから、ないわけ」

 その話に、ほーさんは声をあげて笑った。

「家族力っていうか、家族演技力、かもね」

 サンマが不漁で高騰している、というニュースをラジオで聞いて、そんなことを思い出す。運転席から窓の外を見遣ると、顔をふせ、逃げるように建物に入っていく母子の後ろ姿があった。三十分まで無料のこの駐車場に車を停めて、長針はすでに二回まわっている。いい加減、路駐にするべきか。心もとない懐事情に悩む。豆腐に金網を押し付けたような合同庁舎の壁には、パステルカラーのポスターが貼ってある。

『ひとりで悩まないで 妊娠サポート』

 子どもできたかも、と告げられたときの気持ちとしては、「そろそろアルバムでも聞いてみるかと思っていたアイドルの妊娠報道」が一番近い。だから、続けて「とはいっても産むつもりないし。安心して」と言われたときの気分は、「すわ引退かと思われたアイドルが、子どもを諦めてまでアイドル継続宣言」といった感じだ。こちらとしてはうれしくなくもないけれど、本当にそれでいいのか? と思わずにはいられない。

 でも、ほーさんは周到だった。すぐに女性支援の団体とやらに連絡をとり、あっという間に相談の約束を取り付けてしまった。何かをしてほしいとか、助けてほしいとか、そういうつもりは一切なさそうだった。いくら自分の子ではないといっても、ただ隣でおろおろしているのは、やるべき義務を放棄しているような居心地が悪い。女きょうだいに囲まれて育たせいで、何かを察しないといけないという強迫観念を植え付けられている。

 ほーさん、大丈夫かな。ポスターを見ながら、ツヨシは建物に消えていった小さな背中を思い出す。ひとりで悩まないで、と書かれたまるっこい文字の下にはコウノトリらしき鳥がいて、その下で妊婦と女性が手をつないでいる。そのどこにも、男はいない。

 

 ほーさんが戻ってきたのは、それから針が反対側を指した頃だった。

「お待たせえ」

 助手席にすべりこみながら、ほとんど息だけでそう言ったほーさんの姿は、一回りも二回りも小さくなったように見えた。

「どうだった?」

 ラジオをつけるか迷って、結局やめた手をハンドルに戻しながら、ツヨシは何気ない風を装って訊いた。帰宅ラッシュの始まった夕方六時の国道は、じれったいほど進まない。

「うん、まあ。なんていうか、すぐに、ってのは、ちょっと難しいんだって」

「難しい」

「そう、むずかしい」

 こんなに気まずいのは、母の仕事中に姉が彼氏を連れ込んだとき以来かもしれない。

 トイレを出た後、どれだけ早く電気を消せるかに命を懸けている長女と、おやつの最後のひとつをかっさらうのが得意な次女と、一度も自分でゴミ出しをしたことがない妹だった。そこに、引き算の繰り下がりはできないけれど、愛想の良さだけでパートをもぎ取ってくる母をくわえて、ラベンダーの芳香剤を置いた築五十年の2DKにまとめて押し込むと、十八年過ごした家ができあがる。

 家族とは、家を出てからというもの、一度も連絡をとっていない。

「というか、あそこ、そもそも、若い子用だったっていうか。要は、十五の母みたいな、そんな感じのあれだったらしくて」

「うん」

「だから、まあ、当然お金だって人だって無限じゃないし、だから、考えてみないって」

「つまり、金がないから産んでってこと?」

 あんまりな結論に、思わずストレートな言葉がすべり出る。やばい、と思ったけれど、ほーさんはどこか胸のつかえがとれたように、言いすぎ、と苦笑していた。

「まあでも、仕方ないよね。となりのブースの子、十三って言ってたし」

 お金も稼げないよね、さすがに、十三じゃ。ほーさんはつぶやいた。まるで大人になればお金が稼げるみたいだ。現実は、大人になるほど出費ばかり増えることを、もう知っている。ほーさんは、今年で三十二になるらしい。

 ほーさんと出会ったのは、パーキングエリアの駐車場だった。

 季節外れの雪雲が去るまで、と立ち寄ったパーキングエリアは空いていた。近くに他の車がないことにほっとしながら端っこに車を停めて、寝て起きたときには、みぞれの凝った白い塊がフロントガラスを覆っていた。

 それでも日差しは照っていて、この分なら昼には全部とけるだろう、と体を青空の下で伸ばしているとき、後輪に釘が刺さっていることに気づいた。就職に必要だから、と家の貯金を切り崩して買った軽自動車は、不人気のオレンジ、ナビなし、車検も期限が近くって、当然、スペアタイヤもついてなかった。

「パンク?」

 そんなとき、声をかけてきたのがほーさんだった。「私も、車が動かなくなっちゃって。みて、色も一緒」

 同じ形の車は、まるで双子みたいに隣り合って停まっていた。全然気づかなかった。ほーさんは自分の車の不調を調べながら、同じ車のツヨシのことを気にしていたという。

「スペアのタイヤ、あげるよ。代わりに、ちょっと見てくれない?」

 カバの口みたいに開いたボンネットをのぞき込む。内臓みたいに入り組んだ配管を前に、ツヨシたちは指先を真っ黒にしながら悩んだ。

「やっぱ、これじゃない?」

 ほーさんがレバーを引く。力を込めるようにうーんと言って、諦める。「やるよ」ツヨシは自然にそう言っていた。瓶詰が開かないときは、自分の役割だった。レバーを強く引くと、ぱきんと乾いた音が鳴った。さっと血の気が引いて、じわりと漏れたなんらかの液体に指先が濡れる。これ、ヤバいんじゃないか。あーあ。隣でほーさんがつぶやいた。

 そうやって始まったほーさんとの共同車中生活は、意外なほど快適だった。免許を取ってまだ半月も経たないツヨシにとって、一緒に車線変更に立ち向かってくれる人の存在は、どんな相手でもありがたかった。ほーさんは姉や妹のように、香水や制汗剤の匂いを振りまくこともなかったし、どこでも寝られたし、何でも食べた。初日に停めたさびれた山の展望台で、爆睡しながらブッと屁をこいた(しかもツヨシの方に尻を向けてだ)彼女に、緊張はあっという間に霧散した。

 三十過ぎて、バツイチで、車中生活を始めたというほーさんは、十九年生きただけのツヨシの理解を超えていた。「人間になりたかったの」ツヨシよりひと月だけ早くこの生活をはじめた理由を、ほーさんはそう語った。「ろくに働いたことがないの。私、この歳で。ずっと実家で、すぐ結婚しちゃったから。だから離婚して、すぐ教習所いって、その間はじめてコンビニでバイトして、慰謝料と合わせて車買って、出てきたの」

 ツヨシの周りは、高校に通いながらバイトしているヤツばかりで、自分もその一人だ。絶滅危惧種じゃん。思わずそう言ったら、ほーさんは声をあげて笑った。

「ちゃんと働いたことのない私は、人間として生まれてすらないんだって。前の夫が言ってた。だから色々教えてね、先輩」

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