生きてりゃあいいさ深泥池

和之

第1話 異動命令

 駅の改札を抜けて表の北山通りに出ると、車内の冷房で体内に蓄えた冷気を払いけるように蒸し暑い空気が、一気に体を舐め回すようにひつこく付き纏いだした。車内は冷房が効いていただけにさっきが天国ならここは地獄か。その地獄があの山裾まで続くとなるとゾッとした。しかも歩き出すとにわかにもくもくと湧き出した雲は、完全に天空の色まで替えてしまった。

 七月の初め頃は例年ならまだしとしと降る所謂いわゆる梅雨の中休みの季節なのに、梅雨明け間近に迫るほどの大雨が降り出した。それこそ天地を揺り起こす土砂降りだった。丁度、彼、倉島くらしまは京都の山裾にある療養所を訪ねて此の天災の豪雨に遭った。それは凄い梅雨末期に似た最後のあがきのような豪雨だ。

 あがきと言えばあいつ水木だ。俺は本当はあいつがここに来るはずだった。それがどう言う訳か上司が急に俺に療養に行けと薦められた。勿論何の予備知識も無く、まして初めて訊く療養所だった。いったいそこへどうして俺が行くのか、入社して間もない者に判るはずもない。

 貨物専用の鉄道会社に入った倉島が思い当たるのは数週間前に起こった列車事故だ。あれは運転手の水木がポイント切り替えの信号を見落としたから起こった列車事故だ。この春に入社して間もない倉島はまだ表向きは運転助手だが、時々運転を任されることはあっても、何もない区間で信号のある構内をまだ走ることは無かった。だが会社から此の脱線事故についてどう言う訳か「お前は過敏すぎて神経衰弱になったらしいから暫く内の会社が指定する保養所へ行け」と強制では無いにしても、新入社員の彼には答えようがなく従った。いや、従わざるを得なかった。

 そこで何の説明もない上司に代わって従業員休憩所で一年先輩に説明を求めた。彼曰く内の会社へ入ると先ず実際の列車を運転する前には先ずあの山奥で療養するらしいが、先輩はまだそこには行ってなかった。つまりその年は欠員が出来て間に合わ無かったらしい。だが今年に至っては減便で欠員も出ないから即ちゆとり教育の一環らしい。

 だから俺はどう言う話の内容なのか知らないが、古株に訊いてやると言われて仕入れて来た情報に基づくとこう言う事だ。

 列車の運行に携わる者はたとえ保線員でも気の緩みは許されない。少しでも不審な行動に気付けば精神療養を求められる。だからそこに行かされるのは他言無用で非社交的な者が選ばれる。即ち俺みたいな調子の良い人間は人選されない。そこへいくとお前へのように無口で付き合いの悪い人間にご指名が掛かる。それは褒められてはいないがバカにもされてないのだろうか。まあ取りようによっては世間から爪弾つまはじき状態だから二つとも当たっているだろう。

 そこまで言われればもう到底判らんを通り越して矢張りバカにされていると確信できる。それでもいったい何の療養だと訊ねても埒があかない、どうも会社の基本方針らしい。だから倉島のような口の堅い、何を考えているのか解らんちょっと変わった人間が行かされるらしい。

 俺の何処が変わっていると云うのかと憤慨してみても彼には答えようがない。もしそうだとすれば人の人格をそんな風に勝手に決め付けるのが余りにも腹立たしい。

 昼間の従業員休憩所で持参の弁当を食べている社員が、席を立った彼の話を聞いて後を引き継いだ。

「いやあそこは社員の保養施設みたいなもんですから」

「じゃあ誰が、どんな人が行くんですか」

「神経衰弱に掛かった人には本当に落ち着いた場所ですから」

「ハア? 誰が神経衰弱なんですか少なくともあたしにはそんな兆候はありませんよ」

「確かにあなたには外見上はそうかも知れないが何か思い当たる節は無いんですか」

「何もありませんよ普通に毎日を過ごしてますけれど」

「そう言う人はそう言いたがるんですよそれがもう既に病気の兆候なんですよ」

 嫌な男だ、どう説明すれば潔白が証明されるのか。

 まあこれだけは医者のさじ加減一つで診断が下されまかすから。そうなると先ずは医師の人選から気を配らないと先輩に言われたが至って気にしていない。そんな訳で会社からとうとう暫く行ってこいと異動命令が出た。


 地下鉄を降りて直ぐだと聞かされていたが、行けども行けども着かないから道に迷ったかと戸惑う。確かにややこしい場所に建っている。

 だから此の施設は地元の古老から聞くまでは知らなかった。なんせこの辺りは昔は一面が田んぼで此の施設だけが山裾にポツンと建っていたそうだ。それが次々と宅地に変わり、歯の抜けた櫛のように田畑が点在しているから、今では此の施設の謂われを知る人は殆どいなかった。

 なんせ此の土砂降りの中を歩くのは千日回峰に似た苦行だ。まして仏心の無い倉島には御利益も無い。止むまで待つか、いやそれでは遅刻する。待てよタイムカードはあるのか有るわけないわなあ。精神の保養施設らしいからそんな物があれば保養にならない。

 この土砂降りの中をそんな訳で雨宿りする所も無く、これも修行の一環と諦めてやっと池のほとりに辿り着いた。目指す施設はこの池の向こう側だが、山裾にコンクリート製の学校の校舎に似た横に長く伸びた建物が、岸辺の木々の間から見えてホットした。振り返ると池の淵から二十メートルぐらいの所にバス停の標識を見つけて唖然とした。バスならここまで来るのか、それじゃあここまでの苦行は何だと思った瞬間にショックに陥った。


 

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