徘徊

あべせい

徘徊



 交番を訪れる50代の男性。シャレたブランドのショルダーバッグを肩から下げている。

「ごめんください」

 机で書き物をしていた30代の警官が、ペンを置いて顔をあげる。

「はい。何か?」

「家内がこちらに伺っていないでしょうか?」

「ご婦人ですか。きょうはまだ……」

 警官、立ちあがり、

「どうぞ。お掛けください」

 と言い、折り畳んで壁に立てかけてあったパイプ椅子を自身の前に据えて勧めた。

「ありがとうございます。では、遠慮なく……」

 男性は腰掛けると、煙草を取り出し火を点ける。

「すいません。ここは禁煙にさせていただいております」

 警官、机の抽斗から金属製の灰皿を出して、男性の前に置く。

「ありがとう」

 男性はうまそうに煙草を吸い続ける。

「あのォ、禁煙なンです。このなかは……」

 警官はそう言って、灰皿をさらに男性のほうに押しやる。

「これはどうも……」

 警官の警告は男性には通じないようだ。

「煙草をこの灰皿に捨ててくださいッ」

 警官の強い口調に、男性は初めて、警官の顔をよく見た。

「キミ、ぼくのこと、わからないの?」

「エッ?」

 警官も、初めて男性の顔をよく見た。

「ぼくだよ。高校時代、一緒に尾瀬に行ったじゃないですか」

「高校時代、尾瀬ですか?」

 警官はガラス窓の外を見て、思い出そうとする。しかし……。

「失礼ですが、高校はどちらですか?」

 警官の初めての問いに、煙草の男性は不意を食らったように首を傾げる。

 警官はその間に、男性の指の間から煙草をもぎとり、灰皿のなかでもみ消す。

「ぼくの高校は大阪の……」

 警官は遮り、

「それでは高校が違います。私は東京ですから……」

「東京ですか」

「何かのお間違いです」

 警官は何かを感じ取り、抽斗から黒い厚紙の表紙で閉じた書類を取り出した。

 表紙には「不審者記録簿」とある。

「運転免許証はお持ちですか?」

「ぼくは運転をしません」

「では、ご住所を伺わせてください」

 警官はボールペンを持ち、男性を見つめる.

「取り調べですか?」

 男性は、ぐったりしたようすで肩を落とす。

「お名前は?」

「名前ならあります。えーと……」

 警官は、胸ポケットの名札を示し、

「私は、柿旗(かきはた)といいます」

「柿旗さんね。ぼくは、渋木(しぶき)です。そうだ渋木。こどもの頃、『天竜下れば、貴様がかかる』って、よくバカにされました」

 警官、首をひねり、

「天竜下れば、しぶきがかかる……あァ、そういうことですか。渋木、何とおっしゃいますか?」

「エッ?」

「下のお名前です。私は、柿旗勝太郎と言います」

「ぼくは、渋木……エー、渋木……渋木天竜です!」

「渋木天竜? 本当ですか?」

「本当も何も。天竜下れば、渋木、って言われていたンです。さっき、言ったでしょう。だから、こどもの頃、親を恨みました」

 柿旗は、渋木の目を覗くように見た。

 この男、正気なのだろうか。

「渋木さん。さきほど、この交番に入って来られたとき、奥さんがどうのこうの、とおっしゃっておられたでしょう」

 渋木に反応はない。

「奥さんとここで待ち合わせておられたのですか?」

 渋木は、右手の指を見ている。

 まもなく、挟んでいた煙草が、目の前の灰皿に押しつぶされていることに気がついたのか、渋い顔になった。

「渋木さん、いい加減にしてください!」

 柿旗が苛立ったように大声を上げた。

「エッ?」

 渋木が不思議そうに、柿旗を見た。

「あなたの奥さんですよ。渋木さん、奥さんを探しておられるンでしょう?」

 柿旗の問いに、渋木は突然ニッコリして言った。

「家内が逃げだしたンです。それで弱ってしまって……」

「携帯電話をお持ちじゃないのですか?」

「携帯電話はあります」

 渋木はそう言って、バッグを開いて、いわゆるガラ系の携帯電話を取り出した。

「奥さんの携帯です。奥さんは同じような電話をお持ちじゃないのですか?」

「も、持っています。でも、番号を知らない」

「なにをバカなことを言っているンですか」

 柿旗は腹立たしいと言わんばかりに、渋木の携帯をもぎとって開いた。アドレス画面を見ていく。

「奥さんのお名前は?」

「渋木、千史夜(ちしよ)……」

「千史夜さん……」

 柿旗は、携帯のアドレス張を繰っている。

「シブキチシヨ、シブキチシヨ、シブキチシヨ……ない! あなた、奥さんの携帯番号も入力していないンですか」

 と、そこへ、

「あらッ」

 柿旗が顔をあげると、ハッとするような美形の女が立っている。

 渋木も振り返り、声を発した。

「キミ、どうした?」

 女性は交番の敷居を跨ぎ、中に入った。

「あなたこそ、どうして?」

 そう問い返した女性に、柿旗が問い掛ける。

「渋木さんの、お嬢さんですか?」

 すると、女性は当然のように言った。

「妻です」

「エッ……」

 柿旗は唖然となった。

 女性はどう見ても、30代前半の若さだ。対して、渋木は50代。年の差夫婦といえば、それまでだが、いまだ独身の柿旗にとっては、こんな若くて魅力的な女性が、こんなうすぼんやりした男と結婚する理由が理解できない。

 柿旗は急におもしろくなくなった。警官なンかしていることが、バカらしくなった。

 もともと彼は、憧れて警官になったわけではない。正義感に燃えるタイプでもない。どちらかといえば、長いものには巻かれろというタイプ。

 柿旗が警視庁の警察官採用に応募したのは、民間の会社に勤めていた父親が倒産の憂き目に遭い、「公務員になれ」としつこく言ったことが、大きかった。

「渋木さん、奥さんがお見えです」

 柿旗は立ちあがり、渋木の肩を叩いて帰るように促す。

 しかし、渋木は動かない。女性に背中を向けたままだ。

「彼女は、家内なンかではない」

 柿旗は驚いて、女性を見た。

 女性は慌てるそぶり。しかし、初めてではないのか、すぐに、

「あなたッ、何を言うの」

 女性は険しい視線で、渋木の背を見つめた。

「失礼ですが、お名前は?」

 柿旗が尋ねた。

 女性は戸惑いがちに、

「渋木、麻李江(まりえ)です」

「麻李江さん? お名前が違うようです」

 柿旗は、麻李江を怪しむ。

 警官の職業意識がむくむくと立ちあがった。

「違うって、何をおっしゃっているのですか。このひとは認知症だから。こうして探していたンです」

「ニンチですか。この方が……」

 見かけは、そうは思えない。しかし、言うことは確かに、ところどころおかしい。

 柿旗は、対峙するように麻李江を見た。

「千史夜さんはご存知ですか?」

「千史夜さんは、夫の前の奥さんです。亡くなられて、1年になります」

 柿旗は納得した。

 渋木は亡くなった前妻がまだ生きていると錯覚している。これが認知症なのだ。

 柿旗は、念のため、渋木の住所と麻李江の携帯番号を聞き取った。


 交番には、「巡回連絡カード」というものがある。交番の管轄内にある近隣住人の、家族構成や緊急連絡先を記した文書だ。

 交番勤務の警察官は、定期的に近隣の住宅を巡回して、連絡カードに不備や変更がないか、チェックする。

 柿旗は10日後の交番勤務の日、巡回連絡カードをもって、渋木宅を訪れた。

 連絡カードには、渋木家の家族構成として、「渋木天竜」「渋木千史夜」の名前は記されていたが、妻と名乗った「麻李江」の名はなかった。

 もっとも、渋木家の連絡カードが記載されたのは、2年も前のこと。麻李江が言うように再婚していてもおかしくない。

 渋木の家は、築40年は経っていると思われる古びた民家だった。

 以前は農家だったらしく寄せ棟の瓦屋根で、敷地は5百坪ほどもある。

 大谷石を使った頑丈そうな門柱の間を抜け、チューリップや百合などの球根の花で縁取られた幅2メートルほどの石畳を行くと、右にガレージ、左に2階建ての母屋が見える。

 奥には、釣瓶が吊り下げられた井戸もある。柿旗がパトロールするとき、掃除が行き届き、庭もこまめに手入れされているのに、人は見かけたことがないため、いつも気になっていた。

「ごめんください」

 柿旗は、インターホンを押すと同時にそう声を掛けた。

 すぐに女性の声で応答があったため、柿旗は言った。

「柿旗と申します」

 まもなく、曇りガラスの入った格子の引き戸が開いた。

「あらッ、お巡りさん……」

 麻李江が明るい笑顔で現れ、柿旗を見つめた。

 白いブラウスに柿色のスカート、ピンクのエプロンを締めている。

「近くまでパトロールに来ましたので、ちょっと寄らせていただきました。その後、ご主人にお変わりはありませんか?」

「おかげさまで。中にお入りになりませんか。いま、主人を呼びます……」

 柿旗は、麻李江の如才ないふりまいに、改めて彼女への思いを募らせた。

 心の底では、麻李江と話ができることに、幸運以上のものを感じた。

 柿旗は麻李江のあとについて廊下を進み、中庭に面した10畳の居間に入った。

 麻李江に勧められるまま、中央の座卓に向かって腰を落ち着けていると、一旦消えた麻李江がお茶をもって現れ、柿旗の真向かいに座った。

 柿旗は、麻李江を正面に見て、10日前と何かが違うと感じた。麻李江は以前にも増して魅力的なのだが、目が異様にキラキラと輝いている。

「ご主人は?」

 柿旗は、麻李江の視線を外すようにして尋ねた。

「庭のほうにいるはずですが……」

「そうですか。では、ご挨拶して……」

 と言って、柿旗が立ちあがろうとした。

「それは、ちょっと……」

 麻李江は、険しい顔をして伸びあがると、柿旗の手を握って座らせた。

「エッ?」

「いま、主人を連れてまいります。こちらでお待ちください」

 麻李江は廊下に消えた。

 そのとき柿旗は、麻李江に握られた手の感触に卑猥なものを感じ、慌てて打ち消した。

 麻李江はなかなか戻ってこなかった。

 20分近くたってから、麻李江は車椅子を押して現れた。車椅子には、驚いたことに渋木が腰掛けている。

 渋木は交番を訪れたとき、足腰はしっかりしていた。どうしてだ。しかし、……。

 柿旗は、麻李江の感情に従順になろうとしている自分に気がついた。こんなことは許されない。そうは思っても、一度起きた感情はどうしようもない。

「奥さん。ご主人は、怪我でもされたのですか?」

 柿旗は車椅子に近寄り、渋木を見た。

 渋木は目を閉じている。眠っているようだ。

「階段を降りるとき、足を挫いてしまって。歩きたくないというので、仕方なく車椅子を使っています」

 麻李江は笑顔を絶やさず話す。

 柿旗には、彼女のことばを悪くとる理由が見当たらない。

 そのとき電話の呼び出し音が鳴った。

「失礼します」

 麻李江は、車椅子のブレーキをロックして立ち去った。

 柿旗の記憶では、渋木家の固定電話は、玄関から数歩進んだ階段の上がり口にあった。

 まもなく、麻李江が受話器に向かって話している声が聞こえた。

「そうですか。そういうことでしたら、これからすぐにうかがいます」

 麻李江は戻ってくると、急な用件で出かけなければならなくなったと告げた。

 訪問者は、当然辞すべきところだ。

 しかし、柿旗は言った。

「もう少し、おうかがいしたいことがありますので、お差し支えなければ、お帰りになるまで待たせていただきたいのですが……」

 麻李江は一瞬、戸惑ったようすだったが、

「ではどうぞ。できるだけ早く戻ります」

 と言い、エプロンを外して出て行った。

 柿旗は麻李江が外出したのを確かめると、渋木のそばに行き、膝を折った。

「渋木さん。もう、いいですよ」

 柿旗のことばに、渋木がうな垂れていた頭を上げた。

「行きましたか?」

「計画通りです」

 柿旗はそう答えて、渋木の反応を待った。

 3日前、赤塚署の警邏課に、柿旗に名指しで電話があった。

 渋木だった。用件は、麻李江が渋木の成年後見人になろうとして、書類を集めている。それを阻止したいというものだった。

 柿旗は、判断能力がないという医師の診断書がない限り、誰であっても本人の意思に反して後見人にはなれないはずだと話した。

 すると、渋木は、

「最近、いつも寝ている感じで、1日中頭がぼんやりしています」

 と訴えた。

 さらに、

「睡眠導入剤を飲まされているようなンです。きょうは、それでその疑いがあるミルクをこっそり捨て、こうして電話をかけています」

 と話した。

 渋木が麻李江と再婚したのは半年前。

 千史夜が亡くなって5ヵ月後だった。

 麻李江は当初、千史夜の通いのヘルパーとして渋木家にやって来ていた。

 千史夜は脳梗塞で倒れ、退院後は自宅で寝たり起きたりの生活だった。麻李江はよく気がつき、要領もよく、千史夜の求めにそつなく応えた。

 渋木は麻李江に満足した。しかし、千史夜が2度目の発作を起こして入院し、回復の見込みがないと宣告されると、渋木を見る麻李江の目に変化が表れた。

 それまでは個人的な感情は一切出さなかったのだが、病床の千史夜を見舞った帰りに、渋木が運転する車の助手席に乗り、自宅まで送って欲しいと頼むことが多くなった。

 麻李江が、夫を早く亡くし、28才で未亡人になったと打ち明けたのも、そんな車の中だった。

 しかし、渋木は冷静だった。

 麻李江のマンションの前に車を止め、麻李江が「おやすみなさい」と言って手を伸ばしてきたときも、その手を握ることはなかった。

 渋木は、妖艶な麻李江の体から、危険な香りを感じ取っていたのだろう。それなのに、千史夜が亡くなり、その葬儀を済ませた夜、渋木は麻李江と関係を持った。

 ふだん余り飲まない酒に酔ったせいもある。

 喪服のネクタイを緩め、くつろいでいた渋木のいる居間に、帰ったと思っていた麻李江が現れ、「長い間、お世話になりました」

 そう言って、畳に両手をつき、深々と頭を下げた。

 渋木が、

「明日から、どうされるンですか?」

 問うと、麻李江は薄く笑って、

「また、別のお宅にうかがうだけです」

 と答えた。

 そのとき渋木は、麻李江の体に吸い込まれるたのように、

「お別れに、少し飲みませんか」

 と言った。

 麻李江は拒否しなかった。

 大人の男と女だ。それだけで終わる関係でよかった。しかし、渋木は責任を強く感じて求婚した。

 渋木の持つ資産は、親から引き継いだ土地と家屋、他人に貸している小さなアパートとわずかな畑だ。しかし、駅から近く、便利がいいことから、時価にすると、全資産は数億円の価値があった。

 麻李江は、その資産を狙っている。渋木はそう考えている。

 成年後見人になれば、渋木に代わって不動産の売却も可能だ。渋木自身は認知症とはほど遠いと考えているが、麻李江は彼を認知症に仕立てようとしているのではないか。

 渋木は柿旗との電話で、麻李江の犯罪の証拠を掴んで欲しいと訴えた。このままでは、近い将来、身に危険が及ぶ、という。

 柿旗は承知して、交番勤務のこの日、立ち寄ると答えていた。

 麻李江が出かけたのは、銀行からの電話だった。

 柿旗は、麻李江がこっそり、渋木の預金を自分の口座に移し替えていると言う渋木のことばを確かめるため、一計を案じた。

 すなわち、柿旗が仕事で口をきいたことがある渋木家の取引銀行の行員に事情を話し、彼に銀行口座の不備をつくってもらい、麻李江を銀行に呼び出させたのだ。

「奥さんは30分もすれば帰ってきますよ」

 柿旗は、急ぐ必要を感じていた。

 渋木は柿旗を書斎に案内して、200キロはありそうな古びた大型金庫を見せた。

 ダイヤルを合わせ、さらにキーを使わなければ開かない。渋木は車椅子から降りると、何度かダイヤルを回した後、首から吊り下げているカギを使って、金庫の扉を開け、中から預金通帳5冊を取り出した。

 柿旗は渋木に代わって、その5冊を手にとり、中を見ていった。

 渋木は再婚してから、5冊の通帳からは一度も引き出したことはないと言う。渋木の言う通り、通帳は5冊とも、1円の出金もない。

 5冊の通帳の残高合計は、ざっと計算して1臆3千万円! 柿旗は、内心ドキドキした。こんなことをして、いいのか。

「渋木さん、これで安心されたでしょう。彼女は、信頼できる奥さんです」

「でも、柿旗さん。それなら、どうしてぼくを認知症に仕立てようとするのですか。睡眠薬まで用意して。ぼくのホームドクターも、彼女に騙され、彼女の意のままにクスリを処方している」

 渋木が麻李江との再婚を後悔したのは、3ヵ月ほど前のことだ。

 麻李江は渋木の書斎から、千史夜の写真をはじめ、千史夜の形見と思われる品々を見つけると、渋木に無断で処分していた。

 衣類、バッグ、靴などは仕方ない。渋木はそう思った。しかし、離別ではない、死別なのだ。千史夜との思い出の品を、なぜ断りもなしに捨てるのか。

 麻李江に対する不信感が決定的になったのは、金庫のダイヤルに無数の傷跡を発見したときだ。財産が狙われている。渋木はそう確信した。

 渋木が死ねば、遺産はすべて麻李江にいく。結婚と同時に、渋木は3千万円の生命保険にも加入している。事故で死ぬ場合だってある。命を狙われないためには、認知症のふりをすればいい。渋木は単純にそう考えた。

 夫が認知症なら、麻李江は成年後見人制度を利用して後見人になり、自由に資産を処分する道を選ぶだろう。敢えて、危険な方法をとる必要はない。しかし、医師から認知症と診断されれば、麻李江の思う壷だ。医師は麻李江のいいなりだろうから。認知症と診断されないよう工夫する必要がある。

 まず、医師の診察は受けない。いろいろ口実を設けて、診察は拒否する。時間を稼ぐのだ。そして、離婚できるようにもっていく。結婚半年なら、財産分与も少しで済む。

 渋木はここまで考え、柿旗に相談した。

 麻李江と離婚することはできるのか。離婚理由のもっとも一般的なものは不倫だが、麻李江の場合それは余り期待できない。渋木のホームドクターとの不倫を立証する道もあるが、性に淡白な麻李江が医師に体を許しているとは思えない。

 次に、資産の乗っ取り。麻李江が渋木の資産を密かに我が物としている証拠を掴むことだ。そこで渋木は麻李江名義で貸し金庫を借り、そこに1千万円分の宝石類を預けた。5日前のことだ。

「柿旗さん。私は、いまでは、千史夜は麻李江に殺されたのではないかと疑っています。病床の千史夜の付き添いをしていた麻李江になら、そのチャンスはいくらもあったと思います」

 渋木は車椅子に戻ると、昔を思い出すように言った。

「渋木さん。そういう考えはよくない。あなたは麻李江さんを選んで結婚したのでしょう」

 そのとき、玄関ドアが開く音が聞こえた。

 柿旗は麻李江との約束を思い出す。

 10日前、渋木と麻李江が交番を訪れた日の夕、柿旗が本署に戻ろうとしてその日の報告書を書いていると、再び麻李江が交番に現れた。

「柿旗さん。失礼ですが……」

 柿旗の名前は、彼の胸の名札を見たのだろう。

「こんど交番には、いつおいでになりますか?」

「どうして、ですか?」

 当然の疑問だが、こんな人妻に関心をもってもらえたことに、柿旗は心中、穏やかでないものを感じた。

「夫にきょうのようなことがあったら、またご迷惑をおかけすると思いまして……」

 麻李江が問い掛ける理由など、どうでもよかった。

 柿旗は、3日おきに交番勤務があることを伝えた。また、会えるという希望を抱いて。

 すると、次の次の交番勤務の日、昼過ぎだった。

 麻李江が心底疲れたようすで交番に現れ、夫が暴力をふるうようになった、と訴えた。

 半袖のシャツから出ている二の腕が赤く染まっている。そして、柿旗の目を見つめて、

「明日、夫のことで、ご相談に乗っていただけないでしょうか?」

 と言った。

 交番勤務の翌日は非番であることを知っていたのかも知れない。柿旗は承知した。内心、こんなことがあっていいのか、と思いながら。

 そして、翌日の夜、2人はシティホテルのラウンジで食事をし、さらに同じフロアのバーで飲んだ。

 麻李江は言った。夫に暴力をふるわれて反撃して、深手を負わせた場合、罪になるのか、と。

 前日、麻李江は二の腕が赤く腫れたのは、夫の腕を払いのけようとしたためだと明かした。

 柿旗は答えた。正当防衛が認められる。例え、それがもとで亡くなっても。

 麻李江は、柿旗の手をとり、

「そのときは、証人になってください」

 と言った。

 それだけだ。

 2人はホテルの外で別れた。

 麻李江は、

「こんどお会いするときは、もっとゆっくりお話したい……」

 と言い、ねっとりした視線を送り、タクシーに乗って消えた。

 柿旗の期待は徒労に終わったが、まだ始まったばかりだ、と考えを切り換えた。

 一昨日、柿旗の携帯に麻李江から電話があった。

「こんどうちの近所をパトロールなさるとき、是非立ち寄ってください。わたし、とんでもないことをしそうで……。そのときは、きっと、わたしを止めてください、ね……」

 と言った。哀願するように。

 玄関から、小走りにやってくる足音がする。

 麻李江だ。居間に現れた麻李江の顔は血相が変わっている。手に、包丁をもって腰に構えている。

「あなたッ! わたしがあなたのお金を盗んでいる、ってどういうことですか! わたしは妻でしょう。夫のお金を管理することはいけないことですか。もし、不服なら、殺してください。さァ、ここに包丁があります」

 麻李江はそう言うと、戸惑う渋木に包丁を握らせた。

 どうしてこういうことになるのか。柿旗は混乱した。しかし、刃物は取り除かなければ。警察官の職務を全うしなければ。

 柿旗は、渋木の手の中にある包丁に手を伸ばした。

 と、麻李江が、

「お巡りさん、なにをするンですか! あなたは、わたしに色目を使って。邪魔になった夫を殺すつもりですか。そう、きっとそうです。こんな昼間に勝手にあがりこんで。人殺し!」

 声を限りに叫んだ。

 柿旗は、考える。

 渋木を刺せば、麻李江は喜ぶだろう。おれは、麻李江を自由にできる。渋木の死は、麻李江が夫から包丁を奪い取って、夫を刺した結果にすればいい。

 柿旗は、麻李江の肉感的な体臭を全身で嗅ぎ取りながら、朦朧としていく自分を快く感じていた。

                (了)

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徘徊 あべせい @abesei

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