第21話 昭和台中市~老松町、敷島町今昔:製酒工場のお膝元

 時は2019年、中興大學の院で修士論文に取り組んでいる羅蜜容は、あちこちで撮った虎爺の写真をフェイスブックにアップしているアカウント「AMAO」をフォロー、メッセージでの遣り取りを重ね、一緒に虎爺巡りをすることになります。

 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第四作『無可名狀之物』で、初対面な二人の待ち合わせ場所となるのは、長春福徳廟。臺中駅南側エリアに存在し、日本時代では敷島町通の四丁目沿い。この通りの二、三丁目部分には製酒工場があり、大正3年(1914年)にできたこの工場は高砂町の製糖工場とともに駅南側の発展を促す存在でした。


 今は文創園區になっているため、恐らく初対面の場としてこの製酒工場に隣接する長春福徳廟を選んだ阿貓は、蜜容とリアルで会って意気投合できた場合でもいまいちだった場合でも、製酒工場に行けばそれなりに楽しく過ごせて気まずくなく別れられそうだと思ったのではないでしょうか。

 大正3年、この地に製酒工場を作ったのは、赤司初太郎さん。このため、工場の初めの名前は「赤司製酒場」だった、と言われています。しかしこの赤司製酒という会社は、森川静太郎さんという人が作った森川製酒を初太郎さんが引き継いだ会社です。

 森川静太郎さんは雲林の斗六に森川製酒工場を設け、その原料を初太郎さんが調達していました。森川さんの会社はその後、台中、彰化、嘉義、屏東にも工場を設けますが、大正3年6月に森川さんは工場でのボイラー爆発事故で亡くなりました。このため、森川さんの会社を初太郎さんが引き継いだのです。森川さんの事故死も台中工場の設置も、大正3年6月。このため台中工場は恐らく建設段階では「森川製酒場」だったのではないでしょうか。

 赤司製酒はその後、台灣製酒株式會社を買収し、大正5年に「大正製酒株式會社」を設立します。斗六、台中、彰化、嘉義、屏東、そして北港に工場を構えた大会社でした(このうち嘉義の工場はこの台中工場とほぼ同じ歴史を辿って、今ではやはり文創園區になっています)。台中の工場はこれ以降「大正製酒株式會社臺中工場」になります。

 大正11年(1922年)、總督府專賣局が酒類の専売制度を実施したことで、当時台湾にあった二百余りの民間製酒工場は全て操業を停止しました。幸い、初太郎さんはこの情報を事前に入手。彰化工場を閉鎖し、屏東工場は売却することで事業規模を縮小していたため、あまりダメージはなかったようです。

 專賣局は台湾全土の酒工場の中から、設備の整っている工場を幾つかピックアップし、接収します。めでたく、という言うべきなのか、初太郎さんの斗六、台中、嘉義、北港の四工場は全て接収対象になり、台中工場は「專賣局臺中酒工廠」と名を変えました。


 初太郎さんは弘園閣の江頭八重吉さんと同じく、軍属として台湾へ渡った人であり、陸軍の御用商人として数々の企業で社長を務めていました。アルコールが軍需物資だったことを考えると、専売計画についても陸軍コネクションで事前情報が得られたのかも知れません。

 この後、初太郎さんは日本に引き揚げて渋谷に居を構え、台湾企業と国内企業の社長を掛け持ちで勤め続け、昭和19年(1944年)に亡くなると多磨霊園に葬られました。昭和15年(1940年)からは「東京發動機株式會社(今のトーハツ)」の社長になっているので、陸軍との蜜月関係は台湾から去った後も続いていたようです。


 専売工場となった製酒工場の傍には臺中專賣支局が置かれ、大正15年(1926年)からは專賣局臺中支局と改称しています。

 戦後になると工場は國民党政府によって再び接収され、「台灣省公賣第五酒廠」となりました。工場の敷地内には構内神社として松尾神社が設けられていましたが、この接収時に取り壊されています(跡地は従業員事務所になりましたが境内に植えられていた木々は残され、今では園區内のほぼ中央に位置する小さな緑地になっています)。

 そして1988年に製酒工場の機能が台中市郊外の大肚區にある台中工業區へ移転したことで、この工場は稼働を停止。残された工場建築などは2002年に歴史建築に指定され、その後文創園區として整備されて今に到っています(なお大肚區の工場も、現役の工場としての工場見学が可能です)。


 工場の入り口部分、老松町通(復興路三段)は臺中駅前の櫻町通が大正橋通を越えて名を変えたもの。線路沿いの老松町通は製酒工場の門前町でもあり、日本時代の臺中駅南側エリアでは、櫻町と並んで商店や病院の多い場所でもありました。昭和6年(1931年)には六丁目に「老松町駅」も開業しています。

 都市計画によると老松町から有明町に掛けてはそれぞれ九丁目までの開発が予定されていました。日本時代に老松町と敷島町については八丁目部分までブロックが設けられています。これは老松町駅の開業に後押しされたものでしたが、ガソリンカーしか停車しなかったこの駅は、第二次大戦が始まるとガソリン不足でガソリンカー運行が次々に廃止される中、昭和17年(1942年)に廃駅となりました。


 また、敷島町一丁目には昭和7年(1932年)に「櫻町消費市場」が移転してきます。当初櫻町通一丁目沿いにできたこの市場は、昭和3年(1928年からは同じブロック内の線路寄りに引っ込むこととなって、消費者に不便を強いていました。このため敷島町へ移って「敷島町消費市場」と改称したのです。

 昭和7年の移転時に建てられた切妻屋根型の建物は、当時のまま一切改変されていないことが判明し、保存と修復が決定しました。戦後は市場内部に媽祖様を祀る玉聖宮が設けられ、仮設店舗の増設も二度に亘って行われています。

 そして日本時代、この市場に隣接して建っていたのが「臺中市公共浴場」。

 暑い台湾ではもちろん行水の習慣はあったのですが、家に浴室が設けられているケースは少なく、衛生観念が発達した後でも浴室の後付けは困難でした。このため市営の銭湯が大正12年(1923年)に建てられ7月から供用されます。瓦葺きの木造平屋建てで、一部が煉瓦造。残っている写真を見ると、銭湯にしてはやや洋風でモダンな建物だったようです。

 『台中市概況』によると利用客の内分けは、昭和10年(1935年)段階で、日本人が大人約6800人、子供約2000人なのに対し、台湾人は大人が約40300人、子供が約7000人。台中市に於ける昭和10年の住民数は日本人約4500人に対して台湾人が約10900人だということを考えると、内風呂の普及率には両者間でかなりの差があったことが窺えます。


 さて、長春福徳廟があるのは敷島町の四丁目。日本時代が始まる少し前の清の光緒帝時代に、地元の人が三つの石に土地公様を感じ、この石を拾ってきて祀ったのが起源。小さな廟ですが霊験あらたかで香華の絶えた例がなく、戦後の1980年に周囲が長春公園として整備された際も、廟はそのまま残されたとのこと。


 そしてこの廟の向かい、敷島町五丁目には「進安商號 羅氏秋水茶」という看板が。

 『無可名狀之物』の作中で「つまり作家な訳? それとも民俗学者?」という蜜容の問いに、「単なる無為徒食のニートだよ」と答える阿貓。漫画版ではこの場面で阿貓は手に、ストローの刺さった小さな袋を持っています。この袋の正体が、この「羅氏秋水茶」。後壠子の項で紹介した、楊双子先生お勧めの台中の味の一つ「正苑茗茶」と同じく、アルミ袋に入った冷たいお茶。

 漫画版のあとがき漫画にもちらりと登場するこのお茶は市内の何ヶ所かで売られていて、本店は「羅氏秋水茶本舗」として干城町にありますが、阿貓と、そして恐らく星期一回収日先生が買ったのも、この「進安商號」でだと思います。

 「羅氏秋水茶」はあくまでも販売されているこのお茶の名前で、お店の名前は「進安商號」。『無可名狀之物』が掲載された『CCC創作集』の「聖地巡礼特集」で楊双子先生自ら書いているガイドによると、日本時代からこの場所にある雑貨店だそう。恐らくこの建物は、元は角地に面した寄棟の和風平屋店舗だったのが、戦後になって二階を増築し、更に敷島町通(愛國街)に面した部分は店の裏手側として壁を作ることでそもそもは通路だった軒下も屋内にしてしまった、みたいな状態かと。


 この辺りには日本時代、他にも廟や寺院が建ち並んでいました。

 かなり目立ったのではないかと思うのが、大正13年(1924年)に建立された老松町四丁目の東本願寺。真宗大谷派の布教所だったため「東本願寺」と通称されていますが、「本觀寺」が正式な名称だったようです。当時の住所は老松町四丁目の1番地及び7番地。今の合作街沿いに建ち、北側と西側が綠川に面していました。

 この寺は戦後恐らく柳町の中尊寺と似た経緯を辿ったらしく、跡地は今、台中市南區圖書館長春閲覧室になっています。

 同じく日本時代に設置された曹洞宗の臺中佛教會館は、戦後も「佛教會館」として維持され、長春福徳廟のすぐ隣のブロックに健在。

 こちらは大正11年(1922年)に台湾人信徒によって敷島町五丁目17番地に建てられ、現在も位置は変わっていません。住持も日本時代から常に台湾人僧侶で、当時から現在に至るまで慈善団体として広範囲に活動しているようです。


 そして、老松町六丁目に建つのは、豪奢極まりない「臺中林氏宗廟」。


 霧峰林家を中心とした台中林氏の廟は、元々「林祿公祠(尚親堂)」という名称で、一族の最初の入植地である大里に建てられていました。清の嘉慶帝時代に建てられたということなので恐らく、霧峰へ移った林甲寅さんの世代が建てたのではないでしょうか。

 その後、1875年に林甲寅さんの従兄弟で、太平に移住していた林志芳さんがこの廟を旱溪の集落に移築します。しかしこの廟は日本時代が始まった明治28年(1895年)にシロアリ被害で倒壊し、位牌は太平に仮安置中でした。

 それを台中の市街地に移し、さらに大規模な廟に建て替えるというこの計画の裏には、林家ゆかりのもう一つの廟の存在もあったと思われます。大正橋通の真上、明治町通と大正町通から、壽町と綠川町の北側までのそれぞれ一丁目上に掛かる、あの吳家公館にも匹敵する広大な面積を持つ廟が、かつて台中市にはあったのです。

 その廟の名は「林文察專廟」。36歳で福建に於いて戦死した霧峰林家の五代目当主を祀った廟でした。

 しかしこの廟もまた高砂町の孔子廟及び城隍廟と同じく、日本時代に入った途端、軍によって占拠されます。官庁街にほど近いこの廟の建物には臺灣守備混成第二旅団司令部が入居し、その周囲の幸町通及び寶町通から綠川町通までのそれぞれ二丁目真ん中辺りまでを占める境内には、騎兵第二中隊、第十四憲兵隊本部が駐屯した他、補給倉庫と衛戍病院分病室も設けられました。

 その後、台中市の開発が進んでいく中で明治43年(1910年)と明治44年(1911年)の台風シーズンに大水害が起こったのを切っ掛けに、村上町通と新富町通、柳町通の新設を中心とし、既存の通りの拡幅も含めた大工事の実施が決定。この際に道路予定地に引っ掛かり立ち退き対象となった建物の中に含まれていたのが「憲兵隊(当時の所在地は明治町通一丁目北側)前の林家祖廟」、すなわち「林文察專廟」です。


 大正8年(1919年)に林氏宗廟は起工し、昭和5年にようやく完成しました。『綺譚花物語』第三作『庭院深深華麗島』で日本時代に生きる主人公たちが暮らしている「林家公館」、この広大なお屋敷を漫画版で作画する際のモデルの一部にもなっていると思しき中華的な豪華さと、バロック風のヨーロピアンな装飾、アールデコ的なシンプルさと優美さが混然一体となった宝石箱のような建物は、それが建てられた時代までの台湾の歴史そのものを体現しているかのようにも感じられます。この廟もまた1985年に文化資産の指定を受けました。


 加えてこの街には、阿貓と蜜容が巡っただろうもう一尊の虎爺が聖地巡礼者の訪れを待っています。

 台中南區復興宮(媽祖廟)が建つのは、老松町の七丁目の裏手。線路沿いの川は当時も今も流れていますが、建國南路にあたる道は日本時代にはまだ整備されていません。

 戦後の1963年に彰化南瑤宮から媽祖様を勧請し、1970年に最初の廟が建立されます。この時の廟は線路脇だったというので、川の向こうだった可能性もあります。その後、1982年に長年メンテナンスができずにいたこの廟が老朽化したのを受けて、新たな廟の建設が始まり、1984年に現在の廟が完成するとそこに移りました。

 線路の高架化によってこの辺りも風景がかなり日本時代とは変わっていますが、幸いというか川があるため、線路向こうの街とたやすく直結はできず、その意味では日本時代の状況が維持されています。

 なお、ここの廟の虎爺は2020年に「夏の盂蘭盆会の時期には、人間の浮遊霊のためだけでなく、飼い主のいない犬猫たちの霊のためにもお供えを用意するように」との指示を信者さんに夢で出し、それ以来、この廟では野良猫や野良犬の霊にもお供えが用意されるのが通例になったようです。


 このエリアのグルメ情報は、台中肉員。「碁盤目状の通りに沿って、私たちは大小の廟を巡った。お供え物を置く神卓の下に潜り込んで虎爺の写真を撮る。顔も頭も埃まみれになって這い出してきた後は、膝についたお線香の灰を払い落として立ち上がり、廟の近くのお店に向かった。紅茶やパパイヤミルクを飲んだり、豆花や肉圓、蜜豆冰を食べたりするために。」

『無可名狀之物』で虎爺を巡る阿貓と蜜容は、その後グルメも楽しんでいます。紅茶、パパイヤミルク、豆花、肉圓、蜜豆冰。このうち肉圓は、かつての老松通一丁目に位置するこの店のもの。漫画版のあとがきに出てくる、「台南のとはタレが違う肉圓」もたぶんこのお店のことではないでしょうか。壁に「80年老店」とある老舗で、あれ? ということはひょっとして日本時代末期からもうあった? 建物は戦後の三階建てですが、日本時代から屋台営業をしていて、戦後に店を建てたのだったりするかもしれません。

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