第20話 昭和台中市郊外~霧峰林家

 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第三作、日本時代を舞台にした『庭院深深華麗島』で主人公である東大墩林家のお嬢様、林雁聲とその父の側室である廖蘭鶯が暮らすお屋敷「林家公館」。

 華やかな建物の元ネタである「吳家公館」は、もはや現存するのは臺中公園へ移築された「更樓」のみ。あとは数枚の写真から往時を窺うしかありません。このため漫画版では、台中市の名家「霧峰林家」の今も残る豪奢な屋敷、そして敷島町に建つ霧峰林家の「林氏宗廟」、加えて同じ林姓を持つ板橋林家の屋敷と庭園が、様々にアレンジされて「吳家公館」を補足構成しています。


 『庭院深深華麗島』で主人公雁聲の先祖、「林部爺の母である李珪の実家」である「阿罩霧の李家」として登場する霧峰林家は、台湾割譲時に当主だった六代目の林朝棟さんが、家族を厦門に疎開させてまで対日戦に身を投じたことから、日本時代当初は微妙な立ち位置でした。

 とは言え、霧峰林家は台湾を代表する大富豪にして大地主。まだまだ台湾ではアウェーな立場だった臺灣總督府が気軽に敵に回していい相手ではありません。このため、台中市の都市計画区域内でそこそこの面積を占めていた東大墩の別邸「瑞軒」の庭園を林家が物納することで、一応の手打ちが成立します。


 朝棟さんの父である林家の五代目当主、林文察さんは1828年生まれ。

 1853年に起こった秘密結社「小刀會」の蜂起の平定に25歳で駆り出されて以降、36歳で戦死するまでの11年間に、太平天国の乱の平定や戴潮春事件などで次々と出陣していました。その功績で、台湾を含む福建省全ての樟脳の専売権を霧峰林家は得ることとなり、台湾では板橋林家に次ぐ第二の富豪の地位に躍り出たのです。セルロイドの原料となる樟脳は、当時、台湾の主要産品の一つでした。

 なお、林文察さんは戦死後に「太子少保」の地位を追贈されています。「太子太保」「太子少保」とは皇太子の師を意味する地位で、この地位にある人が建てた屋敷には「宮保第」という称号をつけることができました。このため、遺族である六代目の朝棟さんは「宮保第」として大きな屋敷を建て、霧峰林家のこの屋敷は台湾に於ける唯一の「宮保第」となっています。


 朝棟さんが、その息子たちともども厦門へ行ってしまったことで、霧峰林家の実質的な当主の座は、朝棟さんのはとこである林獻堂さんが受け継ぎます。

 林文察さんのおじいさんである林甲寅さん。初代林石さんの逮捕処刑後、大里に居づらくなってお母さんに連れられ霧峰に引っ越した、あの林甲寅さんには何人か息子がいて、そのうちの一人が文察さんの父である四代目当主の林定邦さんです。そして林獻堂さんのおじいさんである林奠國さんも甲寅さんの息子の一人でした(なお、この二人の妹さんが、吳部爺のお母さんである林純仁さんです)。


 「獻堂」は字で、名は「朝琛」。林朝棟さんや獻堂さんが属する林家の六代目世代は皆、本名が「朝」で始まり、字として「○堂」を名乗っていました。吳家公館の傍に屋敷を構えていた林烈堂さんも、「烈堂」は号で、本名は「朝璣」と朝がつく名前です。


 獻堂さんのおじいさんである奠國さんは割譲前の1880年に亡くなり、父である林文欽さんは割譲後は完全に隠居して世に関わろうとしませんでした。こういう状態だったので、獻堂さんは割譲時にはまだ14 歳でしたが既に霧峰林家の一系統「頂厝」一族にとっての実質の当主の地位にありました。祖母の命による泉州疎開時も、獻堂さん「が」一族を率いて疎開を行なっています。

 割譲から四年後の明治32年(1899年)年に林文欽さんが香港で病没したため、19歳の獻堂さんが名実ともに「頂厝」一族の当主となりました。そして本来の宗家当主である朝棟さんが不在なこともあり(ただしその息子の資鏗さんはこの時点で既に台湾に戻り、父の事業を引き継いでいます)、これ以降は獻堂さんが日本時代の霧峰林家を切り盛りしていくことになるのです。

 なお、朝棟さんが明治37年(1904年)に死去した後、その後を継いで霧峰林家の七代目当主となっていた資鏗さんは、大正2年(1913年)にその地位を獻堂さんに譲っています。これは資鏗さんが成立したばかりの中華民國籍に移ることを希望したためでした。台湾の大地主が日本国籍離脱を希望ということで、今後の台湾統治への影響を恐れ、總督府は必死に引き留めを図りますが、資鏗さんの意志は固く、家族を率いて厦門へ移住してしまいます。この年11月に資鏗さんは中華民國籍を回復、台湾人としても在外華人としても、これが最初の中華民國籍回復例でしたが、このために資鏗さんの在台資産は總督府によって没収され、霧峰林家の資産のうち、清時代から代々保持されてきた部分の大半が林家の所有から離れることとなります。


 しかし獻堂さんは家を継いで以降、明治35年(1902年)には霧峰地域の行政官となり、明治38年(1905年)には台灣製麻株式會社の取締役となるなど政財界で活躍していました。台中市の歴史について調べていると、またお会いしましたねと言いたくなるくらい、とにかくそっちにもこっちにも名前が出てきます。資鏗さんの中華民國籍回復による資産没収以前に、獻堂さんが切り盛りできる部分だけでも霧峰林家の資産は大幅に拡大していました。このため、代々の資産だった部分が消えても、霧峰林家の経済状態にさほどの影響はなかったようです。

 その一方で、獻堂さんもまた単なる御用紳士とは一線を画し、台湾人の地位向上と台湾人による自治を終始一貫して求め続けた人でもありました。

 まず大正3 年(1914年)にあの板垣退助を台湾に招いて、台湾人に対する差別待遇の解消を目的とした「同化會」を設立させています(治安を乱すという名目で、總督府に強制解散させられ、実質活動期間は2ヶ月程)。

 大正9年には東京の留学生たちを中心とした「啟發會(啓発會)」(後の「新民會」)を組織して、その会長に就任。その翌年には蔣渭水とともに「臺灣文化協會」を組織(後に脱退)。

 臺灣議會設置の請願運動を繰り広げ、台湾人による政党である「台灣民眾黨(民衆党)」に加わって「台灣新民報」の発行に尽力し、更には「臺灣地方自治聯盟」を組織して、台湾に於ける一定の地方自治に漕ぎつけています。昭和10年(1935年)に行われた臺灣市會及街庄協議會員選挙、昭和11年(1936年)の臺灣州會議員選挙、昭和14年(1939年)の臺灣市會及街庄協議會員選挙、昭和15年(1940年の臺灣州會議員選挙は、その成果でした。


 總督府から見れば資鏗さんと同じく獻堂さんもまたトラブルメイカー、「好ましからざる台湾人」でした。しかも資鏗さんと違いソフトなやり方に徹して理路整然と攻めてくるため、おいそれと逮捕もできない「目の上のたん瘤」のような存在です。

 佐藤春夫さんの『殖民地の旅』では、獻堂さんを霧峰に訪ねて話をしていたところ、途中でずかずかと警官が割り込んでくる、という場面があります。『殖民地の旅』が行なわれたのは大正9年(1920年)でした。


 また、はとこの吳子瑜さん、林子瑾さんと同じく、獻堂さんにも詩人としての一面があります。

 そもそも「霧峰林家」は童試受験者を多く輩出していて、単なる田舎武芸者の家ではありません。36歳で戦死した林文察さんも詩才の持ち主でした。

 そして漢詩自体、日本文化が奨励された台湾に於いてほぼ唯一、日本人からも支持された中華の伝統文化であり、台湾人と日本人の交流の糸口にもなっていたのです。同時に、文化に於ける抗日運動、漢民族のアイデンティティ維持のための手段にもなっていました。

 日本統治下の台湾に於ける三大詩社の一つである「櫟社」。吳子瑜さんと林子瑾さんも加入していたこのサークルは、「台灣文化協會」と霧峰林家を中心とした台湾中部の詩人によるグループであり、林朝崧さんによって明治35年(1902年)に作られています。

 「朝」の字でわかる通り、この林朝崧さんも霧峰林家の一員。号は「俊堂」で、林文察さんの弟の息子(ただし養子)であり、林朝棟さんとは従兄弟、林獻堂さん、子瑜さん、子瑾さんとははとこにあたります。1875年生まれで台湾割譲の際は20歳。獻堂さんと同じく、家族を率いて泉州に避難し、二年後に一度帰台、その後いったん上海に移り、最終的には明治32年(1899年)に帰台定住しました。

 獻堂さんと同様に「同化會」設立のため尽力していた朝崧さんは、總督府による圧力により設立からわずか2ヶ月で「同化會」が解散させられると、憤りのあまり病没してしまいます。

 その息子である林幼春さん(幼春は号で、名は資修)も詩人で、櫟社の創始者の一人。1880年生まれで朝崧さんとは5歳違いなので、もちろん実の親子ではありません。林家とはっきり血が繋がっているのはどうやらこの幼春さんの方な模様。そしてこの人は更に苛烈で、大正12年(1923年)に「臺灣議會期成同盟會」を作ったことが切っ掛けで治安維持法に引っ掛かって検挙され、大正14年(1925年)に入獄しています。


 昭和11年(1936年)に林獻堂さんは「華南考察團」に加わって厦門や上海を訪問。この時に「この度は祖国を視察するために戻ってきました」という趣旨の発言をし、これが日本のスパイによって臺灣軍司令部に報告され、「臺灣日日新報」の記事になるという事態が起こりました。

 「祖國支那事件」と呼ばれるこの事件は、日本統治に対して反抗的な獻堂さんをやり玉にあげることで台湾人を委縮させようと、臺灣軍の参謀長だった荻洲立兵という人物が目論んだことだったといいます。

 この年6月の「始政紀念日」園遊会では、獻堂さんが暴漢によって平手打ちされる事態が発生。「愛國政治同盟會」メンバーを自称するこの犯人もまた荻洲によって焚きつけられた右翼で、獻堂さんによって警察に突き出されますが不起訴となり釈放されます。更に「臺灣日日新報」が獻堂さんを攻撃するキャンペーンを展開したため、獻堂さんは公職を全て辞した上、家族七人を連れて翌年から東京に一時避難することとなりました。

 しかもこの平手打ち事件の園遊会が開かれていた会場は臺中公園で、元はと言えば霧峰林家の庭園です。獻堂さんの受けたダメージは相当に大きかったと思われます。


 しかし獻堂さんは挫けることなくその後台湾に戻り、戦時中には台灣總督府評議會、大屯郡事務長などを務めています。

 また昭和20年(1945年)4月に創設された臺灣勅選議員制度により、臺灣勅選議員三名のうちの一名にも選出されました。この時の選挙法改正では台湾にも衆議院議員選挙の議席が割り振られ、これによって台湾に暮らす台湾人にも選挙権行使の機会が与えられることになります。林獻堂さんたちの長年に亘る悲願はようやく達成の時を迎えたかに見えましたが、制度の施行日は勅令で定めるとされ、未施行のままに終戦を迎え日本時代も終わりを告げたことで、台湾人が実際に選挙権を行使して日本の政治に参加することはありませんでした。

 1946年に召集された第90回帝國議會では、名簿上には三名の臺灣勅選議員と六名の朝鮮勅選議員がいましたが、もちろん誰もこの場に実際に足を運び議会に参加してはいません。この時の議会では朝鮮と台湾からの勅任議員に関する規定を削除する貴族院令改正勅令案が政府から貴族院に提出され、6月29日の本会議でこの勅令案は可決されます。外地議員の資格は7月4日付で消滅し、台湾の悲願は成就することなく無に帰しています。


 戦後、「降伏調印式(第二次世界大戰中國戰區受降儀式)」が南京で1945年9月に行われた際、林獻堂さんは台湾人代表の一名として参加しました。10月に台北の中山堂で行われた「中國戰區臺灣省受降式典」にも、やはり台湾人代表の一名として出席しています。


 そして1946年、獻堂さんは台灣省參議會參議員に当選しました。しかし1947年に二二八事件が勃発すると、これに対する國民党の対応の在り方に大きな衝撃を受けます。國民党に失望した獻堂さんは1949年に病気治療の名目で日本へ向かいました。実質的には亡命であり、これ以降台湾に戻ることはないまま、獻堂さんは1956年に東京で病没しています。

 ただし霧峰林家は決して直接白色テロ被害を被った訳ではなかったので、遺体を台湾に戻しての葬儀には当時の副總統も参列しているなど、その後も國民党政府とは一応良好な関係を保ち続けていました。


 霧峰林家の大邸宅は、現在は台湾の國定古蹟となり、「霧峰林家宅園」として一般公開されています。吳家公館と同じく日本時代が始まる直前に建てられた邸宅であり、建築様式は勿論、使用されている建材にも所々共通点が見られます。


 また獻堂さんはこの時代の台湾人男性としては非常に珍しいレベルで女性の地位向上に取り組んだ人物でもあります。西洋的な価値観、自由恋愛の流入などで、女性の地位や人権に対する考え方も、主に台湾人上流階級に於いてはそれまでの儒教一辺倒から少しずつ変化しつつあったのがこの時代でした。ただしそれらは自分の娘といった限られた存在に向けられるものでしかない場合が大半だったのですが、獻堂さんの場合は社会全体としての女性の地位向上にまで踏み込んでいます。

 獻堂さんと息子の林攀龍さんが昭和7年(1932年)に霧峰で立ち上げた「霧峰一新會」は、霧峰など「農村」の文化的レベルアップを目的とした組織でしたが、そこには農村に於ける女性の地位向上も含まれていました。霧峰林家一族の妻や娘たち、台中周辺の台湾人上流階級の女性が多く参加し、主要メンバーとして活動したこの団体は、既婚女性向けの教育機関を霧峰に設けるなどして、霧峰一帯の農村に於ける女性の地位、女性自身の意識などを大幅に向上させていきます。

 『綺譚花物語』小説版にはあとがき代わりに、楊双子先生が作品掲載時にCCC創作集へ寄せた解説が載っていて、そのうちの一編『雁聲と蘭鶯の書房に見る景色』は当時の女子教育に関するもの。台湾で一番最初に日本統治下の近代女子教育を受けた世代で、台湾で初めて教員資格を取った女性である漢詩人の張李德和さん(昭和台湾を舞台にした漫画『北城百畫帖』の第二巻に、この人をモデルにした人物が登場)、雁聲のモデルとなった吳燕生さんと並んで、獻堂さんの妻である楊水心さんについても書かれています。張李德和さんと吳燕生さんがどちらも結婚前に学問を身につけた女性だったのに対し、楊水心さんは結婚後に学び始めた女性でした。

 「霧峰一新會」は、楊双子先生の別の作品『臺灣漫遊錄』に登場する団体「臺中州日新會」のモデルにもなっています。だから日本女性を中心とした婦人団体である「臺中州日新會」の代表でありながら、日本女性の高田夫人は日本人人口が決して多くはなく当時の台中日本人社会の中心地でもなかったはずの霧峰に住んでいるのです。

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