第11話 昭和台中市~干城橋通と名のない通り:台中駅前エリア(榮町、綠川町、橘町)

【干城橋通】

 最後は干城橋を渡る干城橋通(成功路)。最初に取り上げた櫻橋通の一本東にあたるこの通りについても、実は日本時代の情報はほとんど残っていません。橘町五丁目については当時あった会社や店舗名が少しはわかりますが、綠川町五丁目については全く店名が出てこず、榮町五丁目でも一店舗しか判明しないのです。


 ただし櫻橋通(臺灣大道)から干城橋通へと向かう橘町四丁目の建國路沿いには、当時建っていたのだろう二階建てが(大抵は看板でファサードを覆われてしまっている状態ですが)高確率で残っています。建國路159巷手前の二軒は、同じ形の煉瓦造、しかも山牆と呼ばれるファサード上部の屋根飾りの形などから見て、閩南式二階建て街屋をベースにしたバロック看板建築だとわかります。

 当時、櫻橋通沿いにあったのは大型の煉瓦ビル。この煉瓦ビルは駅前広場に面した部分までが、終戦までの間にコンクリートの二階建てへと建て替えられたようですが、その先の29から31番地あたりはまた別な建物だったということのようです。建國路155號の煉瓦造の窓や壁は絵葉書に写った煉瓦ビルと非常に似ていますが、よく見ると全て赤煉瓦で造った建物にモルタルで白く部分ペイントを施すことにより、辰野式っぽく見せていることがわかります。隣の157號と同じ閩南式看板建築による「なんちゃって辰野式」がこの区画には並んでいたのかも知れません。

 一方で建國路の反対側にあった橘町四丁目の35から46番地、及び五丁目の28から32番地にあたる干城町の端の三角地帯についても、昭和11年にどんな建物があったのか明確にわかる記録はありませんが、三角地帯の恐らく橘町五丁目30番地と31番地だったと思しき辺りにシンプルなアールデコ風ファサードを持つ煉瓦造りが四棟並んでいます。アールデコ風でありながら建材が煉瓦なことと、三階部分を増築された一棟の屋根の形と奥行きを見る限り、この数棟も閩南式看板建築でしょう。


 建國路159巷を過ぎて干城橋通へ向かう途中にも、綺麗に修復されたモダニズム風の二階建てが一軒あり、これは煉瓦造のモルタル仕上げかなと。

 干城橋通に入ると、まず西側が橘町四丁目、東側が五丁目で、四丁目の成功路23巷の奥が虎爺のいる幸天宮(媽祖廟)。この路地に接して建つ「豐中戲院」は日本時代からの建物で、日本時代には劇場ではなく車庫でした。

 昭和16年に市内の自動車業者が集まって作った「臺中市自動車共同販賣營業所」という会社。ここにはその後、臺中市營バスと公營バスも加わって「豐中自動車株式會社」に。この会社が駐車場として使っていたのがこの建物です。

 昭和10年末の職業地図を見るとこの付近には「市内バス台中清水間バス合資會社豊中商會」があって、「豐中自動車株式會社」の社長さんだった張清泉さんは、元はこの「豊中商會」の社長さんでした。ということは恐らくここは昭和11年には「豊中商會」のバス駐車場だったのではないかと思います。

 「豐中自動車株式會社」は昭和17年に解散(たぶんガソリン不足でバス運行ができなくなったのではないかと)し、空き家となっていたこの駐車場はその後、台湾オペラと呼ばれる京劇の一種「歌仔戲」を上演する「臺灣歌劇戲院」となります。劇場となったのは昭和19年からだと言われていますが、時代背景を思うとやはり戦後からではないでしょうか。

 1953年からは映画館に改修されて洋画を上映する「豊中戲院」となり、近年は二番館として営業していましたが2004年に閉館しました。


 この並びでは一軒先にあたる綠川西路との交差点角地の二階建ても昭和の気配を感じます。そして角地の二階建てと豐中戲院に挟まれて干城橋通に面している三階建てと、二階建ての隣にある綠川西路に面した三階建てはよく見ると同じデザイン。恐らくこの二つの三階建ても元々は閩南式二階建て街屋で、三階部分がそれぞれ増築されたのではないでしょうか。他に戲院の向かい側の二階建てもよく見ると煉瓦壁が看板の隙間に覗いています。

 今に残る日本時代の写真を見ると、角地の二階建ては写真の時期には木造の和風寄棟角地店舗建築。「つちやたび」の文字もあるので日本人経営者の店だったのでしょう。しかしその隣、今の三階建ての辺りには明らかに閩南式の煉瓦造二階建て街屋が建っています。その奥、豐中戲院の辺りは日本風の建物の軒が見えているので、どうやら当時のこの辺りには和風と閩南式の建物が入り混じって軒を連ねていたようです。


 干城橋の東側では、綠川の幅が西側に比べて随分狭まっていますが、昭和8年(1933年)の火災保険地図を見ると、これは日本時代も同じだったようです。戦後に綠川が暗渠化され道路が拡幅されたことで当時の干城橋は撤去されました。


 橋を渡って東側、綠川沿いの三角地帯は日本時代には綠川町五丁目の13番地から17番地になります。

 三角地帯を過ぎると干城橋通の西側は、第一市場の裏手。今はブロック全体がビル化されていますが、日本時代には市営の貸店舗棟がこの干城橋通沿いにも伸びていました。

 『臺中歴史地圖散歩』に収録されている戦後のこの通りの写真を見ると、干城橋を渡ってすぐの西側角地には櫻橋通の柳屋食堂が入居していたものと同じ形状の三階建てが聳えていたことがわかります。昭和11年にこの綠川町の三階建て部分に入居していたのは「台中ホテル」でした。

 日本時代の台北は駅前に聳える鐵道ホテルが市を代表するホテルでしたが、台中にはそういった代表的ホテルはなかったようです。ただし駅からほど近い橘町から榮町に掛けてと、官庁街にほど近い寶町周辺をメインに、台中市内にはかなりの数の旅館とホテルがありました。山岳地に向かう場合の拠点となる都市でもあり、「住民以外の滞在者」が多い土地だったのではないでしょうか。

 「台中ホテル」は戦後の写真では「台中旅社」となっています。そしてその奥にある「瑞成書局」もまた日本時代から貸店舗棟に入居していた店舗の一つでした。


 大正元年(1912年)に第一市場で誕生したこの書店は、今や台湾で現存する最古の書店。漢文書籍の専門店として開業し、当初は市場の一ブースをレンタルしている状態でしたが、大正6年(1917年)には橘町の綠川沿いで店舗を借り、昭和3年(1928年)に貸店舗棟ができると早速入居します。戦後も同じ場所で営業を続け、1987年に市場が貸店舗棟もろとも再開発される際に退出して綠川西路に移転しました(現在は更に別な場所へ移転済み)。


 一方、通りの東側、当時は貸店舗棟と向かい合っていた部分をよく見ると、当時はファサード部分のデザインを貸店舗棟の二階建て部分のデザインに合わせた長屋式看板建築が並んでいたのではと思われる部分がちらほら。貸店舗棟の二階建て部分は日本の二階建て割り長屋をベースにした看板建築だったと思いますが、こちらの看板建築がベースにしていたのは赤煉瓦の共有壁を積み上げた閩南式街屋だったのではないでしょうか。

 元はモルタル仕上げのファサードを持つ二階建てだったはずですが、今では塗装が施されたりタイルが貼られたりしているうえ、ところによっては三、四階が増築されると言った魔改造が加えられています。


 当時は榮町通だった繼光街を渡ると、ここは吉本商店と三代目榮座の裏手側。榮町通沿いでは、吉本商店の並びだった四丁目側は既に再開発が進んでしまっていますが、五丁目側にはまだちらほらと当時のバロック看板建築などが見て取れます。

 繼光街を越えてしばらく進んだところで干城橋通と交差する路地。五丁目側の成功路128巷は日本時代には大正町五丁目の台中寺の脇参道だった道です。干城橋通の西側、大正町四丁目側の路地は日本時代には娛樂館の裏手を通り、三代目台中座と行啓記念館の間を抜けて櫻橋通に出る道でした。

 ここから大正町通までの部分は日本時代からの二階建てが、三階建てや四階建てに魔改造済みのものも含めて多く残っています。成功路128巷に面した、壁に「元金商」と文字のある二階建て。これは今は間口三軒分ですが、よく見るとその北側も同じ形状の建物だったのがファサードをタイル張りにしたり、三階以上を増築したりの魔改造を施されているのだとわかります。


【名前のない通り】

 干城橋通の東側、綠川町五丁目の三角地帯と、綠川町及び榮町六丁目との間を通り、大正町五丁目と六丁目の間へと抜ける、現在の「光復路」は日本時代には名前のない通りでした。

 干城橋通から橘町六丁目沿いを、この無名の通り沿いに進んでいきます。


 綠川東路と綠川町五丁目三角地帯との間には橋桁が。今、ここより上流側の綠川は暗渠になっていますが、日本時代には雙十路沿いを流れてきていました。綠川の水源地は、水源地公園横の大字東勢子の一角。線路脇に湧きだした水が小川となって水源地へ向かい、その脇の集落の中を流れて生活用水としての役割を果たします。その後、干城町の練兵場北側を流れ、練兵場の西端に至ったところで川幅が急に広がって堀のように干城町西側、大正町七丁目の公會堂裏手側と榮町六丁目の裏手側を流れてきて、ここからは今の綠川の流路を進んでいくというルートでした。

 今、雙十路はこの橋桁部分から臺中公園北側の精武路との交差点までが真ん中に分離帯のある幅広な道路になっていますが、日本時代からの道は下り路線にあたる部分のみで、登り車線にあたる部分に当時は綠川が流れていたことになります。


 無名の橋と通りはもう一本、榮町と大正町の六丁目と、大正町七丁目の間を通るものがあって、こちらは現在の公園路。


 さて、まずは榮町五丁目と六丁目の間を進みましょう。


 通りの東側、当時の綠川町と榮町の六丁目はこの頃は住宅地。台中を舞台にした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第二作、日本時代を舞台にした『昨夜閑潭夢落花』で、主人公である日本人少女の渡野邊茉莉が暮らす家があったのは榮町六丁目という設定。昏睡状態の茉莉が横たわるのはベッドで、その部屋は洋室。通常の大正風文化住宅が玄関脇の応接間部分のみを西洋風にして、日常生活を送る部分は畳に布団を敷きちゃぶ台で食事を取る正座中心の生活空間にしていたのより、もっとモダンな住宅だったと考えられます。


 台湾のアカデミー「中央研究院」による「臺灣總督府職員錄系統」という、總督府の職員名簿をデータ化し検索が掛けられるようになっているありがたいサイトがあるのですが、それによると榮町六丁目には大正九年から官舎があり、臺中州廰に務めるスタッフのうち、税務課長や土木課長、土木技師といったかなりの高級取りな人々のみが住む場所でした。このためこの、昭和10年代の終わり近くになると「榮町六‒二官舎」と呼ばれている六丁目二番地にあった官舎は、官舎とは言っても完全に戸建て住宅だったはずです。また、この官舎に住んでいるとして出てくる人名が一年につき二人程度なので、高級住宅地の中に高級官舎も二軒含まれている、という感じだったのかも知れません。実際に職員名簿の中には、榮町六丁目で官舎以外に住んでいる人もいるので、誰でも買うなり借りるなりが可能な民間所有の住宅が建っていたことは確かです。

 綠川五丁目側の三角地帯も当時はやはり住宅地だったのか、13から15番地にあたる区画に一棟ずつ、16番と17番を合わせた区画にさらに一棟の、合計四軒が建っていた模様。


 一方で第一市場の裏手にあたる部分の綠川五丁目と榮町五丁目からなるブロックは今も昔も商店街として居住部分を併せ持った商店が並んでいました。

 当時の榮町通だった繼光街沿いを進むと、魔改造済みのものも含めて二階建てがちらほらと通りの両側に残り、煉瓦造やモルタル仕上げのバロック風やアールデコ風などのファサードが見て取れます。


 大正町通六丁目の南側は今も昔も全ブロックを臺灣電力の施設が閉めていますが、隣接する五丁目側ブロックは台中寺を取り囲むように商店が並んでいたところ。繼光街を過ぎた先、大正町通までの間には四軒分に亘って当時の二階建てが残っています。二階部分にはベランダ的な空間が若干ながらついているのが本来のスタイルだった様子。


 どこの区画にあたるのかがわからないのですが当時の干城橋通を写した絵葉書があって、それによると店舗の二階部分にベランダを設けるのと、庇飾りなどに中華風のデザインを採用するのが流行していたようです。柱部分は赤煉瓦ですが、梁部分には鉄筋コンクリートを使用しているので、比較的新しい時代だと思われます。


 当時は住宅地だった榮町通六丁目と、電力会社だった大正町通六丁目南側ブロック、全て再開発済みの大正町七丁目ブロックの間を通る当時のもう一つの無名の通り、現在の公園路部分には、当時を偲べるようなものは一切残っていません。

 ただし当時の榮町通六丁目南側ブロックには、住宅一軒ずつの脇に必ず道が通るよう路地が設けられていました。これらの路地のうち、最もシンプルな形状でブロック内を貫いていた一本はやや拡幅されて雙十路一段19巷になっています。その他の路地もブロック内に入ってみると大型雑居ビルの裏手や間などに駐車場出入り口やバイクの駐輪場といった「車道以外の通路」として今に残っているのが、当時の住宅地を偲べる唯一のよすがです。


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