第9話 昭和台中市~榮橋通:台中駅前エリア(榮町、綠川町、橘町)

【榮橋通】

 綠川を渡る橋は全部で五本。新盛橋通のもう一本西、榮橋のある榮橋通(民族路)は日本時代、どちらかというと商社の並ぶ通りでした。このため他の通りに比べて若干地味な存在だったのか、当時の写真はほとんど残っていません。また大型の建物が並んでいた分、再開発も進んでしまい、当時の建物もほとんど残っていない状態です。


 新盛橋通側から榮橋通へ向かって駅前を進むと、駅前に面した部分はすっかりビルに置き換わっています。

 榮橋通を榮橋に向かって進み、橋のたもとで振り返ると目に飛び込んでくるのは「青果合作大樓」と壁面に書かれたビル。昭和11年のここには「臺灣青果株式會社」の社屋が建っていました。

 橘町二丁目1番地のこの会社は、大正13年(1924年)に創業した半官半民の大企業。この会社の設立には柳町の項で触れた「中部臺灣青果物移出同業組合」が、実は大きく関わっています。

 生産農家からの買い叩きに走って生産農家から総スカンを喰らった「中部臺灣青果物移出同業組合」。その後、大正6年(1917年)に生産農家側が「芭蕉實生產販賣組合」を作って日本の卸売業者との直接取引を試みると、「中部臺灣青果物移出同業組合」は日本の主要荷揚げ地で卸売業者と結託し、この試みを妨害。卸売業者に「芭蕉實生產販賣組合」との直接取引を拒否させたので、生産農家は「中部臺灣青果物移出同業組合」を通さないとバナナ取引ができないこととなり、どれだけ買い叩かれても「中部臺灣青果物移出同業組合」にバナナを売るしかなくなりました。

 ところが、これを見ていた日本の卸業者側も「中部臺灣青果物移出同業組合」に、バナナ取引を卸業者に委託するか、卸業者との先物取引をするかの二択を迫ります。どちらを選んでも価格は卸業者の言いなりになるしかなく、「中部臺灣青果物移出同業組合」は自分達が生産農家から買い叩いて安く仕入れたバナナを、今度は日本の卸業者側によって安く買い叩かれる羽目に陥ったのでした。

 これでは卸業者の独り勝ちになってしまい、バナナの生産農家も「中部臺灣青果物移出同業組合」も儲かりません。ひいては總督府の収入にも繋がらない、ということで、生産農家と、バナナを日本に販売する輸出業者、バナナを仕入れる日本の卸業者、三者の利益を等しく守るべく半官半民という形で「臺灣青果株式會社」が誕生したのです。

 駅近の一等地ということで今では各フロアに住居とオフィスが入居する台湾ではよくあるタイプの巨大雑居ビルになっていますが、日本時代の社屋は平屋建ての日本家屋だったようです。


 橋を渡ってすぐの左手。民族路29號には今はマンションが建っていますが、ここが綠川町一丁目8番地だった時代には「台灣青果同業組合聯合會」の社屋が建ち、「臺灣青果株式會社」と綠川を挟んで向かい合っていました。

 「台灣青果同業組合聯合會」もまたバナナ輸出に於ける台湾側の利益保護のために生まれた会社。大正13年(1924年)の「臺灣青果株式會社」創業よりやや早く、大正10年(1921年)に「中部台灣青果物輸出同業組合」として誕生しました。大正14年になると臺中州だけでなく、台南、高雄の青果同業組合も加わって「台灣青果同業組合聯合會」に組織が拡大します。こちらは日本側に指定代理商を置くことで卸業者との交渉を一本化し、生産農家と輸出業者の利益を守りました。

 戦争中、民間船の徴用が始まったことでバナナの輸送量は減っていきます。加えて戦況が厳しくなるにつれ台湾日本間の船の行き来自体が困難になり、需要はあったにもかかわらずバナナ輸出は完全に途絶えることに。

 戦後、台湾ではこの組合が「台灣省青果運銷合作社聯合社」となり、台湾のバナナ輸出を一手に引き受けました。その後「台灣省青果運銷合作社」となって今に至っています。

 当時の社屋はバロック風の煉瓦造二階建て。今、本社は新北市新店區に移転し、台中の支社も生産地に近い郊外の東勢區に移ったため、昭和台中市エリアにバナナ会社は残っていません。


 このマンションの並びでは民權路44巷の手前、綠川町一丁目の5番か6番地だったろう場所に一軒だけ当時の建物が残っていますが、当時の入居者はわかりません。

 道の反対側、綠川町二丁目側の1番地には当時、大正9年創業の濱屋敷桶店がありました。あちこちの社宅や官舎に据え付ける風呂桶の製造はここが引き受けていたようです。きっと通りには檜の香りが漂っていたでしょう。

 榮町通の手前、榮町一丁目側には大きな店舗が三店だけ並びます。民權路44巷を越えた12 番地に文房具と和洋紙、印刷業の傍士商店。61 6011番地は造花と花輪、神仏具販売の林家。そして榮町通に面した角地には石川呉服店。本店は京都にあって、店主は本人も京都出身の石川治助さん。恐らく京都の店の主の弟さん辺りが台中支店を任されていたのではないでしょうか。

 榮町二丁目側で榮町通との角地に建つのはカフェー精養軒。この店は、櫻町通の貸店舗棟に入居している柳屋食堂の洋食部とともに、昭和台中市に於ける洋食店の双璧でした。店主は富山県出身の田邊常太郎さん。店内では和洋酒と煙草、食品の販売も行っていたようです。

 榮町通沿いにはやや間口の広い店が数軒並んでいました。二丁目側の精養軒の並びでは9番地に平呉服店。道の反対側では商工銀行支店の建物の一角に堀江運動具店が入居し、その隣の3番地に畳とガラスの松田硝子店と、各種表装の桂華堂。2番地には吾妻旅館が建ち、角地の1番地には農機具店を扱う臺中農産會と成和商會、そして山本自轉車店が入居しています。

 精養軒の建物だけはどうやらまだ残っているので、できればレストランとして活用してほしいもの。


 榮町通の一丁目側では石川呉服店の向かいの4番地に、民權路80巷まで続く広いブロックをほぼ全て使って「大東信託株式會社」が建っていました。昭和二年創業のこの会社には太平林家と東大敦林家のモデルとなった二つの家が関わっています。

 今では敷地は幾つかに分割され、大型とは言え複数のビルが建っている状態。

 「大東信託株式會社」以外にも榮町通一丁目の左右には間口の広い店舗が並んでいましたが、それが災いして大半が既にビルへと建て替え済み。石川呉服店の並びにあった店では6番地が加藤鐵次郎商店。明治32 年創業の地下足袋店ということで、台中市の建設を足元から支えていた店だったのではないでしょうか。その隣の7番地は小林株式店。


 榮橋通に戻ると、一丁目側は「大東信託株式會社」、二丁目側は臺中農産會と成和商會、山本自轉車店の入居している建物までが榮町で、この先は大正町になります。大正町通まで全ての建物はビルに建て替え済み、加えて所在地が判明している店舗もほぼありませんが、そんな中に一軒だけ、昭和11年と同じ場所に建っているものが。

 柳町の項で触れた「臺中日基教會」がそれで、建物は今は建て替わり、名称も「民族路基督教會」となっていますが、所在地だけは大正町一丁目で榮橋通に面していた当時から一切変わっていません。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る