第2話 昭和台中市~大字後壠子今昔
大字後壠子(こうりゅうし)の範囲はかなりの広さを持っています。しかし、当時の後壠子の中心となっていた集落があるのは梅ヶ枝町の西北。梅ヶ枝町の西北側の端がどこかというのはかなりややこしいのですが、大体現在の五權路辺りまでだったと思っておけばいいでしょう。
「壠」の字は畝などの「盛り上がって曲がりくねっている」ものを指します。柳川と梅川に挟まれたこの地では家を建てる際、洪水を避けるために盛り土をしていたはず。それを表す地名だったのではないでしょうか。
大正時代の地形図を見ると後壠子集落は西屯方面へ通じる手押し台車軌道が敷設されていた西屯路の西側が本来の集落で、昭和に入ってこのトロッコ道の東側にも広がり始めたようです。だいたい現在の五權路と篤行路、篤信街とその延長である均安街131巷、梅川西路一段と、清時代からの旧道だった後龍街に囲まれた、歪な五角形のエリアとなります。大通り沿いにビル化が進んでいますが、歩くと今でもちらりほらりと、昭和の建物が見て取れます。
大正時代の台中市は若松町通(今の中華路)を越えた辺りまでにしか家がありませんでした。梅ヶ枝町は大正の町名改正によって、若松町と後壠子集落の間に誕生しますが、その頃はまだほとんどがまだ空き地です。梅ヶ枝町に家が増え始め、後壠子集落との間が街と呼べる状態になるのは、昭和になった後でした。
台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第一作、日本時代を舞台にした『地上的天國』で主人公の少女、英子の三叔公(三番目の大叔父)のところへ冥婚で嫁いでくる幽霊の少女、蔡詠恩の生前の実家は後壠子集落の旧家。大正地形図の後壠子集落内には、大きな三合院を中心とした家形が幾つか描かれています。集落の真ん中辺りにあったこれらの建物は、その後、臺中駅前から市の北西へと伸びている櫻橋通(今の臺灣大道)が更に延伸することになると、ちょうどそのルート上にあったため恐らくは立ち退くことになりました。これらの建物の取り壊しによって後壠子集落は櫻橋通を挟んで左右に蝶の羽のように広がる不思議な形の集落となるのですが、詠恩の家は西洋風の邸宅らしいので、案外こっちの三合院は既に生活の場ではなく、集落内の別な場所に、例えば赤煉瓦造のバロック風な新居を建てて暮らしていたのかも知れません。
後壠子集落の西の端には梅川が流れています。梅川の流路は戦後に直線化されたため、当時とは若干異なりますが、この川のほとりには清の時代から一つの廟が建っていました。
均安宮というこの廟は1881年頃、清の光緒帝時代に建立されたもの。天帝の代理として人間世界を巡り、人々の善行を褒め、悪行は懲らしめる神様である「王爺公(千歲とも言う)」が祀られています。この神様のご利益には疫病除けや魔除け、厄除けも含まれていて、台湾での信仰はこの中でも特に疫病除けがメイン。
元々は福建省を中心に信仰を集めていた神様で、清や明の時代に福建省から台湾へと移住した人々によって王爺信仰も台湾へ伝わったようです。
実は王爺自身が元々は疫病神。このため王爺のお祭りでは、まず王爺のご神体をお神輿に乗せてあちらこちらと巡回し、悪いものを払ってもらった後、最後は王爺を悪いものともどもあの世へ送り出します。お祭りのクライマックスは「王船」と呼ばれる船を燃やす儀式(ご神体はもう廟に帰されていて、この船には王爺の魂だけが乗っている状態)。あの世へ向かう旅の途中の生活用品や食料も積んだ巨大な船は、燃やされることであの世へ旅立ち、悪いものはそこで下船、王爺は天へ戻って天帝に「地上はこんな感じですよ」と報告し、また廟のご神体へと戻ってくる、そう信じられています。
お盆の精霊船に似たこのお祭り、福建省では船を燃やさず海に流していたようですが、台湾の場合は潮の流れで船が戻ってきてしまう(福建からの船は台湾に流れ着くこともあったようです)ため、巨大な船を陸で燃やす形に落ち着きました。なお、「船が無事に台湾に流れ着く」ことから台湾では独自に「航海の守護」というものもご利益に含まれています。
道教の神様は「元々は人間」というパターンも多いのですが、それはこの王爺も同じ。そして王爺の場合は一人ではなく、大勢の人が死後に「王爺という役割を担った」という形になっています。つまり王爺とは称号の一種。このためそれぞれの王爺は、生前の姓が王爺の前について「○王爺」と呼ばれていることがよくあります。
ここの均安宮に祀られているのは池府王爺、朱府王爺、李府王爺のお三方で、生前はそれぞれ唐の時代の武人。
ただし王爺はとにかく数が多いため、人間以外にも元は山の神様だったり、はたまた妖怪だったりという王爺もいるとのこと。
さらにこの廟にはもう一つ付属の廟があって、それがご神木を祀る茄苳王公廟。このご神木は日本でいう「赤木」の樹で、「千年茄苳樹」な「樹王公」として祀られています。成長が早く大きく育つ赤木は台湾の原住民からもご神木として扱われることが多いとのこと。廟ができる前から、地元のランドマークであり信仰を集めていたのかも知れません。
均安宮には三つのご神宝があり、一つがこの赤木のご神木「千年茄苳樹」、残る二つは「千年欅木大鼓」と呼ばれる太鼓と「千斤大神轎」と呼ばれるお神輿。このうち「千年欅木大鼓」は元々は「臺中神社」にあった太鼓で、戦後に均安宮へと運ばれました。大阪にあった「吉田太鼓店」が作成した物で、今では台湾の文化資産の一つに指定されています。
ここから少し北側には、昭和11年にはまだなかった学校が二つ。頂橋仔頭の項で触れた「臺中州立臺中第二中學校」の戦後の引っ越し先であり合併先でもある「臺中州立臺中第二高等女學校」のキャンパスができたのは昭和16 年(1941年)。昭和18年には、明治町二丁目にあった幸公學校もここへ移転してきます。
この二つの学校があったのは正確には後壠子ではなく、その北側の大字乾溝子というエリア。大字乾溝子は昭和16年(1941年)に台中市へ組み込まれた場所なので、昭和11年にはまだ大屯郡北屯庄の乾溝子でした。
幸公學校の今の姿は「篤行國小」。そしてこの学校の向かいにある葉茶屋店「正苑茗茶」の名物である「アルミパウチ袋入りのアイスティー」も、楊双子先生が『開動了! 老台中』で選んだ台中の味の一つ。なんだか宇宙食のようなパッケージに入ったお茶は、80~90年代に台中の軽食屋台や弁当店でよく見られたそうですが、今はもうここともう一店しか販売していないとのこと。一袋240㏄で、菊花茶、紅茶、洛神茶(ローゼルティー)、緑茶、冬瓜茶の五種類が販売中。砂糖は既に入っているそうなので、緑茶を頼む方はご用心。
一方、後壠子集落の南西にある臺中師範學校(現在の國立臺中教育大學)の裏手には昭和11年当時、臺中州立農事試驗場がありました。
台湾で育成できる農作物の研究開発をするこの農事試驗場からは、台湾でも栽培可能なジャポニカ米「蓬莱米」が誕生しています。
明治37年(1904年)の設立時は臺中駅裏手にあった試驗場は、手狭になったため明治45年(1912年)に臺中公園北側の、元は墓地だった場所へと移転。その後昭和6年(1931年)にこの場所へと移ってきました。
農事試驗場という性格上、構内の道はほとんどが畦道であり、今では完全に市街地に飲み込まれて当時の面影は全くありませんが、向上路と美村路、民生北路、五權路、五權西路一段で囲まれた辺りといった感じです。つまり現代に於いて阿貓と蜜容が虎爺探訪の合間に訪れていた國立臺灣美術館のある場所は、昭和11年ではこの農事試驗場の一角だったことになります。
そして、向上路と梅川西路、公益路と英才路に囲まれたエリアを見ると、そこだけ極めて細かい碁盤目になっているのがわかります。ここが実は昭和の後壠子ニュータウン。大正の終わりから昭和に掛けて台中市の人口は大幅に増加。水道や下水の拡張整備が忙しく進められる一方で、車社会の到来でバスが登場したこともあり、従来の市街地の外側に於けるニュータウン整備が始まります(この発想は実は戦後の台中市にも引き継がれ、戦後台中市は旧市街の街並みを維持したまま、郊外に向かって拡大。更に周辺地域にテラスハウスをメインとした大規模ニュータウンを何段階にも亘って建設しています)。
詠恩と英子が作中で過ごした昭和11年にはまだ計画段階だったこのニュータウンはその後、昭和20年までの間に整備が進みました。そのうちの一軒、昭和15年に建てられた庭付きの広い木造家屋は、戦後の住民の名前を取って「孫立人將軍故居」として公開中。畳敷きだったはずの床がフローリングになったり、玄関部分に中華風の装飾が施されたりといった改造がされているものの、昭和の住宅の姿が今も見て取れます。
そしてこのニュータウンのすぐ西側を流れていく土庫溪。現在では完全に暗渠化され流路を辿ることすら難しいこの川が、当時は大字後壠子の西側境界線でした。北側の乾溝子との境界は今では道路でも該当するものがないためわかりにくく、土庫溪も戦後になると流路が変えられているので当時のままの境界線ではありませんが、國立自然科學博物館の敷地から伸びる館前路に挟まれた緑地が、暗渠化された土庫溪です。これと英才路470巷の交差部分から下流側が大字後壠子の西側境界線、と大雑把に理解していいでしょう。この川を渡ると、北側は大字麻園頭、南側は大字土庫でした。この二つの大字も昭和16年(1941年)までは台中市の範囲に含まれていません。
さて、現代に目を向けると、このニュータウンからほど近い梅川西路一段にある「阿里郎迷你火鍋」も楊双子先生ご推薦の台中の味。「アリラン」という名なので韓国料理かと思いきや、ここは火鍋店。韓国料理で使われるお一人様サイズ(つまりミニ)な石鍋で火鍋を提供しているため、韓国を意識してこの店名になったのだとか。
そして『綺譚花物語』には「廟を出ると私たちは、香蕉福德正神廟の向かいのブロックにある豆乳紅茶冰の老舗に足を踏み入れた。五府千歲保安宮傍の路地にある看板の出ていない紅茶屋台にも。老舗のかき氷店、小さなカフェ。第二市場と忠信市場にも行ったし、紀念館や文學館、美術館にも。独立書店と映画館にもだ。」という、主人公である大学院生、羅蜜容によるモノローグがあります。
「紀念館」は川端町に位置する林之助紀念館で、「文學館」は末廣町四丁目にあった警察官舎を改修した臺中文學館、「美術館」は後壠子の農事試驗場だった土地に建っている國立臺灣美術館。
1988年に開館したこの美術館は、なんと常設展示の入場料が無料です。日本時代に育った台湾人画家や彫刻家の作品も収蔵しているこの美術館を訪れた際は、是非敷地内を歩き、かつての土庫溪にあたる周辺の緑地も辿ってみてください。また館内には台中発祥の「春水堂」の支店と共に、「春水堂」による茶館「秋山堂」も入居しています。
「独立書店」とは、「独立経営書店」のこと。大規模チェーンでなく、それぞれの店のオーナーがこだわりを持って選んだ書籍を並べているこういった書店が、台中には台湾の独立書店紹介本である『書店本事』シリーズに収録されているものも含めて何軒かあるのですが、楊双子先生がここで想定していたのは美術館の西側にある古書店の「梓書房」。ジェンダーや動物、飲食物や歴史に関する本の在庫が充実した「猫のいる書店」。台湾の独立書店は看板猫、看板犬の存在率が高い空間でもあります。漫画版を見ると、お店の公式ページなどで写真に写っている書棚が羅蜜容と、同作のもう一人の主人公である小説家志望のニートな阿貓の背後に見て取れます。
この書店があるのは土庫溪と麻園頭溪に挟まれたエリア。昭和11年にはまだ台中市の範囲外だった大字麻園頭の一部です。
美術館の敷地を出ると、二つの緑地が南へ向かって真っすぐに伸びています。このうち、西側にある五權西三街と五權西四街に挟まれた緑地が土庫溪で、東側の五權西一街と五權西二街に挟まれた緑地が梅川の暗渠。
今でこそ美術館の敷地地下を流れている土庫溪は昭和時代には美術館の辺りで大きく西へ蛇行していました。このため美術館も、ギリギリ大字後壠子の範囲内に位置します。
そして梅川暗渠と土庫溪暗渠の間にあるのが、阿貓と蜜容が訪れた場所の一つである忠信市場。「廟を出ると私たちは~」とあるので、虎爺探訪とは関係のないスポットのようですが、実はこの中には「三官大帝廟」があり、そこには虎爺がいます。
『綺譚花物語』で二人の探訪先がはっきりと書いてあるのは、一回目から六回目までと最後の一回だけ。七回目から十回目の探訪でどの虎爺をゲットしに行ったのかは、漫画にも小説版にも明記されていません。
しかし、ヒントはネット上にあるのです。実は楊双子先生はまさに『虎爺收藏』というタイトルのブログを書いているので、ここから昭和台中市内な虎爺をピックアップし、作中で既に出てきたものは弾く、というマニアックな作業をすれば、二人が恐らく七回目から十回目で巡っただろう虎爺が浮かび上がってくるという寸法。
こうして割り出した一匹、おっと、一「尊」の虎爺がこの「三官大帝廟」に。
忠信市場ができたのは1960年代の末。戦後に人口が増加すると、台中市の市街地は旧市街からはみ出して西へ西へと広がっていきます。ここができたのもそんな時代でした。そして「三官大帝」は1977年からここに祀られ、1989年に今の廟が完成したようです。天官地官水官のトリオで祀られている神様なので「三官大帝」と呼ばれています。
その後、郊外のベッドタウンへと人口が流出したことで忠信市場は衰退し廃墟のようになっていましたが、2000年代に入って始まった台湾のクリエイティブ産業振興「文創」ブームが盛り上がる中、経営資本に乏しいクリエイターたちが廉価に出店できる場所としてここに注目したことから、美術館傍の文創スポットとして再生しました。
忠信市場もパサージュ的なアーケード街。外から見ると何の変哲もない古びた商店街ブロックですが、通り沿いに設けられた通路から中へ入ると、二階建て店舗の幾つかが、若干風化しかけたモルタル壁をカラフルに塗り直し、看板を付け替え、時には昭和ガラスや木製の建具、鐵花窗などでリフォームして営業中です。レトロでありながらどこかモダンなそれらの店舗と店頭の商品、三官大帝廟の提灯や、シャッターが閉じたままのリフォーム前の店舗と通路に置き去りにされた不用品などに、天井の樹脂製波板を通して太陽光線がふんだんに降り注いでいる光景は、なるほど確かに阿貓と蜜容が好きそう。
さて、土庫溪だった緑地を当時のトロッコ道だった南屯路まで下ります。暗渠となった土庫溪はここで柳川に合流しますが、そこから南屯路を少し西へと進んだところにある病院も日本時代の名残りの一つ。
蜜容の暮らす南屯へ向かって伸びていた当時の手押しトロッコ道である「南屯路」。この道沿いの小学校「大勇國小」の隣に建つ「靜和醫院」という病院の歴史は日本時代に始まりました。
「靜和醫院」そのものは昭和12年4月に設立の精神病院なので、詠恩と英子の時代にはまだないのですが、その隣にかつてあった「平安病院」は、伝染病患者隔離用として明治32年にできた「臺中避病院」。
当初は柳町6丁目1番地にあったこの病院はその後「臺中市立城北病院」と名を変え、昭和11年(1936年)に後壠子335番地1に移転して(2月28日着工、8月竣工、11月13日供用)、「市立平安病院」となります。柳町の病院跡地には翌年の昭和12年9月に私立臺中商業専修學校が引っ越してきました(現在の私立新民高級中學。戦後の1955年に更に郊外へ移転済み)。
昔の台湾はとにかく疫病の多い土地。日清戦争で割譲された台湾を平定する際、日本軍の死者は戦死者よりもはるかに戦病死者が多かったことで有名です。とにかく水が悪くコレラが頻繁に発生するのが当時の台湾でした。水道の普及後、コレラの発生は相当に落ちつきますが、それでもまだマラリアという敵が残っています。
伝染病患者の早期発見と隔離は今も昔も蔓延防止の要。日本時代の都市計画図にはこの「平安病院」以外に、もっと市街地に近い場所にも「避病院建設予定地」の文字が見て取れます。
大字後壠子の中でも端の、三合院がぽつんぽつんと田畑の中に建っているだけだった地域であり、しかも市内からは手押しトロッコ軌道が繋がっているここは、患者の隔離を行なうのにとても便利な場所でした。
「平安病院」は戦後になると隣接する「台中靜和病院」の運営母体である「台中慈惠院」の傘下に入ります。
「慈惠院」は台中市の隣にある彰化市で清の雍正帝時代(1728年)にできた福祉組織。治療費を払えない貧しい人々に医療を提供していたこの団体は、日本時代の昭和4年(1929年)には彰化で診療所(後の彰化慈惠醫院)を開業し、昭和12年(1937年)には台中に靜和醫院を設置しました。戦後も「台中慈惠院」は靜和病院改め靜和醫院と彰化慈惠醫院の運営を続けます。その過程でいつしか平安病院は靜和醫院の病棟の一部となり、避病院としての役割を終えていきました。
靜和醫院は今も当時の位置にありますが、建物は既にビルに建て替わり、当時を偲べるものはありません。また本来はこの病院の西側を流れていたはずの土庫溪も、今では病院より東側で暗渠となっています。
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