台湾漫画を旅しよう~台中市編~

黒木夏兒(くろきなつこ)

第1話 昭和台中市~大字頂橋仔頭今昔

 頂橋仔頭(ちょうきょうしとう)は「橋のたもと」といった意味になり、綠川を渡る橋が二ヶ所(だいたい現在の「復新街」の橋と、現在の永和街の小さな橋)で架かっている小さな集落でした。清時代から人家が密集し頂橋仔頭の中心地だったのはあくまでもこの辺りのみですが、大字頂橋仔頭として定められたエリアはもっとずっと広く、当時は曙町通と有明町通だった忠孝路と、その南側を流れている旱溪とに挟まれている辺り、東は当時川岸だった東光園路まで、西は國光路までくらいがまるごと大字頂橋仔頭となります。

 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第一作、日本時代を舞台にした『地上的天國』で主人公の少女、李玉英(通称、英子)が家族と共に暮らしていた古く大きな三合院が建っていたのは、大字頂橋仔頭の曙町寄りにあった集落。曙町四丁目のやや南で、今で言うと大勇街138巷と大勇街、建成路703巷と建新街、立德街に囲まれた辺りですが、この区画内に昭和やそれ以前の時代を偲ばせるような建物は、もはや一切残っていません。


 なお当時のこの辺りには、臺中駅から南北へ向かう縱貫鐵道の他に、高砂町の工場敷地を経由して各地のサトウキビ生産地へ向かう帝國製糖鐵道、加えて手押しトロッコ軌道が、花園町のバナナ市場を起点にして東の山へ向かうものと、大正橋通(台中路)と曙町通(忠孝路)の交差点を起点として南へ向かう二路線、走っていました。


 運転手が後ろに立って台車を押してくれるこの人力のトロッコは、石炭や伐採した材木の運搬などのため山岳部を中心に導入され、次第に人間の移動にも用いられるようになっていきます。鉄道などに比べて設置が簡単なこともあって台湾では民間のトロッコ運行会社も多く生まれ、場所によってはそれらの会社が戦後にバス会社となって今も地域の足を担っています。

 臺中駅と製糖工場は英子の家から500メートルほど、二つの手押しトロッコ軌道はそれぞれ300メートルほどの距離に当たります。英子を毎朝起こすものは、鳥の声だけではなかったかも知れません。


 一方、清代からの頂橋仔頭集落の方も、曲がりくねっていた綠川の流路を一直線にする改修が戦後になって行われ、また今では中興大學の門前となっていることもあって建て替えが進んだようで、昭和11年当時の様子を偲べるものは表通りにはほとんどありません。それでも裏通りに入るとたまに、閩南式街屋の名残りではと思われる煉瓦壁を見て取れる場所なども。

 昭和10年、11年(1935年、1936年)の商工会の資料を見ると、大字頂橋仔頭を所在地とする店は一軒も登録されていないのですが、昭和2年や4年の資料を見ると、食料品を中心に店舗名がそれなりに見て取れるため、頂橋仔頭集落内は店もそこそこ充実して日常の買い物程度ならこなせる便利な住宅地だったようです(それらの店舗が昭和恐慌を乗り越えて昭和10年代まで事業継続していたかが不明なため、店舗情報としては載せていません)。

 集落の北側は現在、忠孝路と建成路に接していますが、日本時代に有明町通だった忠孝路が有明町四丁目よりも西へと伸び、更にその先の學府路や建成路にあたる部分ができたのは日本時代の割と後の方のことになります。

 古来この集落に通じていたのは当時の敷島町通(現在の愛國街)が八丁目で終わったところから南へ伸びる路地「永和街」でした。『綺譚花物語』の第四作『無可名狀之物』で、主人公である小説家志望のニートな阿貓と大学院生の羅蜜容が最後の日に訪ねる廟の一つ「頂橋仔頭福德宮」があるのもこの永和街沿い、緑川を渡る名もなき橋の傍です。


 頂橋仔頭福德宮は清の乾隆帝時代だった1767年に、土地の農夫が石を土地神に見立てて拝み始めたのが起源。風水的に良い地形の土地だったこともあり、周辺の農民たちから幅広く信仰を集めたようです。位置的には当時の頂橋仔頭集落の一番南端な村外れに当たります。

 土地神にもランクがあって、都市部の神様だと「城隍神」と名乗りますが、「福德正神」という神様は都市を囲んだ城壁の外、郊外の村落を守る神様。ご利益は農業や商売の安定(このためお天気の安定を祈願する「風調雨順」と書いた提灯が掲げてあります)、旅路の安全、他に魔除けや墓守などもお願いできます。昔で言えば庄屋さん、今で言うと町内会長さんとかマンションの管理組合の会長さんくらいな感じ。元は人間で、真面目な官吏だった、旅の途中で坊ちゃまやお嬢様を守って亡くなった執事だった、などの説があり、このため神像も帽子をかぶったおじいさんスタイル。たまに「夫人」としておばあさんも一緒に祀られている場合がありますが、基本はおじいさんです(『綺譚花物語』第二作『昨夜閑潭夢落花』での幼女姿での登場は相当にイレギュラー)。


 台中市の、当時的には郊外だった大字頂橋仔頭には、その後昭和18年(1943年)に臺北帝國大學附屬農林專門部が移転してきます。昭和11年にはまだ影も形もなかったこの学校が、現在の中興大學になりました。農林学校を起源に持つ中興大學のキャンパスは1980年代に当時の学長が「キャンパスの植物園化」を提唱したことから緑が豊かで、中でも校門を入って左手に位置する「針葉樹區」はいつしか「黑森林―シュバルツバルト―」と学生から通称される森になっています。


 蜜容がここの大学院生であることは、明記はされないものの作中でちらちらと示唆され、さらにいうと楊双子先生自身もこの大学の卒業生です。このため、キャンパス内にあるこの森が、二人がマホガニースプーンを拾って遊ぶ重要な場面の舞台として『綺譚花物語』には登場します。


 マホガニーは台湾に自生していた訳ではなく外来種。日本時代に植物学者の田代安定さんによって持ち込まれたものです。この田代さんが總督府で手掛けたのは、様々な熱帯植物の台湾での育成でした。コーヒーやカカオ、ゴムの木やマホガニーなどの産業に使える植物の他、街路樹として見られる白千層(コバノブラシノキ)や、今や世界の侵略的外来種ワースト100のうちの一つに選定されている火焔木などもこの時に台湾に入っています。台湾の景色を永遠に変えてしまった人物の一人だとも言えるかもしれません。

 3月中旬に花が咲いた後、枝先に細長い実をつけるマホガニー。だいたい9月頃から枝先に確認できるこの茶色い実は、そのまま落下することなく翌年の3月まで樹上にあり、しかもマホガニーは常緑樹ではないため冬場には実だけが非常に目立つ状態になります。その状態で果実はゆっくりと乾燥していき、春になる頃には果実の外皮が自然とめくれ上がって種を露出させ、羽根状の形を持つ種は回転しながらゆっくりと自然落下する間に風に吹かれるなどして広範囲に散らばっていきます。


 中興大學近くには、実はグルメスポットがあって、合作街103號の「合作街大麵羹」がそれ。楊双子先生お勧めの「台中の味」であり、滷味の汁麺バージョンらしいので滷味好きな私としては挑戦してみたいところです。ただ、先生の最新作『開動了!老台中(懐かしの台中、いただきます!)』によると、どうやら地元民以外からの味の評価は微妙な模様。これは麺がくたくたに煮込まれていて「唇で噛み切れるほどに伸びてしまっている」のが原因らしいのですが、しかしこの調理法には理由があって、戦後の食糧難時代に、少しでも嵩増ししようと麺をふやけるまで煮ていたのが由来なようなのです。戦後の闇市メニューがB級グルメ化して今に残ったみたいな感じなのでしょうか?とりあえずはやはり一度挑戦してみたいものです。


 この地域のもう一つのランドマークは、「臺中州立臺中第二中學校」。当時、台中市を東西に分けるメインストリートだった「大正橋通」にも、有明町通との交差点から南に手押しトロッコの軌道が走っていました。台中市と南側の集落とを繋ぐこの重要な道、現在の台中路沿いに臺中州立臺中第二中學校が開校したのは大正11年(1922年)。


 通常、第一、第二とある場合、第一が日本人向けで第二が台湾人向けだったため、この時も先に成立していた台湾人向けの第一中學(新高町に現存)を第二にして、新設の日本人向けであるこちらの学校を第一に、という主張がありましたが、当時の第一中學の校長がその要求をはねつけたことで、台湾人向けが第一、日本人向けが第二という珍しい状態になっています。

 戦後に日本人生徒が引き揚げて生徒数が減ると、第二中學は後壠子にあった第二高等女學校と合併し、女學校の校舎へと引っ越しました。これによって空き家となった第二中學の校舎には、台中市郊外の西屯で昭和12年(1937年)に開校していた「臺中州立農業學校」が入居します(元の西屯のキャンパスも、第二キャンパスとして維持)。

 第二中學は現在では「臺中市立臺中第二高級中等學校」となっています(所在地は元第二高等女學校のキャンパスのまま)。一方、農業学校は「國立中興大學附属臺中高級農業職業學校」となり、大正11年に建てられた第二中學時代の校舎は「興大附農前棟大樓」という名称で、現在も一部が使用されています。


 また頂橋仔頭集落から少し離れて、集落北面の忠孝路が拡幅された建成路脇に建つ「保安佛堂」も、実は日本時代にも存在していた寺院。日本時代には大字下橋仔頭の一角でした。

 地元の江家一族が1875年に江家宗祠として建立したお堂で、大正時代になって正式に曹洞宗の寺院として登録されています。元のお堂は民国70年代(1981年以降)に道路拡幅計画に引っ掛かって取り壊されることとなり、1990年に今の場所へ新たなお堂を建てて引っ越しました。元のお堂があったのは今の堂宇の西側で、今は緑道になっている辺りです。

 創建当初から住持は代々江家の人が務めているこのお堂では、日本時代、大きな梵鐘が時の鐘の音を周囲に鳴り響かせていました。残念ながらこの鐘は戦時中に供出され、なくなっています。


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