13番目とあんずパン

日崎アユム/丹羽夏子

第1話 便器に白パンを流し込む

 石でできた流し台の底に向かって白濁した液体をぶちまけた。鼻につく生臭さ、喉に絡む粘っこさ、舌の上で震えた感触や上顎の奥に飛び散った衝撃をも、すべてを鮮烈に思い出した。最悪の気分だ。


 喉の奥に自らの指を突っ込んでわざと胃臓を刺激する。さらなる吐き気とともに汚物が首の内側を迫り上がる。


 どうして自分はまだ生きているのだろう、とレザは思う。こんな便器みたいな扱いを受けてまで生をつなぐことに価値を感じられない。館の主人はレザを金の髪に紫の瞳であるというだけで延命させる価値があると思っているようだが、そうであればなおのこと毀損きそんしたくなる。しかしレザに自死する度胸はない。日々衰えていくのを感じながら静かに終末を待つだけだ。


 不意に戸を叩く音が聞こえてきた。


「すみません」


 続いたのは若い男の声だ。聞き覚えのある声だった。館に出入りする業者の息子の声だ。


「ごめんください。パン屋ですけど」


 レザが相手をしてやる筋合いはなかった。レザはあくまでこの娼館の商品であって下働きではない。今は厨房にレザしかいないが、いつもはここに料理人とは名ばかりの食事係がいる。レザたち男娼を生かさず殺さず働かせ続けるための餌を出す連中だ。本来ならば彼らの仕事なのでレザは無視をした。蛇口をひねって水を出す。


「誰かいないんですか? 開けますよ」


 ぎぃ、という音を立てて勝手口が開いた。


 この勝手口は普段から鍵がかかけられていない。館の周り四方を高い壁が覆っていて出入り口が路地に面した表しかないため、ここを閉めなくても商品たちは脱走できない。パン屋の息子を含め業者たちは正門から許可を得て入ってきて建物を迂回してここまでやってくる。


 顔を出したのは案の定パン屋の息子だった。大きな薄べったい木箱を両腕の上に三段重ねにして抱えている。


 彼は名をナリオという。正確な年齢は知らないが、おそらくレザより三つか四つ程度上、少年というには大人であり、青年というには子供である。焦茶の髪に金茶の瞳をしたどこにでもいる男だ。


 ナリオは流し台に頭を突っ込むようにして背を丸め自発的に嘔吐を繰り返しているレザに目を剥いた。


「どうしたの? 風邪? だいじょうぶ?」

「べつに」


 喉が傷んで声がしわがれている。


「病気じゃない」

「でも具合悪そうだよ」

「喉の奥に性器を突っ込まれて射精されたから精液を吐き戻している」


 直截的な物言いをしたレザをナリオはまんまるの瞳で見つめた。


 こんなところに出入りしているくらいだから、ナリオもそこまで純真無垢な人間ではないだろう。彼の身の上についてはパン屋の息子で子煩悩なパン職人の父親がいることぐらいしか知らないが、この館に集められた少年たちが何をさせられているのか理解できる程度の知識はあるはずだ。


「三人分を二、三回ずつ」


 おまけにそこまで言うと、レザは流れる水を猫のように舌を出して口に含んだ。口をゆすぎ、うがいをする。それを絶句したナリオが眺めている。


 食道のいがいがは消えたが、咽頭を男根で突かれた衝撃は消えない。髪をつかまれて強引に頭を前後に揺すられたあの感覚はきっと一生消えない。


「何を見ている?」


 顔をあげるとナリオがまだこちらを見つめていた。レザは彼をにらみつけた。


「おもしろいか?」

「そんなわけないだろ」


 彼は調理台の上に抱えていた木箱を下ろした。そして駆け寄ってきて、自分の前掛けのポケットからハンカチを取り出し、レザの口元を拭った。


「つらいよな。君みたいな子供がこんなことさせられて。いや、大人でもこんなこと嫌だと思うよ」


 心の中がずくりと痛んだ。そういう感情には蓋をしないと自我を保てなくなる。余計なことを言ったりしたりしないでほしい。けれど善良で幸福なナリオにそれを理解してもらえる気もしない。


「放っておいてくれ」


 しかしナリオはレザから離れなかった。


 彼はレザの痩せ衰えた体をひょいと抱き上げた。一見細身なのにかなりの腕力の持ち主だ。


 驚いて硬直していると調理台の上に座らされた。下着をつけていない、サイズの合っていない大きなシャツ一枚のレザの尻は調理台の鈍い銀色に輝く鉄板を冷たいと感じた。


 ナリオは調理台の上に積んだ箱のうち一番上のを開けた。そして、中から白い紙にくるまれた包みを取り出した。


「これ、あげるよ。俺が自分のおやつにと思って持ってきたんだけど、君にあげる」


 押しつけられたので受け取った。


 少し包みを開く。中にパンが入っている。レザの拳よりふた回りも大きい丸パンだ。上部に切り込みが入っていて、白くてふわふわした内部が見える。胡桃だろうか茶色いつぶつぶがついている。奥に赤みを帯びた黄色い果物が詰め込まれていた。


「これは?」

「あんずの包み焼きパンの試作品」


 ナリオがほろりと表情を綻ばせた。


「白いパンをね、焼きたいと思って。時間と手間と原料費がかかるけど。甘くて柔らかくて癒されそうな、お菓子みたいなやつを食べさせてやれたら、なんていうかその……、まあ、俺の自己満足なんだけどさ」


 彼の優しさがレザの乾いて硬くなった心のかさぶたを引っ掻いた。またずたずたになりたくない、一から自分を立て直す作業は生き地獄だ。彼は本当に自己満足で余計なことをしてくれた。


 かといってあんずのパンを突き返すのも気が引けた。レザの中に残っている一抹の良心がナリオに当たることを許さなかった。それは矜持と言い換えてもいい。上に立つ者としての教育を受けてきたレザの過去がパン職人のような下々の者に冷たくすることを拒否する。


「食べて。ね。そんなに細かったら病気になるよ、太ったほうがいいよ」


 そう言うと、ナリオはレザの頭を撫でた。


 前掛けのポケットから紙の束を出して、一枚切り取って差し出してきた。


「これ、伝票なんだけど、誰か食事係の人が来たら渡して。いつも月末にまとめて集金してるから、たぶん誰かが帳簿をつけてると思うんだ。あ、このパンの代金は入ってないから。これは試作品だからタダ」


 左手であんずパンを持ったまま、右手で伝票を受け取った。


「いいのか? あんずの入った、原料費のかかるパンなんだろう」

「今度会った時に感想聞かせて。それで十分」

「体で払う。僕の体にはそこそこの値がついている」


 ナリオが目を細めた。その様子がどことはなしに悲しそうに見えた。


「感想を聞かせて。俺は食べてもらえるのが嬉しいんだ」


 彼はもう一度レザの頭を撫でた。


「じゃ、また今度。って言ってもまた明日会えるんじゃないかと思うよ、親父の都合次第だけどさ」


 その時間帯はレザのほうがどこにいるのか不明だ。次に会える日はすぐ来るかもしれないし、永遠に来ないかもしれない。


 ナリオが勝手口から出ていった。


 調理台の上に座ったまま、手の中のパンを見つめる。


 レザは一瞬逡巡した。


 レザたち男娼は食事の時間や内容を詳しく定められていた。排泄と肛門性交は密接に関わり合っている。万が一のことが起これば殺されても文句を言えないので、館の主人に厳しく管理されているのだ。


 自分の意思で排便できないことは口内に射精されることより屈辱的だ。


 次の時レザはパンをむさぼり食っていた。


 柔らかくて、故意に噛み千切ろうとしなくても顎の圧力だけでほぐれた。意外にもいつもの黒パンより少し塩気が多いように感じた。それからあんずの甘酸っぱい味がした。焼いてあるのに果汁が滲み出す。胡桃の硬い感触がわずかな歯ごたえになる。唾液が湧く。胃が動く。全身が、もっと、もっととわななく。


 この世のものとは思われぬほど美味しい。


 家にいた時はあんずも白パンもいくらでも食べられた。


「お父様、お母様……」


 レザは泣いた。こんなふうにしゃくり上げたのは何ヶ月ぶりだろう。久しぶりに自分の身の上を悲しいと思った。

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